2017年5月礼拝説教

5月21日礼拝説教

 

               「苦難の日に呼べ」       詩篇50篇14、15節

 

 50:14感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き者に果せ。
50:15悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう」。         詩篇 50:14、15

 

 急病であれば119番、犯罪なら110番、では人生の苦難の日に天国のコールセンターは有効であろうか。

 礼拝の詩篇として知られる50篇によれば、神を礼拝するただ中から聴こえてくるメッセージがある。『悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助ける』と。

 礼拝は神の召集により成立する。礼拝では光照らされ見えないものが見させられる。礼拝には神が到来され、その現臨には疑念の余地はない。礼拝においてのみ人は鏡のような神の言葉の前に立たされ自身の実相を悟らされる。

 この礼拝にぬかずく者は苦難の日にも天が開かれていることを確信することができよう。だが、天の父は霊と真をもって礼拝する者を望まれる。

 礼拝者の中で悪しき者、神を忘れる者だと責められる礼拝者が、16〜22節には明らかにされる。

 口先だけで心の深みから神の言葉に誠実でないためなのだ。真をもって礼拝するとは御言葉を聴いて従い誓うことに他ならない。

 一方で7〜13節では、最高の生け贄を献上しているのにもかかわらず、むしろそれによって神がどなたであるかの認識が不足しているがために、礼拝者が責められている。

 神は全能であり、万物の創造者、それゆえ一切の所有者であられる。その意味で神は人間の助けや協力を一切必要とはされない。

 礼拝者に求められていることは何か、それは感謝し、賛美すること、主を全面的に告白することに他ならない。(14節)

 とりわけ、神の御子が罪の赦しをもたらすため十字架の祭壇にご自身を小羊として捧げてくださったがゆえに、『感謝のいけにえを神にささげよ』と云われているのではないだろうか。

 常日頃は神には無頓着であるのに、困った時の神頼みで寄りすがろうとするような身勝手さではなく、礼拝で常日頃より神に感謝し賛美のいけにえをささげるのであれば、それこそ「イザっと」いう悩みの日にも天は開け、その呼ぶ声に神が応えてくださることを実感させられるに違いない。

「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ10:13) 


5月14日

 

        「種類にしたがい」        創世記1章 24〜28節 

 

1:24神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。

1:25神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

1:26神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
1:28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。      創世記 1:24~28

 

 五月の連休では、220余の教会が全国から集まり全国聖会が開催された。

 主題聖句は使徒9章31節でした。

 『教会は、、、、次第に信徒の数を増して行った。』健全な教会が数的に増えることは神の御心です。何故なら教会には神の命が与えられているからなのです。

 神は創造の神です。無から有を呼び出す神であり、混沌に秩序を造りだされる神です。天に満てるもの、地に満てるもの、すべては神によって存在に呼び出されました。

 創世記1章では、更に「種類にしたがって」神が創造されたことを明らかにします。

 ダーウインはその著「種の起源」で、「種」とは謎の中の謎だと言い、無数の種類に満ちる自然の原因を進化論で説明しようと試みました。

 何百億年もの悠久の時間をかけて、偶然に原子が分子に、単純細胞から高等な生物に進化し続けている、と説きました。

 ところが、遺伝子研究によりDNAが解明される現代では、その説が誤りであることが明らかとなり、むしろ、生物学の進展は神の創造の深さを証明しつつあります。

 「種類」とは子孫を増やせる境界線のあることを意味し、本質的には同種の実の結ぶように神は造られました。

 私たち人間は人間として造られたのです。神のかたちに似せて造られました。そして、神は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と祝福されたのです。

 しかしながら、最初のアダムの反逆により罪に堕落した人類は、神の創造の意図に逆らうものであり、神は御子イエス・キリストにより、新しい人を造りだすことを計画実行されました。

 イエス様を信じる者たちの集まりである教会こそ、「新しい人」(エペソ2:15)であり、この教会に対して、神は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と祝福されるのです。

 多くの人々が救われて教会に加えられるために、私たちは人々のところに出て行く必要があるでしょう。

 主は「行って、すべての国民を弟子としなさい」(マタイ28:19)と命じられるからです。

 各自が生活する家庭、地域、職場を神が教会を増殖される場としていただきましょう。


5月7日礼拝説教

 

             「三つよりの糸」       伝道者の書4章9〜12節

 

4:9ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。

4:10すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。

4:11またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。

4:12人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。                        伝道者の書 4:9~12

 

 神は人が共に生きることを定められました。孤独は空しいのです。

 権力者の孤独(1〜3節)、成功者の孤独(4〜6節)、そして富者の孤独(7〜8節)があります。力と成功と富があってもひとりぼっちは風を追うように空なのです。

 「ふたりはひとりにまさる」のです。共に生きることが神の御心です。

 たとえひとりが倒れても助け起こされるからです。たとえ凍えるように寒くても暖め合えるからです。敵に攻撃されてもふたりでなら勝てるからです。

 「三つよりの綱はたやすくは切れ」ません。

 この奥義は結婚する二人にしかり、会社にしかり、社会活動にしかり、国家政治にしかり、そしてキリストの教会にしかりです。分裂分断した関係は弱くもろいものです。

 カイコの繭から紡ぎだされただけの糸は弱く役に立たず、撚りあわされ織り成された絹は丈夫で美しいのです。

 三本を束ねるだけではなく、三本が撚り合わされる必要があります。撚り合わされた三本の糸は神の人間創造の意義を指し示します。

 聖書原語で男は(אִישׁ)「イーシュ」女は(אִשּׁה)「イッシャー」です。男にあって女にない文字は(י「ヨッド」女にあって男にない文字は(ה)「へー」です。その二文字を合わせると「ヤー」(יָה)となり、男と女が一体となることで、主の名前を表わす「ヤーハ」(יָהּ)という文字がそこに存在するのです。

 自分にはないけれども、お互いに相手にあるものを大切に受入れるとき、そこに主がおられます。撚り合わせられるため私たちは神を愛します。

 神を愛するとは神の戒めを守ることです。神の戒めとは隣人を愛し、兄弟を愛することです。

ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)神を愛し、兄弟を愛し、隣人を愛し、二人でも三人でも共に集まるならそこに神がおられると約束されています。

 撚られ織り成された布が人を暖め、人の傷をおおい癒すように、教会が共に生きようとするき用いられることでしょう。