2018年6月礼拝説教

6月24日礼拝説教

         「汝の敵を愛せよ」        ルカ6章27〜38節

6:27しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 6:28のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。

6:29あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。

6:30あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。

6:31人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。

6:32自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。

6:33自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。

6:34また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。

6:35しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

6:36あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

6:37人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

6:38与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。                  ルカによる福音書 6:27~38

 

 主イエスの愛敵の教えはまさしく福音の真髄です。

 ガンジーはこれにより無抵抗主義運動でインド独立を遂げ、キング牧師は米国の黒人差別の壁を打破しました。

 自分を憎み、呪い、侮辱し、暴力をふるい、盗む者を愛しなさいと主は弟子に教えます。これは現実に照らして果たして可能なのかと疑問を呈する人がどれだけいることでしょうか。

 この世の通常の敵対者に対する原則は、同害報復であって、受けた被害に相当する罰と償いを要求することが常だからです。そればかりか、さらに続くイエスの互恵の常識に対する痛烈な問題提起に、私たち聞く者は再考を余儀なくさせられます。

 通常の人間関係は、お互いの利益を均等に図ることで、それとなくうまく機能しているからです。

 ところが、イエスはこの互恵の原則に安住する私たちに、改めて全面的に関係のあり方の再検討を要求されるのです。愛してくれる者を愛する、よくしてくれる者によくする!それでいいのかと。誰でもしていることではないか、と。

 キリストにより天が開かれ、天の父との関係が回復された弟子たちには、全く異なる新しい次元の生活原理が適用されるべきだと言われるのです。それこそ神が意図された人間性の回復だと言われるのです。それは、慈悲深い父なる神に似た者となることであり、神の像に似せて造られた人間の本来の像に立ち戻ることだと言われるのです。

 人を裁かず、罪に定めず、その悪を赦し、必要に答えて見返りを期待せずに与える。そうせよ、と主は聞いている弟子たち、従おうとする者に教えられます。

 私たちはこれを実行不可能な無理難題と片付けるのでしょうか。そうではありません。

 かつて自分が神の敵であったことを自覚し、その私のために御子が死の代価を払って和解させていただいたことを経験するとき、「アーメン。主イエスよ。」と祈り受けて立つのです。

 その時、不可能を可能にしてくださる慈愛の神は聖霊により愛を与え、実際生活において愛敵に生きる経験へと導き入れてくださるのです。 


6月17日礼拝説教  

                            「心の扉を叩く主」              黙示録3章20節

 

3:20見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。      

                                ヨハネの黙示録 3:20

 

 北日本大震災の発生を誰も予知予想できなかったように、人にとって一寸先は闇です。未来に向けて生きる人は未来に明るくありません。そのような私たちに黙示録は希望の書です。何故なら、おおいのかけられた未来を開いて見せてくれるからです。

 私たちの未来の最大の出来事は主イエス様が再び来臨されることです。「しかり、わたしは確かに来るのです。」とよみがえりの主は約束されました。

 この主が『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。』とラオデキヤ教会に語られました。これこそ再び来られる主が今現在、全ての教会にしておられる姿です。

 ラオデキヤ教会は、イエス様を追い出してしまった名ばかりの教会でした。生ぬるい水のようで主により吐き出された教会でした。

 その地方一番の繁栄した都市だったのか、人々はその富を誇り満足しきっていました。しかし、主の目には霊的に貧しい人々でした。

 それは、主が教会に委ねた愛を忘れ、愛を失い、自己中心的生活に浸りきっていたからでした。他の人々へ愛の配慮、愛の関心によって行動することはキリスト者の最高の表現なのです。

 愛が無ければ一切は無に等しく、何の役にも立ちません。主が戸を叩かれるのは悔い改めて愛の初めの業をすることを望まれたからです。

 そればかりか、主は聖徒らと心からの人格的な信頼に基づいた交わりを求められるからです。

『だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共に』する、と言われます。この食は、ゆっくりくつろぎ互いに語り交わりいただく夕食や晩餐のことです。

 人が神を求める以前に、神ご自身が人との豊かな関わりを求めておられるのです。

 人間の生きる目的は神を知ることであり、その人格的知識は静まって主と語り合う静思の時を主と過ごすことによります。

 『静まって、わたしこそ神であることを知れ。(詩篇46:1)』と静まって主のみ声に傾聴するよう求めておられます。

 至る所に声の氾濫した現代生活に、心の扉を開いて主をお迎えし、主にあって熱く燃える心を持とうではありませんか。


6月10日礼拝説教  

          「神の究極の目的」       エゼキエル37章1〜6節

 

37:1主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。

37:2彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。

37:3彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。

37:4彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。

37:5主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。

37:6わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。       エゼキエル書 37:1~6

 

  預言者エゼキエルは、幻で広い谷間に無数の干からびた骨を見せられました。その枯れた骨は、バビロン捕囚のイスラエルの民の絶望的な無力さを示すものです。

 ところが、その骨に肉や皮や筋が生じて動き出す光景を見せられ、滅亡したイスラエルの再建の希望が預言されます。

 するとその預言の最後に『そこであなた方はわたしが主であることを悟る』と語られ、その恵の業の目的が明らかにされました。

 神がすべての人にご自身が『主』であることを知り悟らせること、それが究極の目的なのです。

『主』とはモーセに初めてあきらかにされた神の御名であり、その意味は「わたしはある」でした(出エジ3:14)。そして神が主であるとは、神は契約の神であることを聖書では意味します。すなわち神は約束を忠実に守り実行する真実な方だということなのです。

 神はアブラハムを召し、神との特別な契約関係に生きる民族としてイスラエルを起こされました。イスラエルが滅ぼされてバビロン捕囚の憂き目に晒されたのは、彼らが神との契約を破ったためです。彼らはその苦しみのどん底で神が主であることを知らされると同時に、今また、憐れみを受けて捕囚から解放され国が再建される回復を通して神の主であることを悟らされたのでした。

 エゼキエル書にはこの「そこであなた方はわたしが主であることを悟る」と同じ意味合いの主の言葉が50回以上繰り返されています。しかも悟り知るのは民のみならず、諸々の国民でもあることが分かります。

 唯一の真の神を全て人が『主』と知ることは神の究極の目的なのです。神はその目的の完全な達成のために神の御子イエス様を下さいました。

 御子が十字架で私たちの罪の身代わりに裁かれ死なれることにより、神は私たちと新しい契約を立ててくださったのです。

 信じて仰ぐだけで赦され、永遠の命が与えられる契約です。これにより神との真実な契約関係に生きる道が開かれました。

 過ちを犯し懲らしめられても、恵みにより祝福されても、私たちは神の真実を悟ることにより神の目的が達成されるのです。