2017年3月礼拝説教

3月26日礼拝説教

 

        「重荷を負い合う」          ガラテヤ6章1〜5節

 

 6:1兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。

それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。

6:2互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。

6:3もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。

6:4ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。

6:5人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。      ガラテヤ人への手紙6:1~5

 

 キリストにある者は第一に人生の重荷を主に祈りのうちに委ねるように招かれる。

 主イエスはくびきを共にして私たちの重荷を担おうと手を差し伸べられる。私たちはそこで約束された平安と休息が与えられる。

 聖書はさらにキリスト者が十字架を担うことが弟子の条件だとも教える。

 「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。」主イエスは私たちひとりひとりに成させようとされる使命課題、いわゆる十字架を授けてくださる。自分に主が与えられる果すべき責任をそれが何であれ受けとめ生きるのだ。

 ところが、ガラテヤ6章2節では全く別な意味で「互いに重荷を担う」ことが勧告される。ここに教会の教会たるゆえんがある。

  教会のある人が罪過の中に陥っているのを、つまり自分でも気づかずに意図しない過失や過ちに陥っているのを、たまさか見つけるようなことでもあれば、見過ごさずに、網のほころびをつくろうように、回復されるよう柔和に優しく対処することを指している。

 主イエスは、山上垂訓で「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」とそのような対処が独善的なさばきとならないよう警告された。

 自分自身が同じ過ちに陥っていないか、他人を見下し誇りたかぶってはいないか、十分に吟味する必要がある。

 他者と比較し相対的に自分を誇る人は、とかく自分に甘く他人に厳しい。

 人を正す前に自らが聖霊に満たされて霊の人であるのか、それとも依然として罪の力に影響され ている肉の人であるのか、自己吟味することが求められる。

 何故なら柔和な優しい態度こそ御霊の実であるからだ。

 そして「互いに重荷を負い 合う」とは自分自身も誰かに担っていただくことであり、教会はそのようにして相互に助け合う共同体として機能することが求められている。


3月19日礼拝説教

 

         「世界一の宝石」        出エジプト記19章1〜6節

 

 19:1イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。

19:2すなわち彼らはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。イスラエルはその所で山の前に宿営した。

19:3さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、

19:4『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。

19:5それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。

19:6あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。        出エジプト19:1~6

 

 主はイスラエルの民に「あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう」と約束されました。

 ご自身にとって高価で、貴重で最も大事なものだと言われたのです。

 その理由は民が神に仕える祭司となる、かつ又、世界の万民に神を証言し、神を知らせる宣教の役割を担うものとなるからです。

 しかし、「宝となるであろう」であって「宝である」とは言われません。

 英国王室が所有する530カラットのダイアモンド「アフリカの星」は、世界一の宝石です。原石がアフリカで発掘され、不純物削除、鋭利にカットされ初めて宝石となったはずです。

 民のエジプト移住時は僅か70人のヤコブの家族でした。奴隷から出エジプトした430年後に、イスラエルの民になったときには200万人に増加しました。

 生まれながらに人を騙す邪な男であったヤコブが、神の御使いと格闘した結果、その名をイスラエルと改名された故事が、この民の歴史を暗示します。

 すなわち、神の特別な取扱いを受けて「宝の民となる」ということです。そして驚くべき真理は、今現在イエス様を主と信じる私たちの教会が、神の宝とされていることです。

 使徒ペテロは、「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。(第一ペテロ2:9)」と教会宛の手紙に明言しました。

 イスラエルを神が宝となるべく選ばれたように、私たちはキリストにあって選ばれています。(エペソ1:3

 主が民をエジプトの奴隷から解放された如く、私たちは罪の奴隷からキリストにより解放されています。

 民が主の鷲の御翼に載せられ荒野を無事に旅した如く、私たちはキリストの愛の見守りと導きにより生かされています。

 その宝の民となる条件はただ一つ主の御声に聴き従う生活に生きることです。

 情報化時代にあって、何よりも神の御声を聞き分け従う心構えが肝要です。

 そのために聖霊が私たちに内住されます。

 そのみ霊の思いと自分の思いが融合するとき私たちは宝の民となることでしょう。


 3月12日礼拝説教

 

          「一度だけの定め」        ヘブル9章23〜28節

 

 9:23このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。

9:24ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。

9:25大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。

9:26もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。

9:27そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、

9:28キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。  

             へブル人への手紙9:23~28

 

 果すべき責任がある、それが前週の主題でした。

 責任感とは、自分に与えられた任務、課題を果そうとする意識感覚です。実はその責任感の所在が、死後に定められた神の審判にあると明らかにするのがヘブル9章です。

 『一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている』死ぬこと、それは常日頃、考えることを避け意識の奥底に封じ込めたいとしても、厳然と定まる現実です。

 肉体に付随する苦痛、愛する者との離別、一切の喪失、死後への不安、死は恐怖の王、最後の敵です。人は何故死ぬのか?不老不死の術はないのか?

 聖書は、人間の神への罪が結果的に死をもたらしたと教えます。

 罪は毒針のように刺さり、死が人類に入ったのです。

 その死後に神の最後の審判が万人に待ち受けます。人目をかいくぐったとしても悪事は神の前に暴露され裁かれ永遠の刑罰に服さざるを得ません。

 しかしながら感謝なことに、一度だけ死に定められた私たちの救いのために、一度だけキリスト・イエス様が来臨され、十字架の一度だけの死によって、人類から罪の毒針を抜き取ってくださいました。

 キリストの十字架上の死は、罪の赦しをもたらす贖いの犠牲でした。

 それによって恐怖の王であった死は、安らかな眠りにその意味が変えられ、地上の寄留者、旅人である私たちが天の故郷にいたる開き戸となり、やがて愛する主イエス様が私たちを目覚めさせ、全く新しい身体へと復活させてくださるのです。

 十字架の故に罪赦された者は、最後に審判されることが排除され、むしろ、私たちの地上生涯での愛の労苦が、『善かつ忠なるしもべ、良くやった』とイエス様によって報われることになるよう定められていることは、何たる感謝なことでしょう。

 神に造られた人間としての私たちの責任感の所在は、義の審判に対する恐れからではなく、愛され赦され報われる神の子とされた恵みにあるのです。

 それがどれ程小さな愛の労苦であっても、目にとめ報いてくださる主の眼差しを受けて、日々の責任を果たして参りたいものです。


 3月5日礼拝説教

       

         「果すべき責任」            ローマ1章14〜16節

 

 1:14わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。

1:15そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。

1:16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。             ローマ人への手紙 1:14~16 

 

 初代キリスト教会の先覚者であった使徒パウロが、「わたしには、、、、果すべき責任がある。」と自分のキリスト者としての責任感の自覚を表明しています。

 責任とは平たく言えば、自分が引き受けて行わなければならない任務や義務でしょう。

 キリスト者として果すべき責任の第一に納税の責任があると、ローマ13章7節で指摘されます。払うべき税を誤摩化したり脱税することは市民としても非難されるべきです。

 キリスト者には、それがいかなる為政者であっても神が納める権威の源であるという認識の故に、市民共同体を維持する納税の責任があるということです。

 税金が適正に運用されているかどうかは厳正に吟味されるべきであり、不正に対しては断固として声を挙げる責任もあることを忘れるべきではないでしょう。

 税金は納税する意志があれば支払い切れる責任ですが、永遠に払いきれない責任があるとローマ13章8節は、それが愛の負債であると指摘しています。

 「互いに愛し合うこと」これは人間に課せられた責任です。

 私たちは、この責任の出所を律法ではなくキリストの新しい戒めに認めるものです。(ヨハネ13:34)

 私たちは命令されたから愛するのではなく、キリストに愛されたので愛する責任があると理解するものです。

 聖書の示す愛は感情ではなく行為です。

 人となった神の御子イエスは、私たちの永遠に償い得ない罪の負債を、十字架の死によって支払われました。それが神の愛なのです。

 その大いなる愛を受けた者として、隣人を益する愛の業をすること、それが愛の負債であります。

 その愛の実践を可能とするため神は助け主聖霊を賜りました。(ガラテヤ5:22)

 更に、その神の愛を宣べ伝える福音の宣教を私たちはキリスト者の責任として受けとめるものです。何故ならこの神の愛の福音は信じる者だれでも救う神の力だからです。

 4月の復活聖日には福音落語会が計画されます。この日本の文化的手段を通じて福音が市民に行き渡るため自分にできる行動をしたいものです。