2016年10月礼拝説教

2016年10月30日礼拝説教

 

          「目標を目指し」       第一コリント9章24〜27節

 

9:24あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。

9:25しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。

9:26そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。

9:27すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。         コリント人への第一の手紙 9:24~27

 

 使徒パウロが、人の人生は競技で走るようだ、と比喩で語ったとき、コリントの聖徒達はその霊的意味を直ちに察知したに違いない。

 オリンピックに匹敵するイストミア競技会が彼らの町でも開催されていたからである。ここに人生の生き方のコツが提示されている。競技場で走る選手の姿がそのシンボルとなる。

 目標を目指し、賞を得るため走る!そのために節制する!ゴール知らずに走る者はいない。人は短期、中期、長期の目標をおのずと設定し、その実現、到達に向け計画実行する。

 パウロは「行ってすべての国民を弟子としなさい」との主の命を受け、三度も宣教旅行を実行し、イタリアのローマに、更にスペインにまで到達する目標があった。

 その目標が何であれ、しかもその結果として賞を得るよう走れとも勧告される。当時は朽ちる月桂冠を獲得するため疾駆した。冠は栄光の象徴だ。

 だが、聖書は「朽ちない冠」のため走れ、すなわち神からの栄光を得るため走れとその動機付けを明らかにする。

 人間は犯した罪のため神の栄光を受けられなくなっていた。だが、主イエスの十字架の罪の赦しを受けると、神から栄誉を受ける動機によって生きるようにされる。神に喜ばれるために生きる者とされる。

 だがそのためには自己制御、節制することが不可欠となる。それは合目的的禁欲と呼ばれ、キリスト者の自制とは単なる自制禁欲ではなく、目的の実現のためには、たとえ好ましく合法的なものであってもそれを排除する積極的な態度なのである。

 私たちはキリストによって自由にされた。その自由な立場で目標実現のために自分で自主的に判断し、神の栄誉を求めて生きる。

 私たちの究極の目標は自分の死を超えたところにある天国であり、私たちを迎えに来てくださる愛する主イエス様の再臨である。

 「主よ。来たりませ!」と目を上げて今日も明日も生き抜きたい。


2016年10月23日礼拝説教

 

          「共に福音に与る」      第一コリント9章19〜23節

 

9:19わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。

9:20ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。

9:21律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。

9:22弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。

9:23福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

                        コリント人への第一の手紙 9:19~23

 

 『福音のために、わたしはどんな事でもする。』とまで使徒パウロに言わしめた福音とは!?

 最愛の御子をさえ惜しまず犠牲に世の罪を取り除かれる神の愛の現れです。人を罪から救う神の力です。人の全存在を変革させ、生きる意味を悟らせる神の力です。

 強烈な迫害者だったパウロもこの福音により一変し、また、私たちも救われました。だからこそ福音であり良きおとずれです。それゆえにこの福音のためにはどんな事でもする。

 『わたしは、そうせずにはおれない。』と福音宣教への熱意をパウロは表白する。

 自ら経験した驚くばかりの神の愛の恩寵を他の人々と分ち合わないわけにはいかなかった。宣教によってのみ人は救われる、神の国に入れられるからです。

 そこで『すべての人のようになった。』とパウロは宣教の真骨頂を証言する。

 「成る」とは、神の御子イエスの受肉を証言したヨハネ1章14節に使用されている。

 イエスは神であるにもかかわらず完全な人と成られたのだ。それは我々人類と連体し、人類の罪責を引受け、犠牲となるためであった。

 パウロが『すべての人のようになった』と言うとき、それは彼がどんな相手に対しても心を開き、相手が興味を感じている話題に自分を溶け込ませる術を心得ていたということを意味する。

 自分中心から解放され友人知人に命を捨てる愛の姿勢です。そのとき福音の伝達可能となる。

 理解しようとし聴く耳を持たなければ福音は伝わらない。それによって幾人かが救われるだろう、そればかりか自分自身が共にその福音に与ることができると言うのです。

 与えるときに実は与えられる。福音を宣べ伝えるなら、伝える者自身もその福音の大いなる豊かさの理解を深め極めることが許されるのです。

 『ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。』と感動させられるのです。

 福音宣教は隣人にとり私たちにとり大いなる恵みの手段なのです。 


2016年10月16日礼拝説教

 

          「そうでなくても」        ダニエル3章13〜18節

 

 3:13そこでネブカデネザルは怒りかつ憤って、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを連れてこいと命じたので、この人々を王の前に連れてきた。

3:14ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。

3:15あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。

しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。

3:16シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。

3:17もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。

3:18たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。      ダニエル書 3:13~18

 

 ブラジルのオリンピックで人口が90万にも満たない南洋諸島のフィジー出身の選手が七人制ラグビーでゴールドを獲得した。全員がクリスチャンであり、彼らは神の栄光のため祈って奮戦した。結果として素晴らしいことだ。

 だが、世界中から参加した選手には、同様に祈って参加した大勢のクリスチャンがいたに違いない。だが祈った全員がゴールドを獲得するわけではない。それは神を信じて生きる姿を反映している。

 すべてが思いのままにならないことの方が多く、しばしば人生の不条理に直面して困惑させられてしまう。

 三人の敬虔な青年達は敗戦、捕囚、同化強制に直面し歴史の荒波に翻弄されただろう。

 異郷バビロンで優秀さが認められ高官に抜擢されたかと思いきや、偶像崇拝拒否を理由に火刑に処せられようとした。

 ネブカデネザル王の最後の厳しい詰問に対して、だが、彼らは決然たる信仰を表明した。

 「もしそんなことになれば」すなわち火刑に処せられることがあっても神は救い出し給うと。

 そのような固い確信は彼らが日頃から誠をもって神に仕え神を礼拝していたからに違いない。そればかりか、それに続く発言に私たちは彼らの信仰の厚みと深さを垣間見せられる。

 「たといそうでなくても」と言いきっている。すなわち神が救い出されなくても偶像崇拝は拒絶すると。

 それは彼らの信仰が奇蹟期待信仰を超えた無条件の信仰であったことを証明する。

 神を自分の都合のよいように動かすのではなく、神の絶対主権を認め、神がすべてを最善に取計らわれると悟り、万事を委ねて自分の置かれた状況を受容する態度であった。

 時に「何故こんな苦しみに合わねばならないのか」と人は悩まされる。あたかも神が居られないかのように、無視しておられるかのように思えなくもない。

 だが、慈愛の神は人の思いを超えて最善を成される生きた神であることを感謝しよう。


2016年10月9日礼拝説教

 

         「超現実への開眼」         列王記下6章8〜19節

 

6:8かつてスリヤの王がイスラエルと戦っていたとき、家来たちと評議して「しかじかの所にわたしの陣を張ろう」と言うと、

6:9神の人はイスラエルの王に「あなたは用心して、この所をとおってはなりません。スリヤびとがそこに下ってきますから」と言い送った。

6:10それでイスラエルの王は神の人が自分に告げてくれた所に人をつかわし、警戒したので、その所でみずからを防ぎえたことは一、二回にとどまらなかった。

6:11スリヤの王はこの事のために心を悩まし、家来たちを召して言った、「われわれのうち、だれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げる者はないか」。

6:12ひとりの家来が言った、「王、わが主よ、だれも通じている者はいません。ただイスラエルの預言者エリシャが、あなたが寝室で語られる言葉でもイスラエルの王に告げるのです」。

6:13王は言った、「彼がどこにいるか行って捜しなさい。わたしは人をやって彼を捕えよう」。時に「彼はドタンにいる」と王に告げる者があったので、

6:14王はそこに馬と戦車および大軍をつかわした。彼らは夜のうちに来て、その町を囲んだ。

6:15神の人の召使が朝早く起きて出て見ると、軍勢が馬と戦車をもって町を囲んでいたので、その若者はエリシャに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」。

6:16エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」。

6:17そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。

6:18スリヤびとがエリシャの所に下ってきた時、エリシャは主に祈って言った、「どうぞ、この人々の目をくらましてください」。するとエリシャの言葉のとおりに彼らの目をくらまされた。

6:19そこでエリシャは彼らに「これはその道ではない。これはその町でもない。わたしについてきなさい。わたしはあなたがたを、あなたがたの尋ねる人の所へ連れて行きましょう」と言って、彼らをサマリヤへ連れて行った。                           列王記第二6:8~19

 

 東京工大の大隅名誉教授がノーベル医学生理学賞を受賞された。精巧緻密な電子顕微鏡で肉眼では普通見えない細胞世界を検証した成果が受賞理由です。

 聖書は私たちに見えない世界、超現実、神の国に開眼させられる必要を迫ります。

 預言者エリシャとその従者が敵軍に十重二十重に包囲され、それに気づいた従者は、「わたしたちはどうしましょうか」と狼狽してしまった。

 ところがエリシャの祈祷によって従者の目は開かれ、その敵をも圧倒する天の軍勢を見せられたのです。現実は無勢に多勢、しかし、超現実は状況を逆転させたのです。

 私たちの現在置かれている状況を明示するのは、主イエスの公生涯の第一声にあります。

 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」アダム以来の人類の時代、すなわち「この世」に新しい時代が神の子イエス・キリストの到来により現実となったのです。

 神の国とは神が支配されることです。天地創造の神、人類創設の神が罪過で神から離反した人間世界にその支配を明らかにされるのです。

 罪と死が支配的な私たちの生きる状況がどうであれ、そこに見えない超現実、神の国が現在するのです。時に私たちは自分を廻る困難至極な事態に直面して悲鳴をあげざるを得ません。

 エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」そうです。恐れることはないのです。

 「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」(ローマ8:31)神が味方である事実ゆえに恐れることはないのです。

 必要なことは「悔い改めて福音を信じる」ことです。

 目を転じて主が十字架に罪の赦しを得させるべく犠牲となり、復活されたことに感謝し、和解の手を差し伸べてくださる全能の愛なる神に祈り信頼することです。


2016年10月2日

 

      「チェ・ドクシン兄を迎えて思う」

 

 2日の礼拝は、韓国のゴスペルシンガー、チェ・ドクシン兄を迎えて異例の流れで実施された。

大阪方面を巡回されるとの情報が入ったのは一ヶ月前で正式なコンサートを用意する時間が無かったため急遽、礼拝で一時間の賛美と証しをお願いした。

 声量豊かなバリトンに乗せてほとばしるように流れる賛美の数々に、感動を覚えない者はひとりもなかった。

 敬虔なクリスチャンの両親のもとで育てられ、父親の札幌北大留学時代に小学校5年生から4年間、日本の空気に触れたためか大の親日家だ。

 その自作の賛美の中には「ニッポンを愛します」というフレーズが繰返される作品があるくらいである。だから彼の自作賛美は韓流というよりも日韓双方の心情が滲み出ている。

 彼の父親は賀川豊彦にも師事し、戦後の貧しい韓国農村地帯で教育に従事なされ、弱い者への心配りの精神がドクシン兄の全人格に大きな影響を与えたようだ。

 かつての大日本帝国が朝鮮半島を植民地とした結果、韓国人に与えた苦痛は計り知れない。今だにその怨念ゆえに日本を恨み敵視する人々がある中で、日韓の架け橋になるべくゴスペルによる和解の働きに専念されるドクシン兄には敬意を払いたい。

 1%にも満たない日本のクリスチャン人口とは逆に、韓国では30%以上が主を礼拝している。

 ドクシン兄のミニストリーからはその大きな霊的うねりが感じられる。「いつか教会からツアーを組んで韓国教会に来て下さい」と申し出られており、一足で行ける韓国の霊性から謙虚に学ぶ機会が期待されます。

 私たちの礼拝でも賛美チームがさらに研鑽を深め、新たな表現を求めて行こうとしている。

 賛美の上に座してくださる主に栄光を帰そうではありませんか。