12月29日礼拝説教

   「持ち越さない」  エステル記5章9〜14節 

こうしてハマンはその日、心に喜び楽しんで出てきたが、ハマンはモルデカイが王の門にいて、自分にむかって立ちあがりもせず、また身動きもしないのを見たので、モルデカイに対し怒りに満たされた。

しかしハマンは耐え忍んで家に帰り、人をやってその友だちおよび妻ゼレシを呼んでこさせ、そしてハマンはその富の栄華と、そのむすこたちの多いことと、すべて王が自分を重んじられたこと、また王の大臣および侍臣たちにまさって自分を昇進させられたことを彼らに語った。

ハマンはまた言った、「王妃エステルは酒宴を設けたが、わたしのほかはだれも王と共にこれに臨ませなかった。もまたわたしは王と共に王妃に招かれている

しかしユダヤ人モルデカイが王の門に座しているのを見る間は、これらの事もわたしには楽しくない」。

その時、妻ゼレシとすべての友は彼に言った「高さ五十キュビトの木を立てさせ、あすの朝、モルデカイをその上に掛けるように王に申し上げなさいそして王と一緒に楽しんでその酒宴においでなさい」。

ハマンはこの事をよしとして、その木を立てさせた。

 モルデカイ一人が然るべき敬意を自分に払わないのを根にもつ宰相ハマンはユダヤ人虐殺を画策します。

この窮地のユダヤ人を救済するべく立ち上がったエステルは、王とハマン二人を酒宴に誘い、その好機を伺います。

王妃の酒宴に王と二人だけが招待された特権をハマンは、この上もなく喜び上機嫌で帰宅するのですが、王門に仕えるモルデカイの不遜にも見える自分に対する態度に激怒し、その夫の憤懣を察知した妻ゼレシュの提言を受け、翌日にもモルデカイを絞首刑に処し、その恥を晒すことで鬱憤を晴らす決意を固めます。

王妃の酒宴に招待された喜びは、明日にも招待されている酒宴により持ち越され倍増するはずでした。ところが彼の喜びは持続するどころか吹き飛んでしまいます。

人は誰しも生きるために喜びが不可欠です。しかし、持続する確かな喜びは、他者を心から愛するところに泉のように湧き上がり満ち溢れるものです。

私の戒めはこれである、「互いに愛し合いなさい」と主イエス様が説かれたのはその意味でした。間も無く新年度を迎えるにあたり、私たちが確かに持ち越すべきは喜びでありましょう。

ハマンの大きな過ちは、消失してしまった喜びに替えて怒りを翌日に持ち越したことです。何故なら聖書は「憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」と戒めるからです。

ハマンの怒りようは強迫性障害と診断されてもおかしくない程に病的でした。モルデカイを見る、思うだけで爆発したからです。

彼はモルデカイを25mの木に吊るして殺害しようとし、実は彼自身が結果的にはその木に架けられ処刑されることになります。

不思議なことにこの事実は、キリストの十字架を指し示すものです。

木にかけられた者は神にのろわれた者である(申命21:23)

ハマンはモルデカイを憎み、結果的に処刑されますが、イエス様は罪人を愛して身代わりに処刑されました。

イエス様が自分の身代わりに死なれたことは、即自分が死んだことだと信仰で受けとめるなら、神の力は働き、怒りは消失するのです。

怒りを持ち越さない秘訣は十字架を仰ぐことにあります。

12月22礼拝説教

  「恵まれた女よ」  ルカ1章26〜45節

1:26六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。

1:27この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。

1:28御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

1:29この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。

1:30すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。

1:31見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。

1:32彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、

1:33彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。

1:34そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。

1:35御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。

1:36あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。

1:37神には、なんでもできないことはありません」。

1:38そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

1:39そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、 1:40ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。
1:41エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、 1:42声高く叫んで言った、
「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。 1:43主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。
1:44ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。
1:45主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。

 クリスマスは日本でも習慣となった生活様式のようですが、本来の意味を知る人は多くありません。

天使ガブリエルにより受胎を告知されたマリアの表情は、絵画では緊張して描かれ、とてもメリークリスマスどころではありません。

突然の天使の来訪と続く告知内容により、マリアは当惑し、反発し、どのように対応すべきか思案しています。天使は神の御子イエスの出生を告知しました。この方こそ世の罪を取り除く救い主なのです。クリスマスとは言わずもがな、救い主の誕生を祝う祭りです。

私たちのクリスマスのあるべき迎え方は、最初のクリスマスを経験したマリアの態度に重ねあわせることができます。天使に「恵まれた女よ」と挨拶を受けたマリアは驚き当惑します。思いがけない様々な人生の試練をくぐり抜けて来た人であれば、素直に自分が恵まれているとは受け止めかねるでしょう。

マリアの生涯も人間的な見地からすれば幸せであったとは到底思えません。しかし、続く天使の告知に恵みの根拠があります。

「主があなたと共におられます」恵みとは共におられる神によりその計画のために用いられることなのです。

マリアは処女であるのに男の子を産むと告知され、「どうして、そんな事があり得ましょうか」と大いに反発します。理性的に考えれば当然の反応です。そんなマリアが天使の告知を全面的に受け入れることができたのは、信頼に足る天使の説得力ある発言でした。

「神にはなんでもできないことはありません」と語られたメッセージが彼女の信仰を喚起したのです。その信仰を補強した証言は、マリアの叔母エリサベツの妊娠でした。

不妊の老いた叔母の妊娠の噂はマリアにも届いていたことでしょう。現代において、神の現実は他人の身に経験された出来事の証しの確かさにあります。

75歳で救いの恵みに入れられたアントニオ古賀さんからコンサートで生の証しをご病気のため聞けなかったのは残念です。78歳の今なお、証しを試みようとされるその心意気に感じ、私たちもまた、自分の身に経験した主の恵みを証しすることにしましょう。

12月15日礼拝説教

   「王権の金の笏」  エステル記5章1〜8節 

5:1三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。

王は王宮の玉座に座して王宮の入口にむかっていたが、 5:2王妃エステルが庭に立っているのを見て彼女に恵みを示し、その手にある金の笏をエステルの方に伸ばしたので、エステルは進みよってその笏の頭にさわった。

5:3王は彼女に言った、「王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう」。

5:4エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、きょうわたしが王のために設けた酒宴に、ハマンとご一緒にお臨みください」。

5:5そこで王は「ハマンを速く連れてきて、エステルの言うようにせよ」と言い、やがて王とハマンはエステルの設けた酒宴に臨んだ。

5:6酒宴の時、王はエステルに言った、「あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

5:7エステルは答えて言った、「わたしの求め、わたしの願いはこれです。 5:8もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしわたしの求めを許し、わたしの願いを聞きとどけるのをよしとされるならば、ハマンとご一緒に、あすまた、わたしが設けようとする酒宴に、お臨みください。

わたしはあす王のお言葉どおりにいたしましょう」。

 旧約と新約の関係は影とその実体と言われます。その観点から、命の危険を冒して王に謁見しようと試みたエステルの行為は、キリスト者の祈りの真理として理解できるでしょう。壮麗な王妃の衣を身にして内庭に立つエステルは、信仰により義とされる人の姿です。

イエスを主とただ信じる者は罪赦され、神はその人を義と認められます。信仰による義人は神の大庭に立つのです。祈り場は、そこが何処でも神の王宮の内庭なのです。

王がエステルに対する恵みを金の笏を伸ばすことで表したように、神は信じる者に、その人に何の功績が無くても大いなる好意を示されます。

立派な業績、功績ある人を表彰し褒賞するのは世の常ですが、恵みはそれと違い、功なき者への神の無限の好意なのです。キリスト者が神に祈りを捧げられる根拠は、ただ神の恵みです。伸べられた金の笏に触れたエステルに、王が優しく『何を求めるのか』と尋ねたように、神は慈愛の眼差しで祈るキリスト者に「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」(エレミヤ33:3)と招き寄せられます。

主イエスも、エリコ郊外の盲人の乞食らが叫び求めると「わたしに何をしてほしいのか」と問われました。アハシュエロス王が「国の半ばでもあなたに与えよう」と約束したように、神は極め尽くすことのできない約束を用意してキリスト者の祈りを待たれます。

それにしても寛大な王の申し出に対して即座に訴えなかったエステルの態度には多くの示唆があります。それは、ユダヤ人絶滅の危機を回避するために与えられた知恵の成せるところでしょう。

エステルの要請の「今日、王様とハマンはお越しください」のあるヘブル語訳は大文字で記載されます。それは四文字の頭文字の綴りが「ヤハウエ」となるからです。神の隠された御名です。狡猾な策士ハマンを主のご支配に委ねた信仰の表れと言えます。ここに祈りの奥義があります。

手に負えないどんな問題、苦しみ、課題であっても、真剣に取り組むと同時に、全能の愛なる主の御手の支配に置かれている事実を確認し委ねて祈ることでしょう。

12月8日礼拝説教

   「この時のためかも」  エステル記4章9〜17節

4:9ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、 4:10エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、

4:11「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。

4:12エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 4:13モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、

「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 4:14あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。

4:15そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、 4:16「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。

4:17モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。

  王の名による虐殺令の公布を嘆くユダヤ人たちの断食は、自分の命よりも大切なものがあることを表す謙遜の意思表明です。エステルが「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」と決意し、同族の危機回避のため行動できたのも、命よりも大切なものを知っていたからです。

養父モルデカイが衣を裂いて街中を叫び歩く噂さに驚き、即刻、彼女は服を新調し届けさせましたが、彼の拒絶に遭いました。外界から閉ざされた王宮の王妃エステルには、同族の緊急事態を知る由もなく、モルデカイの心中を理解できず、それは的外れな親切行為でした。

語った言葉、してあげる行為、提供した贈り物が相手に思いやりの親切として通じないことがよくあります。

侍従ハタクに託されたモルデカイの伝言は、同族絶滅計画の全容を伝え、王妃としてのエステルの責任を問うものでした。王妃の立場を生かし王に嘆願する要請でした。11ヶ月後にユダヤ人は皆殺しにされようとしていたからです。

しかしながら、この緊急事態に向き合おうとするエステルは、要請課題と自分の置かれた現実の狭間でジレンマに陥ります。いかに王妃といえども王の威光の前では制約があったのです。勝手に謁見することもならないばかりか、30日間も王と疎遠になっていました。

提案できることといえば、「虐殺が実行されるまでの11ヶ月中には、王の前に呼びだされることもあるだろう」程度です。

しかし、更なるモルデカイの伝言、「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったか」がエステルの覚悟を固めさせます。「このような時」それは神の摂理を意味したからです。

エステルは、自分が王妃とされたのは偶然でも、自分の意志によるのでもない、神の計画的配剤であると察知したのです。彼女は自ら断食し、民にも三日間の断食を求めます。自分の命より大切なものを悟ったからです。

主なる神を第一として従うことです。それは主イエスに共鳴する真理なのです。

自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。 

12月1日礼拝説教 

  「王に憐れみを請う」  エステル記4章1〜8節

4:1モルデカイはすべてこのなされたことを知ったとき、その衣を裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、町の中へ行って大声をあげ、激しく叫んで、

4:2王の門の入口まで行った。荒布をまとっては王の門の内にはいることができないからである。

4:3すべて王の命令と詔をうけ取った各州ではユダヤ人のうちに大いなる悲しみがあり、断食、嘆き、叫びが起り、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった。

4:4エステルの侍女たちおよび侍従たちがきて、この事を告げたので、王妃は非常に悲しみ、モルデカイに着物を贈り、それを着せて、荒布を脱がせようとしたが受けなかった。

4:5そこでエステルは王の侍従のひとりで、王が自分にはべらせたハタクを召し、モルデカイのもとへ行って、それは何事であるか、何ゆえであるかを尋ねて来るようにと命じた。

4:6ハタクは出て、王の門の前にある町の広場にいるモルデカイのもとへ行くと、

4:7モルデカイは自分の身に起ったすべての事を彼に告げ、かつハマンがユダヤ人を滅ぼすことのために王の金庫に量り入れると約束した銀の正確な額を告げた。

4:8また彼らを滅ぼさせるために、スサで発布された詔書の写しを彼にわたし、それをエステルに見せ、かつ説きあかし、彼女が王のもとへ行ってその民のために王のあわれみを請い、王の前に願い求めるように彼女に言い伝えよと言った。

 ペルシャの宰相ハマンが、王の承諾を得てユダヤ人虐殺令を発布するや、それと知ったモルデカイは衣を引き裂き嘆き叫びました。
ユダヤ人とは南ユダ王国の生き残りに対する異邦人が使用する蔑称でした。今現在、全ユダヤ人1400万人のうち600万人弱がパレスチナのイスラエルに居住、その経済力と軍事力は非常に強く、また知的水準もノーベル賞受賞者数からしても高いと思われます。
しかしながらユダヤ人の特殊性は歴史を通じる悲惨な民族的迫害体験です。その中でも近年600万人がナチスによりアウシュビッツで虐殺された記憶は忘れがたい。
モルデカイとエステルが直面したのはこの大量虐殺でした。その時、モルデカイが王宮の王妃エステルに、王に憐れみを請うよう説得したのも当然です。王に直訴できたのはユダヤ人でありながら王の愛顧を受けていた王妃エステルだけです。
星を意味するエステルはまさしく希望の星です。そればかりか、エステルはヘブライ語では「私は隠れる」と綴られます。このエステルを透かして神に執り成し憐れみを請い祈られる主イエスが見えるのです。
民族的に虐殺される悲運の中にあったユダヤ人のためにエステルが取り成すとすれば、罪の刑罰による滅びの悲運にある全人類の救済のために主イエスは神に祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。」(ルカ23:34
罪は死をもたらし、死は永遠の滅亡につながります。人と成り私たちすべての罪を十字架で引き受けられ身代わりとなって神の裁きを受けられたキリストの取り成しのゆえに、信じる者は救われるのです。
東方の博士たちが星を頼りにエルサレムに到来したのは御子イエスのご降誕を祝うためでした。この御方は救い主として生まれたのです。
モルデカイの断食祈祷とエステルの王への嘆願が一つとなってユダヤ人虐殺が回避されたように、私たちが主イエスの中保者としての祈りと一つとなって祈る時、地域社会の隣人や家族、友人の間から救われる人々が必ずや起こされることでしょう。
また、現代のユダヤ人の救いのため教会は祈るべきでしょう。(詩篇122:6