2017年4月礼拝説教

 4月23日礼拝説教

 

          「ダビデの礼拝革命」          詩篇22篇3節

 

 22:3しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる
あなたは聖なるおかたです。       詩篇22:3

 

 主の臨在を切に求めた人として知られるのは、いうまでもなくイスラエル最大の王ダビデです。

 彼は羊飼いの生活の中で、一人で立琴を奏でながら、神の臨在が賛美の中に現れることを体験したことでしょう。彼が楽器を奏でる時、聖霊が働かれ、悪霊は逃げ去りました。

 このような主の臨在を知るダビデは、ペリシテ人によって当時奪われていた契約の箱をイスラエルに取り戻すことを誰よりも願っていた人でした。なぜなら、契約の箱は主の臨在の箱でした。

 ダビデは神の臨在の箱を恋い慕い、遂にエルサレムへと運び込みます。ところが、どうしたことでしょうか。ダビデはそれをもとあったモーセの幕屋の至聖所へと戻しませんでした。

 「彼はダビデの町に自分のために家を造り、また、神の箱のために場所を定め、そのために天幕を張った(15:1)」のです。いわゆるダビデの幕屋です。

 新しい幕屋を作り、当時の礼拝形式を大きく変えてしまったのです。大変なことです。そんなことをしてもいいのでしょうか。どうして神は、モーセの幕屋における礼拝形式のみを維持することなく、ダビデを通して新しい礼拝形式を始められたのでしょうか。

 モーセの幕屋には、イスラエルに神の律法、罪の贖いを教えるという重大な目的がありました。しかし、この形式の礼拝においては、生ける神と出会うという礼拝の本質が次第に失われ、命のない形式的な礼拝となってしまったのです。

 ダビデは、新しい幕屋、新しい礼拝形式の中で、自由に歌い、叫び、手を上げ、手を叩き、時には跳ねたり踊ったりし、新しい歌と新しい楽器を作り、神への愛を100パーセント表現したのです。

 罪の贖いのためご自身を一回限り十字架に犠牲とされた主イエスの故に、新約の教会はダビデの礼拝を継承しています。

 それゆえにパウロは「詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。(エペソ5:18)」と私たちに奨励しました。

 感謝にあふれて心から神に向って歌いましょう。(東京シティチャーチ スリヤ佐野一夫師)


4月9日礼拝説教

 

         「黙れば石が叫ぶ」        ルカ19章28〜40節 

 

 19:28イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。

19:29そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、

19:30「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。

19:31もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。

19:32そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。

19:33彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、

19:34「主がお入り用なのです」と答えた。

19:35そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。

19:36そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。

19:37いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、

19:38「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。
天には平和、いと高きところには栄光あれ」。

19:39ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。

19:40答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

            ルカによる福音書 19:28~40

 

  平和の王としてイエスは馬ではなしにロバで都に入城される。

 弟子たちは、道に上着を敷き、声高らかに讃美で主を迎える。

 そのとき、それを阻止しようとした敵対者に断固として言われた、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

 弟子たちの讃美は詩篇118篇26節に基づき、野辺の牧者たちへの天使のあの讃歌にも呼応する。

 詩篇は主へのハレルヤ讃美であり、讃美こそは神に対する人間の本分に違いない。

 イエスは主なる神によって来られた王、諸王の王である。

 イエスは天にある平和、神との和解をもたらすため十字架に向われた。

 イエスこそわれらの讃美を受けるにふさわしい。

 讃美の上手下手は問題ではない。真心から敬愛を込め誉めたたえたい。

 ところで私たちは、彼らが間もなく、なりを潜めて黙らされたことを知っている。

 イエスは逮捕され死刑宣告を受ける。磔刑に処せられたとき、弟子たちは離散逃亡せざるを得なかった。

 弟子の筆頭であったペテロでさえ、三度も主を否認し、讃美するどころか沈黙の穴にこもってしまった。

 だが、その暗黒の瞬間こそ、実は神が勝利されたことを知ろう。イエスの死と復活により、罪は処分され死は命に飲み込まれてしまったのだ。

 黙らされる悲運の時がある。だが、感謝しよう。常に主は勝利されていることを知ろう。そればかりか石は叫ぶようになる。

 石とは価値なき無用の代名詞、まさに弟子たちを指し示してはいまいか。ところが弱く価値なき石ころが叫ぶようになる。

 「石が叫ぶであろう」それは弟子たちの未来に対する確約であった。聖霊が臨むときに「わたしの証人となるであろう」と復活の主は預言された。

 復活の主に再会し、聖霊にみたされた弟子たちは、事実、叫びだしたのだ。感謝しよう!イエスが来られたことは神のおとずれの時なのであるから。

 イエスは今もさまざまな仕方で私たち個々人を訪ねてくださる。

 神のおとずれを見過ごさないようにしよう。主は蘇り生きておられる。

 主イエスを力強く、声高らかに讃美しよう。 


 4月2日礼拝説教

 

          「新生命に生きる」          ローマ6章1~4節

 

 6:1では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。

6:2断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。

6:3それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。

6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。

それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。     ローマ人への手紙 6:1~4

 

 水による儀礼は洋の東西を問わず諸宗教に観られるものです。

 しかしながら、教会が授けるよう主が聖定された洗礼は、他と比較にならない驚異の典礼です。

 第一に悔改めのバプテスマであり、生きる方向を神に向け180度転換したことを示します。

 第二に罪の赦しを得させるバプテスマであり、受洗者がキリストの十字架の贖いにより罪赦されたことを確信したことのしるしです。

 第三にキリストの死に預かるバプテスマであり、キリストが罪に対して死んだように受洗者が罪に対して死んだことを確認したしるしです。

 水中に全身浸されることは、キリストと共に、それまで罪に支配されてきた自分が死んだことを示します。

 人を奴隷として支配していた罪は、死んだ者を最早支配できません。最強の病原菌であっても、それまでむしばんできた肉体が死んでしまえば、それ以上に何もできないのと同じことです。

 罪は、イエスを受入れた者の主人となることを断念したのです!

 第四にキリストの復活に預かるバプテスマであり、洗礼は、キリストが神の大能の力によって神に生きるように蘇られたように、受洗者が神に生きる新しい生活に歩みだしたことのしるしです。

 神を信じ、神を愛し、神に従い、神の栄光のために生きる新しい生活のスタートラインに受洗者は立ったのです。

 第五に教会加入のバプテスマであり、初代教会以来、教会加入が洗礼での誓約によって確証されてきたことを使徒ペテロが、第一ペテロ3章21節で明らかにしています。

 人は誓約したところの人間になるものです。自分が何者であるかを誓約によって人は自己同一視するのです。

 洗礼を既に受けた者も今日受洗する者も、イエス様によって成し遂げられた十字架の死と復活に与ることにより、新しい命に歩みだしたことを感謝しましょう。

 神の栄光を目的として自律的に生き、神に愛された愛を動機に他者と共存し、全面的に神に信頼して生きるのです。