2016年6月26日礼拝説教
「生ける水の川」 ヨハネ7章37〜39節
7:37祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
ヨハネによる福音書 7:37~39
人間の創りだした文明は高度に発達し、その特徴がインスタント、オートマチック、情報化時代、物流革命などに要約されます。しかし、この金さえあれば何もかも過不足なくなる勢いの現代に生きる私たちに聴こえて来る声があります。
祭司が「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ」(イザヤ12:3) と朗唱しつつ、シロアムの池から黄金の器で取分けた聖水を祭壇に注ぐ、仮庵の祭りの頂点の将にその瞬間、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」と叫び出された主イエスの声です。
仮庵の祭りは、民が家を出て素末な仮小屋に8日間寝泊まりすることで、遠い昔に祖先が厳しい荒野で神によって手厚く守られたことを追体験する記念祭です。
ところがこの祭りには深い秘められた奥義があったのです。祭司の朗唱する歌詞の「救いの井戸」とは救い主イエス・キリストを指し示すものです。
人間の奥深い本質的な渇き癒す真の水が、主イエス様により信じる者に注がれることを意味したのです。その真の水、生ける水とは聖霊にほかなりません。
主イエス様が罪の赦しを得させるため十字架に上げられたなら、信じる者に聖霊が与えられることが神の計画でした。
イエスに来て「飲む」すなわち受け入れ信じるなら、その人の奥深い所から生ける水が川となって流れでる。聖霊は心の癒し難い渇きを潤し、そればかりか、水のように流れ出し他の人々にまで祝福をもたらすのです。
しかしながら自分の心の奥底にある渇きを認めようとしない人には、イエスの約束は通じません。
条件は「だれでも」そして「かわく者」です。広く狭いのです。
人間の創りだした豊かさは良いものであっても本質的ではありません。満たされたかのように錯覚しないことが要注意でしょう。
「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」(イザヤ44:3)
2016年6月19日礼拝説教
「主の二重の高挙」 民数記21章4〜9節
21:4民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。
21:5民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。
21:7そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
21:8民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
21:8そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
21:9モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。 民数記 21:4~9
宗教学を専攻したというある著述家が、「資本主義経済の発達によれば、やがて宗教は消滅するのではないか」とその著書に推論しています。
戦後の種々の宗教団体の動向を分析したところ、新興宗教だけでなく伝統的宗教も明らかに衰退の一途をたどっているというのです。しかし、すべてを宗教という言葉に詰め込み結論するのは早計です。
迷信と呪術、それに宗教とは違うからです。
宗教は英語のレリジョンの訳語で、レリジョンはラテン語の「レリガレ」から由来し、その本来の意味は「再び結び合わせる」なのです。
宗教とは真の神と人とを再び結び合わせるものです。その真の宗教を私たちは民数記21章の『火の蛇』事件に透かし見ることができます。
イスラエルの民は呟き不信の罪を犯したため主より燃える蛇により懲らしめられました。そこで主の指示に従って指導者モーセが青銅の蛇をさおの先に上げたところ、民が仰ぎ見ると生かされたのです。
聖書はこの古代の出来事が神と人とを結び合わせる真の宗教の影であることを明らかにします。
主イエスが『ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない(ヨハネ3:14)』とこの故事を引用されているからです。
人の子とは主イエスのことです。
人の子が上げられるとは、キリストが十字架に上げられ磷つけされることです。
私たちは毒蛇にかまれた民のように、罪の死毒によって滅びんとしていた者です。
それにもかかわらず、あの民が棹に上げられた青銅の蛇を仰ぎ見て癒されたように、今やだれでも十字架上のイエスを仰ぎ信じ受入れるなら救われるのです。主は約束されました。
『わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』(ヨハネ12:32) 恵みにより引寄せられ、罪赦され、真の神を礼拝できることは大いなる祝福です。
2016年6月12日礼拝説教
「予知予定され」 マタイ26章20〜25節
26:20夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。
26:21そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
26:22弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
26:23イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。
26:24たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
26:25イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。 マタイによる福音書26:20~25
最後の晩餐席上で、『人の子を裏切るその人は、わざわいである』と主イエスは弟子達に語られた。『その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう』とまで言われた。その人とは事実関係からすればあのユダである。
銀貨30枚と引換えに敵の手にユダはイエスを引渡してしまった。だが後悔したユダは無惨に自殺している。
彼は滅びの子、棄てられる者として神に予定されていたのか。
結論から言えば決してそうではない。何故なら御子を死に引渡すことは神の意志であり(ローマ8:32)、イエス自身がみずからを死に引渡すことを決意されている(エペソ5:2)。
そればかりか、イエスがエルサレムに入場された時は、いつでもどこでも敵が彼を捕縛し処刑できる状況だった。ただ祭りの最中、民衆の暴動を避け、敵はしかるべきチャンスを狙っていたのだ。
必ずしもユダでなくともよかった。いや弟子達全員が裏切る可能性を有していたのだ。
なぜなら、主イエスは裏切りを予告された際に名前を特定されない。
先立つあのマリヤによる高価な香油注ぎ事件で、『こんな無駄使いをするのか』と彼女を叱りつけたのはユダのみか弟子達全員であった。
主イエスとその死の価値よりも300デナリもする香油をより価値ありとする精神はユダ独りのものではなかった。
『あなたがたのうちのひとりが、、、裏切ろうとしている』との予告に『主よ、まさか、わたしではないでしょう』と口々に応答したのはそれゆえではなかったろうか。
ところが聖書は、そのような裏切る可能性をも持ち合わせる罪深いわたしたちをあらかじめ知ったうえで、神の子に選んでくださったと証言する。
「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(ローマ8:29)予知予定されて選ばれている。
十字架の罪の赦しにより救われている。何という恵みではなかろうか。
2016年6月5日礼拝説教
「光あれ光ありき」 創世記1章1〜5節
1:1はじめに神は天と地とを創造された。
1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
1:5神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
創世記 1:1~5
『はじめに神は天と地とを創造された。』これは歴史的、科学的、神話的文書ではなく詩の形式による真理の宣言です。
万物すべては神により無から存在へと呼び出されました。後の世の歴史学も科学もこの真理を追認するものです。
この100年間に物理学者のアインシュタイン博士や南部洋一郎博士をはじめ、世界中の学者たちが、万物の一切の現象を説明できる一つの数式を導き出すため精魂傾け研究してきました。彼らはそれを「神の数式」と呼びました。
もし一切を知的に合理的に解析できるなら、その一切の存在の背後には間違いなく知的な人格ある方が存在するのです。聖書はそれを前提として『神は、、、創造された』と力強く証言します。
『地は形なく、むなしく、闇が、、、』続く2節以下により私たちは神がカオス(無秩序)からコスモス(秩序)を創造されたことも分ります。
6日の創造により形は形成され、無なる場は充ち満たされ、闇には光が創設されたのです。
その6日目に創造の冠として人間が神の似姿として男女に創造されました。先立つ創造の一切はその人間のためでした。
神の人間に対する慈愛と行き届いた配慮には驚嘆させられます。そのすべてを神はご自身の言葉により造られたのです。『光あれ』すると『光があった』。
ヘブル11章3節が『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られた』と証言しています。しかしこのような輝かしい私たちの創造信仰がしぼみそうになる現実が今現在あることも事実です。
人生がカオス混沌の深淵、泥沼に引きずり込まれそうになるのです。ところが神の言葉なる御子イエス・キリストが来てくださいました。
十字架に罪の赦しをもたらされたイエスは、人生の闇を照らす世の光なのです。
イエスを主と受入れお従いするとき、人は命の光を持ちます。
「主よ。私にお語りください」と祈ることが今許されているのです。
泉佐野福音教会
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