2018年3月礼拝説教

 3月25日礼拝説教

 

         「救いの実を生む」          ピリピ2章1~13節

 

 2:1そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 2:2どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。 2:3何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 2:4おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。 2:5キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 2:6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 2:9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 2:10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 2:11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

2:12わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。 2:13あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 ピリピ人への手紙 2:1~13

   

 教会暦でいうところの受難週の最初の「棕櫚の聖日」はキリストのエルサレム入場を記念する主日です。

 主イエスは公生涯の最終目標をエルサレム入場とされたのですが、それは十字架の受難を通して人類に罪の赦しによる救いをもたらす為でした。

 父なる神は罪によって関係が断絶した私たち人間をご自分と和解させるため、神の御子を愛ゆえに犠牲とされました。「キリストの謙卑」として知られるピリピ2章6〜9節は、このキリストの受難の信仰告白なのです。

 ただ信じることで救われた私たちは、主の受難の足跡をたどり感謝することにいたしましょう。

 では12節で救われた私たちに『恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい』と勧告される理由は何でしょうか。

 これはキリストの救いが不完全なので自助努力で不足を保管するということではありません。

 救われたのであるからこそ、与えられている責任を果たすべく実を生むよう勧告されているのです。

 その実とは『心を合わせ、一つ思いになって』と2節に求められる教会の一致です。

 パウロの宣教の結果、誕生したピリピ教会には好ましくない不一致があったようです。神不在のこの世は至る所、分断分裂し人は心から一致することができません。

 罪の赦しによる救いの実は一致です。救いは新しく生まれることだとも表現され、抱きかかえて哺乳する母親の愛の眼差しに乳児が受け入れられている安心感を得るように、人は救われ自分を肯定的に受けとめることができるのですが、それゆえにこそ、他の人の存在を受け入れ共に生きる責任が課題ともなるのです。

 その一致を生み出す力が実は神への従順にあります。

 主はその従順の模範を示され、「十字架の死に至るまで従順であられ」ました。それはあのゲッセマネの祈りによる意志の明け渡しの結果です。信仰の従順の精神は神に向かう祈祷によってのみ培われるものです。

 この受難週に十字架を耐えられた主の足跡をたどりつつ、あらゆる生活の領域で神の御心に従順であり得るよう、祈りつつ一致を生み出すことに努力しましょう。


3月18日礼拝説教

 

         「震われない国」            へブル12章18~29節  

 

12:18あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、

12:19また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。

12:20そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触たら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。

12:21その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。

12:22しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、

12:23天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、

12:24新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

12:25あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。

12:26あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。

12:27この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。

12:28このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。

12:29わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。  

                               へブル人への手紙 12:18~29  

 

  平昌オリンピックの興奮が冷めやらぬ今日、ヘブル12章冒頭の一句は、古代オリンピックを背景にし「わたしたちの参加すべき競争を耐え忍んで走り抜こうではないか」と勧告しています。

 この競争は信仰生涯の比喩ですが、18〜29節ではそのレースのゴールが扱われます。

 「あなたがたが近づいているのは」そうです、個人生涯の究極、歴史の目指すもの、それはシオンの山です。

 シオンとはエルサレムの雅号とでも言うべき名称で、ここではやがて完成される神の国、天国を意味するものです。主の公生涯の最初から最後まで、その中心主題は神の国でした、天国でした。

 神の主権的統治がキリストの初臨によってすでに始まり、キリストの再臨によって完全に具現するというものです。

 人類の歴史は神によって明らかに一つの方向、希望に満ちた天国に向けられているのです。22〜24節の9つの天国描写は、やがて到来する天国を私たちに垣間見せるものです。

 この「近づいている」と言う言葉は、未来を展望させるだけではなく、すでに霊的に今現在、私たちが天国の市民、成員とされていることをも意味するものでもあります。

 私たちはすでに「天に登録されている長子たちの教会」の一員とされているのです。28節の「震われない国」とは天国、神の国のことです。

 神によって創造された天地は、やがて最終的に消滅し、新天新地が到来します。その際に全天全地が揺り動かされるでしょう。そして、今現在も世界は至る所、揺り動かされているのではないでしょうか。

 自然界を含め、人間の世界の仕組みのすべてが「揺り動かされるもの」であり、私たちは、震われるものにこだわらず、震われない国に焦点を合わせるようにと促されているのです。そのため、私たちに語りかける主の御言葉を拒まないようにしましょう。

 御国を与えられている恵みに感謝し、真心からなる礼拝を神に捧げる心構えが肝要です。

 私たちの生き方は必ず焼き尽くす火なる神によって最後的には試されることになるのですから。

「わたしたちの神は、実に、焼き尽くす火である」  


3月4日礼拝説教

            「日影が十度後退」           イザヤ 38:1~8

 38:1そのころヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところに来て言った、「主はこう仰せられます、あなたの家を整えておきなさい。あなたは死にます、生きながらえることはできません」。

38:2そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、

38:3「ああ主よ、願わくは、わたしが真実と真心とをもって、み前に歩み、あなたの目にかなう事を行ったのを覚えてください」。

そしてヒゼキヤはひどく泣いた。 主はこう仰せられます、「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。

見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。

38:6わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」。

38:7主が約束されたことを行われることについては、あなたは主からこのしるしを得る。
38:8見よ、わたしはアハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう』」。
すると日時計の上に進んだ日影が十度退いた。       イザヤ書 38:1~8

 

  最近、「時間」について考えることがよくあるのです。皆様はいかがでしょうか。

 時間の本質をよく言い当てているといわれるのは、中世の神学者アウグスティヌスの『「時間とは何か」と問われるまではよく知っている。しかし、いざ問われるとわからなくなる。』

 また、時間の流れについては、不思議に「過去から未来に流れる」これを「時間の矢」と呼んでいます。ドイツの文豪シラーは「時の歩みは三重である。未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように速く飛び去り、過去は永久に静かに立っている。」と称しています。

 今日の主題のイザヤ書388節からの「日影が十度後退」ということは、科学的には不可能といわれる奇跡なのです。

 ただ「日影が十度後退」という奇跡は、歴史的な事実として、あの祈りの歩行で有名なヘンリー・グルーバー先生がメッセージのなかで、「NASAの宇宙航空科学者の証し、失われた時間」として語っておられます。

 なんと、過去に失われた時間があり、その問題と聖書の記録が符号するということです。なんと素晴らしいことではないでしょうか。

 さて、南ユダ王国の第13代目のヒゼキヤ王様が、人間には不可能な過去に戻るという奇跡のしるしを神の恵みとして体験できたのか、ヒゼキヤ王様の信仰に学びたいと思います。

 イザヤ 38:1~8に、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。イザヤが彼のところに来て、主はこう仰せられます、あなたは死にます。

ヒゼキヤは祈った。そしてヒゼキヤはひどく泣いた。

 その時主の言葉がイザヤに臨んで言った「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。あなたは主からこのしるしを得る。アハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう。」すると日時計の上に進んだ日影が十度退いた。

 さあ、私達もヒゼキヤ王様のように、祈りと涙をもって執り成し日影が十度退いた、「民よいかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたのこころを注ぎ出せ。」(詩篇628)と神様の全知全能を信じ祈り続けましょう。