2016年3月礼拝説教

2016年3月26日礼拝説教

 

          「心が内に燃える」         ルカ24章13〜36節

 

 24:13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、

24:14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。

24:15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。

24:16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。

24:17イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。

24:18そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。

24:19「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、

24:20祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。

24:21わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。

24:22ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、

24:23イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。

24:24それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

24:25そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

24:26キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

24:27こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

24:28それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。

24:29そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。

24:30一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、

24:31彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。

24:32彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

24:33そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、

24:34「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。

24:35そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。

24:36こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕

             ルカによる福音書 24:13~36

 

 主イエス様は蘇り救いを完成された。主イエス様は生きておられる。

 エマオの途上で復活の主に出会った弟子たちは、聖書が説き明かされると、「お互いの心が内に燃えたではないか」と述懐した。心が暖まり熱くなり燃える。生の充実を実感する瞬間である。

 普通の人生経験でも時折り体験するし、演劇やスポーツ、旅行といった人手で造りだす仮想現実にも燃える瞬間を人は期待する。

 だが、復活の主イエス様との出会いによる経験はまた格別である。

 くすぶる灯心を消すことのない主イエス様ご自身が、我々の心を温め燃え上がらせるため近づかれる。それとも気づかないにしても主イエス様は我々と共に歩いておられる。

 エマオに向う二人の弟子達は起こった出来事の全体を把握することができずに深い失望感に支配されていた。この方こそと期待したイエスが十字架に殺害されて絶望していた。

 にもかかわらず事実は主イエス様は復活されておられた。「ああ、こんなはずではなかった」と幻滅するとき、必ずしもそれがすべてだと思い違いしないようにしよう。

 神が計画された絶望感は、必ず言語に絶する喜びに導かれるからだ。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30:5

 そして、御言葉が開示され、目が開けて事の真相が明らかにされるとき、心は俄然燃え上がるのだ。

 主イエス様は消えかかった灯心を優しく吹きおこしてくださる。

 主の御言葉を思い起こすことが出来事を正しく知るための秘訣となる。

 主のお語りくださった言葉を起こった出来事に照らし合わせると目が開かれる。

 二人の弟子達はエマオの自宅にイエス様を招き入れたとき目が開かれた。エマオとは「温かい泉」を意味するが、復活の主は我々の平凡な家庭の主となり心を温め燃え立たせて下さる。

 「主よ。我が家に我が心にお宿りください。」とお招きしよう。


2016年3月20日礼拝説教

 

           「黙れば石が叫ぶ」         ルカ19章28〜40節 

 

19:28イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。

19:29そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、

19:30「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。

19:31もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。

19:32そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。

19:33彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、

19:34「主がお入り用なのです」と答えた。

19:35そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。

19:36そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。

19:37いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、

 19:38「主の御名によってきたる王に、

 祝福あれ。

 天には平和、

 いと高きところには栄光あれ」。          

 19:39ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。

19:40答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。 

                        ルカによる福音書 19:28~40

 

 教会暦で言う「棕櫚の聖日」は、主イエスが受難を覚悟でエルサレムに入城した最初の日である。群衆が棕櫚の葉を振って歓呼して出迎えた故事から命名された。

 この出来事で三つの絶対的な必要性が明らかにされる。 

I.人を治める平和の王の必要

  人は誰かに統治されてはじめて安定する存在である。その選出方法はどうであれ人は統治者を必要としている。だが現在に至るまでその必要は真の意味で満たされていない。

 戦争に次ぐ戦争の悲惨な人間の歴史がその事実を証明する。北朝鮮の発射した弾道ミサイルで日本は脅威にさらされる。

 群衆はハレルヤ詩篇118篇から「主の御名によってきたる王に祝福あれ」と叫んだ。

 彼こそ神が約束する平和の君、武力によらず愛により統治し平和を造る王であるからだ。

II.王をお乗せするロバの必要

 十字架の死と復活により神との平和、人との平和を造られた主イエスが私たちの社会に家庭にお入りなさるため子ロバが必要である。

 エルサレムでは「主がお入り用なのです」と子ロバが用いられた。見栄えのしないロバだが敢えて主イエスはロバを所望される。その必要事情は今日においても変わらない。

 主は自らを明け渡した謙遜な器を必要とされるのだ。

 III.王を誉め讃える賛美の必要

  群衆が喜び歓呼して主イエスを出迎えたとき、反対者のパリサイ人たちが牽制して「あなたの弟子たちをおしかり下さい」と要求した。イエスの答えは驚異である。「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」と。

 「玉石混淆」とは値打ちのあるものと無価値なものが混じっていること。路傍の石ころには値打ちがない。だが石でも神の被造物。

 被造物の傑作人間は神を賛美するため造られた。賛美しないなら石が叫ぶ!賛美こそ絶対不可欠である。

 罪の赦しのため犠牲となられたイエスを声高らかに賛美しよう。 


2016年3月6日礼拝説教

 

          「走るべき工程」          第二テモテ468

 

 4:6わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。

4:7わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

4:8今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。

わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。 

            テモテ第二の手紙 4:6~8

 

 偉大な信仰と宣教の先駆者パウロが、獄中から愛弟子テモテに自らの死を予感し、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき工程を走りつくし、信仰を守りとおした。」と書き送りました。これは私たちの人生模範のエッセンスでもあります。

 人生は戦いです。戦いの連続です。パウロは「ああ、善い戦いを戦った」(塚本訳)と戦いと善き戦いと呼び、それは血と血を洗う戦争ではなく、霊的な戦いなのです。

 他の兄弟姉妹たちのため苦闘して祈ることです(コロサイ4:12)。

 苦闘して教会に奉仕することです(コロサイ1:2429)。

 苦闘して福音を語ることです(Ⅰテサロニケ22)。

 人を罪から解放する宣教は容易ではなくまさに戦闘なのです。

 しかも人生はマラソンの定まったコースを走破するよう「走るべき工程を走りつく」すことです。偶然や思いつきではなく、神の計画の中に導かれていきることです(エペソ1:10)。

 キリスト者として私たちは選ばれて善い戦いを戦うべく導かれているのです。そのような自覚、そのような視点で人生を生き抜かせるのは信仰です(へブル11:6)。

 あの5000人の給食の後で人間にとって最大の仕事が信仰であることを、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」と主イエスは明らかにされました。

 神が遣わされたイエスを主として、救い主として受け入れる、信じて従順に従うことが人生の肝要です。

 各自信仰生活の長短はあっても「信仰を守りとおした」と最後に言い切れる者はさいわいです。

 パウロが成し得たのは主イエスが善い戦いを全うされたことを模範にしたからです。「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」

 十字架に自らを犠牲として私たちの救いのために捧げるためにイエスは祈りで苦闘されました。

 今週も善き戦いを戦い抜きましょう。