2017年9月礼拝説教

9月24日礼拝説教

 

         「消えない光が心にある幸せ」    ヨハネ20章19〜29節

 

 20:19その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。

20:20そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

20:21イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

20:22そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。

20:23あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

20:24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。

20:25ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

20:26八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。

20:27それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

20:28トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。

20:29イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。                    ヨハネによる福音書 20:19~29

  

 聖書は年間で4500万冊が売られ、2500カ国語に訳され、40人程の著者により1600年間かけて記され、しかもそのテーマが一貫している。

 世界のベストセラーの主題は主イエス・キリストである。

 主イエスは十字架で死なれたが三日目に復活された。

 弟子たちが迫害を恐れ、錠をかけて潜んでいたが、主イエスは現れ、裏切り逃亡し萎縮した彼らを、非難することなく励まし『安かれ』と言われた。

 主のみからだの受難の傷跡を見せられた弟子たちは、その復活の確かさゆえに大きな喜びに包魔れた。

 たまさかそこに居合わせなかった弟子のトマスは、他の弟子たちの証言を耳にしても到底信じられない。

 だが主イエスは彼一人のために一週間後に再び現れ、『安かれ』と激励された。

 感きわまったトマスが「わが主よ、わが神よ」と叫んだ。

 八百万の神々の国、日本ではなんでも神扱いだ。だが真の唯一の神はお一人である。

 イエスは人となられた神なのだ。この真の神が暗闇に閉ざされたこの世に消えない光を灯すために来てくださった。

 人の力によって今現在では科学技術でなんでもできると錯覚しやすい。

 だが、全ての人の前途を阻みどうすることもできない現実がある。

 それはどんなに長生きしたにせよ人間誰しも死ぬことだ。しかも永遠にどうなるのか定かではない。

 弟子のトマスは主イエスの復活が信じられなかった。当然である。

 だが主イエスはよみがえられた。

 否定しようのないほどに復活の主は弟子たちにご自分をお示しになられた。ここに希望がある。

 主イエスを信じる者は、たとえ死ぬことがあっても、罪を赦されやがて復活することが約束されたのである。

 本当に消えない光があるだろうか。

 お金や健康や名誉や地位財産が果たして永遠に消えない光と言えるだろうか。

 そうではない。神の大能の力により復活された主イエスにこそ希望の光がある。

主イエスはトマスに「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、幸いである」と言われた。

 見ずとも復活の主を心に受け入れ信頼する者は、消えない光を持つのです。


9月17日礼拝説教

 

           「主に委ねる道」             箴言16章3節

 

 16:3あなたのなすべき事を主にゆだねよ、

 そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。       箴言 16:3

 

 「あなたのなすべき事を主にゆだねよ。」なすべき事とは人の業、働きであり、人は働きつつ生きる。

 人は本能に突き動かされて動く動物と違い、未来を課題として捉えその実現に向けて働く。

 創造主なる神は最初の人にエデンの園の農耕を職として与えた。神が人に勤労を与えられる。

 出エジプト20:9でも「六日のあいだ働いてあなたのすべての業をせよ。」と戒められる。

 マタイ4章1820節には魚を漁るペテロの姿がある。

 ペテロはその意味で漁師を職とし汗を流していた。それによって神の被造物の管理者としての役割を果たし、漁った魚を商品として隣人に提供して隣人愛を示し、それによって自分とその身寄りを養う生計としていた。

 だが、その職場に主イエスが現れるや、勤労は全く新しい意味を持つよう位置付けられた。

 主イエスが『悔い改めよ、天国は近づいた』と宣言されたとき、それは新時代到来の告知だった。

 アダム来の罪過により神と断絶し滅びに定められていた人類に神との和解の道が開かれんとしていた。

 神の御子イエスにより、その十字架の死と復活が罪の赦しをもたらす。それはこの上なき福音、良きおとづれに違いない。

 この福音を世界に伝え紹介する職務が、突然として中心的な働きとして主イエスによりペテロに提出された。

 『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間を取る漁師にしてあげよう』と主は彼を召される。

 魚をとる漁師職はそれ自体尊い。だが、それは周辺に位置付けられ、人間にとっての中心的な働きが神の国の到来への奉仕であることが明らかにされた。

 教会の働きとはその奉仕である。

 教会は主イエスに従う者の共同体であり、この教会に与えられた課題こそ中心的な業なのだ。

 あなたのなすべき事は何か?と問われるなら「わたしの第一の中心的な働きは教会の奉仕に参与する事です」と答えることが正解となる。

 この働きは老若男女、子供でさえできる業である。

 礼拝し交わり奉仕し学び伝道する!世界の情勢ことごとく約束された主イエスの来臨を指し示す。

 この緊迫する時代を意識して主の業に全てを委ねて励みたい。 


9月10日礼拝説教

 

           「不変のゆえの不滅」            マラキ3章6節 

 

3:6主なるわたしは変ることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。

                               マラキ書 3:6

 

 預言者マラキが活躍したのはバビロン捕囚から民が解放されてから数十年が経過した時代と思われます。

 破壊されたソロモン神殿の再建の感動は何処へやら、貧富の格差増大、道徳的乱れ、周辺住民からの嫌がらせにより、民は神の愛を疑い、神の正義の支配を疑問視し、「神に仕えることはつまらない。」とうそぶき、霊的責任の価値を見失っていました。

 だが真実な神はご自分を「主なるわたしは変わることがない。」と優しく民に啓示されました。

 政治情勢が変動する、経済活動が上下する。人心はうつろい易い、人はともすると変化に翻弄されかねません。しかし、主なる神は不変なのです

 かつてその御名を神はモーセに『わたしはある』(出エジプト3:14)と開示されました。

 ガリラヤ湖上で嵐にもまれ恐れる船上の弟子たちに、『わたしだ。恐るな。』とイエス様が激励されたとき、主は神の御名を開示されたのです。

 イエス様こそ『ありてあるもの』主なる神、変わることのないお方なのです。その本質もその属性もその御力もその約束も!!!ヘブ 13:8「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」この変わることなき不変の主は私たちが変わることを求められます。

 マラキ3:6の続くお言葉からすると「主なるわたしは変わることがない。」の次は「あなた方はヤコブの子らであることを止めたことがない」とも訳されます。

 神の民の先祖ヤコブの名の意味は「欺く者」です。8節の「人は神の物を盗むことをするだろうか」の盗むは欺くと訳せる言葉です。

 彼らは霊的に低迷し神殿に十分の一の捧げ物をしなくなり、神を欺いていたのです。しかし、神は力強く忍耐強く民を激励し、「十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい」と語られました。

 神の愛に変わりはないのです。この神の愛に民の側から愛を込めて責任を果そうとするとき天の窓は開かれ恵が雨のように注がれるのです。