2016年1月礼拝説教

2016年1月31日礼拝説教

 

          「事起り始めなば」           ルカ21章20〜28節 

 

21:20エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。

21:21そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。

21:22それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。

21:23その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、

21:24彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。

21:25また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、

21:26人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。

21:27そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

21:28これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。

                      ルカによる福音書 21:20~28

 

 エルサレム市街を見渡す高台に見栄を好むヘロデ大王が建立した白亜の大理石に輝く神殿に感嘆する弟子たちは主イエスがその崩壊を予兆された言葉には度肝を抜かしたことでしょう

 事実AD70年にエルサレムはローマの大軍に包囲され神殿は破壊され110万の市民が虐殺されました始めがあれば終わりがある

 エルサレムに終わりがあったように界に終わりがある私たちは終わりから逆算して物事を見るべきです

 主イエスは聞く耳のある者すべてにこれらの事が起りはじめたら身を起し頭をもたげなさいあなたがたの救が近づいているのだからと、物事の表面ではなしに真相に注目するよう語られます

 歴史は神により形成されるのであり、神のご計画が実現成就しようとしているのです。

 世界は世の終りに向いつつあり、しかもそのクライマックスは主イエスが再び来られ救いを完成されることです。

 主イエスは見よ、わたしはすぐに来ると約束され、十字架の罪の赦し贖いを終え天に昇られました。再び来られるときは贖いが完成する時です。

 私たちはこれから世界に何が起ころうともそこに主の再臨のしるしを読み取るべきです。

 天変地変があろうともそれすらもその意味で希望のしるしなのです。

 そのような受けとめ方をするために、身を起し頭をもたげなさい。と主は祈りをもって備えているよう促されます。

 冬枯れした庭先の木々の枝に小さなつぼみを認めて春を予感するように、その時、信仰の目で主の来臨を予感することでしょう

 「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。」とも主は警告されます。

 わなにかかった鳥にならないよう気をつけ身を慎み祈り、主を待望したいものです。


2016年1月24日礼拝説教

 

          「一歩一歩備えられ」        箴言16章1〜9節

 

 16:1心にはかることは人に属し、

 舌の答は主から出る。

 16:2人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、

 しかし主は人の魂をはかられる。

 16:3あなたのなすべき事を主にゆだねよ、

 そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

 16:4主はすべての物をおのおのその用のために造り、

 悪しき人をも災の日のために造られた。

 16:5すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、

 確かに、彼は罰を免れない。

 16:6いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、

 主を恐れることによって、人は悪を免れる。

 16:7人の道が主を喜ばせる時、

 主はその人の敵をもその人と和らがせられる。

 16:8正義によって得たわずかなものは、

 不義によって得た多くの宝にまさる。

 16:9人は心に自分の道を考え計る、

 しかし、その歩みを導く者は主である。  箴言 16:1~9

 

 「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」箴言16章1〜9節は人間の計画と神の主権が主題です。

 「心にはかることは人に属」するのだと人間の計画性が1節で語られる一方、「舌の答えは主から出る」と決定権は神にあるのだと強調されます。

 「一年の計は元旦にあり」ともいわれる年頭に与えられているのは、「あなたの計るところは必ず成る。」との喜ばしい聖書の確約です。

 計画を立て着実に実行する自信がなくても、計画倒れの惨めさを幾度も味わったとしても、ここに「必ず成る」との神の約束があります。

 そして、その約束に先立つ勧告、「あなたのなすべき事を主にゆだねよ」これこそ計画実行の勘所です。

 「主にゆだねよ」委ねるには転がすという本来の意味があります。「主に転がしなさい」ということです。丸投げして責任転嫁することではありません。

 あらゆる状況の主権者である方、主なる神様に祈りによって自分のなすべき事を知っていただき、自分一人で負うのでなく主と共に実行する。

 人生の主権を主に明け渡し、主のパートナーとなる。

 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と主イエスは招かれます。

 「わたしのくびきを負」いわたしと一緒に担おうではないかと招かれる。

 「あなたのなすべき事」は何か。人それぞれ直面する課題、問題、義務は異なります。大小は問われません。

 政治家は政治家の、職業人は職業人の、主婦には主婦の、学生には学生のなすべき事がそれぞれあります。

 難題も持ちかける人に対処する計画でしょうか。

 仲違いした友との和解の計画でしょうか。就職、就学、結婚、研究、休暇、趣味の計画。

 「あなたのなすべき事を主にゆだねよ。」「そうすれば」そうです!「必ず成る」のです!


2016年1月17日礼拝説教

 

           「一歩後退三歩前進」         ルカ19110

 

15:1さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。

15:2するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。

15:3そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、

15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。

その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

15:5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、

15:6家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。

15:8また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。

15:9そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。

15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。                    ルカによる福音書 19:1~10

 

 エリコの取税人ザアカイは、「一歩前進二歩後退」ではなく「一歩後退三歩前進」の恵みに入れられました。

 ローマ帝国の徴税請負として同国民から売国奴、罪人と嫌われ疎外されていたザアカイは、人間として一歩後退でした。

 人間の言葉の根元を「私とあなた」また「私とそれ」だとユダヤ人哲学者ブーバーは見事に抽出するのですが、「私とあなた」が関係をもたらし、「私とそれ」は経験をもたらすものです。

 金持ちザアカイが、それまでの「私とそれ」のもたらす経験に失望し、噂に聞くイエスを間接的に見たいという願いが喚起されたことは明らかに一歩前進です。

 樹上の木陰から覗き見るザアカイに意表をついて「ザアカイよ。」と呼びかけ「私とあなた」の関係へ招くイエスに呼応し、木から降りてイエスを家に迎え入れたその行為は、人間イエスとの関係に発展させる二歩前進です。

 そればかりか、客としてイエスを迎え入れた結果、「主よ。」との告白に導かれ、財産半分を貧民に施す決意を表明するにいたっては二歩どころか三歩前進です。

 「主」とは天の神の呼称であり、ザアカイは神との「私とあなた」関係に入れられています。

 主イエスを客として心に迎え入れ、全人格的にもてなすことは人間性回復の原点です。

 人となられた愛なる神、主イエスは先行してひとりひとりの心の戸を叩き、その豊かな交わりへと招かれるのです。

 十字架に罪の赦しを成し遂げ、復活されて天に昇られた主イエスは、今や教会をそのからだとされ私たちの間に現在されます。

 人が教会に加わるとき自分の前に立つ兄弟の内にもキリストを見ることが許されます。

 イエスを家に客としたザアカイは、「旅人(巡回伝道者)をもてなすことを忘れてはならない」というへブル131節をも想起させます。

 種々の働き人を迎え今年も宣教を押し進めることにしましょう。


2016年1月10日礼拝説教

 

           「床を担いで歩く」          ヨハネ5章1〜9節 

 

5:1こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。

5:2エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。

5:3その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。

5:4それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕

5:5さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。

5:6イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。

5:7この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

5:8イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

5:9すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。 

その日は安息日であった。                 ヨハネによる福音書 5:1~9

 

 新しい年を迎えたのですが、持ち越した弱さがあるなら対処する必要があるでしょう。

 イエスは自分の弱さを38年も持ち越していた男をベテスダの池で癒されました。

 イエスはこの人が横になっているのをジッと見られたように、私たち個々人に関心を寄せられます。

 弱さで長い間苦しむのは出口の見えないトンネルのようです。しかし主は見過ごし忘れることはありません。

 人の抱える弱さは病気に限らず人によって多種多様です。知的理解力の不足や、道徳的欠陥であったり、経済的行き詰まりや信仰のつまづきである場合もあります。

 悩むこの人にイエスが「なおりたいのか」と問われたのは愚問でしょうか。私たちなら普通しない問いかけです。

 しかしこれによって彼の内に隠されていた問題点が彼の意識に浮上させられ、それによって解決に近づけられました。

 彼は「だれも協力してくれない」と自分の問題を他人の責任に転嫁し、そればかりか、自分で自分をどうすることもできない無能さに絶望していたのです。

 その時、間髪入れずに「起きて、、、歩きなさい」とイエスは命じました。

 男が「主よ。」と呼びかけたとき、それは先生、旦那さんくらいの気持ちでした。ところがイエスは主の主、王の王なる方だったのです。

 神の力は神の言葉に従って行動するとき顕示されます。

 癒されたから歩いたのではなく、彼が歩こうと立ち上がると歩けたのです。

 自分の弱さに確かに主が語られていると確信したら従いましょう。

 しかし依然として特別な語りかけもないままに悩みが長引く時には忍耐しましょう。

 主を待つことは人間の基本姿勢であるからです。

 時にはパウロのように、弱さに留まることが主の御心と分かるなら、それに甘んじる、いやそれを誇ることさえしよう。

 キリストの力が弱いところに完全に表れるからです。(第二コリント12:9)


 2016年1月3日礼拝説教

 

          「新しく造られる」         第二コリント5章17節         

 

 5:17だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。              コリント人への第二の手紙 5:17

 

 新年を祝い挨拶を交わす年初めです。しかし年明け年度が変わってそれですべてが新しくなるわけではありません。

 新製品、新企画、新奇さが受ける時代であっても「日の下には新しいものはない」(1:9) のです。新しい流行も古いものの始まりです。

 昔の賢者の「空(くう)の空、いっさいは空である」との結論は現代に即妥当する真理でありましょう。

 本当の新しさとは私たち人間が新しくされるところにあります。

 聖書は『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。』とキリストを受入れて造り変えられた者の新しさを明らかにします。

 その新しさとは人のものの見方、判断の基準が変えられることです。

 罪に汚染される見方から解き放たれ、神を受け入れ神を愛する者にされることです。

 自己中心的で歪んだ自己愛から解き放たれ、神に愛されているあるがままの自分を受入れ、自分を愛する者にされることです。

 そればかりか自分を愛するように、相手の立場に自らを置いて隣人を受け入れ理解し愛する者にされることです。

 人の性質の変わる可能性があるものでしょうか。

 「だれでもキリストにあるならば」可能なのです。キリストの十字架の死と復活のゆえに可能です。キリストはすべての人の罪のために死なれました。

 『古いものは過ぎ去った』罪に支配された古い自我がキリストと共に死に、キリストと共に蘇らされたと信じるならば、新しく造られた者とされたのです。

 『見よ、すべてが新しくなったのである』ものの見方、判断の基準が一新されるとき、驚くべきことに、それこそすべてに新しい意味を見出すことができるようになるのです。

 そのとき、それでこそ新年はめでたいもの、祝うべき価値あるものとなることでしょう。

 キリストは神の愛のアウトレット(流出)です。

 イエス様をキリスト(救い主)と受入れ、イエス様を愛し慕い求め、キリストにあって新しく造られる者とされ、更に新しくされる者となろうではありませんか。