2017年10月礼拝説教

10月22日礼拝説教

 

           「一歩退却二歩前進」     IIコリント12章1〜10節

 

12:1わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。

12:2わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。

12:3この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――

12:4パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。

12:5わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。

12:6もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。

12:7そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。

12:8このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。

12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

12:10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

                            コリント人への第二の手紙 12:1~12

 

「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」このパウロの確信は逆説です。

 一見矛盾した真理なのです。

 パウロがギリシャのコリントに教会開拓して去った後に偽教師が侵入して荒らしたばかりか、彼らは辛辣に彼を批判しました。

 自己弁護のために特殊な体験を語らざるを得なかったのですが、本心からは語ることは避けたい内容でした。人に買い被られるからです。

 霊魂が肉体を遊離し、パラダイスに携挙され幻と啓示を得るという特別体験です。彼は神の御座に近づくことが許されました。誰でも経験できることではなく、熱心に求めるべきでもありません。

 この使徒パウロの経験によってより確かな事実は、イエス様を受け入れた聖徒たちがやがて必ずパラダイスに、神の御許に引き上げられることです。

 ところがこの異常な肉体遊離を体験したパウロは、苦痛を伴う苦しみで常に悩まされていました。彼はその苦しみを「わたしは肉体に一つのとげが与えられた」と表現します。それが何を意味したのか諸説があります。恐らく熾烈な病気だったでしょう。

 彼はその癒しのため再三祈りました。聖書は主の御名により病いの癒しを祈るべきことを教えます。信仰による祈りは必ず聞かれるからです。しかし、パウロの場合は癒されませんでした。

 癒されないことも祈りへの神の答えでした。

 その肉体のトゲは、人並み以上に優れた啓示を与えられたパウロが高慢にならないための恵の手段であったのです。主は「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」とその意味を明かされました。そこから前述のパウロの確信が生まれたのです。

 「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」そうです!パウロの使徒として、またクリスチャンとしての輝かしい生涯の全ては、彼の生来の強さの結果ではなく、主イエス・キリストの力の現われとなるためだったのです。それゆえに神の栄光が表されたのです。

 私たちもまた、この逆説の真理に生きることができます。

 自分の弱さを率直に認め、神の前にへりくだる者に、水が低い所に流れるように、神の恵みが注がれるのです。


10月8日礼拝説教

 

           「生ける神に仕える」        I列王17章1〜7節 

 

17:1ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。

17:2主の言葉がエリヤに臨んだ、

17:3「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。

17:4そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。

17:5エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。

17:6すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。

17:7しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。  列王記 上 17:1~7

 

 10月1日の午後、私たち総勢6人は車に分乗し、岸和田市内の介護施設に一姉妹を訪問しようと国道を走った。

 ところが岸和田市内は、だんじり祭りの試験走行の真っ最中、至る所進行が妨害された。だが思いがけない仕方であっという間に施設に到着、帰路も道が見事に確保された。

 その時、私の心を占有したのは『主は生きておられる』との感慨だった。

 預言者エリヤはイスラエル史上最悪のアハブ王に対峙し、『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます』と断言した。

 「主は生きておられる」とは誓約時にする文言。神にかけて誓う、それは約束を破るなら呪われ殺されることも覚悟の上であることを意味した。

 主は、人間が捏造した無能な偶像と全く違う、生きておられ、行動し、活動し、働いておられる。「わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もない」エリヤの宣言は神が天然自然現象をも支配される方であることを意味した。

 アハブ王の反発を受けて殺害されるかもしれないエリヤに、ケリテ川に身を隠すよう支持した主は、カラスに命じて彼を養われた。

 主が、カラスばかりか、ザレパテの貧しいやもめ女によってでもエリヤを養われた事実は、主が養う神、生存の保障者であることを啓示する。

 やもめ女の病死した息子を、エリヤが神に呼ばわり蘇生させた事実は、主が人間の生死を支配される命の神であることをも啓示する。

 エリヤは主が語られると黙々と従順した。ケリテ川に行き、ザレパテにも移動した。

 生ける神を深く体験する秘訣がここにある。いかに人間的に不合理に見えても従順に行動することにある。

 「あなたの神、主は生きておられます」と信仰を他人事としたかに見える貧しいやもめも、主を第一とした瞬間に生ける神を体験させられた。

 最後の一個のパンを食べて息子と死のうとするが、そのパンを神の人エリヤにまず提供すると、不思議や『かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』との約束が現実となった。

 個々人の置かれた状況は違う。だが生ける神、主に変わりはない。

 生ける神に信頼しよう。


10月1日礼拝説教

 

           「最高級の買い物」      マタイ13章44〜46節 

13:44天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。

13:45また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。

13:46高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。 

                    マタイによる福音書 13:44~46

 

 主は天国を畑に隠された宝に譬えられた。

 天国とは神の国の別表現であり、神の支配に従い神と共に生きる生活を指します。それは絶大無比な至宝なのです。

 その真価はローマ14:17に明らかです。「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」すなわち、神と共に生きる生活とは、神との正しい関係であり、そこに平和と喜びがある。

 ローマ5:5によれば、その喜びは聖霊により注がれます。神と正しい関係に生きる者に対する神の愛を聖霊が証ししてくださるのでこの上ない喜びが彷彿と湧き上がるというのです。

 体育教師だった星野富弘さんは、若い日に鉄棒から転落して全身麻痺に陥り絶望の淵に立たされました。

 主イエスを受け入れた経験を詩画に表してこう証ししました。『いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しくなった』

 この世の命はある意味、病気で、死別で、挫折で、老化で削り取られていくものと言えます。

 星野さんが知った「いのちより大切なもの」とは主イエスによる救いであり、神に愛されていることを自覚しつつ神と共に生きる生活でしょう。

 畑に隠された宝は偶然に発見されました。

 続く高価な真珠は長年探し求めて努力した真珠商人に発見されます。

 ある人は偶然のように神の国に入ります。別な人は求め求めて入るでしょう。どちらにせよ、神の恵みの計画のうちに人は神の国を宝として発見させられるものです。

 偶然発見した人も、真珠商人も、発見するや「持ち物をみな売り払って」買い求めています。

 しかし、人が罪赦され神との正しい関係に入る恵みは、どんな代価を払っても買うことはできません。ただ主イエスの十字架の命の犠牲によって恩寵のうちに与えられるものです。

 神の愛はただ感謝し喜びつつ受け取るだけでよろしいのです。私たちはこの恵みに入れられ神を礼拝するのです。

 喜び歌いつつ礼拝するのです。それは比較しようのない価値をそこに見出したからに他なりません。