625日礼拝説教

「寂しい道行の人」  使徒行伝8章26―39節

さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道を行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポは出かけて行った。

折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。

すると、霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車に寄り添って行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。

宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗って一緒に座るように、フィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の箇所はこれである。

「彼は、屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている小羊のように口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。誰が、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、誰についてこう言っているのですか。自分についてですか。誰かほかの人についてですか。」

そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 †そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。

天使がピリポに「ガザに下る道を行け」と唐突に命じ、ピリポが従順に従った結果、その寂しい道でエチオピアの宦官がイエスの福音を聴いて救われました。ピリポ、宦官、そしてイエス様に共通するのは、寂しい道行の人であったことです。

エルサレムで礼拝を済ませた宦官が、馬車で「彼は、屠り場に引かれて行く羊のよう」と音読した巻物は、イエス様を指し示すイザヤ書53章のメシア預言でした。イエス様は全能の神から人となり、主権者から仕える僕となり、完全に正しい方から重犯罪人とされ、十字架で処せられました。主がその寂しい道行の人となられたのは、ひとえに私たちの罪の赦しを得させる贖いの犠牲となるためでした。

その巻物の預言を音読した宦官が、アフリカのエチオピアから遠路、エルサレムまでも旅したのは何故でしょう。彼は性機能を去勢することで子孫を残すことは断念し、女王の信任を受ける宮内官として財産管理の責任を有する人も羨む高官でした。しかし、彼にはやむにやまれぬ内なる渇きと悩み苦しみがあり、真理の探究に突き動かされたに違いありません。ところが、エルサレムの神殿礼拝では、異邦人として差別され、律法に会衆から除外されるよう規定される宦官であるがためにユダヤ教改宗者とも認められず、悶々としていたのです。

その意味もよく分からないまま巻物を読む宦官に近づいたピリポが、彼の要請に応じて、そこから福音を解き聞かせると、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けたとき、彼は喜びに溢れました。宦官はガザに下る道を旅する寂しい道行の人でしたが、イエス様と共に歩む喜びの道行の人に変えられたのです。

宦官の救いの恵みは、ピリポもまた寂しい道行の人であったからです。天使によるガザ行きの指示は、目的も知らされない炎天下の荒野の道行です。不合理極まりません。しかし宦官との出会いは神の計画であり、ピリポの従順により実現されたのです。

使徒行伝は聖霊行伝であり、主は宣教の神です。その宣教計画実現のため、導きと指示に従う寂しい道行の人を、主は今も必要とされるのです。

618日礼拝説教

「救われるべき名」  使徒4章12節

 この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

キリストの教会は、聖霊降臨によって歴史的に誕生しました。「美しの門」で先天性の足の不具者を癒したがための詰問に対するペテロの答えが、奇しくも教会の中心メッセージを具現しました。「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名を他、人間には与えられていないのです。」

教会は、人間が絶対的に救われねばならない悲惨な状態に置かれていることを語ります。教会は、罪による悲惨な人間を救うことのできるのは、主イエス・キリストの他にいないことを語ります。教会は、その救いに預かる唯一の手段は信仰のみであることを語ります。

ウエストミンスター信条は、「私たちの始祖は、サタンの悪巧みと誘惑に唆され、禁断の木の実を食べて罪を犯した。この罪によって彼らは原義と神との交わりから堕落し、こうして罪の中に死んだ者となり、また、霊魂と肉体のすべての機能と部分において全的に汚れたものとなった。」と告白します。

人は例外なく救われるべきであり、どうでもよいのではありません。罪により断絶した神との関係を回復し、堕落した人間性を取り戻すためには、救い主イエス・キリストの十字架と復活が不可欠です。主イエスはいにしえより来臨が預言され、その命を罪の赦しを得させるため身代わりの犠牲として十字架に捧げられることによって、救いの道が開かれました。この方による以外に救いはありません。

一休和尚の「分け登る麓(ふもと)の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」の心境は真理ではありません。使徒ペテロの脇には、主イエスの御名により癒された乞食が証人として毅然として立ち、敵対した大祭司たちは、何も言い返せません。名は体を表しし、名は実体です。イエスの名の意味は「神は救われる」であり、受胎告知でマリヤに神に託され、ヨセフにも神によって命じられた聖なる名です。

先天性の不具者を瞬時に癒したのは、その主イエスの御名を冠した生きた信仰でした。聖書には「御名によって」祈り、教え、集まり、何でも行うことが教えられています。この特権に生きましょう。

611日礼拝説教

「この家を一杯に」  ルカ14章15〜24節

同席していた客の一人が、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。

そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕(しもべ)を送り、招いておいた人々に、『もう準備ができましたので、お出でください』と言わせた。ところが、皆、一様に断り始めた。

最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を五対買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。

すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』

やがて、僕が、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、

主人は言った。『街道や農地へ出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』」

 キリストの福音の中心は、神の国の到来です。神様のご支配が実感できる時代が、イエス様の到来によって実現したのです。人は神様に治められると神との関係、人との関係が正しくされ、心が平安で満たされ、湧き上がる喜悦を経験させられます。

主は、その神の国を大宴会の喩えで明らかにします。この喩えは、主がパリサイ派の議員宅の食事の席で、客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」と言ったのが発端です。食事は栄養補給、社会性強化の目的があり、取り分け喜び楽しみです。食事を共にする宴会により、神の国の特質を主は教えられます。その喜ばしい神の国に誰が招待され、その至福にあずかるのか明らかにするのがこの喩えです。

ある人が盛大な宴会を催す、客を招待する、予定された日に僕を遣わす、来会を促すと、招待された者たちが、次々に理由を告げて出席を断る。一人は「畑を買ったので」、他の人は「牛を五対買ったので」、3番目の人は「妻を迎えたばかりなので」失礼しますと断ります。彼らは、招待者の顔に泥を塗りつけたのです。

するとこの主人は怒って僕に、予定外の貧乏人、病人など、お返しのできない人々を連れてくるよう命じます。

それでもまだ空席があると報告した僕に、主人は、町の外に住む、見知らぬ人でもいいから連れきて、家が一杯になるよう言いつけます。

この宴会に招かれた人々の内、招待を断った最初の人々は、イスラエルのことです。神の御子イエス様は、ご自分の民のところに来られました。しかし彼らはメシアを拒否したのです。

二番目の人々は、日頃疎外されていた罪人、取税人、売春婦のことです。

そして、三番目の見知らぬ人々とは「イスラエルの国籍とは無縁で、約束の契約についてはよそ者で」ある異邦人のことなのです。それは今を生きる我々のことでしょう。

神様は、異邦人である我々を、ただ御子を信じるが故に、神の国の相続人として選ばれました。これは恵みであり憐れみです。招待者の「この家を一杯にしてくれ」を、宣教の呼びかけと受けるとるべきでしょう。

6月4日礼拝説教

「神の国の相続人」  エペソ1章11−14節

キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。それは、キリストに以前から希望を抱いている私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです。

五旬節に降臨された約束の聖霊は、私たちが神の国の相続人となることに深く関係しています。神様は、私たちを神の国の相続人にするため、キリストにあって前もって予知予定し、ご自分の子にしようと選んでくださいました。本来の私たちは相続人の資格など無い無縁の者でした。神に背を向け無関心であり、敵対していた罪人でした。神様がご自分の子にするとは養子縁組することです。御子イエス様が十字架に罪の赦しを得させる贖いの犠牲の死を遂げてくださったので、ただ単純にイエス様を救い主と信じる私たちを、神様はご自分の子としてくださったのです。神の子であることは神の国の相続人です。私たちが正真正銘の相続人であることを証明する証印として聖霊が与えられたのです。私たちが何事でも証明するのに自分の印鑑を押印するようです。パウロが宣教でエペソの町を訪ねたとき、12名の弟子たちに「信仰に入ったとき、聖霊を受けたか」と問い、彼らに按手すると聖霊が降り、彼らは聖霊のバプテスマを受領しています。聖霊のバプテスマを受けることは、神の国の相続人であることの証印であると言えるでしょう。そればかりか、聖霊は神の国の相続の保証となられます。神の国は、すでに到来しているとはいえ、その完全な実現は御子イエス・キリストの未来の再臨を待たねばなりません。聖霊に満たされた生活をすることは、やがて相続する御国の保証、すなわち手付金の支払いなのです。「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマ14:17)イエス様を主と信じ、聖霊に満たされた生活には、手付金の支払いのように、神の国の前味が経験されるのです。聖霊に満たされることは、未来の先取りなのです。「遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません」(ヘブル9:17)相続とは、遺言者の死が条件です。私たちが主の定められた聖餐式に預かることは、神の国の相続が、主イエス・キリストの十字架の死によって効力が完全に発行されたことを確認するものです。感謝しましょう。