2016年9月礼拝説教

2016年9月25日礼拝説教

 

          「迷い出した一匹の羊」         ルカ15章4〜7節               

 

15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

15:5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、

15:6家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。   ルカによる福音書 15:4~7

 

 この迷い出た一匹の羊の譬えは、取税人や遊女との食事を批判する人に対してイエスが語られた。

 何故この一匹は安全な羊の群れから迷いでたのであろうか。羊は素直で従順で優しさのシンボルのようだ。果たしてそうだろうか。

 私がドイツのデュッセルドルフ市を流れるライン河畔の広い牧場に放牧された羊の群れを観察した時、たまたま群れから離れて草を食む一匹の羊がいるのに気づいた。

 その羊を連れ戻そうとするかのように群れから別の一匹が近づき、ついてくるよう働きかけているようだったが、離れた一匹は容易に動こうとはしなかった。

 その羊はわがままで自己中心的な頑固者であった。その迷い出た一匹の羊こそ、実は神の前における私自身であることに気づく。

 私は上智大学でドイツ語を専攻、ドイツで仕事ができる会社をあえて選択、当時の東ドイツに駐在社員として実質6年勤務することになった。

 その間にドイツ人の女性歯科医と巡り合ったが、自分が単身帰国している間に、通り魔に殺害されてしまった。私はドン底に突き落とされ、酒に溺れ荒んだ10年を過ごしていた。

 そんなある日一枚の集会案内チラシを目にし、初めて聖書の救いのメッセージを聴いた。そこでイエスを救い主として受入れることができたことは恵みであった。

 今思えば主が迷い出た羊のような私を探し出して救ってくださったのだと感謝している。

 真面目だから、品行方正だから、正直だから救ってくださるのではない。救いは神の恵みであり、恵みとは、何の功績も無い、それに価しない者に対する神様の愛の行為なのだ。

 救われるために何かしら善行をせよとか、成績を出せと聖書は言わない。

 主は言われた、「人の子が来たのは失われた者を尋ね出して救うためである」と。こんな罪深い私を「わたしの目に高価で尊い」と主は愛してくださる。

 なんと感謝なことではないか。  (長 和男師)


2016年9月18日礼拝説教

 

          「見よ、神の小羊」         ヨハネ1章35〜42節

 

 1:35その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、 1:36イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。

1:37そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

1:38イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。

1:39イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。1:40ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。1:41彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。 1:42そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。

      ヨハネによる福音書 1:35~42

 

 「初めに言があった」の発句に始るヨハネ1章は、天地創造に次ぐ神の第二の創造を告げる。

 19節からの一連の出来事は七日の間に起こった。それはキリストの教会の創造である。

 ここに登場する三者に共通する一点がある。二つのものを繋ぎ合わせる結合者である。控え目で目立たない働きではあるが、最も好ましく麗しい。

 洗礼者ヨハネは神の民をキリストに結合した。

 主イエスは人類を神に結合される。

 そしてアンデレは兄弟シモンをイエスに結び合わせた。ヨハネがイエスを『見よ、神の小羊』と指し示すや、二人の弟子は師事したヨハネを離れイエスに従う者となった。

 指導的立場にある者は人を自らにではなくイエスに結びつける者でありたい。

 イエスこそ永遠の存在、人格ある生ける神であり、にもかかわらず自ら卑しく人となり、罪の赦しを得させるために十字架の祭壇に神の小羊として犠牲になられた。

 この方に永遠のいのちがある。この方がついて来る二人に『何を求めるのか』と問われる。人は自分の人生で何を探し求めているのだろう?この鋭い問いかけに誰しも答えねばならない。

 富か名誉か不老長寿か?

 二人は意外にもイエスの宿舎を尋ねた。『その日はイエスのところに泊まった』夕暮れ迫る頃、彼らはイエスと多くの時を過ごし交わりたく同宿を求めたのだ。

 イエスのところに『泊まる』!何と味わい深い言葉であろうか。

 その結果、アンデレは翌日、兄弟シモンを探し、彼をイエスに連れてきた。イエスは彼をご覧になり『あなたをケパと呼ぶことにする』と言う。イエスは教会の将来を担う土台の岩を見つけられた。

 アンデレのさりげない紹介の行為の意味するところは大きい。

 家族伝道はいつでも容易であるとは限らない。だが私たちに与えられた尊い使命であるとすれば、結果を委ねて、愛する家族の救いのため祈り証しするものとなりたい。


2016年9月11日礼拝説教

 

          「目を上げ畑を見よ」         ヨハネ4章27〜38節

 

4:27そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。

4:28この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、

4:29「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。

4:30人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。

4:31その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。

4:32ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。

4:33そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。4:34イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。

4:35あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。

4:36刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。

4:37そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。

4:38わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。

           ヨハネによる福音書 4:27~38

 

 キリストに触れられると人は誰でも変えられます。誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られたのです。主イエスは人を新しい存在へ変えるため行動されます。

 ユダヤからガリラヤへ移動するのに遠回りしてでもサマリヤ村を通過されたのは主イエスがひとりの女を意図して変えようとされたからです。

 水瓶を頭にスカルの井戸に来た女は、ゆきずりの旅人とおぼしき人物から自分の歪んだ個人生活がむき出しにされ、その結果、神が遣わされたメシヤであるとの確信に導かれるとその人生は一変させられてしまった。

 のけ者扱いされ、生活の破綻から人間不信に陥った彼女は、あまりの感動ゆえに水瓶を置き忘れ、村里に走って自分の発見を村人に伝達した。

 自らの経験を他者と分つとき、それが確かなものとなる。神は今日もこのような活きた証人を必要とされる。

 村里に去った女と入れ違いに、戻ってきた弟子達は、ユダヤ人の禁制を破って路上で女と語るイエスが不思議だった。差出す昼食とは別な知られざる食べ物があるとの発言には戸惑ってしまった。

 主イエスはこの一件によって弟子達の時代意識を全く新しくしてしまった。「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。」すなわち、世界は神の畑であり、神の畑は収穫の季節であると。

 イエスは神から種蒔く人として遣わされた。弟子達は、ひいてはやがて誕生する教会は、収穫の季節に刈取る人として召していることを明らかにされたのだった。

 事実、あの女の後からはぞくぞくと村人がイエスに来ようとしていた。弟子達は彼らを迎え入れイエスを信じ受入れ救われ成長するために手伝うよう期待されていたのだ。

 このサマリヤの構図こそ、今まさに私たちが泉佐野において置かれている立場に妥当している。

 主イエスの視点で自分たちの町を見、収穫の季節と自覚し、刈取り人とさせていただきたい。


2016年9月4日礼拝説教

 

         「パンを水に投げる」           伝道の書11章1〜6節

 

11:1あなたのパンを水の上に投げよ多くの日の後あなたはそれを得るからである

11:2あなたは一つの分を七つまた八つに分けよあなたはどんな災が地に起るかを知らないからだ

11:3雲がもし雨で満ちるならば地にそれを注ぐまた木がもし南か北に倒れるならば、その木は倒れた所に横たわる

11:4風を警戒する者は種をまかない、雲を観測する者は刈ることをしない

11:5あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。

11:6朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。       伝道の書 11:1~6

 

 「あなたは知らない」。短い章節に4回繰返されるこの言葉は、人は生きる人生を完全に見通おすことができず不確実さに生きることを強調する。

 1節「パンを水の上に投げよ」だれがパンの行く末が分ろうか。

 2節「どんな災いが地に起こるかを知らない」

 3節「雲が雨で満ちるなら、、、地にそれを注ぐ」「木が倒れるならば、、、横たわる」4節「風を警戒する者」「雲を観測する者」これらの文言は現代の高度な気象予測技術を思い起こさせはするが、それにもかかわらず台風や地震に翻弄される現実を否定することはできない。

 5節「身ごもった女の胎の中で」何が起こっているのか、これも優れた超音波測定器機や医術によって詳細が知られてきてはいるが、本質的には生命の神秘は人の手の届かぬところにある。

 6節 農家の種蒔きも然り。種は蒔くことは出来てもそれを確実に作用させることはできない。

 だがそれは現実世界の闇の部分であって、ここに私たちは光のメッセージが5節の否定的な言い方ではあるがそこに輝くのを観る。

 『あなたは、すべての亊をなされる神のわざを知らない。』人が見通おすことが出来ない人生に生きて動き働かれる神がおられる。

 神は何と「すべての亊をなされる」のだ。神のみ許しなしには何亊も起こりえない。

 「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」一寸先は闇であるかのような人生をどう生きるべきなのだろう。

 聖書は、神を信頼して大胆に計画を立て積極的に生きよ、と教える。

 「あなたのパンを水の上に投げよ」海洋貿易商人は危険を承知で投資する。しなければ利益はない。神を信頼して大胆に生きる人生の冒険へと主は私たちを招かれる。安定志向で自己中心になり萎縮してはならない。

 主に信頼して目をあげて前進する者に神は約束し祝福してくださる。