2017年2月礼拝説教

 2月26日礼拝説教

 

        「お言葉ですから」          ルカ5章1〜11節

 

 5:1さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、

5:2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。

5:3その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。

5:4話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。

5:5シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。

5:6そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。

5:7そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。

5:8これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。

5:9彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。

5:10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。

5:11そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。  ルカによる福音書 5:1~11

 

 多くの人々が神の言葉を聴こうと、ガリラヤ湖畔のイエス様に詰めよりました。

 その神の言葉の偉大さは、ペテロの仕事場で発揮され、しかも彼の応答の一言、「お言葉ですから」をきっかけに起こりました。

 意想外なイエス様の勧告に従い、沖へ漕ぎだし網を下ろした結果、ペテロは驚異的な大漁を経験をさせられます。

 これは人間が神に造られ、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる力強い証しでしょう。

 神はこの終わりの時代に御子イエス・キリストによって人に語りかけられます(ヘブル1:1)。

 ペテロは自らの職業生活のただ中で経験したこの大漁事件によって、イエス様が主なる神であることを悟ることができたばかりか、自らの罪深さをも自覚することとなり、一段と信仰の深みへと漕ぎだすことができました。

 前夜の不漁で落胆していたペテロへの主の勧告に対して、根っからの漁師職のペテロにどれほどの信仰があったのでしょうか。かろうじて「お言葉ですから」と漕ぎ出しはしたものの、確たる期待感があったのかどうか疑問です。

 網が破れんばかり、船が沈まんばかりの大漁を眼前に目撃したペテロは、自らの内なる不信仰をも直視させられたに違いありません。

 しかしながら、市井の無学なただ人であった漁師ペテロが神の言葉の生きた体験者として私たちの前に置かれたことは、大きな恵みであります。

 私たち自身をペテロに重ね合わせ、私たちも「しかし、お言葉ですから」と神の言葉の偉大さの経験へ導かれる可能性があるからです。

 ペテロは置かれた現実的な不漁という状況を分析した上で、「しかし!」と言い得たことは幸いです。「お言葉ですが、でもしかし」ではありません。

 困難な現状を弁えた上で、「しかし、網をおろしてみましょう。」と実行したのです。信仰的な「しかし」は全く新しい状況へと事態を展開させる「ちょうつがい」となります。

 自分の生活のただ中で、「しかし、お言葉ですから」と主に応えたいものです。 


 2月19日礼拝説教

 

         「傍観者か歓待者」          ルカ19章1〜10節

 

19:1さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。

19:2ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。

19:3彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。

19:4それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。

19:5イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。

19:6そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。

19:7人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。

19:8ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。

19:9イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。

19:10人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。  ルカによる福音書 19:1~10

 

 高い位置に立つと、低い位置からは見えないものが見えるものです。

 背丈の低いザアカイが群衆に遮られ、やむなくよじ登った桑の木陰から見えたのは、そこをまさに通り過ぎようとされるイエスでした。

 その桑の木の下で立ち止まったイエスは、彼にじっと注目され、その名を呼び、その晩に彼の家に泊まる予定にしていると語られました。

 それはザアカイのすべてを知り尽くし、何としても探し出して救い、親密な人格的交わりを望まれる慈愛に満ち満ちたイエスの眼差しでした。

 イエスを見たいザアカイの必然性に、ザアカイを救いたいイエスの必然性が、桑の木を接点に合致した瞬間でした。その意味で、桑の木は恵みの手段の役割を果たしていたと言えます。

 わたしたちは神様の恵みを受け取る手段が必要です。煩瑣な日常生活から教会の礼拝に出席する、諸集会に出てみる、日本中から大勢が参加する年に一回の全国聖会に参加する、その他にもザアカイにとっての桑の木に相当する恵みの手段を積極的に活用するときに、想像と期待を上回る豊かな主イエス様との出会いの経験に導かれるものです。

 それまでのザアカイは、恐らく自分の職業生活に生き甲斐を求め、それなりの満足感を得ていたにちがいありません。しかしながら、彼の耳に次々に入ってくるイエスにかかわる情報により、彼は単なる傍観者から観察者に変わったのでしょう。

 彼の魂の奥深くにあった霊的な渇きが、この瞬間に癒されたのです。

 イエスの愛の招きはザアカイに大いなる喜びを生み出し、彼は急いで木から降りるや、イエスを客として歓待する者になりました。

 その結果、彼は人格の根底から変革させられ、全く新しい主イエスとの生活に導き入れられることになりました。それは、回転軸をしっかり固定し、川の流れを受けて、流れの方向とは反対に回転する水車のようです。

 私たちはこの世の流れに身を任せつつ、世の流れに流されることなく、その責任を果たす者となりうるのです。


2月12日礼拝説教

 

        「歴史主導の権威」            イザヤ43章8〜13節

 

 43:8目があっても目しいのような民、耳があっても耳しいのような民を連れ出せ。
43:9国々はみな相つどい、もろもろの民は集まれ。
彼らのうち、だれがこの事を告げ、さきの事どもを、われわれに聞かせることができるか。
その証人を出して、おのれの正しい事を証明させ、それを聞いて「これは真実だ」と言わせよ。
43:10主は言われる、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。
それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。
わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。
43:11ただわたしのみ主である。
わたしのほかに救う者はいない。
43:12わたしはさきに告げ、かつ救い、かつ聞かせた。
あなたがたのうちには、ほかの神はなかった。
あなたがたはわが証人である」と主は言われる。
43:13「わたしは神である、今より後もわたしは主である。
わが手から救い出しうる者はない。
わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。        イザヤ書43:8~13

 

 今日午後に前年度の決算総会を控えている。大げさな表現かもしれないが歴史を回顧し、神の恵みに感謝し栄光を帰する営みと言える。

 紀元前数百年のユダヤの民は激動する大国の狭間に翻弄されていた。

 預言者イザヤは、法廷をイメージさせる仕方で『わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう』と、主の言葉を預言した。

 主なる神は歴史を貫き働き、行為し、動いておられる。歴史の主導者は主なのだ。

 8節で諸々の民が法廷に証人として喚問されている。国々の偶像と主のどちらが真の意味で歴史の主導者であるか、証人達に証言させよと指示されたのだ。

 だが偶像崇拝者からの証言は無い。当然である。偶像なるものはそもそも架空であって存在しない。

 主は、イスラエルを「わが証人」とされた。「わたしは神である」と顕現される神の真実性は、歴史の現実においてのみ実証される。

 BC598にイスラエルはバビロン帝国に滅ぼされ、BC538にバビロンを打倒したペルシャのクロス王により解放された。この王の出現を予見するのみならず、王を出現させたのは主である。

 私たちはここに歴史の主導者が主なる神だと分る。イスラエルが当時の主の証人であったように、現代においては私たちが証人として選ばれている。

 そうあるべく取り立てて優れて立派で倫理的に卓越しているからではない。むしろあの民が「目があっても目しいのよう」であったように霊的には疎い。

 ただ、キリストの血によって贖われ主の所有とされ、選ばれ愛され特別に神を生活のただ中で体験するよう扱われているからに他ならない。

 そして私たちの証言を聴く者たちをして「そのとおりだ」と言わしめるよう、私たちは主の証人として期待されている。

 そのような活力ある証言は、自分の個人史である現実生活でイエス様を「わが主よ」と人格的に認識することによって可能となる。

 自分が主を信じ得たのは、身近な誰か証人の証言の結果だとすれば、この証言の輪を広げる責任がありますまいか。


2月5日礼拝説教

 

        「主の御腕の啓示」            イザヤ53:1〜6

 

 53:1だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
53:2彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、  彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。           イザヤ書53:1~6

 

 『主の腕は、だれにあらわれたか。』それは並行する前句により、語られた使信が聴かれ信じられることを意味する。

 その使信とは、「主のしもべ」に関る良きおとづれのことである(52:1352:13-53:12は「第四の主のしもべの歌」と呼ばれる。

 このイザヤ預言の七百年後に、伝道者ピリポがエチオピアの宦官に、この「しもべ」こそ主イエスであると説き起こしている(使徒8:35)。

 「しもべの歌」とはメシア預言であった。そこには見事に来るべきメシア像が描かれている。その生立ち(53:2)その容貌(2)その疎外状況(3)その苦難(4)そのもたらす成果(6)。それは人間の姿を採られ、十字架に贖罪のためにご自身を犠牲として捧げられた御子イエス・キリストにおいて、完全に成就している。

 主イエスは、迷える羊のような罪深いわれわれのために苦難を耐えられたのだ。

 腕は力の象徴であり、キリストの福音が信じられる者には、神の力が経験させられる。

 信じる者は、迷いから解放され神に立返らされ、その罪のすべてが赦され、歪んだ人間性が回復させられ、神の力によって心身の病いすら癒される。(マタイ8:14-17)神の力は今なお変ることがない。

 『主の腕は、だれにあらわれたか。』この問いかけに込められた呼びかけがある。それは、神の力が現わされるためにわれわれの『足』が必要とされることだ(52:7)。

 使徒パウロはこの聖句を現代の宣教の要に据えてローマ10章15節に引用している。われわれは10:13-17を銘記すべきだ。

 信仰は聴くことから始るが、誰かが足を使って誰かに近づき語らない限り、福音を聴くことはない。教会が足の無い幽霊にならぬよう気をつけよう。

 主は『行って、すべての造られたものに福音を伝えよ』と負託された。

 主の御腕は、すなわち神の力は、福音を聴いて信じた者に現わされる。

 聴いたことが無かったと言う人がいないように、われわれの足を用いていただきたい。

 「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。(ローマ1:16