228日礼拝説教

「強者を先ず縛る」 マタイ12章22〜32節

そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。

しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。

イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。

しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯す すべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。

しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

 目が見えず口もきけない人から、悪霊が追い出され完全に癒されたことから、主イエスは悪と戦うため来臨されたことが分かる。

敵対したパリサイ人達は、「悪霊の頭ベルゼブルによって追い出している」と矛盾した批判をしたが、かえって主はこの批判を逆用し、「私が神の霊で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ」と時代真理を明示された。

更に続く強盗の喩えにより、神と人類の敵サタンの敗北を宣言なされる。「まず強い人を縛り上げなければ、どうして家に入って家財道具を奪い取ることができるだろうか」強い人とはサタン、家財道具とはサタンの支配下に置かれた人間、すると押し入り縛り上げる強盗とはキリストとなる。

最高位の天使ルシファーは高慢の罪により追放されサタンと成った。(イザヤ14章)。エバを誘惑したサタンはエデンで呪われた(創3章)。サタンは荒野の誘惑でキリストに打破された(マタイ4章)。サタンは十字架のキリストの死と復活により全く無力にされた(ヘブル2章)。

サタンは人に罪を犯させ死の恐怖に陥れたが、十字架の罪の赦しのみ業により、サタンの働きは無効とされている。サタンへの神の審判は確定し(ヨハネ16章)、最終的に天から追放され、底なき穴に千年間封じ込められる日が到来する(黙20章)。そしてサタンは究極的に火の池に投ぜられ永遠の苦悶により罰せられる(黙20章)。

サタンに対する判決は確定しているが、刑罰執行まで、今しばらく活動することは、神の摂理で許されている。今や使徒パウロが「これらすべてのことにおいて、私たちは私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。」(ローマ837)と代表する告白こそ、私たちの正真の立場である。

サタンはすでに牙を抜かれた蛇に過ぎない。爪を抜かれたライオンである。

 

「ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ47)それゆえに、解放された者の責務は、主と共におり、主と共に集まる羊の群れとなる、教会となることにある。

221日礼拝説教

『と書かれている』 ヤコブ1章12〜18節

試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。

人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。

 

 2、3月は世に言う受験シーズンであるが、聖書は人が誰しもその一生を通して試されると告げている。試すの原語ペイラスモスには二義性があり、試練とも誘惑とも訳せる。ということは人の経験するひとつの出来事が試練とも誘惑ともなり得ることを意味する。試練は神が与え人に建徳的な人格の成長をもたらすが、誘惑は人を欺き破壊的な滅亡をもたらす。アブラハムがその愛する息子イサクを捧げるよう神に要求されたのは、彼の信仰が試されるためであった。ヨブも全財産と10人の子供を一瞬にして失ったが、それは忍耐の試される試練であった。一方で12弟子のユダが弟子仲間の財布を誤魔化し、銀貨30枚で主イエスを敵に裏切るようそそのかしたのはサタンであったが、その結末は悲劇的な首吊り自殺であった。最後のアダムと呼ばれる主イエスは公生涯の最初に悪魔の誘惑に遭われたが勝利された。では最初のアダムがエデンで蛇にそそのかされた時にはどうであったか。アダムとエバは誘惑に負け、しかもその責任を転嫁しようとした。サタンは誘惑者であるが、誘惑される人の責任はその人自身にある。神が人間に選択の自由意志を授けられたがゆえに、人は自分の自由な選択に責任が伴うことを忘れてはならない。聖書は誘惑に陥る原因が人の自己中心的な欲望にあると指摘する。本能的な基本的欲求は創造者なる神が人に生得的に与えられたが、神を度外視する人はバランスを欠き、餌におびき寄せられる魚のように、誘惑にひっかかってしまう。人は蒔いたものを刈り取ることになる。罪が身籠もると死を産むことになる。騙されないよう要注意である。主イエスは断食の末に悪魔の誘惑を受けたが、「と書かれている」と神の言葉で悪魔を退け対処された。イエスを主と信じて救われた者の誘惑への対処はみ言葉以外にはない。日々に経験する出来事が誘惑とも試練ともなり得ることを自覚し、しっかりと聖書の言葉に立脚すれば対処することができる。蛇のように狡猾なサタンは巧みに心に滑り込もうとするだろう。我々も「と書かれている」と退けよう。

214日礼拝説教

「奇跡だと分る心」 使徒行伝12章11節

その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。

 コロナ感染緊急事態宣言ではないが、エルサレム教会は緊急事態に直面した。監督のヤコブがヘロデ王に殺害され、使徒ペテロは逮捕投獄。彼は四人一組16名の屈強なローマ兵に監視され、祭りの翌日に斬首されようとした。

だが処刑前夜、ペテロは脱獄に成功した。彼が意図した訳ではなく、突如天使が現れ不思議が起こっている。奇跡は自然法則に反して起こると思われがちだが、そうではない。自然は神の意志により造られた。その法則は科学者でさえ極め尽くせない。

奇跡とは、我々が知っている範囲内の自然法則に反して見えるだけに過ぎない。奇跡と不思議としるしを成された主イエスは、昨日も今日もいつまでも同じであれば、奇跡は今現在でも起こる。

ペテロは、獄中で経験した不思議を、表通りに出て我に返って『今、初めて本当のことが分かった』と告白し、それが主の業であったことを認識した。

日常的なすべての出来事の表面を肉の目で見るのではなく、そこに働かれる主の不思議な業を感知し、認め、発見する心を持つことが肝要だ。目に見えないものを洞察する奇跡を認識する心とは信仰に他ならない。あの預言者イザヤが3015節にいう信仰であり、それは『静かにして信頼していること』に尽きる。

ペテロは処刑前夜に獄中で鎖に繋がれ熟睡していた。眠りは信頼する者への主の賜物である。彼は初めからこのような主への信頼を持っていた訳ではない。湖上の嵐の際にも(マタイ14章)、網が破れる大漁の際にも(ルカ5章)、どちらかといえば半信半疑の程であった。しかし、ここ危機に至って、ペテロはジタバタしない。彼は万事が益に働いて益となるようにしてくださる神(ローマ828)に全幅の信頼を寄せていた。

一方ではマルコの家の教会が熱心に祈っていた。その結果として奇跡が起こったと言えるが、それは奇跡が起きれば信じるような安っぽい奇跡信仰ではなかった。

 

神に信頼して委ね祈る時、主が不思議をなさる。主は『私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方』であることを感謝しよう。

27日礼拝説教

「小犬もパン屑は」 マタイ15章21〜31節

さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。

そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。

しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

イエスはそこを去って、ガリラヤの海べに行き、それから山に登ってそこにすわられた。すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。群衆は、おしが物を言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。

 キリストは多くの病気を癒された。だが、癒しはイエスのキリストであることのしるしで、それ自体が主目的ではなかった。カナンの女との対話は、相手が異邦人女性であったこともあり、イエスがどのような救い主であるかが鮮明に照射される。必死に嘆願する女の叫びに何故か、イエスは無言であった。その態度は人格無視と誤解されかねないが、これは神の沈黙である。沈黙は神の本質である。

イエスは神の言葉であり、言葉は沈黙から生じる。沈黙の背景の無い言葉には深さと力がない。主は沈黙して嘆願者を凝視し傾聴してくださる。異邦人に偏見を持つ弟子達に主が「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」との答えには、神の救済の秩序が込められる。

始祖の罪で堕落した人類を救済する神の計画は、アブラハムを選ぶことで先ず神の民を創設し、イスラエルに救い主を遣わし、ユダヤ人教会から救いを世界にもたらすことであった。それゆえにイエスの3年余の公生涯の主たる働きは、イスラエルに限定されていた。

異邦人差別ではない、救済計画の秩序に基づいていたことが分かる。女の助け求めに、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」との発言は、冷淡な拒絶に誤解される。「子ども」に象徴されるイスラエルの救済優先が先行するが、むしろ「小犬」に象徴された異邦人への愛と配慮が透けて見える。

マルコは「まず、子どもたちに」(7:26)と記録することで、その辺りの事情を的確におさえた。すかさず女が「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と切り返し得たのは、女が主の憐れみを洞察したからに違いない。

歴史時間的には十字架の死と復活、教会への聖霊の傾注、世界宣教への派遣を待たなければならなかった。だが女の信仰的機転にイエスは恵みで即答せざるを得なかった。

 

主イエスは、この女にこれから起こされる異邦人クリスチャンを初穂としてご覧になられたに違いない。それから時代が過ぎた今は恵みの時、救いの日である。