2018年4月礼拝説教

429日礼拝説教

 

            「未秘開示の呼応」        エレミヤ33章1〜9節

 

33:1エレミヤがなお監視の庭に閉じ込められている時、主の言葉はふたたび彼に臨んだ、 33:2「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、 33:3わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。 33:4イスラエルの神、主は塁と、つるぎとを防ぐために破壊されたこの町の家と、ユダの王の家についてこう言われる、 33:5カルデヤびとは来て戦い、わたしが怒りと憤りをもって殺す人々の死体を、それに満たす。わたしは人々のもろもろの悪のために、この町にわたしの顔をおおい隠した。 33:6見よ、わたしは健康と、いやしとを、ここにもたらして人々をいやし、豊かな繁栄と安全とを彼らに示す。 33:7わたしはユダとイスラエルを再び栄えさせ、彼らを建てて、もとのようにする。 33:8わたしは彼らがわたしに向かって犯した罪のすべてのとがを清め、彼らがわたしに向かって犯した罪と反逆のすべてのとがをゆるす。 33:9この町は地のもろもろの民の前に、わたしのために喜びの名となり、誉となり、栄えとなる。彼らはわたしがわたしの民に施すもろもろの恵みのことを聞く。そして、わたしがこの町に施すもろもろの恵みと、もろもろの繁栄のために恐れて身をふるわす。     エレミヤ書 33:1~9

  

 「エレミヤがなお監視の庭に閉じ込められている時」激動の時代に預言活動に奔走したエレミヤは、エルサレムを包囲するバビロンにより滅びると預言してゼデキヤ王の反感をかい厳しく監視されていました。

 やがて庭の深く暗い泥穴に沈められるのですが、それにもかかわらず主の御手は彼と共にありました。たとえ状況が悪化し四面楚歌、封じ込められたかに見えても、天地の創造者なる偉大な主が共おられることは慰めです。

 「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。」(IIコリ4:7)そればかりか閉じ込められても天が開かれています。主は彼に「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。」約束されました。

 窮地に陥れば誰かに頼りたいものです。だが、自分が願っていたように応えてくれないと分かれば怒り失望させられます。究極的に人が期待すべき方は主なのです。

 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。」(詩篇50:15)閉じ込められても共におられるばかりか祈りに聞いて応えてくださるのは全能の慈愛に富める主です。信頼して祈る者には必ず未来が開かれます。

 主はエレミヤに「そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」と保証されました。閉ざされていても未来には理解を超えた大いなる事が神よって備えられているのです。

 神に逆らい偶像を拝み、罪を犯した民は預言された通りにバビロンにより悲惨な敗亡をなめるですが、主は必ず回復させると約束されました。それは破れに基づく回復でした。

 罪は裁かれます。しかし慈愛に富む神は赦し癒し、なおかつ回復させてくださいます。

 私たちは今現在の私たちへの回復の根拠を33章15節の「若枝」の約束に垣間見せられます。

 将来起こされるとされた若枝とは神の御子イエスのことです。主イエスの十字架の死と復活により新しい契約が神と人類の間に成立し、今や誰でも祈り呼び求める者は救われるのです。

 今自分のおかれている状況がどれほど最悪であっても、主を呼び求めるなら応えられるのです。


4月15日礼拝説教

 

           「持ち運ばれる者」            イザヤ46章1~4節

 

46:1ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。
あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。
46:2彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができず
かえって、自分は捕われて行く。

46:3「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、
生れ出た時から、わたしに負われ、
胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、
わたしに聞け。
46:4わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ必ず負い、持ち運び、つ救う。            イザヤ書 46:1~4

  

 敬愛する故人、・・姉はイザヤ46章4節を宝とし愛唱聖句とさ れていました。「私は生まれた時から主に持ち運ばれました」「私は年老 いるまで主に持ち運ばれました」 「私は主に持ち運ばれて救い出されまし た」と証言されるお声が聞こえてくるようです。

 今や天国に凱旋され完 成された救いに安息される・・姉のゆえに感謝であります。

 もともと この預言は、惨めなバビロン捕囚から解放された神の民に語られた預言です。

 この預言はまた現代の神の民である私たちに、主なる神以外に何かしら頼りにしている偶像が隠されてはいないかを問いかけるものです。

 彼らが敗北した原因は国内に蔓延した偶像崇拝でした。その結果、皮肉にも囚われ捕囚とされたのは繁栄豊饒の神ベル、科学文学の神ネボを祀 るバビロンでした。

 そのバビロンがペルシャ帝国に完膚無きまで敗北した時、見せられたのは偶像の無力な実態でした。家畜の背に担われ惨めに逃亡する巨大なベルとネボの哀れな有様でした。

 人や家畜に持ち運ば れねばならない偶像に依り頼む愚かさを神の民は繰り返してはならなか ったのです。

 見える偶像が全てではありません。仕事、自分の能力や可 能性、自分の楽しみが神を礼拝しつつ、最優先されるのであれば、それも隠された偶像と言えるでしょう。

 預言を語られた民は捕囚から生き残 った敗残兵でした。自分たちの犯した過ち失敗の罪責は重く、悲しみと 痛みと不安が前進を妨げていました。

 破壊され荒廃したエルサレムの再 建は困難至極でした。

 だが主は「あなたがたが年をとっても、わたしは 同じようにする。

「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。 わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、 救い出そう」(新改訳)と「わたし」を5回繰り返し、その支援を保証 してくださったのです。

「白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。」 それは全生涯、全行程に対する約束です。

 約束に真実な主に立ち返りま しょう。

 約束に真実な主を今日も仰ぎのぞみましょう。

 約束に真実な主 に傾聴しようではありませんか。」


 4月1日礼拝説教

 

         「沈黙は破れて」          マルコ16章1~8節

 

16:1さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。 16:2そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。 16:3そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。 16:4ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。 16:5墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。 16:6するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。 16:7今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。 16:8女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。マルコによる福音書 1618

 

 今日イースター礼拝の後に、教会墓地での納骨式に備え、召天された・・姉の遺影は花リボンで飾られました。それは私たちに明るい確かな希望があることを意味します。

 マルコ16章1〜8節は、その希望が歴史的な三つの事実に基づくことの証言です。その事実の最初の目撃者は婦人たちでした。

 婦人たちは遠くから十字架受難のイエスを断腸の思いで見つめました。だが十字架は希望の事実なのです。なぜなら、イエスの死は私たちの罪の赦しをもたらす犠牲であったからです。

 婦人たちはアリマタヤのヨセフとニコデモにより丁重に埋葬されたイエスの墓を見つめました。だが墓も希望の事実です。

 安息日の明けた日曜の早朝に、イエスの亡骸に香油を塗油しようとした婦人たちに、空(から)の墓にいた天使がイエスのよみがえりを告げ知らせたからです。

 空(から)の墓が希望の事実であることを使徒パウロは、『事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。』と解き明かしました。

 初穂が続いて続々と立ち上がる穂の印であるように、私たちもまた復活する意味でイエスの復活は初穂なのです。イエスが神の大能によりよみがえらされたように、私たちもよみがえらされるのです。新しい身体、朽ちない身体、強い身体、霊の身体に復活する希望はここにあるのです。

 さらに明るい確かな希望は、復活のイエス・キリストが顕現される、私たちに出会ってくださることです。婦人たちは天使が「イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」人々に伝えるよう託されたのに恐れ、逃走し沈黙してしまいました。

 ところが実際に約束されたようにイエスが彼らに出会われた結果、その沈黙が破られたのです。

彼らは喜び溢れ人々に語り出したのです。イエスが会うと言われたガリラヤは弟子たちの生活の場です。

 復活の主イエスは今もなお変わらず私たちの家庭、職場、教会の交わりの場で、私たちと出会うために待っていてくださるのです。