2017年1月礼拝説教

1月29日礼拝説教

 

        「競走の最終走者」             ヘブル12章1〜3節

 

12:1こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

12:2信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。

彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

12:3あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。               へブル人への手紙12:1~3

 

 ここで私たちは「競走に参加して走ろうではないか」と促す呼びかけが聞えてきます。競走と言っても信仰生活のことです。

 主を信じる人生はレースを走るようです。ところが、明らかにされたレース参加理由によれば、このレースはリレー競走のようであり、しかも私たちは最終ランナーに相当するというのです。

 1節の雲のように私たちを囲む多くの証人とは、アベルから始る前章に列挙された古代の聖徒たちのことで、私たちは彼らからバトンタッチされ、私たちが完走しゴールインすることによって、このレースが全うされるのです。

 彼らが目指し、私たちも目標とするゴールは「天の故郷」神の都です。

 私たちのこの地上生涯は旅人であり寄留者なのであって、この短い地上生涯を終えたなら主が備えてくださる天の父の家に住むことになるのです。

 その信仰により生きるレースを確かなものとするため、より優れたものとして神はイエス様を信仰のモデルとして備えられました。

 神の御子であるにもかかわらず人となられ私たちと同じ困難な現実を信仰により全うされ、主は昇天し父の御座の右に座し、完走されました。

 イエスは信仰の創始者であり完成者なのです。

 イエス様の完走は私たちが必ず完走できる保証です。

 ランナーは身軽であることが必須条件です。信仰生活の障害となる不必要な重荷とからみつく罪を脱ぎ捨てなければ走れません。

 走り抜くのに忍耐が求められます。信仰生活は決して安易な気休めではありません。主イエスが十字架を耐え忍ばれたように、私たちも個々の種々なる困難を耐え忍ぶのです。

 信仰生涯で直面させられる苦しみを私たちの霊の父である神が訓練として与える試練と受けとめることです。

 愛するが故に父なる神は、私たちを清め整えるために懲らしめられます。

 空腹を満たすために目の前の一杯の煮豆で特権を軽んじたあのエサウの二の舞に陥らぬよう注意が肝要です。

 「イエスを仰ぎみつつ」忍耐深く走りぬくことにしましょう。


1月15日礼拝説教

 

       「心の鈍化を防ぐ」              ルカ21章29〜36節

 

21:29それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。

21:30はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。

21:31このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。

21:32よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。

21:33天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。

21:34あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。

21:35その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。

21:36これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。          ルカによる福音書21:29~36

 

 主イエスはエルサレム神殿の外見の荘厳さに見とれていた人々に、その崩壊を予告されたが、40年後のAD70に、その日は事実到来している。

 主は「その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように」と警告された。21章全体から『その日』が、エルサレム滅亡の日であるとともに、やがて全人類に臨む宇宙滅亡の日をも指し示されていることが分る。

 荘厳な神殿の崩壊が想像すら出来なかったように、人類宇宙の滅亡など通常、私たちの念頭にはない。だが、私たちは賢明に神のご計画に目を覚ましていなければならない。

 心を霊的に鈍らせ眠らせる要因を、放縦、泥酔、世の煩いだと主は指摘された。

 酒に酔えば思考は麻痺する。それ以上に生活の煩いが人の心を鈍くしてしまう。

 衣食住を整え、職務奉仕を忠実に果し、結婚生活の責任を最後まで全うすることは当然であるが、それが最優先課題として心配りをするなら、心の鈍化を招く危険があると、聖書は警告する。

 世の終わりは人類の罪に対する神の審判だが、同時に主イエスの約束された再臨の日、救いの完成の日でもある。その日がいつであるかは誰も知らされていない。

 その日までの期間は、隠された神のご計画によれば教会の時代である。神がキリストにより成し遂げられた十字架の救いを証しし世界に福音を宣教する機会なのだ。

 心が煩いにより鈍くなるとき、人は短い一生の存在理由と目的を見失ってしまう。

 主は「わたしはすぐに来る」と約束された。愛する主イエスの前に立てるよう心が鈍くならないために目覚めて祈り、日々に御言葉に傾聴することが鈍化の予防となる。

 マルタは主と弟子たちの接待で忙しくし心を乱してしまった(ルカ10:40)が、主は彼女を優しくいさめ、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」と主の言葉に耳を傾ける必要性を教えられた。

 今年も世界情勢は混沌とし、個々人の生活も多事多難となるかもしれない。

 目覚めて祈り備えていよう。


1月8日礼拝説教

 

        「新年と神の祝福」        申命記11章11、12節

 

11:11しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。

11:12その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。         申命記11:11~12

 

 只今紹介された長屋 勇であります。この度はお招きいただきご奉仕できる恵みに感謝しております。

 私は、阪口寿美子先生が泉佐野福音教会を開拓された50年前には、大阪の池田市で牧師をしておりましたので数年間ですが協力させていただく機会がありました。その当時に信仰に導かれた兄弟姉妹たちとこのようにまた再会できて嬉しく思っております。

 今日は、申命記11章11,12節より「新年と神の祝福」と題してお話しさせていただきます。

 主はその民に定住する地を与えると『その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。』と約束されました。それは一年を通して神が祝福されるという意味であります。

 この新しい年の始めには、日本中の神社仏閣に数千万の参拝客がにぎわい、神々にお賽銭を投じ、願い事をすることによって御利益を受けようとします。

 私たちは今日、人間の造りだした空しい偶像ではなく、天地の創造者なる唯一まことの神様に、教会で礼拝することにより、この新年が祝福されていることを確信することができます。

 あちらこちらで地震や大火によって一瞬にして財産を失った方々が多数ありました。神様が約束される祝福は、どんな天変地変が起こっても失われることはありません。

 エペソ1章3〜14節によれば、それが、キリストによる神の選び、罪の赦し、神の子とされる永遠の祝福だと知ります。

 罪深い私たちを恩恵と憐れみによって十字架のゆえに赦し、驚くばかりの身分を私たちは賜わり祝福されているのです。きっとこの新しい年にも、私たちを戸惑わせるような困難や壁に直面することがあるかもしれません。

 しかし、慈愛に富める父なる神様は、常に共に私たちといてくださり、ひとりひとりにふさわしい恵みを施し、かならずや安全に導いてくださるに違いありません。

 私自身の80数年の人生を回顧し、あれもこれも神様の祝福であったことが分るとき感謝に絶えません。主を賛美しましょう。  (長屋 勇師)


1月1日礼拝説教

 

       「新年希望の所在」            黙示録21章16〜21節

 

21:16都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。

21:17また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。

21:18城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。

21:19都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、

21:20第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。

21:21十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。            黙示録21:16~21

 

 名将毛利元就は「一年の計は元旦にあり」とはよく言ったものです。計画は目標達成のため、目標には実現したい希望がかかっています。

 ところで一年の希望の所在をどこに求めるべきだろう。聖書の最後の章で主イエスは『わたしは直ぐに来る』と三度確言された。

 神のご計画の焦点はキリストの再臨です。これこそ未来に期待される希望であり、すべての計画の目標はこの希望に照準をあわせるべきでしょう。

 主イエスは『わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。』と、ご自身が完全、無限、そして権威ある者と啓示された。

 また『わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である』と開示され、金星が朝の到来のしるしであるように世界の永遠の夜明けをもたらされる方であります。

 この大いなる主イエスの昇天の結果、この世には不在となったのではない。その御名もインマヌエルであるイエスは、『いつまでもあなたがたと共にわたしはいるのです』と約束され、助け主として来られた聖霊のご人格において、私たちと共に常に臨在してくださいます。

 私たちの希望はこの主が見えるかたちで再臨されることにあります。

 『すぐに来る』と言われる主イエスは思いがけないときに突然来られます。いつ来られてもよいように、預言のことばに精通し目をさましていること、しかも、報いを携えて来て私たちのしわざに報いようと言われているのですから、人が見ていようがいまいが愛の奉仕のわざに忠実でありたいものです。

 キリストの花嫁なる教会は、花婿なるキリストの到来を「主イエスよ、きたりませ。」と心注いで待望し、この世に向っては「渇いている者は来るがよい」と人々を招き福音を宣べ伝える責任を果すことが求められます。

 主イエスにだけ心の渇きを癒すいのちの水があります。

 主の年2017年はこの希望と緊張感のうちに歩むときに意義ある一年となることでしょう。