2016年4月礼拝説教

2016月4月24日礼拝説教

 

           「問う者への問い」       エレミヤ12章1〜6節

 

12:1主よ、わたしがあなたと論じ争う時、あなたは常に正しい。

しかしなお、わたしはあなたの前に、さばきのことを論じてみたい。

悪人の道がさかえ、不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか

12:2あなたが彼らを植えられたので、彼らは根づき、育って、実を結びます。

彼らは口ではあなたに近づきますが、心はあなたから遠ざかっています。

12:3主よ、あなたはわたしを知り、わたしを見、わたしの心があなたに対していかにあるかを試みられます。

ほふるために羊を引き出すように、彼らを引き出し、殺す日にそなえて、彼らを残しておいてください。

12:4いつまで、この地は嘆き、どの畑の野菜も枯れていてよいでしょうか

この地に住む者の悪によって、獣と鳥は滅びうせます

人々は言いました、「彼はわれわれの終りを見ることはない」と

12:5「もしあなたが、徒歩の人と競争して疲れるなら、どうして騎馬の人と競うことができようか。

もし安全な地で、あなたが倒れるなら、ヨルダンの密林では、どうするつもりか。

12:6あなたの兄弟たち、あなたの父の家のものさえ、あなたを欺き、大声をあげて、あなたを追っている。

彼らが親しげにあなたに語ることがあっても彼らを信じてはならない」。   エレミヤ書 12:1~6

 

 『悪人の道が栄え、不真実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか。』エレミヤの鋭い神への問いは、不合理な社会を批判する者たちの共通の心情を表します。

 エレミヤは、神を信じ正しい方だとしつつ、その責任は主よ、あなたではないかとまで迫ります。ところがこの切実な訴えに対する神の回答は彼の意表を突き、問う者への問いでした。

 『もしあなたが、徒歩の人と競争して疲れるなら、どうして騎馬の人と競うことができようか。

 預言者として彼は、忠実に悪に走る王と民に警告預言を語りますが、改善の兆しも無く、悪徳の栄えるばかり。彼は疲労困憊でした。

 その彼が「あなたは徒歩の人と競争しているようなものであり、もっと困難な事態に直面したなら耐えられるのか?」と問われる。

 『もし安全な地で、あなたが倒れるなら、ヨルダンの密林では、どうするつもりか。』それも同じ主旨の別表現です。

 猛獣が出没するような密林に踏み迷うならどうするとの問いにより、彼に迫り来るより難しい困難を神は見通させられたでしょう。

 『できるのか?』『どうするつもりか?』とまた問われて、彼は痛切に自分の弱さを悟り、それはかえって約束に真実な神にいっそう信頼するべきことを彼に得させる神の励ましでした。

 彼を召された神はすでに『わたしがあなたと共にいて、あなたを救う』(1:19)と保証されていたのですから。

 この神の取扱いは十字架を目前にする主イエスの弟子たちへの激励に通じます。

 『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(ヨハネ16:33)

 今自分の手に余る悩みは何か。主にあって信仰による勇気が必要です。

 何故ならこれから臨む更なる困難があっても主に信頼して恐れなく対処することができる備えを得るからなのです


2016年4月17日礼拝説教

 

           「落ち着き信頼する」         イザヤ30章15節

30:15主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。

                             イザヤ書 30:15

 

 南北の古代帝国に挟まれた神の民イスラエルは、絶えずその圧力に翻弄されてきました。

 ユダ王国13代目の王ヒゼキヤに、主は「落着き信頼する」よう語られました。しかし、神の計画よりも人間の計画にヒゼキヤ王が傾いたため、エルサレムの都はアッシリア軍に包囲され、絶体絶命の窮地に陥ります。

 その時代、アッシリア帝国は諸国を神が裁く怒りの杖であってもやがてその高慢の故に滅亡させられることが神の明らかな御計画でした(10:5,6,12)。

 だが、その支配下に置かれていたヒゼキヤ王は、敢えて反旗を翻し、南のエジプトと同盟を結ぼうとしたのです。結果は悲惨にもエジプト軍は大敗し、王の政策は挫折し、敵軍に包囲され絶滅の危機に立たされることになったのです。

 エジプトの軍事力に頼る王と民の姿を聖書は「馬に乗って逃げる」と言います。しかし、どんな早馬に乗って逃亡しても追いつかれてしまう。

 神に信頼しない人間の姿勢は逃亡者のそれです。現代人の共通感情は不安であり、それは神から逃げる人間の心境を表すものです。

 しかしながら、王と神の民に対する神の憐れみ深い取扱いは史実を学ぶ者を驚嘆させます。

 追い詰められた王が神殿に衣を裂いてへりくだり祈る求めに神が応えられ、敵軍18万5千人が御使いにより壊滅したのです(37:36)。

 「主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。(18)」「主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される(19)」

 あの古代にヒゼキヤ王と神の民になされた同じ恵みのわざは、今現代においては、神の御子イエス・キリストの故に、信じて呼ばわる信仰者に施されます。

 神の憐れみは十字架の罪の赦しの故に惜しみなく注がれるのです。

 我らもまたヒゼキヤ王のように神に信頼しそこねて人間的な小細工に走り、窮地に陥るようなことがあるかもしれません。

 そうであっても謙遜に悔いて求める祈りに主は応えてくださるのです。(ピリピ4章6、7節)


2016年4月10日礼拝説教

 

          「我ら誰に行かん」         ヨハネ6章66〜71節

 

6:66それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。 6:67そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。

6:68シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。

6:69わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。

6:70イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。

6:71これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。           ヨハネによる福音書 6:66~71

 

 ある時期から多くの弟子が主イエスのもとを去ったと聖書は報告する。それは今日的現象でもあり教会から人が去り数が減少することは時に避けられない宿命でもある。

 弟子たちが離反したのは、「これはひどい言葉だ。」と批判し主イエスの言葉につまづいたからだ。

 弟子たちは5千人のパンの奇蹟で身体を養うパンに満腹した。しかし、「わたしが命のパンである。」と語る主イエスを理解できない。

 肉体を生かすパンは必要ではある。だが不可欠なのは永遠の命を与えるパンなのだ。

 「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」と主イエスが語られるとき、肉と霊は二つの人間のあり方を意味する。

 肉とは神とのつながりのないあり方、霊とは神とのつながりのあるあり方だ。

 人は誰もがこの肉と霊のはざまに立たされ選択を迫られている。

 イエスは命のパンであり、その言葉こそ命を与える霊なのだ。

 「あなたがたも去ろうとするのか。」その時主イエスは12弟子に決定的な問いを発せられ、今また私たちに問われる。

 ペテロが代表して「誰のところにいけましょう。」と信仰を表白した。それは見事な信仰の金字塔である。だが次の主イエスの言葉は弟子たちの深層を鋭く貫くものだ。

 「あなたがたのうちのひとりは悪魔である」それが誰であるか名前は特定されない。史実はユダが裏切ったその人であることを証言する。

 しかし真実は弟子全員が悪魔と化する可能性を有する罪人であったということだ。代表告白したあのペテロでさえ後に三度も公然と主を否認している。

 信仰のネットワークである教会の中身は赦された罪人であるということだ。誰しもが裏切り否認しつまづく罪人なのだ。

 だが主イエスはそのただ中に十字架の罪の赦しを成し遂げ復活され毅然として立たれる。

 罪を犯しても何度でも悔い改め立ち返るとき愛なる主イエスは赦し受入れ回復してくださるのだ。


 2016年4月3日礼拝説教

 

           「聖なる装いで」             詩篇96篇9節

 

96:9聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。  詩篇 96:9

 

 「聖なる装いをして主を拝め」イスラエルの王即位式で歌われた詩篇96篇は、人手による無能な神々偶像ではなく、創造者にして王の王、そして義の審判者であられる真の神なる主を礼拝するよう私たちに勧めます。

 このお方は被造物である人類に「来られる」方であります。

 礼拝とは、過去の歴史のただ中に来られた主を回顧想起することであり、そればかりか、今まさに私たちの礼拝の場に来られて現臨される主を賛美歓迎することでもあり、そして、「わたしは直ぐに来る」と約束された主を待望することです。この偉大な主なる神を聖なる装いをして拝むのです。

 最初の祭司とされたアロンが身に着けた装束の詳細を出エジプト記28章に見てください。

 その帽子には金の板に『主に聖なる者』と刻印され、12部族名が12の宝石に彫り込まれて胸当てに掛けられ、それは豪華絢爛でした。祭司の装いはその人が聖であり麗しいことを表します。

 それは我々キリスト者のひな形であり、イエス様を受入れた者はキリストの故に聖とされ神の御目に美しいのです。

 聖であるとは神によって分たれて主のものであることを意味します。だからこそキリスト者は聖徒と呼ばれるのです。罪赦された者は聖いのです。

 その美しさとは「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」主なる神を愛する愛であり、自分を愛するように隣人や兄弟を愛する愛に他なりません。

 『愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。』

 『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』この愛は神の愛であり神が賜る愛です。

 愛がなければ表向き賑やかであっても騒がしいドラのようです。

 愛という「聖なる装い」を身に着けて主を崇めましょう。これが礼拝者の本分なのです