2016年12月礼拝説教

2016年12月25日礼拝説教

 

         「謙譲謙卑の極み」  ルカ2章1〜7節、ピリピ2章1〜11節

 

2:1そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。

2:2これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。

2:3人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。

2:4ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

2:5それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。

2:6ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、

2:7初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。

                        ルカによる福音書 2:1~7

   

2:1そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、

2:2どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。

2:3何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。

2:4おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。

2:5キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。

2:6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、

2:7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、

2:8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

2:9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

2:10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、

2:11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。                    ピリピ人への手紙 2:1~11

 

 

 出生間もない赤子が馬小屋の飼葉桶に寝かされた。それは私たちの常識からは相当外れた行為であります。そうせざるを得ない事情がヨセフと身重のマリヤにはありました。

 ローマ皇帝による権力で強制された住民登録への恭順、登録のためのナザレから郷里ベツレヘムへの120キロの長旅、そして登録で混み合う村での宿の不足がそれでした。

 だがその非常識と言わざるを得ない飼葉桶に寝かされた幼子イエスの誕生光景を、その模型で飾ったり、また歌うのは何故でしょう。

 野辺で夜番をする牧童たちに天使が告げて言いました、『幼な子が布にくるまって飼葉桶の中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである』飼葉桶は牧童たちが幼な子を探し出すてがかりとなったでしょう。

 だが、実は飼葉桶は生まれた幼な子が誰であり何をする人物であるのかを指し示すしるしだと告げられたに違いありません。飼葉桶!実はそれはキリストの謙卑のしるしなのです。

 イエスは永遠、無限、不変の神であられるのにもかかわらず神と等しくあることを固守しようとされなかった。イエスは卑しい人間の姿、しかも人類に仕えるしもべの形を取られました。

 イエスはへりくだって父なる神の御意に従い、やがてご自身を我々に罪の赦しを得させようと十字架に犠牲となられました。飼葉桶!それはキリストの謙卑の極みを示すしるしであったのです。

 クリスマスは我々のためにご自分を貧しく卑しく低くなされたイエスを覚える日であります。

 それは具体的に我々自身もまたイエスのへりくだりに倣い、キリストの心を心とすることでしょう。

 何事をするにもその動機から自己中心性を排除するべきこと、主の前には誰であっても自分よりは優れた点があるものだ思い尊敬すること、そして、心から他の人のことを思いやり配慮することではありますまいか(ピリピ2:3、4)。そうすることによって心の深みからクリスマスを祝うのです。


2016年12月18日礼拝説教

 

          「神の選ばれる人」      1サムエル記16章1〜13節

 

16:1さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。

16:2サムエルは言った、「どうしてわたしは行くことができましょう。サウルがそれを聞けば、わたしを殺すでしょう」。主は言われた、「一頭の子牛を引いていって、『主に犠牲をささげるためにきました』と言いなさい。

16:3そしてエッサイを犠牲の場所に呼びなさい。その時わたしはあなたのすることを示します。わたしがあなたに告げる人に油を注がなければならない」。

16:4サムエルは主が命じられたようにして、ベツレヘムへ行った。町の長老たちは、恐れながら出て、彼を迎え、「穏やかな事のためにこられたのですか」と言った。

16:5サムエルは言った、「穏やかな事のためです。わたしは主に犠牲をささげるためにきました。身をきよめて、犠牲の場所にわたしと共にきてください」。

そしてサムエルはエッサイとその子たちをきよめて犠牲の場に招いた。

16:6彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思った。

16:7しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。

わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。

16:8そこでエッサイはアビナダブを呼んでサムエルの前を通らせた。

サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。

16:9エッサイはシャンマを通らせたが、サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。

16:10エッサイは七人の子にサムエルの前を通らせたが、サムエルはエッサイに言った、「主が選ばれたのはこの人たちではない」。

16:11サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。

サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。

16:12そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。

主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。

16:13サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。

この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。

                           サムエル記上 16:1~13

 

 イスラエルの紀元前1000頃は、12部族の共和制から王制に移行する過渡期だった。

 初代のサウル王は不従順ゆえに失脚しつつあり、サムエルは神の特命で特選の人材発掘にあたろうとした。

 サムエルの思惑に反し、『容姿や背の高さに目を向けるな。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』意外や8番目の末息子の少年ダビデが選ばれる。

 神の選びとは、選ばれる人にその要因はない、神のみ心により、神の主権的判断による。

 父エッサイから少年牧童として軽んじられたダビデが次期王として選ばれた。

 ところがこの出来事の重みは、後に神が成さろうとされる御業を指し示す予型的性格にある。

 ダビデにはサムエルにより職務権威を示す油が注がれた。

 「油注がれた者」とはヘブル語でメシアである。

 メシアとはギリシャ語ではキリストのこと。

 キリストとは救い主である。1000年後にベツレヘムで誕生された御子イエス様はその救い主である。

 ダビデの名の意味は「愛される者」。イエス様がヨルダン川で受洗された際には、『あなたはわたしの愛する子』と天の父の認証の御声があった。

 神はその最愛の独り子イエス様を罪の赦しを得させるため十字架に犠牲になされたのだ。このイエス様が私たちの心を治める王なのである。

 このイエス様を受入れた者を神は神の子として選んでくださる。

 『神はキリストにあって、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、愛のうちにあらかじめ定めて下さった』(エペソ1:4,5

 クリスマスは、神が人を選ばれる驚くばかりの恵みの御業である。

 我々に選ばれる値打ち、功績、功徳、業績がある訳ではない。選びは神の憐れみによる恩恵のなせる業であることに感謝しよう。

 主は「ダビデの町」ベツレヘムにお生まれになられた!


2016年12月11日礼拝説教

 

          「繋がる不思議」          ルツ記1章19〜22節

 

1:19そしてふたりは旅をつづけて、ついにベツレヘムに着いた。彼らがベツレヘムに着いたとき、町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、「これはナオミですか」。

1:20ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。

1:21わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。

1:22こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈の初めにベツレヘムに着いた。              ルツ記 1:19~22

 

 救い主イエスはベツレヘムに生まれられた。聖書ここかしこのベツレヘムで起こった出来事は、泉の地下系深く繋がるように繋がっている。

 異国で夫と二人息子を亡くしたナオミは失意のうちに、大麦刈り始る故郷ベツレヘムに嫁ルツと戻って来る。

 肥沃なこの町ベツレヘムはパンの家を意味した。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがない。」と言われたのは、それから二千年後に誕生されたイエスである。

 世には人間の造りだした物と企画が満ち溢れ、あたかもそれによって人の必要がことごとく満たされたかのように見える。

 だが、人の究極の心の飢えと渇きはイエス以外には決して満たされることはない。主イエスはいのちのパンである。

 そればかりか主イエスこそ人類に平和をもたらす方であることが、このベツレヘムにたどりついた二人の女性、ナオミ(ユダヤ人)とルツ(異邦人)とに反映されている。

 ユダヤ人と異邦人の根強い敵対反目は、人間相互の不信対立の典型である。その背景の異質な二人の女性が、何故か寄添い助け合い共に生きようとしている。

 十字架によって敵対していた二つを、あたかもひとりの人のように造りかえて平和をきたらせてくださったのは、このベツレヘムで誕生された主イエスなのだ(エペソ2:15、16)

 人が十字架のイエスを仰ぐとき、敵意はぬぐい去られてしまう。

 無一物で故郷に立ち戻った二人だが、嫁のルツは外国人にも許された刈り取り後の麦畑で落ち穂拾いをすることで生計を立てようとした。

 たまたま偶然にもその畑はナオミの親族でボアズの所有地であった。摂理の不思議としか言いようがない。

 そのボアズとやがてルツは結ばれ、結婚した二人から生まれるその家系からダビデは生まれる、そして、御子イエスが2千年後に生まれている。

 この世に偶然はあり得ない。神の深い計画に万事が組み入れられている。

 すべての道で主を認めよう。

 どんな些細なことでも心こめて打ち込もうではないか。


 2016年12月4日礼拝説教

 

          「神の傷なき小羊」        創世記35章16〜21節

 

35:16こうして彼らはベテルを立ったが、エフラタに行き着くまでに、なお隔たりのある所でラケルは産気づき、その産は重かった。

35:17その難産に当って、産婆は彼女に言った、「心配することはありません。今度も男の子です」。

35:18彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時、子の名をベノニと呼んだ。しかし、父はこれをベニヤミンと名づけた。

35:19ラケルは死んでエフラタ、すなわちベツレヘムの道に葬られた。

35:20ヤコブはその墓に柱を立てた。これはラケルの墓の柱であって、今日に至っている。

35:21イスラエルはまた、いで立ってミグダル・エダルの向こうに天幕を張った。  創世記 35:16~21

 

 ある特定の場所は、ある特定の人に、ある特定の意味をもつものです。

 ベテルはヤコブにとり自分の人生を決定的に変えられた場所です。

 生来の邪な性格のヤコブは、その兄エサウを巧妙に二度も騙した結果、身の危険を避け、伯父ラバンのもとに身を寄せる逃避行を余儀なくさる。

 その途時、ベテルにさしかかり、一人わびしく野宿するヤコブに不思議な仕方で主なる神が現れてくださった。この神との出会いにより、彼は大きく変革させられます。

 あなたの神との出会いの場所は何処であろうか。ベツレヘムに差し掛かったヤコブはそこで最愛の妻ラケルを産褥(出産時)に際して失う。難産で無事男児を出産したものの死別の悲哀にさらされる。

 死に逝くラケルにもベツレヘムは苦しみの場であった。夫と子と別れ死出の旅にゆかざるを得ない。

 離別の悲哀を痛烈に味わった俳人の小林一茶は、長女を疱瘡で失った悲しみを「露の世の露の世ながらさりながら」と詠った。朝露のように人の命は短くはかない。

 離別の悲哀を突きつけられたあなたのベツレヘムは何処であろうか。

 だが、ミグダル・エダルに神の深い慈愛のこめられた救いのご計画を観るとき私たちは驚く。

 ヤコブが短期滞在したこの地名は『羊の塔』を意味した。古代より特殊な牧羊地であった。

 ルカ2:8に羊を夜番する羊飼いたちに天使が救い主誕生を告知したと知る。彼らは何とこのミグダル・エダルの牧者であった。

 夜番してまで牧羊するとは、特別な羊を養育するためだった。彼らは神殿の犠牲に供する特別な傷なき羊を育てることが任務であった。ベツレヘムに生まれた救い主イエス様は人の罪の赦しをもたらす傷なき神の小羊である。

 「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」

 不義なる私たちを義とするため十字架になだめの供え物となるべく生まれたまいし主イエスに感謝しようではないか。