2016年8月礼拝説教

2016年8月28日礼拝説教

 

          「味わい知る」    詩篇34篇1〜22節

 

ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌

34:1わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。

34:2わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。

34:3わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。

34:4わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。

34:5主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。

34:6この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。

34:7主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。

34:8主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。

34:9主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。

34:10若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。

34:11子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。

34:12さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。

34:13あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。

34:14悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

34:15主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。

34:16主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。

34:17正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

34:18主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

34:19正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。

34:20主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

34:21悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。

34:22主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない

                         詩篇 34:1~22

 

 海の幸山の幸の味わいは人の心を喜ばせますが、詩篇34篇の作者ダビデはすべてに優る味わいは主の恵みだと歌います。「味わい知る」とは経験によって自分のものにすることです。

 ダビデはその生涯の様々な恐れ、悩み、貧しさ、災い、そして罪過ちから救われたと歌います。

 彼が主に拠り頼み祈るとき、主なる神の恵みを経験によって自分のものとすることができたのです。だからこそ主を誉めたたえ歌わずにはいられないと「その賛美は私の口に絶えない」と告白します。

 表題によればこの詩が彼の苦境のドン底でうまれたことが分ります。

 それは故無くサウルに追われ、敵王の前で狂人の振りして難を逃れざるを得ないときでした。自分を偽ってまでして難を逃れるとはどれほど惨めであったことか。そんなダビデを誰が非難できるでしょう。私たちは自己防衛のためにしばしば不真実なるのですから。

 しかし、私たちに罪の赦しをもたらされたイエスは、不利になると分っても真実を貫かれ、大祭司の尋問にもご自分を否むことをされませんでした。

 それゆえに義しい方が十字架に身代わりとなり、不義な私たちが救われたのです。 

 この方に信頼するとき罪定められず永遠の命が与えられるのです。

 豪華客船タイタニックの沈没間際まで、恐怖に陥る客たちを励まそうと賛美歌320番『主よ。みもとに近づかん』を演奏しつづけたバンド演奏家達は、この信仰に立つキリスト者でした。

 山のような難問に直面するとき、「【主】のすばらしさを味わい、これを見つめよ。」(改訳)

 彼らは聖書の勧めに立ったのです。まさにその時こそ主の恵みを味わい知る機会であり、目を見開き注目するべき時なのです。

 その時こそ経験によって主の慈しみ深さを自分のものにすることのできる時なのです。

 『わたしは常に主をほめまつる。』この新しい週の歩みが必ずや賛美で満ちることでしょう。


2016年8月14日礼拝説教

 

          「触ったのは誰か」          ルカ8章43〜48節

 

 8:43ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。

8:44この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。

8:45イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。

8:46しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。

8:47女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。

8:48そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

         ルカによる福音書 8:43~48

 

 長血の女の癒しは、瀕死の愛娘の救いを懇望する会堂司ヤイロの緊急の要請に主が応じた途上の偶発的な出来事だった

 ヤイロの娘が急患であれば女は慢性患者であり本来なら後回しにされて然るべきである

 だが、この女が回復された後で、「 娘よ。」と呼びかけ神の愛を注ぎ出されている。神に愛されない者、後回しにされる者はない。

 女性特有の出血、しかも12年も続く病苦により肉体的苦痛のみならず治療で家計は破綻し、宗教的汚れの理由で社会的にも疎外されていた

 それにもかかわらず主イエスは彼女に確かな信仰をお認めになるあなたの信仰があなたを救ったのですと激励された

 身の汚れゆえに彼女は群衆にまぎれイエスの背後から衣の房に触ると瞬間に癒されてしまった主はその行為の奥に彼女の信仰をご覧になられた

 彼女は「衣のすそに触れさえすれば癒されると心中で考え口で告白して触っていた

 男性の衣の房は特殊な規定に基づいていた(民数記15:38,39)房を観ることが神の言葉を想起することにつながっている女が触れた方は受肉した神の言葉そのものだったヨハネ1:12)

 女が触れたのではあるが実は主イエスに触れられたのだ。

 主は彼女が信仰をもって触れたことを知られる。「力が私から出て行ったのを感じた」と言われる。信仰により神の力が放出され彼女は瞬時に癒されたのだ。

 だが、問題が解決したにもかかわらず何故「私に触ったのは誰か」と敢えて問われただろうか。

 イエスはそれで十分ではないと考えられた。本当の問題は病気以上に神との関係が正常に回復されることなのであると

 女が伏してイエスを拝し、公に告白したときに、彼女は人としての本来のあり方を取り戻させられたのである

 主はあなたを愛され、あなたの必要に答えられる。だが、主は更に個人的人格的な交わりへと招かれる。

 感謝して御前に進み出ようではないか


2016年8月7日礼拝説教

 

          「幸せなら態度で」         詩篇47篇1〜9節

 

聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌

47:1もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ。

47:2いと高き主は恐るべく、全地をしろしめす大いなる王だからである。

47:3主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。47:4主はその愛されたヤコブの誇をわれらの嗣業として、われらのために選ばれた。〔セラ

47:5神は喜び叫ぶ声と共にのぼり、主はラッパの声と共にのぼられた。

47:6神をほめうたえよ、ほめうたえよ、われらの王をほめうたえよ、ほめうたえよ。47:7神は全地の王である。巧みな歌をもってほめうたえよ。

47:8神はもろもろの国民を統べ治められる。神はその聖なるみくらに座せられる。47:9もろもろの民の君たちはつどい来て、アブラハムの神の民となる。      詩篇 47:1~9

 

 1964年の東京オリンピックの年、人気歌手の坂本九さんにより広まったフォークソング「幸せなら手をたたこう」の原作者は、当時25歳の早稲田大学院生だった木村利人さんでした。

 木村さんがその詩のヒントを詩篇47篇1節『もろもろの民よ、手を打て』から得たとは驚きです。なぜなら、その幸せの根拠がこの詩篇で明らかでもあるからです。

 この詩篇のテーマは主なる神の王権です。万物を創造された主が主権者であり全地の王であることが賛美されます。

 罪により堕落した人類の歴史は、人間の権力で世界を制覇し支配しようとする試みでもありました。

 アレキサンダー然り、ジンギスカン然り、豊臣秀吉は中国を制覇しようと朝鮮半島に派兵しています。現人神天皇による世界制覇を目指し、太平洋戦争に軍部を駆り立てたのは日蓮主義から造られたスローガン「八紘一宇」でした。その結末の悲惨さは言うまでもありません。

 しあわせは人間の政治力、武力による統治によっては実現しません。

 全宇宙を造り、人間を神に似せて造られた主なる神に支配されるとき経験されるべきものです。

 この生ける王なる主が土塊に過ぎない私たちを深い計画をもって予知予定し、キリストにあってお選びくださいました(エペソ1:3-5)。神の子にしようと先行して選んでくださったとすれば、それこそ「ありがたき仕合せ」でしょう。

 木村さんが「幸せなら態度で示そうよ」と歌うとき「幸せ」の漢字の由来は象形文字であって「手枷、手錠」です。犯罪を犯して手錠はめられ捕えられ罰せられる姿です。

 それは「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって(ローマ3:23)」いる自分の姿そのものではないだろうか。

 幸いとは、主の十字架により罪赦されることです。主が手枷を外して私たちを無罪放免されたのです。

 さあ!感謝し「手をうち」主をほめたたえましょう。