2016年11月27日礼拝説教
「主を待ち望む者」 イザヤ40章27〜31節
40:27ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。
イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。
40:28あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。
40:29弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
40:30年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。
40:31しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。 イザヤ書 40:17~31
今日から教会暦の待降節(アドベント)で、クリスマスが目前です。
待降節の意味は、救い主の到来を待望した旧約時代に重ね合わせ、今生きる私たちが再び来られる主イエス様を待望する信仰を受けとめることにあります。
聖書の最後の黙示録22章は主イエス様の再来の約束で締めくくられています。人間が人間である基本姿勢は主なる神を待ち望むことです。
待つとは未来に誰かを、何かが起こることを期待すること、人間は未来に希望をもって生きる存在です。
預言者イザヤが活動した紀元前半ばで、神の民イスラエルは北の大国バビロンの軍事的脅威にさらされ、ほぼ絶望しかけていました。人々は神が自分たちを無視されているのではないかと疑念を抱き、『わが道は主に隠れている』と呟きました。
私たちも生活に行き詰まり、途方に暮れるような場合に、「どうして自分だけこんな苦しい目に合わねばならないのだろうか」と神を疑いたくなるものです。
そのような状況に置かれた民に与えられている約束があります。
『しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。』
置かれた状況はどうあれ、主なる神はとこしえの神であり、地の果ての創造者。弱ることなく、疲れることなく、その知恵は計り知れないお方。それゆえに、力を与え強さを増して下さるお方なのです。
ちょうどあの天空を舞う鷲が、上昇気流に羽をまかせ雄飛するように、主に信頼して静かに祈り待ち望む者は、新しい力を更新されるのです。
12月23日にクリスマス・コンサートにお招きしている上原令子さんは、ご自分の人生のドン底において主を待望することで全く新しい活力に溢れる生活に踏み出されたクリスチャン・シンガーです。
名も知れぬ米軍兵士との間に生まれたハーフだというハンディを超克された令子さんの生きた証言を多くの人に聴いていただきましょう。
2016年11月20日礼拝説教
「真理による自由」 ヨハネ8章31〜32節
8:31イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
8:32また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
ヨハネによる福音書 8:31~32
『真理は、あなたがたに自由を得させる』と主は言う。
日本語で自由とは英語(リバティ)の訳語で、その概念が紹介されて150年も経たない。
通念としては消極的自由(〜からの自由)或は積極的自由(〜への自由)と理解され、現行の憲法で人権の要として自由権が法的に保証されている。
しかし聖書が約束する自由とは罪の奴隷からの解放である。
主は『すべて罪を犯す者は罪の奴隷である』とされる。
姦淫の現場で捕えられた女が石打刑にさらされる場面が、八章前半部にある。人々は姦淫女を死刑に処すべきとイエスに判断を仰ぐが、主は『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』と応じられた。
その結果、年寄りから始めて全員が退散してしまった。道ならぬ姦淫罪を犯した女だけではない、すべての人が罪の奴隷なのだと聖書は明示する。
その罪の奴隷状態から真理が解放する。真理とは?真理とは主イエスに他ならない。主は『わたしは真理である』と言われる。
堕落した人類が全く喪失したこと、生ける神を啓示するため神が人間となられた方、この方イエスが真理なのだ。
使徒パウロは罪の奴隷であることを『わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。』と率直に告白した。そして『わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。』と嘆く。
しかし彼はイエスを真理として受入れたとき、罪の支配から脱却することを体験した。
イエスが十字架に人類の罪責をすべて引受け磔殺され、約束された助け主聖霊の力によって罪から自由とされる恵みの経験に導き入れられたのである。
真理なるイエスを、主の言葉に留まりつづけ本当の弟子となることによってのみ悟れる。
イエスをただ認知するだけでなく、そのお言葉に傾聴し、学び、洞察し、従順する者は自由を得させられる。
名ばかりでない本当の弟子でありたい。
2016年11月13日礼拝説教
「助けは何処より」 詩篇121篇
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
『都のぼりの歌』詩篇121篇は世界中で愛誦される詩篇の一つ。エルサレムの祭りに詣でる巡礼者が歌った詩である。現代の私たちも共感する。
私たちもまた天の都を目指す地上の巡礼者であるからであろう。
エルサレムへの道は強盗や猛獣が出没する危険な旅路。『わが助けは、どこからくるであろうか』とは切実な問い。
現代は法的に整備され共同して生活できるゆえにあらゆる方面からの助けがある。
しかしながら、全人格、全存在を丸ごとしっかり支え守り助けてくれるのは誰か。
詩人は『わが助けは、天と地を造られた主から来る』と心底噴出する泉水のように告白する。天と地、すなわち一切を創造された全能の主なる神から助けは来ると。
万物は神がそのあるがままに意図された状態で存在に呼び出されている。
人間はその創造の最高傑作である。
神はその造られた被造物を祝福され、また助けの御手を差し伸べてくださるのだ。
詩人が『見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともない』と詠うとき、神こそ歴史の形成者だと確信する。
その後で「昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。」と詠い、太陽を神と拝むエジプトと月を神と拝むバビロン、ペルシャを比喩的に表現し、主が獰猛残酷な大国の攻撃に対しおおう陰となられたことを告白した。
イスラエルはその過去の歴史で、南は大国エジプト、北は強国バビロンに脅かされ続けてきた。
エジプトの奴隷状態から脱出できたのは、主が『寝ずの番を』されたからだ(出エジ12:42)。
本来日本の同盟国である米国の次期大統領にトランプ氏が確定するや世界中に先行きを懸念する声が湧き起こった。日本も例外ではない。
だが、万国は歴史支配者の主の御手のうちに置かれていることを確信しよう。
『主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。』
その助けは全生活に及び、しかもその守りは永遠が保証されているとは何たる幸いであろうか!
2016年11月6日礼拝説教
「神の真実な備え」 第一コリント10章1〜13節
10:1兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
10:2みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。
10:3また、みな同じ霊の食物を食べ、
10:4みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
10:5しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
10:6これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
10:7だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
10:8また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
10:9また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。
10:10また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
10:11これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
10:12だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
10:13あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 コリント人への第一の手紙 10:1~13
試練とは字義的には「試し」そして「練られる」こと。誰ひとりとしてこの試練を免れることはない。ただし、誰が試みるかにより性質が異なる。
サタンが人を試すなら誘惑である。サタンは偽りの父、悪魔であり人を破壊するため誘惑する。
人が神を試すとすれば冒涜になる。神は試されてその真正さが実証される方ではない。
神が人間を試される。人間は神の被造物としてその真価が試練により実証されねばならない。
神の与える試練は人の信仰を強め、忍耐を造り、結果として希望を産み出す。だから、『あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ喜ばしいことと思いなさい』とヤコブが勧告したのはそのためであった(ヤコブ1:2)
試練に遭遇するなら当座は辛く悩み苦しむものであるが、決して忘れてならないことがある。試練を与え給う神は真実な方であること。
信仰の父アブラハムは、その愛する独り子イサクを犠牲に捧げるよう神から試練を受けると、神の真実に全面的に信頼して行動した(創22:1)
神は信頼する者を決して失望落胆させることはない。その約束は真実であり、全面的に信頼に足る。
しかも、神は私たちの耐えることのできない試練を与えることをなさらない。
神はひとりひとりの許容限度を知り抜いた上で、信仰を錬磨成長させるために試練を与えることをよしとされる。
そればかりか、感謝なことに、試練と同時に逃れる道、脱出口をも備えられる。
アブラハムがあわやイサクをナイフでほふろうとした瞬間であった、イサクに代わる犠牲となる雄羊が近くの薮にからまっていたではないか。
彼はそれゆえに、その場所をアドナイ・エレと呼んだ。それは『主の山に備え有り』を意味した。
これこそ信仰者がその人生経路で経験する真理である。
主は常に信頼する者の前に摂理的に準備し備えて下さる慈愛に富む父なのである。感謝しよう。
泉佐野福音教会
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