2018年11月礼拝説教

11月25日礼拝説教

         「賜物より与え主」        第一ヨハネ2章15〜17節

2:15世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。 2:16すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。

2:17世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる

 ルノー、ニッサンそれに三菱を提携させたカルロス・ゴーン会長逮捕の知らせは衝撃的です。

 巨額の所得隠しの金融商品取引法違反が逮捕理由だとすれば、敬虔なカトリック信者として知られた実業家のゴーン氏に何があったのでしょう。

 聖書は「この世を愛してはいけない」と警告します。この世とは神の創造による自然世界でも、神が愛される人類でもなく、神と人類の敵である悪魔の支配とその勢力のことです。

 主イエスは悪魔を追い出されるべき「この世の君」と呼ばれました。

 エデンで最初にだまされ堕落した人類は、蛇のように狡猾な悪魔に支配されてきたのです。

 悪魔は人間の欲を刺激し罪を犯すように誘惑し、人を滅亡させることを目的とします。

 本能的な欲自体、食欲、性欲、所有欲、支配欲等は人間として生きる機能として神が与えた本来は良き能力です。

 ところが悪魔はその許された範囲を超えるよう巧みにそそのかし、罪を犯させるのです。

 肉の欲、目の欲、持ち物の誇りとは、性と金と権力などと単純化するものではなく、人が欲し、信頼している事柄、それは物質、精神、霊的な何であっても欲望の究極的対象とするものなのです。

 欲が脱線するべきでない理由の第一は、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」との主イエスの原則です。

 第二の理由は、逸脱した欲望の対象は神から出たものではなく、

 第三の理由は、それらが一時性のもの、永続するものではありえないからです。

 「世と世の欲とは過ぎ去る」からです。

 「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか(マルコ8:36)」とはその意味のことでしょう。

 天と地に満ちているものは神が人に与えられた賜物です。言い換えればそれらは全て手段であって目的ではありません。

 手段を目的にする愚かさは回避しなければならないのです。賜物より与え主です。

 神を愛しその御旨を行う者は生きるのです。その御旨とは神を愛することであり、隣人と兄弟を愛することに他なりません。

 そうする自由を罪赦された私たちに与えられていることを感謝しましょう。


11月18日

          「ますます豊かに」         第一ペテロ2章1〜8節

2:1だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、

2:2今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。

それによっておい育ち、救に入るようになるためである。

2:3あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。

2:4主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。

2:5この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、

聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。

2:6聖書にこう書いてある、

「見よ、わたしはシオンに、
選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。
それにより頼む者は、
決して、失望に終ることがない」。

2:7この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、

不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、

2:8また「つまずきの石、妨げの岩」である。

しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、

彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。     第一ペテロ2:1~8

 使徒ペテロが手紙の挨拶で「ますます豊かにされますように」と、彼の愛用句で受取人のため祝祷するのは、彼らが裕福な金持ちになるためでは勿論ありません。

 手紙は「離散し寄留している人たち」に宛てられました。

 寄留するとは「仮住まい」とも訳され、その言葉の意味から見えて来る彼らの感情は不安です。

 不安とは保護され守られているという安心感の欠如で、なんとなく不安であることが実は世界万人の共通感情であるとも言われます。

 だからこそ、万一に備え保険を掛け、より多く蓄え、病的欲望にこだわり、性の奴隷となり、万能科学に安全の活路を求める現代ですが、身の安全をはかればはかるほど、皮肉なことにそれだけ不安は増大するものです。

 ペテロが愛用句「ますます豊かに」で祝祷したのは、主イエスにより恵みと平安を段階的に次々と生涯を通して経験したからに違いありません。

 不安定な人柄で、失敗もし、叱られ、裏切るペテロでした。

 主イエスは彼を忍耐強く取り扱われ、彼は霊的に豊かにされたのです。

 自分に石を意味する新しい名前ペテロを下さった主イエスを、彼は「尊い生ける石である(2:4)」と呼びました。

 十字架に掛けられたイエス、人に捨てられた石ですが、隅の石となられた主イエスが人を豊かにしてくださる。

 なぜなら主イエスの中には神の知恵、力、愛の総体が充満しているからです。

 ペテロと行動を共にしたあのヨハネもわたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた(ヨハネ1:16)。」と証言しました。

 それは、一つの奇跡がもう一つの奇跡につながることです。さらに、人生の異なった時に異なった恵みが付与されることでもあります

 順境の時と逆境の時、青年時代と老年時代必要な違った恵みが与えられるのです。しかも豊かに増し加えられるのです。

 『ああ、恵み、計り知れぬ恵み、ああ、恵み、我にさえ及べり』聖歌631番の折り返しそのものです。

 瑞々しい熟したミカンの実のように、恵みと平安とは神の愛に包まれて今日も豊かに加えられることでしょう。


11月11日礼拝説教

        「二つの道と結末」                詩篇1篇1〜6節

1:1悪しき者のはかりごとに歩まず、

罪びとの道に立たず、

あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

1:2このような人は主のおきてをよろこび、

昼も夜もそのおきてを思う。

1:3このような人は流れのほとりに植えられた木の 時が来ると実を結び、

その葉もしぼまないように、

そのなすところは皆栄える。

1:4悪しき者はそうでない、

風の吹き去るもみがらのようだ。

1:5それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。

罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

1:6主は正しい者の道を知られる。

しかし、悪しき者の道は滅びる。      詩篇 1:1~6

 便利なカーナビは、目的設定すれば到達する5つの道路を自由に選択できる機能があります。 

 数えて50日後に、2019年が即始まろうとしている今日、私たちが歩むべき道の選択肢は、二つに一つしかないと詩篇1篇が明らかにします。

 正しい者の道か、悪しき者の道かであり、中間の道などはないのです。

 悪しき者の道の結末が滅びだとすれば、残された賢明な選択は正しい者の道のみです。その道を私たちに開示する決め手は1節冒頭の「その人」です。

 原語で『その人、幸いなるかな』の人は、単数でしかも男を意味するイーシュです。

 誘惑に負けず、み言葉に徹し、豊かな結実する点で完璧な人はイエスより他にありません。

 二篇が御子の預言であれば、一篇はなおさら御子の啓示であることは当然です。

 「この聖書は、わたしについてあかしをするものである(ヨハネ5:39)。」と主が語られた通りです。そして、「わたしは道です」とも語られたことを思えば、正しい者の道とは主イエスなのです。

 人と訳されたイーシュは、結婚制定を導入するあの創世記2章23節のアダムの発言で初めて使用され、女・妻(イッシャー)を想定させるものです。

 パウロは結婚は奥義であり、キリストと教会を示すとエペソ書5章で教えました。

 私たちの選択する道とは花婿なるイエスと共に花嫁として生きることなのです。

 主イエスに信頼して生きることであるからこそ幸いなのです。

 主と共に生きる生活とは、いのちのことばに信頼し従うことで、そこには豊かな結実が期待されます。

 11月1日に日本で発刊された「わたしの信仰」は、ドイツのアンゲラ・メルケル連邦首相の著書で、それによって女史が名ばかりのキリスト教政治家ではなく、聖書真理に立つ指導者であることが分かります。

 原発全廃決議を勇断し、100万人の難民受入れ決議も聖書を基盤とした選択でした。

 かつて「我が闘争」を著しドイツを破滅に追いやったアドルフ・ヒットラーとは対照的です。

 自分の立場から読める万人の聖書を嚙み締めつつ道を進みたいものです。


11月4日礼拝説教

       「神の発見の時に」            詩篇32篇5〜7節

32:5わたしは自分の罪をあなたに知らせ、
自分の不義を隠さなかった。
わたしは言った、
「わたしのとがを主に告白しよう」と。
その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
32:6このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。
大水の押し寄せる悩みの時にも
その身に及ぶことはない。
32:7あなたはわたしの隠れ場であって、
わたしを守って悩みを免れさせ、
救をもってわたしを囲まれる。〔セラ        詩篇 32:5~7

 詩篇32篇6節は『あなたの慈しみに生きる人は皆あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります(共同訳』と、人の一回性の人生では最大の発見が神だと証言します。

 3日は文化をすすめる日と祝日制定されました。人間の精神向上を意味する文化は、人間の外面の向上を意味する文明を発展させてきました。

 その文化とは、すでに世の中に存在しているが、みんなが認識していないものを初めて見つける発見の精神作用です。

 それによってこの世に存在していないものを個人の工夫で初めて創り出す発明によって、高度の文明生活が築かれてきました。

 一説によれば世界宇宙においては99.999%が未発見だとされ、今後の発見によってさらに文明は果てしなく進歩発展するに違いありません。

 そうした中で、聖書は世界を創造された神の発見こそ最大の発見であると言います。

 庭の林檎の木の実が落下するのを観察して万有引力を発見し、物理学的大発見を果たしたジョン・ニュートンが、「自分にとって神を発見したことこそ、私の生涯の最大の発見です」と証言した逸話はあまりにも有名です。

 人間を創造された神は、罪を犯して堕落した人間に、神の御子イエス・キリストが十字架に罪の身代わりとなることにより、人が神を見出せる道を開いて下さいました。

 神を生涯に初めて発見した人は、それまで経験したことのない神への祈りの発明に導かれるものです。

 人は神を呼び求め、祈りにより尋ね求め、時には自分の苦しみのすべてを注ぎ出すことにより、深い神体験に導かれるものです。

 子宝に恵まれなかったハンナが泣き悲しみ神に祈ったとき、授けられた息子サムエルは後に歴史を動かす人物となりました。

 奇しくもサムエルとは「神は聞きたもう」という意味でもあります。

 しかも祈る人には『大水が溢れ流れるときにもその人に及ぶことは決してありません。』と幸いな約束が付随します。

 人生には時として洪水のような試練に襲われることがあることでしょう。その時、神がその慈しみにより取り囲み守り給うのです。

 真実な神が逃れの道を備えても下さるのであります。