2018年9月礼拝説教

9月30日礼拝説教

 

          「主の御手の御業」        使徒行伝11章19〜30節 

 

11:19て、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。

11:20ころが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。 11:21そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。

11:22このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。

11:23彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。 11:24彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。

11:25そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、 11:26彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。

11:27そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだってきた。 11:28その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。
11:29そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。
11:30そして、それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送りとどけた。 使徒行伝 11:19~30

  

 世界宣教の最初の発信基地ともされたシリアのアンテオケ教会は、迫害されて離散した無名の弟子たちの証言が発端でした。人口50万という当時の国際都市に、それは本格的な異邦人教会の誕生でした。

 エルサレムの教会からその実情調査を依頼されたバルナバは、そこに神の恵みを見て彼らを激励し、主に帰依する人数も増すことで質量優れた教会に成長したようです。

 バルナバがその賜物を認めたパウロがアンテオケ教会に紹介された結果、聖書が一貫して教えられることにより、彼らの信仰は真理によってしっかり裏打ちされ、弟子たちの人格も生活も著しくキリストに似たものへと変えられ、その結果、未信者たちからクリスチャンとあだ名されるまでになったようです。

 その信仰の正統性は、当時パレスチナに猛威をふるった飢饉ゆえに、経済的大打撃を受けたエルサレムの教会の人々へ、遠く離れたアンテオケ教会の聖徒たちが募金を募り、援助の手を具体的に差しのばしたことによって証明されています。

 このような模範的なアンテオケ教会の成長の要を使徒行伝を著したルカは、21節で『主のみ手が彼らと共にあったため』と明言しました。「主のみ手が共にある」とは、復活された生ける主イエス・キリストが彼らと共におられ力強く働きかけてくださったことを象徴する表現です。それは、主がかつて弟子たちに、『見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである』と言われた約束の実現そのものです。

 教会は宣教の主イエスによって実を結ばせていただけるのです。それゆえに、初代の教会は『み手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい』(使徒4:30)と祈り求めたのです。主の強い愛の御手は個人的にも差し伸ばされます。

 歴代誌上4章10節には『あなたの手がわたしとともにありますように』と祈ったヤベツが紹介されています。主が彼の求めに応えられたことは、私たちに対する大きな励ましでしょう。私たちの教会に、そして個々人に主の御手がありますように。アーメン


 9月23日礼拝説教  

 

          「主の山に備えあり」         創世記22章1〜14節

 

22:1れらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。

彼は言った、「ここにおります」。

22:2神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

22:3アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

22:4三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。 22:5そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。

22:6アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

22:7やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。

22:8アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

22:9彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
22:10そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 22:11主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。
22:12み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
22:13この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
22:14それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。                      創世記 22:1~14
 アブラハムは、その生涯を通じて神の扱いを受け、信仰の父と称されます。
 21章では奴隷女ハガルと息子イシマエルとを理不尽な仕方で追放したアブラハムは、22章では不条理な神の扱いに遭遇させられます。
 神の約束の祝福された最愛のひとり子イサクを焼き尽くす犠牲とせよと命じられたのです。
 この主なる神の要求に何のためらいもなく従ったアブラハムの従順には驚かされますが、指定されたモリヤ山頂で、イサクを縛って屠殺し燔祭にしようとした瞬間、天使の一声で事態は一転しました。アブラハムは藪に角を掛けて動けぬ雄羊を捕らえ、イサクに代えて犠牲とする恵みを得ました。
 その時、アブラハムはこの出来事に一大真理を発見しました。
 彼の信頼する主なる神は摂理の神、万事に備えあるお方であるという真理でした。
 彼は記念にその地名を「アドナイ・エレ」と呼び、そこから「主の山に備えあり」という諺まで生まれたと言われます。
「備え」と訳される含蓄ある原語は、本来は「見る」を意味しますから、「主は見られる」とすれば、この出来事を通じて主はアブラハムの心奥の隠れた忠誠が試されたことになります。
 神は人の心を試す方なのです。
 更に「アドナイ・エレ」を「主は見付けられる」とすれば、イサクの代わりに雄羊をアブラハムに見付けてくださったことになります。
 しかもその雄羊を予型的に解釈するとすれば、何と神の子羊として十字架に犠牲になられた主イエス様を指し示すものとなります。
 アブラハムは自分の愛するひとり子を捧げようとして、かえって生きて返していただきましたが、神はご自分の愛するひとり子イエス様を罪の赦しを私たちに得させるために犠牲となされました。その愛の深さはいかばかりでしょうか。更に「主は備えられる」とすれば、あのローマ8章32節が開示します。
 『ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
 今日、この驚くばかりの真理が私たちのものであることを感謝しましょう。

 9月16日礼拝説教

 

         「歳とり手を伸す」          ヨハネ21章15〜23節

21:15彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。
ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
21:20ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
21:21ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
21:23こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。
しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。 
        ヨハネによる福音書 21:15~23
  新造語の「終活」は、人生の終焉に向けて葬儀や墓など事前に準備する意味ですが、人生のエンディングを考えることを通じて自分を見つめ、今をよりよく自分らしく生きる活動とも受けとめられています。
 復活の主がペテロに『あなたは年をとってからは、自分の手をのばすことになろう』と語られたのは、彼の死に方を予見されたからです。
 両手をのばすとは十字架刑を暗示し、彼は伝説によれば十字架刑に、しかも逆さ磔で殉教したと言われます。ペテロの終活を象徴する「両手をのばすこと」は、私たち信仰に生きる者の核心をも指し示す言葉であり、それは自分の十字架をとって主についていく姿勢に他なりません。それは神を愛する生き方です。
 主はペテロに『あなたはわたしを愛するか』と三回続けて問われました。それは彼に神を愛するかを問われたのです。ところがペテロは煮え切らない返事を繰返し、三度目には「心を痛め」て答えたのは、主が彼の心底を見抜かれたためでしょう。一度は「あなたのためには命も捨てます」と断言したはずのペテロは、あの大祭司の庭で脆くも主を否認した過去を想起させられ、とても自信を持って「愛します」とは言い切れなかったのでしょう。それにもかかわらず主は彼を赦し受け入れ、彼に教会の中心的指導者になるよう任命されました。
 神を愛する自信など持ちようのない私でさえも主は受け入れ、主の羊である隣人を愛しお世話する奉仕へと招いてくださるのです。
 子供であれ、壮年であれ、介護を要する高齢者であれ、主が委ねてくださる隣人への奉仕をお引き受けしましょう。霊的な終活の秘訣は、ただ主にのみ従うことです。
 主は彼に『わたしに従ってきなさい』と再献身を促されました。後ろを振り向き思わずライバルとも言えるヨハネの姿を認めたペテロは、彼の運命を主に問うのですが、主は再び『あなたは、わたしに従ってきなさい』と命じました。
 人は違うのです。それでいいのです。ただ、主のみ目を注ぎ、再びおいでくださる主の再臨を次の里程標に主イエスについて行きましょう。 

 9月9日礼拝説教

 

        「命に溢れ老いる」         詩篇92篇12〜15節

 

92:12正しい者はなつめやしの木のように栄え、
レバノンの香柏のように育ちます。
92:13彼らは主の家に植えられ、
われらの神の大庭に栄えます。
92:14彼らは年老いてなお実を結び、
いつも生気に満ち、青々として、
92:15主の正しいことを示すでしょう。

主はわが岩です。
主には少しの不義もありません。        詩篇92篇12~15節

 

 現代日本の社会問題として「少子高齢化」が浮上しています。総人口を占める年齢バランスが崩れ、年金制度を含め諸方面に支障が生じつつあるからでしょう。出産率が減少する一方で日本人男女の寿命は著しく伸び、今や世界トップレベルに達している現状を、私たちはどう受けとめるべきなのでしょうか。

 人が加齢して寿命が伸び長生きすること自体は好ましいことです。老齢者に敬意を払う「敬老の日」の祝日は、その肯定的な受けとめ方の表れです。しかしながら、ただ長生きすればいいというものでもなく、生きる質が問われるべきでしょう。

 人の年齢には三種類あるとよく言われます。誕生日に自動的に加齢されるのは生活年齢と呼ばれ、自分の健康の管理いかんによって年齢よりもより若々しく見られる生理年齢もある。自分の選択により、無償のボランティア活動に価値を見出す、眠っていた潜在能力を再開発して社会に貢献する事業を開始する、価値ある新しい目標に向かって挑戦する人などの年齢は心理年齢とも呼ばれ、老境にあって若々しく感じられるものです。

 ところが詩篇92篇14節には、第四の年齢とも言うべき信仰的年齢を見ます。

 「彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として」彼らとは「正しい者」、すなわち、道徳的倫理的に実直な者と言うより、神を信じ従う信仰者のことです。

 今現在で言うならば、十字架の死と復活により神への道を拓かれたイエス様を主と信じる者は、その年齢にもかかわらず命に溢れ若々しい生を生きるということです。その若々しさは長寿の象徴であるナツメヤシやレバノンの杉に喩えられます。

 霊的な若さゆえに結ぶ実とは、「主の正しいことを示す」こと、すなわち自分の生活に経験させられる神の恵みの現実を証しすることです。慈愛に富める生ける神を信じる者には賛美と感謝が満ち溢れるのです。175歳で天寿を全うしたアブラハムの死は満足死です(創世25:7)。

 人は年老い死にゆくものです。キリストにあり死んでも生きる希望を与えられた者の生は年齢に関係なく若いのです。


9月2日礼拝説教 

 

        「北陸見聞証言録」        使徒行伝15章36〜41節

 

15:36幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。

15:37そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。

15:38しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。 15:39こうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、 15:40パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。

15:41そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。  使徒行伝15:36~41

 

 使徒パウロは、その生涯に3度の宣教旅行を試みました。

 第一次宣教は、関係者による盛大な派遣式で実行され、第二次の場合は、同労者のバルナバとの短い対話で実行され、第一回目に宣教した町々を訪ね、その消息を確かめることが主たる動機であったことが15章36節から分かります。

 私と妻とは今年の夏の休暇をかつて23年奉職した北陸の地で過ごすことにし、何人かの兄弟姉妹たちの消息を得ることに努めてきました。

 パウロの第二回目の宣教では、同行することになる二人の青年献身者、マルコとテモテが浮上します。前者は後に福音書を記すことになったマルコであり、後者はパウロの後継者ともなるテモテで、様々の挫折や試練を経て大成することになる人材でした。

 私たちは、北陸の宣教で救われ献身した二人の献身者の消息を得る機会があり、その現状を知るとともに将来的発展を祈らせていただきました。

 パウロの第二回目の宣教は、聖霊の導きを得、マケドニアの第一の都市ピリピの川岸での祈りにより著しく前進したものです。その川岸の祈り場での何回かの祈祷の結果、後に優れた霊性を有するピリピ教会が誕生しました。

 私たちも、北陸宣教で経験した「祈りの歩行」の成果を、この度の休暇で目の当たりにしたことを忘れられません。

 伝統的因習に埋没し、大変結束の強い農村のある家族から洗礼を受ける母息子が起こされました。当時、その家族は目を覆いたくなるような混乱に陥っており、その黒い屋根瓦の旧家のそばで何回祈りを捧げたことでしょうか。驚くべきことに、その大きな家屋敷が今現在、教会により借用され、かつて金色の大仏壇の安置されていた広間では、礼拝が執り行われ、私たちはその別室に泊めていただいたのです。ハレルヤ!祈る場所には想像を超えた主の御業が起こり得るのです。

 ピリピではパウロは投獄の憂き目に会いますが、獄中での祈りと賛美の結果、大地震が発生、不思議と獄吏とその家族が救われたことを私たちは知っています。北陸でもさらに信徒の家族に救いの輪が広がっている消息を知り感謝でした。