1月28日礼拝説教(詳細)

「神の支配の現実」  ルカ8章4〜8節

大勢の群衆が集まり、方々の町から人々が御もとに来たので、イエスはたとえを用いて語られた。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、それを塞いでしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽が出て、百倍の実を結んだ。」

イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

おはようございます。今日お読みするのはルカ8章4〜8節です。この箇所のタイトルが「種を蒔く人のたとえ」とあるように、これは主イエスが群衆に語られた喩え話しです。私はこれを読んで、ふと、昨年のクリスマス・コンサートを思い出すのです。ゲストの市岡裕子さんがゴスペルを熱唱され、その証しと共にコンサートは大変盛り上がり感動的でした。全てが終わって互いに挨拶を交わしている時のことでした。その時、Y兄が市岡さんとピアニストに近づいて行かれ、「プレゼントです。どうぞ。」と、お二人にビンの栓抜きで作られた知恵の輪を提供されたのです。その際に受け取られたお二人の戸惑ったお顔が忘れられません。その仕掛けられた知恵の輪を解決するのは簡単ではないからです。

イエス様がこの単純な喩えを語られたときに、詰めかけて聞いていた群衆は、知恵の輪を突きつけられたように、何を言わんとしておられるのか、戸惑いを皆覚えたのではないでしょうか。主は喩えを語り終えると大声で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。果たして何をこの喩えで言わんとされたのでしょうか。私たちは、その答えが実は、直ぐ次の9節10節にあることが容易に分かるのです。「弟子たちは、この喩えはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の人々には喩えを用いて話すのだ。』」そうです。主はこの譬えによって神の国の秘義を語ろうとされたのです。秘義とは、ミステリオンとは、やがて明らかにされる秘密のことです。すべての人に隠されている秘密、それがここでは神の国です。イエス様は、この喩えによって隠されて秘密である神の国を明らかにしようとされたのです。

I. 主権的支配

イエス様が、「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されている」と言われる神の国とは、目には見えない真の神様が、全てを王として主権的に支配しておられる、ということです。神の主権性の適切な定義を紹介するとこうです。「神の主権性とは、見えるものも見えないものも、全てを創造された方として、神はあらゆるものの所有者であり、したがってすべてのものを支配する絶対の権利を持っておられ、また実際にこの権威を世界において働かせておられるという意味である。」この神の主権的支配を讃えて、古代イスラエルの王であったダビデがこう祈っています。「主よ、偉大さ、力、誉れ、輝き、威厳はあなたのもの。まことに、天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、王国もあなたのもの。あなたは万物の頭として高みにおられます。」(歴代誌上29:11)自らが絶対的権威の頂点に立つ一国の王様であったダビデ自身が、王の王は主なる神ですと告白したのです。神様が王としてすべてを主権的に支配しておられる、治めておられることは、すべての人に隠された秘密です。秘義です。奥義です。しかしこれが、これこそが真の現実なのです。現実を超えた現実なのです。この神の主権的な支配が何を意味するか、三つの角度から、今日ここで押さえておくことにしましょう。

  主権的な創造

その第一は、神の主権とは万物一切、見えるものも見えないものも、全てを神が創造された、ということです。一切を無から呼び出されたということです。「初めに神は天と地を創造された。」(創世記1:1)先週は北から寒波が日本全土を覆い寒かったですね。しかし、しばらくすると春が到来し桜が満開になる。またしばらくすると裸で海水浴を楽しむ夏となる。さらにしばらくすれば紅葉が目に染みる秋となる。巡り巡る四季はどうしてやって来るのですか。私たちの住む地球が太陽の周りを公転するからです。誰がそうするよう設計したのでしょうか。偶然ではありません。天地創造者の主なる神様なのです。この神様が一切を創造されたということ、これは当然、神様がすべての所有者であり、所有者であるがゆえにまた、所有する全てを支配する権利があるということなのです。

  主権的な保持

神の主権的支配で押さえておくべき第二の点は、神は全てを創造し全てを所有されるので、ご自身の造られたすべてのものの存在を、それぞれの特質や力を持たせたまま維持し保持されるということです。見えるものも見えないものも、存在するすべては、自ら存在し、自立自給するものではありません。ある人は、神様は確かに万物を創造されたが、自然法則を定め、すべてを法則に任せ、あとは退いて傍観されたのだと言いますが、そうではありません。ネヘミヤ記9章には、神の民が主を礼拝した際に、次のように賛美しています。「立って、あなたがたの神、主をほめたたえよ。いにしえからとこしえまであなたの栄光の御名がほめたたえられますように。それはあらゆる祝福と賛美にまさります。あなたのみが主。あなたは、天と、天の天をそのすべての軍勢を、地とその上にあるすべてのものを、海とその中にあるすべてのものをお造りになりました。あなたはそれらすべてを生かしておられます。」天地を創造された神は造られたばかりか被造物を生かしておられると、彼らは告白しました。

神様の保持とは、ご自分で造られ所有される全てを維持し、供給し、支える間断なき働きなのです。しかしまた、これは非常に私たちにとって大切なことで、神様だけが維持し保持するのでもないということです。私たちはその真理を、ローマ8章28節のお言葉で何回も確認してきたことです。「神は神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて一切を益にしてくださることを私たちは知っている。」天地を創造された神様は私たち人間と共に働かれる方です。神様は私たち人間をその被造物の管理者として創造されました。その意味で私たちは人間として神と協力し共に保持することが求められているのです。

  主権的な摂理

神の主権的支配で押さえておくべき第三の点は、神様は全てを見通され、自然界、精神界、道徳界のあらゆる事件を、ご自身の目的達成のために用いられるということです。私たちはそれを神様の主権的な摂理と呼ぶのです。私たちには、理解に苦しむような事件や出来事が起こると、一つの大きな疑問が湧いてくるものではありませんか。「一体なぜあることは起こり、他のことは起こらないのか。なぜ災いがある者には下り、他の者には下らないのか。」

一月一日元旦の午後4時過ぎに突如として起こった能登半島の震度 7.5の地震に私たちは驚きを隠せません。死者は233人を数え、中には、正月を家族と共に過ごそうと地方から帰宅していた二人の娘が、倒壊した家で圧死したという気の毒なケースもあると聞きました。能登半島の輪島市に隣接する日本海に面した広い範囲の海岸線が異常に隆起し、中には4メートルも越しています。今日、私たちは、あらゆる事件、出来事を神様が目的達成のために用いられるという、神様のこの摂理について、全てを網羅して語り尽くすことは到底できません。しかし、神様が自然界のすべて、動物界、地上の国々、そして、すべての個人に対して、主権的に支配を行っておられるという、聖書が証言している事実を覚えておきましょう。神様は人間個人の誕生、生涯の運命を支配されます。神様は人々の成功や失敗をも支配されます。人生において偶然的に見えたり、さして重要でないと思われる事柄に対しても神様は支配されます。神様の支配は、人間の自由な行為にまで及ぶものであり、箴言19章21節にはこう語られています。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ。」神様が主権的に支配されること、すなわち主権的な創造、主権的な保持、主権的な摂理、それはそれは深く計り知れない奥行きがあり、その意味からも、まさしく私たち人間には隠された秘密なのです。

II. 贖罪的支配

しかしながら、10節を見てください。隠された秘密をある人々には許されているとイエス様が言われるのです。「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されている。」あなたがたとは弟子たちのことです。イエス様をキリストとして信じ従う者たちです。イエス様は、神の御子であられるのに、人間に罪の赦しを得させるため私たちと同じ人となり、十字架に犠牲となられました。十字架に架けられ死んで蘇り生きておられるイエス様は、さらに昇天され天の父の右に着座されました。このイエス様を主と信じる者には、罪を赦され贖われた者には、神の国の秘義が開示されるのです。何故なら、天の御座に王として着座されたイエス様は、イエス様を信じた人の心の王座にも着座され、信じる人々の個人的な生活の中で、王として治めてくださるからです。具体的に神の国を個人的に経験できることが何かを、使徒パウロが、ローマ14章17節ではっきりこう証言しています。「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」

  神の支配による義

イエス様を心に王として迎え入れた人が経験するのは、神様の支配によってもたらされる義です。義とは別な言い方をするならそれは関係の正常であることです。キリストの十字架の死により、イエス様を救い主として信じた者は、罪赦されて神様との関係が正しくされるのです。イエス様を信じて洗礼を受けた人々が、それまでには全く経験の無い神様への祈りをするということは、神様と自分の関係が正常にされた証拠なのです。そればかりではありません。罪赦された者は、自分に罪を犯した者、自分に酷い仕打ちをした人を赦すことができるようにされ、それによって、それまで壊れていた人間関係さえも正しくされるのです。それはすべて神様の支配による素晴らしい結果なのです。

  神の支配による平和

イエス様を心に王として迎え入れる人が経験する素晴らしいことの二つ目は、神様の支配による平安です。福音書には、イエス様と12弟子たちがガリラヤ湖に船で乗り出した出来事がいくつも出てきます。その内の一つの場合には、イエスが船の艫に退かれ枕して眠っておられます。そこに嵐が襲いかかるのです。弟子たちは大波と大風に煽られ、前進を阻まれ、船が沈没しないよう懸命に奮闘するのですが、危険は増すばかりです。思い余ってイエスに近寄り、「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」と訴えます。すると、イエス様は起き上がり、波と風に命じ、「波よ静まれ!」と一喝されると、直ちに嵐は収り、海はなぎになってしまいました。私たちの人生航路にも嵐が吹きまくることがあります。しかし、イエス様が共におられ、心を治めてくださる時、どうでしょう。嵐はしずまり不思議な平安が心を支配するのです。「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、 あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」(ピリピ4:6、7)それは神がご支配くださる結果なのです。

  神の支配による喜び

そればかりではありません。言い尽くし難い喜び、喜悦が心に泉のように湧き上がってくるのです。人が神の国に入れていただいている確かなしるしは喜びマークです。笑顔が絶えなくなるのです。感謝と喜びに満ち溢れてくるのです。生活に喜びがなくなったら生きていくのは辛いことではありませんか。NHKで放映されている朝ドラは、戦後間も無くの時代に活躍した歌手で女優の笠置シヅ子さんがモデルです。特に戦後は「ブギの女王」として一世を風靡し、躍動感に乏しい楽曲と直立不動で歌うソロ歌手しか存在しなかった戦後の邦楽界に、躍動感のあるリズムの楽曲と派手なダンスパフォーマンスを導入したことで革命的な存在になった歌手です。そのドラマの中で誰かが語ったセリフが印象的です。「お客様が来られるのは、しばし現実を忘れて、楽しみ喜びを求めて仮装空間にやってくるんや」そうです。敗戦で何もかも破壊され、食うや食わずの殺伐とした時代に、その意味でも、笠置シズ子さんは多くの人に慰めを与える意味で役立ったのでしょう。しかし、神様の支配による喜びは仮想現実、仮想空間、ヴァーチャルリアリティの産物ではありません。イエス様を信じることで、イエス様に繋がる枝になると、ブドウの幹に繋がる枝に葡萄の実が自然と実るように、人の心に霊的な実として喜びが実るようになるのです。それは、目に見えない神の支配の現実に入れられた者の豊かな実際的な体験です。

私が高校一年生で教会に通い始めてから、あまり繁く足を毎週毎週、教会に運ぶものですから、母親が「なんでお前はそんなに教会に行くの?」と不思議な顔で聞いたほどです。私の最初に行っていた教会は、建物が米軍払い下げのカマボコ兵舎で、外壁は波板の鉄板で内装は一番安いベニヤ板張りで、文字通りのバラックでした。目ぼしいものは何もありません。ところが、何故か楽しかったのです。嬉しかったのです。喜びに満ち溢れていたのです。そこは神の国、喜びの国だったのです。今も懐かしく思い出しては感謝するのです。

.信仰的支配

イエス様は、近づいてきた大勢の群衆に対して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。神の国は今までは隠された秘密であった、すべての人に分からなかった、だが、今ここに 現実に存在し、この神の国に入ることができると言われたのです。イエス様の公生涯の最初の呼びかけは「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。イエス様の公生涯のすべての説教の中心主題は神の国でした。イエス様が復活して40日間、弟子たちに教えた主題も神の国でした。

私と妻がオーストリアのウイーンに宣教師として派遣されることが確定したとき、オーストリアに入国するために決定的に必要なものが二つありました。一つは日本国が発行するパスポートであり、もう一つはオーストリアが発行する滞在ビザです。パスポートは簡単に発給されましたが、ビザ取得には難儀しました。日本とオーストリアは友好関係にあるため、ビザ無しでも観光目的なら六ヶ月滞在が自由です。しかし、私は長期滞在の宣教師ビザを請求したので簡単ではなかったのです。そこで、私が奉仕した日本語キリスト教会が傘下に入れてもらっていたオーストリア福音協議会のトップに事情を説明したのです。すると彼が動いてくださいました。管轄の出入国管理事務所まで同行してくださり、直談判してくれたのです。するとどうでしょう。担当職員が山積みされていた申請書類の間から、私の書類束を見つけ出し、あっという間にビザが発行されたのです。

では神の国に入るための条件は一体何でしょうか。それはこの主の語られた種まきの喩えから言えることです。それは神の言葉なのです。11節からの喩えの説明の最初にこう主は語られました。「この喩えの意味はこうである。種は神の言葉である。」種とは小さなものですが、蒔かれると根を張り芽を出し、花咲せ、実を結ばせるものです。神の国の現実、神の支配の現実を自分のものとして体験させる鍵は、種に相当する神の言葉に対する各自の対応の仕方にかかっているのです。

  神の言葉に聞くこと

その神の言葉に対する人の対応の仕方には3つのステップがあり、その第一は、まず神の言葉に耳傾けて聞くことです。主は種蒔きの喩えで、種が落ちた四種類の土壌のことを語られました。ある種は道端に落ちました。別な種は岩の上に落ちました。他の種は茨の中に落ちました。しかし、最後に紹介された種は良い土地に落ちたのです。日本の農業方法では理解し難い光景です。昔のパレスチナでは、最初に種を蒔き、それから耕すという順序であったと言われます。そうだとすれば、蒔かれた種の一部が、道端に落ちたり、岩の上に落ちたり、雑草地に落ちることも分からないわけではありません。そのどの土壌の場合でも共通している要素があります。11節以降の喩えの説明のところでは、それは「御言葉を聞く」です。神の御言葉を聞くことが何を意味するか、ローマ10章17節にはこのように書かれています。「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。」そうです。御言葉を人が聞くと信仰が喚起されるのです。しかし、主の語られた説明を注意深く見てください。ここで紹介される最初の三つの土壌に関しては、「御言葉を聞くが」と、聞くには聞くが、そこにある問題が指摘されるのです。道端に落ちた種について主はこう言われます。「道端のものとは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、御言葉を心から奪い去るので、信じて救われることのない人たちである。」岩の上に落ちた種については 主はこう言われます。「岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。」茨の中に落ちた種については主はこう言われます。「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に塞がれて、実を結ぶことのない人たちである。」これらについては、今までもう何回も説教を聞かれ、あるいは互いに話し合い学び合ってきたことでしょう。それでも、今日、私たちは謙虚に改めて自分に対する警告の言葉として受け止めるべきでしょう。イエス様は群衆に対して大声で「聞く耳のある者は聞きなさい。」と呼びかけられました。それは今日、私たちに対しても呼び掛けられているのです。

  神の言葉を受け入れ悟ること

神の言葉を聞いてその次に大切なステップは、素直に御言葉を受け入れ、心の深くで悟り理解することです。言葉が氾濫する情報化時代に私たちは生きています。短い短絡的なコマーシャルに慣らされている時代に私たちは生きています。言葉をじっくり味わい、噛み締め、咀嚼することが苦手な時代になりつつあります。礼拝の説教も上の空で何も心に残らず帰宅することがあるものです。説教者の責任でもありますが、また、聞き手の責任でもあります。

③神の言葉を守り行うこと

神の言葉を聞き、悟り、その上で決定的に大切なステップは、御言葉を守り行うことです。主は良い地に落ちた種についてこう語られました。「良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」このルカ福音書の5章に記録された使徒ペテロの体験は何回耳にしても印象的ではありませんか。彼はガリラヤ湖のベテラン漁師でした。しかし、一晩網を下ろしてもその晩は一匹も獲れませんでした。そこへイエス様が現れたのです。そして、彼に船を沖へ漕ぎ出させ、「網を降ろして漁をしなさい」と言葉をかけられたのです。するとその時、ペテロは何と答えているでしょうか。そうです。彼は「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と言ったのです。そして、言われた通りに実行した結果、何と驚くばかりの大漁だったのです。仲間の船にも加勢を頼みましたが、2隻の船が獲れた魚の重みで沈みそうになったくらいです。ペテロがそれによって経験したことは何でしょうか。そうです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」主の語られた御言葉を実行することの素晴らしさです。それが神の支配の現実なのです。

私たちはこの礼拝が終わると、再び自分のそれぞれの生活の場に戻って行きます。今までと変わらぬ同じ家族、同じ職場、同じ地域社会です。しかしながら、神様が主権的に支配し治めておられる生活の場であります。そこで起ころうとするすべての出来事には、神様の目的があります。私たちはその目的の実現のために神様の協力者として遣わされていくのです。

神の国は聖霊が与えられる義と平和と喜びです。今週も主の御言葉に傾聴し、悟り、守り行い、神様の支配の現実を豊かに経験させていただきましょう。

1月21日礼拝説教(詳細)

「顔と顔を合わせ」  出エジプト記 33章12〜16節

モーセは主に言った。

「御覧ください。あなたは私に、『この民を導き上れ』と仰せになりました。しかし、私と共に遣わされる者は示されていません。しかもあなたは、『私はあなたを名指しで選んだ。あなたは私の目に適う』と仰せになりました。もしあなたの目に適うのなら、どうか今、あなたを知ることができるように、私にあなたの道をお示しください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、私はあなたの目に適うでしょう。御覧ください。この国民はあなたの民なのです。」

すると主は言われた。

「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」

モーセは言った。

「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民があなたの目に適っていることは、何によって分かるのでしょうか。あなたが私たちと共に歩んでくださることによってではありませんか。そうすれば、私とあなたの民は、地上のすべての民のうちから特別に選ばれた者となるでしょう。」

御名を崇めます。第三主日礼拝の今日、出エジプト記33章12〜16節をお読み致します。私たちが聖書を読む、そして理解したいと思う場合に、覚えておきたいことは、その聖書箇所の前後の文脈から理解するよう努めるという、聖書解釈の大原則の一つがあることです。その意味からすれば、その短い聖書箇所の前後だけではなく、聖書全体の流れの中で理解するということも必要になりますね。

聖書の読み方の典型的な誤りは、適当に聖書に指を入れてパッと開いてその日の導きを求めるやり方です。ある人が導きを求めて自分の聖書に指を入れて開きました。するとそこにはこう書いてあります。「そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。」(マタ27:5)そんな筈はない、そんなバカな、ともう一度指を挟んで開くと「そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。」(ルカ10:37)とあるではありませんか。これは極端な話しですが、こんなことは絶対にしないでください。

出エジプト記は、その標題の通りで、エジプトの奴隷であったイスラエルの民が、解放者モーセに率いられてエジプトを脱出したという歴史的な記録です。ヤコブの家族70人が、パレスチナの飢饉を避けるため、エジプトへ移住するところから始まり、やがてそのエジプトの奴隷とされてしまったイスラエルの民が、神から遣わされた解放者モーセによって、エジプトを奇跡的に脱出し、約束の地に向けて旅立つところで終わっています。この出エジプト記は、

   モーセが奴隷解放者として神に召し出されたこと、

   神様の偉大な力によってモーセがイスラエルの民を解放したこと、

   シナイ山で神様と民との間に契約が結ばれたこと、

   幕屋が建造され、約束の地に向けて出発したことなどが主要な内容です。

そこで、今日の聖書箇所で、皆さんに注目して頂きたいのは一つの言葉、14節で「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」と主が語られた言葉です。これは実は意訳であって直訳すると「私の顔が歩む」となるのです。私の顔とは誰の顔か。勿論それは神様の顔のことです。

先週、私は自分のパソコンで使用する聖書ソフト「ABible」がアップグレードしないと使用できないことに気づきました。そこで製造元に購入する機会があったのです。その際に、1180円を支払うのにネット上で PayPal を使用すれば決済できるということが分かり、早速手続きをしました。いろいろな私に関する情報を記入しているうちに、すると本人確認に、免許証を提示すること、そればかりか本人の顔写真を要求されたのです。免許証の写真と私の顔写真が一致していれば確認できる仕組みなのです。顔とは相手を認識する重要な部分であることが分かりますね。

私たちの顔とは、お分かりのように、重要な感覚器である眼、耳、鼻、口が集まる部分です。呼吸、食事という生命維持に不可欠な活動をします。聞いては語るコミュニケーション活動をします。筋肉による表情で感情が表現されもします。顔が私たち人間の身体でも非常に大切な部分であることは、顔を出す、顔が広い、顔に泥を塗る、顔に書いてある、顔から火が出る、顔色を伺う、といった沢山の使い方からも分かりますね。

しかし今日、この聖書箇所でご一緒に注目したいのは、私たちの顔ではありません。「私の顔が歩む」と言われた神様の御顔のことなのであります。この原語で顔を意味するパーニームという言葉が、33章には何回も繰り返されています。15節でモーセが「あなた自身が」と言うのも「あなたの顔が」です。20節でも主が「私の顔を見ることができない。」と言われます。23節では「私の顔を目にすることはない。」とも主は語られます。そのずっと前の11節には「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と2回顔が繰り返されていますね。これは「パーニーム エル パーニーム」です。

I. 隠される神の御顔

先ず、第一に言えることは、神様の御顔は隠されると言うことです。イスラエルの民は、エジプトの奴隷生活から解放され、シナイ山に至り、神様からこれからの民族の指針となる契約を与えられ、幕屋を建設して、約束の地にカナンへとまさに旅立とうとしていました。ところがこの間に、とんでもない不祥事が民の間に起こってしまいました。それは、民の指導者モーセが、シナイ山に登り40日40夜、神に向き合い、神から契約を授かっている間に、イスラエルの民がしびれを切らし、待ちきれなくなり、モーセはもう戻ることはないだろう、自分たちを導いてくれる神様が必要だと、自分たちの手で金の子牛を作ってこれを神とし、その子牛の前で飲み食い踊り、お祭り騒ぎをしてしまったのです。その詳細が記されているのが前の章の32章です。民はモーセがもう帰ってこないと思い込み、これからの旅路を導く具体的な神様が必要だと、偶像を作ったというのです。これに対する神様の対応は非常に厳しく一貫していました。それは偶像崇拝に陥った民を全く裁いて滅ぼし尽くすことでした。主はモーセに告げてこう言われました。「私はこの民を見た。なんと頑なな民だろう。私を止めてはならない。私の怒りは彼らに対して燃え、彼らを滅ぼし尽くす。」(32:9、10)430年間もの過酷な奴隷生活から折角解放されたというのに、今また直ちに滅ぼし尽くすと言われたのです。何故でしょうか。それは、契約の肝心要である第一、第二の戒めを、彼らが無視して見事に破ってしまったからです。主は第一戒で「あなたには、私をおいて他に神々があってはならない。」と戒められました。主は第二戒で「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。」と戒められました。その戒めを受けて僅か40日も経たないうちでした、イスラエルの民は全員がその戒めを破り、偶像崇拝に陥ってしまったのです。

その時、解放者モーセはどうしたでしょうか。32章30〜32節に私たちはモーセが神様に命懸けで執りなし嘆願したことが分かります。モーセは民に言いました。「あなたがたは大きな罪を犯した。今私は、主のもとに登って行く。もしかすると私は、あなたがたの罪のために贖いをすることができるかもしれない。」そしてモーセは、ホレブ山に戻り主に嘆願してこう訴えました。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分のために金の神々を造ったのです。今もし彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。しかし、もしそれがかなわないなら、どうぞあなたが書き記された書から私を消し去ってください。」この「私を消し去ってください」とは、モーセ自身が永遠に滅びることです。これは命を懸けた必死の懇願でした。感謝なことに、このモーセの命懸けの執りなしの結果、その願いは叶えられました。神が大幅に譲歩されたのです。イスラエルの民を約束の地へ導き入れるよう、「今、私があなたに告げた所に民を導き入れなさい。」とモーセに指示を与えられたのです。

しかしながら、その先の33章3節を読むとどうでしょうか。主はモーセにこう語られました。「乳と蜜の流れる地に上りなさい。しかし私は、あなたの間にいて一緒に上ることはない。私が途中であなたを滅ぼすことのないためである。あなたはかたくなな民であるから。」神様はモーセに民を導き上れと命じられました。しかし、神様ご自身は一緒に行くことはないとされたのです。これは、神様が、ご自分の御顔を隠される神であられることを意味するものです。主は、エジプトで430年も過酷な奴隷生活をしていたイスラエルの民を憐れみをもって力強い御腕で解放されましたが、彼らが偶像崇拝の罪を犯したために滅ぼそうとされました。しかしあのモーセの命懸けの嘆願によって、民は罰を免れ、滅ぼされずに約束の地に行くことが許されたのですが、神ご自身は一緒に上らないと言われたのです。それは、神様が民と一緒に行くなら、途中で民をその罪深さのために滅ぼさないわけにはいかないからだと言われるのです。

詩篇88編には、非常に苦しい一つの祈りの言葉が15節に記されています。「主よ、なぜあなたは私の魂を拒み御顔を私に隠すのですか。」神様は、人間を拒み、人間に対してご自分の顔を隠すこともなされるお方です。それは水と油が分離して混じらないのと同じことです。義であり聖なる神様は、不義なるけがれた罪人と交じることはあり得ないからです。聖書は、神が人間をご自分の像に似せて創造されたと教えています。それは神様が人間と顔と顔を合わせて親密に交わるためでした。しかし、最初の人アダムとエバはエデンの園で、禁断の木の実を食べて罪を犯したために、神により二人はエデンの園から追放されてしまいました。それ以来、悲しいかな、人間は神の顔を見ることは許されなくなってしまったのです。神の顔が隠されるということ、それによって人間が神様の顔を見ることができないということは、私たち人間が、神様がどういうお方かを全く分からなくなってしまったということです。私たちの生活の周辺には、無数の神社仏閣があります。そこには、これこそ神の顔だとして安置される様々な表情をした像が祀られています。一体どの顔が本当の神の顔でしょうか。逆に言えば、数限りない偶像が祀られているという現象こそ、神が御顔を隠された証拠なのです。

II. 共に行かれる神の御顔

しかし、今日、私たちは、イスラエルをエジプトの奴隷生活から解放したモーセの命懸けのとりなしの姿から、全く新しい事実を見せられるのです。モーセは第一回目の執りなしにより、神様から民を滅ぼさないとの保証を獲得し、その上、民を約束の地へ行くようにと指示を受け、彼は、第二回目の執りなしに挑戦した事実を私たちは12節から16節に見ることができます。

ここでもう一度、モーセが神様に嘆願した執りなしを読んでみることにしましょう。「御覧ください。あなたは私に、『この民を導き上れ』と仰せになりました。しかし、私と共に遣わされる者は示されていません。しかもあなたは、『私はあなたを名指しで選んだ。あなたは私の目に適う』と仰せになりました。もしあなたの目に適うのなら、どうか今、あなたを知ることができるように、私にあなたの道をお示しください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、私はあなたの目に適うでしょう。御覧ください。この国民はあなたの民なのです。」  モーセはここで「私にあなたの道をお示しください。」と必死に嘆願し訴えました。モーセは最初の執りなしで、民の安全を確保し、旅の出立の指示を得ることができたのですが、モーセには、神様がこれから何をどうしようとされておられるのか、よく分からなかったのです。確かに神様は自分に民を導き上れと命じておられる。神様はその際に、民を先導する御使を一緒に遣わすと言われたのに、それが誰かもはっきりされていない。神様は自分を選ばれた、私の目に適うと言ってくださる。しかし、自分には神様が、これから何をどうされようとするのか皆目分かりません、「あなたのなさろうとすることをお示しください」と彼は訴えているのです。

それに対する神様の答えが、ご覧ください、14 節なのです。主はこう語られました。「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」この「私自身が共に歩み」が直訳すれば「私の顔が歩む」だとお話しいたしました。しかし、モーセはその回答に満足することができませんでした。何故なら、その答えは「あなたに安息を与える」という「あなた」即ちモーセ個人に対するものであったからです。それゆえ、15 節で再度嘆願して彼は言いました。「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。」モーセはここに「私を」ではなく「私たちを」と言うことで、自分を含めた民全体のことを言っているのです。16 節でも「私とあなたの民が」と言い、「あなたが私たちと共に歩んでくださること」と言い、更に「私とあなたの民は」と言うことで、イスラエルの民と主なる神が共に行かれることを嘆願しています。

ここで覚えておきましょう。ここで神にとりなし嘆願するモーセの姿は、実はイエス・キリストの雛形であることなのです。この指導者モーセは後に約束されて来られるイエス様を指し示す人物なのです。モーセがイスラエルのためにとりなし祈り願ったことを、救い主、神の子イエス・キリストは、私たち全人類のために祈り願われました。イエス様が十字架につけられた時、主は「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)と取りなされました。イエス様は十字架上で午後の暗黒の中で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15:34)と叫ばれました。それは「我が神、我が神、何故私をお見捨てになられるのですか。」という意味です。モーセは、民をとりなし、「今もし彼らの罪をお赦しくださるのであれば、、、しかし、もしそれが叶わないなら、どうぞあなたが書き記された書から私を消し去ってください。」と嘆願していました。しかし、罪の全く無い清い神の子イエス様は、私たち人類のために執りなされたばかりか、事実、神に見捨てられ、十字架に罪の赦しの身代わりとなられたのです。その結果、何が生じたのでしょうか。イエス様を救い主として信じた人々の罪が赦され、赦されたばかりか、その人々と神様が、この地上の旅路を共に歩んでくださるのです。イエス様は死んで3日目に復活し、昇天されましたが、10日後に聖霊が降臨されました。イエス様は聖霊のご人格において、イエスを信じたクリスチャン達、教会と共に居られます。

モーセは、第三の執りなしで「どうかあなたの栄光を私にお示しください。」と祈りました。神様が民と共に旅路を共に行ってくださるのであれば、その証拠が欲しいと要求したのです。「私の顔が共に歩む」と神様がモーセに約束されたのは、神様が長い約束の地への旅路を臨在されて共に歩まれると言うことです。では、私たちは神様が臨在されること、神様が共におられることをどのように知ることができるでしょうか。モーセは 18 節に「どうかあなたの栄光を私にお示しください。」と懇願しています。神様の栄光とは神様の臨在です。神様を見ることはできませんが、どうしたら神様が共におられる、神の臨在を知ることができるのでしょうか。この33章には、今日の私たちにも共通する臨在のヒントがいくつかあります。

①神の賜る安息 

その一つが、神様の賜る安息です。14 節に主は約束されました。

「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」神様があなたに安息を与えられるときに、神が共におられることが分かります。イエス様が約束して言われました。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)皆さんが日曜の礼拝に来られるのは何故でしょうか。安息を得るためではないでしょうか。多くの人が日曜に仕事を休みます。しかし、仕事を休むことだけが安息、休息ではありません。イエス様のもとに来ること、イエス様に礼拝を捧げること、それによって神様から休み、休息、安息が与えられるのです。そしてそこに神様の臨在を経験させられるのです。これはイエス様を信じた誰もが経験することです。イエス様を信じる時に、言い知れない神の平安に心が覆われるのです。

②神の賜る良いもの 

神の臨在のしるしとなるのは、神様の賜る良いものです。19節には主はモーセに「私は良いものすべてをあなたの前に通らせる」と約束されました。神様は良いお方ですから、良いものを与えてくださいます。どんな良いものを神様が与えてくださるとイエス様が言われたでしょうか。あの山上の垂訓で「求めなさい」と教えられた主は、「天におられるあなたがたの父は、求める者に良いものをくださる。」と語られました。同じ言葉をルカは何と伝えているでしょうか。ルカ11章13節でこう伝えています。「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」そうなのです。神様がくださる良いもの、最良のものとは聖霊なのです。神ご自身なのです。復活されたイエス様が弟子達になされた約束は、聖霊の到来でした。聖霊が来られる時、聖霊様が良きもののすべてをもたらされるのです。ペテロは五旬節の日にこの聖霊に満たされ、説教してこう語りました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。」(使徒2章38節)

パウロはその聖霊の賜物をコリント第一12章に9つ挙げています。「ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」その内の預言の賜物を14章24、25節で取り上げ、このように語っています。「全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。」神様は見えません。けれども、良いものが表れると、未信者でさえも神様の臨在を認めざるを得ないと言うのです。

③神の恵と憐れみ

更に神の臨在が分かるのは神様の恵みと哀れみが表される時でしょう。19節でこうもモーセに主は語られました。「私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」人は自分が神様の恵みと憐れみを受けたその時に、神様の温かい力強い臨在を覚えさせられるのです。ヤコブはその手紙6章6節でこう言いました。「そこで聖書はこう語るのです。『神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる。』」神様はへりくだる人に恵みを与えられます。イエス様を信じるとは、神様の前に謙遜になり謙ることです。神様は謙遜な人に、水が高い所から低い所に流れ注がれるように、あふれんばかりの恵みを注ぎ出されるのです。恵とはいさおしの無い者に対する好意です。「あっ!これは主がなされたことだ。」そう分かった瞬間に神様の温かい臨在に気づくのではありませんか。

神の後ろ

少し変わった言い方ですが、神様の臨在は、神様の後ろ姿を見せられる時に分かるものです。20節で主はモーセに「あなたは私の顔を見ることはできない。」と語られました。その同じ主が、モーセに「私の傍に一つの場所がある。あなたはその岩の上に立ちなさい。」と命じられました。そして、モーセの目の前を神様が通り過ぎようとされました。しかし、その際に、主が通り過ぎるまで、手でモーセの上を覆うので、「私が手を離すと、あなたは私の後ろを見るが、私の顔を目にすることはない。」と言われているのです。人は神の顔を前から見ることは許されていません。しかし、神の後ろを見ることは許されているのです。私共は日常の歩みの中で、神様が共にいてくださることをいつも意識するわけではありません。しかし、神様のお働きによる出来事が起きる。出来事に出会う。この出来事は、神様が為された業なのですから、神様が通られた跡と言って良いでしょう。それが神様の後ろを見るということなのではないでしょうか。神様のなさる出来事によって、「ああ、神様は私と共にいてくださった。」と知るということなのです。

III. 御顔を合わせられる神

主はモーセに「私自身が共に歩む」と約束されました。それは神の顔が共に歩まれること、神様の顔を前から見ることはできなくても、神様の臨在が常にあることです。しかし、最後に申し上げたい。今現在、この地上生涯においては、決して神様の御顔を直接に前から見ることができなくても、やがて、顔と顔を合わせてまみえる時が来ると言うことです。コリント第一の13章の愛の章でこう約束されているからです。「私たちは、今は、鏡におぼろに写ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。」「その時」とはいつのことでしょうか。10節では「完全なものが来た時には、部分的なものはすたれます。」とも言われています。それはイエス・キリストの再臨の時なのです。主は再び来ると約束されました。主が来られる時、その時、私たちは栄光の身体に蘇り、そればかりか、主と顔と顔を合わせてまみえることになるのです。使徒パウロは言いました。「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。」(ピリピ1:21)なぜ死ぬことが益なのですか。それは、23節で語られます。「私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。」なぜですか。イエス様と顔と顔を合わせて会うことができるからです。この後で捧げる賛美に聖歌690番が選ばれています。その2節はこうです。「見るところ今は、かすかなれども、その日には顔を、合わせてあい見ん」その折り返しはこうです。「麗しき星の、かなたに行きて、目の当たり君を、拝しまつらなん」何と素晴らしい感謝な未来が約束されていることでしょうか。主を賛美しようではありませんか。

モーセとイスラエルの民は、今まさに約束の地を目指して荒野へ旅立とうとする時でした。彼らは、神様が共に歩んでくださる約束を確かにして、出発しました。私たちは今、2024年の新しい旅立ちをしたところであります。そのような私に、あなたに、皆さん一人一人に、主は「私自身が共に歩む」「私の顔が共に行く」と約束なさっておられるのです。このお約束をしっかりと握りしめて、主に信頼し、主を賛美しつつ、今週も進み行き、主の栄光を見させて頂こうではありませんか。

1月14日礼拝説教(詳細)

「網を捨てて従う」  マタイ4章18〜22節

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、二人をお呼びになった。彼らはすぐに舟と父を残して、イエスに従った。

主の御名を賛美致します。今日、1月第二主日礼拝では、マタイ4章からお読み致します。その箇所のタイトルが「四人の漁師を弟子にする」とされる4章18〜22 節です。その中程の20節に「二人はすぐに網を捨てて従った」とありますので、今日の説教題は「網を捨てて従う」としました。

そこで私はいつか誰かからか聞いたこんな話を思い出すのです。それはアフリカのアルジェリアに伝わる野生猿の捕らえ方です。日本では猿を捕まえるのには小型の檻を仕掛けて捕まえますが、アルジェリアではヤシの実を使うというのです。ヤシの木に紐(ひも)をつないでおき、その先にヤシの実をつけておきます。ヤシの実はくりぬいて、手が入るだけの穴をあけ、その中に米をいれておきます。これは、猿をつかまえるための罠 (わな)です。しばらくすると、猿がやってきて、その米を取ろうと、その穴の中に手を突っ込むのです。そして、その中の米をつかむのですが、手を握るとヤシの実から手を抜くことができなくなります。手を離せば、ヤシの実から抜くことができるのですが、猿にはそれが分かりません。自分が罠にかかったという認識はあるのですが、その罠から逃れる方法が分からないのです。暴れるけれど、その握った手を放す、という簡単なことが分からないのです。そして、翌朝、人間が来たときに猿はつかまえられてしまいます。

猿には、「獲物がほしい」という気持ちと「逃れたい」という気持ちの二つの欲求があるのですが、この二つの欲求の調整ができないのです。要するに、それだけの『認識力』しか、その猿は持っていなかったということです。

ここに集まった私たちは勿論、猿ではありません。しかし、必要な認識力を持つこと、認識力を高めることは、人間として、これは必要不可欠なことです。詩編119編130節にはこういうお言葉があります。「あなたの言葉が開かれると光が射し、無知な者にも悟りを与えます。」「あなたの言葉」とは勿論聖書のことです。神の言葉です。今日も開かれた聖書の言葉に謙虚に耳を傾け、聖霊の助けをいただき悟らせていただくことにいたしましょう。

I. 決定的命令

今日開かれている箇所は、イエス・キリストの公生涯の初期の段階で、四人の漁師たちを弟子として呼び出された出来事です。その四人とは、ペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネでした。これは彼ら四人が個別に体験した召命と献身の記録であり、極めて個人的な経験に違いありません。私たちの生きる時代、環境、状況とは全てが違っています。これは2000年も前、中東パレスチナのガリラヤ湖畔で、四人のユダヤ人漁師たちが、経験した個人的な経験です。しかし、同時にこうも言えるでしょう。これはまた普遍的な経験でもあり、ペテロやアンデレが経験した召命と献身の本質的な要素は、私たちにも共通するものでもあるということです。この聖書箇所の少し前を読むと、公生涯に入られたイエス様が、活動の拠点をガリラヤ湖畔のカペナウムの町に定められたことが分かります。ガリラヤ湖は日本の猪苗代湖ぐらいの大きさです。琵琶湖の4分の1程度です。食用になる魚が豊富な淡水湖です。周辺には2千人程が住み着いていたと言われ、歴史家ヨセフスによれば240隻の舟で漁がされていたとも言われています。そのガリラヤ湖畔をイエス様が歩かれました。そこに網を打ち、熱心に漁に励む日焼けして赤銅色の漁師たちをご覧になったのです。当時の漁の仕方は、岸辺から竿で釣り糸を垂れるか、浅瀬で投網を打つか、船で沖合に出て底引網を引くか、そのどれか三つの方法でした。ペテロとアンデレは網を打っていたとありますから、岸辺の浅瀬で投網漁をしていたのでしょう。一方ヤコブとヨハネは船で網を繕っていたことからして、底引網漁が専門かもしれません。まさにその時でした。これらの漁師たちにイエス様が突然、「私に付いて来なさい」と命じられたのです。

私たちは、ヨハネの福音書により、アンデレがバプテスマのヨハネの弟子であったこと、そしてこのヨハネによりイエス様に紹介されていることを知っています。ヨハネが「見よ、神の小羊」とイエス様を指し示すと、アンデレはイエス様に付いて行きました。そのアンデレが、直ちに自分の兄弟であるペテロを見つけ、「私たちはメシアに出会った」と興奮気味に報告して、彼をイエス様のもとに連れて行った事実をも知っています。そればかりかではありません。ルカの福音書によれば、カペナウムのペテロの家で 熱病で寝ていた彼の嫁の母親である姑を、イエス様が手を差し伸べ瞬時に癒されたことを知っています。更にルカ5章を見れば、ガリラヤ湖で一晩の漁を終え、不漁で失望しつつ網を繕っていたペテロに、イエス様が働きかけ、沖へ漁船を漕ぎ出させて漁をさせると、船が沈むほどの大漁を経験させられたことを知っております。ペテロやアンデレに事前にイエス様に関する予備知識がなかったわけではありません。ところが、このマタイの福音書ではそれらの事前の出会いを一切省略しています。それは、ここで語られているこのイエス様の命令が、すべての人に通じる普遍的で決定的な命令であるからなのです。

主イエス様は、彼らに「私に来なさい」と命じられました。これは第一に、イエス様との温かい人格的な関係に入るよう求められる招きの命令でした。組織や宗教団体に加入する命令ではありません。理路整然とした哲学や信条を研究しろという命令でもありません。価値ある活発な事業を展開しろという命令でもありません。イエス様は「私に来なさい」と招かれます。私という人格に飛び込んで来なさいと呼びかけます。「私とあなた」と呼びかわす、生きた温かい心の通い合う人格的関係に入るように命じられたのです。黙示録3章20節で主はこう語られていますね。「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」共に食事をすること、一緒のテーブルを挟んで会食をする、同じ釜の飯を食う、それは親しい人格的な関係を意味するものです。

「私に来なさい」と言うイエス様の命令は、人がその生涯において、最優先するべき関係の招きでもあります。人は誰でもオギャーと生まれて、いろいろな人の所に行きます。やって行こうとします。母親に父親に行きます。兄弟に姉妹に行きます。幼稚園の先生に、学校の先生に、将来の伴侶のところに、病気の時には医者に、習い事のためにはその師匠に、事故が起きたら警察官にやって来ることでしょう。どの関係も大切です。人は関係の生き物です。社会的な生き物です。人と人との出会いを大切にする生き物です。しかし、そのすべての出会いに勝り、それがどんなに大切であっても、生涯の最優先するべき出会いと関係がイエス様との出会い、イエス様との関係なのです。勿論最初から分かっている人はいません。しかし、イエス様と出会い、イエス様と交わり、イエス様を知れば知るほどに、すべての優先順位の第一番目に置くべきお方こそ、イエス様であるとの認識にいたるのです。何故なら、イエス様は他の誰とも比較の仕様の無い程、偉大なお方であり、神が人となられた方、救い主としてご自分を身代わりの犠牲にしてまで、自分を愛してくださるお方であるからです。

「私に付いて来なさい」と訳された原語を直訳すれば、「私の後ろに来なさい」となります。英語なら Come after me です。イエス様に付いて来るとは、イエス様の後ろから付いて行く関係です。従属的な生き方です。イエス様の脇ではありません。ましてやイエス様の前ではありません。この場でイエス様の召しをいただいたペテロが、大分経ってからのことでしたが、イエス様に大層叱られた事件がありました。それはマタイ16章に記されたペテロの信仰告白物語です。イエス様は弟子たちに「人々は人の子を何者だと言っているか」と問われています。人の子とはイエス様のことです。弟子たちから次々と様々な報告がなされましたが、そこでイエス様は方向を転じて「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われたのです。すると、あのペテロが即座に答え、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えています。それに対してイエス様は彼を高く評価されました。そして「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。」と約束までなされました。ところが、その直後のことです。イエス様はご自分のこれからエルサレムで受けようとされる受難を弟子たちに予告されたのです。そこでイエス様が「多くの苦しみを受けて殺される」と打ち明け始められたその時でした。16章22節です。「すると、ペテロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。『主よ。とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」その後、何とイエス様は彼に言われましたか。「イエスは振り向いてペテロに言われた。『サタンよ、引き下がれ。』」「引き下がれ。」それは文字通りには「私の後ろに行け!」です。Go behind me. なのです。

「私に付いて来なさい」この主のご命令は、温かい人格的な関係であり、誰よりも優先するべき関係への招きであると同時に、これは決定的に主を第一にして従属する命令なのです。今日も主イエス様は変わることがありません。私たちの側を歩きゆかれます。仕事をしている私たち、家事に従事している私たち、勉強で机に向かう私たち一人一人をご覧になられます。そしてそればかりか、一人一人に「私に付いて来なさい」と今日も招いておられるのです。

II. 好意的約束

そして「私に付いて来なさい。」招き命じられ、その上でこう約束されるのです。「人間をとる漁師にしよう。」この主の命令、この招きには、未来に対する驚くばかりの素晴らしい約束が付随しています。それはキリストの招きに応じて主の元に来る者を、主が新しい人に造り変えてくださるという約束なのです。イエス様は、ガリラヤ湖畔で網を打ちその日の仕事をしていた漁師のペテロとアンデレに「人間をとる漁師にしよう。」と個人的に約束されました。漁師は漁師でも、それまではガリラヤ湖の魚を漁る漁師であったのに、これからは魚ではない、人間をすなどる漁師にすると言われたのです。これは進化することではありません。最初にアルジェリアの猿の捕獲方法の話をしました。進化論では人間は猿から進化したのだと真面目に考えています。魚の漁師から人間の漁師に進化するのではありません。イエス様の約束は進化の結果を全く意味しません。インドに端を発する仏教思想には輪廻節が根強く残っています。自分が今このような性格の人間であり、このような境遇の生活をせざるを得ないのは、前世の影響の結果だと真面目に考えます。自分が来世に幸せな人間となるために、今を大切に生きなければ、とんでもないことになると真剣に考えるのです。イエス様の約束は、前世の因果関係を強調するような輪廻節とは全く関係がありません。

私たち人間の幸せの考え方の一つには、自己実現を達成することだとする説もあります。それは自分の内面にある欲求を社会生活に具体的に実現することです。心理学者のアブラハム・マズローという学者は、人間の欲求には五段階あると言います。一番底辺にある欲求は、食欲、性欲、睡眠欲といった生存に関わる生理的欲求です。その次には、安全でありたい安心でありたい安全欲求がある。更にその上に、孤立せずに集団に属したいとする社会的欲求があり、その上に、仲間から尊敬されたい尊厳欲求が生まれ、それらの一番上に位置するのが、自己実現欲求だと説明するのです。人は、生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、尊厳欲求がすべて満たされて初めて自己実現欲求が生まれるとするのです。イエス様に来るなら、根底にある4つの全ての欲求を見たし、あなたがそうなりたいと希望する自己の実現を果たしてあげようと、言われたのでしょうか。そんなことでは全くありません。その一方で、イエス様がペテロやアンデレに「人間をとる漁師にしよう」と約束されことは、実存主義とも違っています。

フランスの実存主義者サルトルは、「人間は自らの選択、生き方の選択によって、自らが何たるかを決める存在である。」と主張しました。この実存主義は多くの分野に影響を与えた哲学です。道端に転がっている石は、初めから本質が決まっている。犬や猫も最初から本質が決まっている。石は石以外になることはできない。犬も猫も犬、猫以外に自分でなることはできない。しかし人間だけは違う。人は自分の意志の選択次第で、信頼できるものにも、信頼できないものにもなれる。誠実にも不誠実にも行動できる。人間だけが自らの選択と行動で決めた未来を開くことができるのだと主張しました。しかし、イエス様の約束は実存主義でもありません。

人がイエス様の招きに従ってイエス様に来るときに経験するのは、神様による新しい創造なのです。聖書は神様が天地万物を創造されたと教えています。聖書は神様が無から有を創造される全能者であると教えます。そして創造するとは、別の言い方で言い換えるなら、それは新しい存在に呼び出す行為なのです。創世記1章 3 節に、「神は言われた。『光あれ。』すると光があった。」と言われています。神が言われるまで光はありません。光は神によって存在に呼び出されたのです。私たち人間も同じです。聖書は神様が、人間を神の形に創造し男と女に創造されたと教えています。更に一歩進んで、神様はイエス・キリストによって、罪によって堕落した人間を、救いへ呼び出されました。イエス様を救い主として信じ救われた人は、神様によって新しい存在に呼び出されたのです。

私は個人的に 16 歳の時、初めて教会に出席し、そこで語られた福音により、イエス様を救い主として信じ救われました。神様は、それまで神様との関係の全くなかった私を、神の子としてくださり、神様と関係する人間へと呼び出してくださったのです。私はそれからある日、教会の牧師に相談する機会がありました。まだ若い私は将来どのような職業を選択するべきかわからなかったので、「私は将来何になるべきなのでしょうか。」と相談してみたのです。するとその牧師は答えて言われました。「私だって君の将来のことなど分かる訳がないでしょう。神様に祈ってみてご覧。」それが回答でした。

私は、私なりにそれまで、将来こうなりたい、なれればいいなと考えることがいくつかありました。船長の資格をとって日本を飛び出し船乗りとして世界に出て行こうか。ブラジルに行って広い草原で牧畜業を営んだらどうだろうか。大学生だった兄に連れられてオーケストラのクラシック演奏会に出席した時、指揮者に感動し、コンダクターもいいなと思ったりもしたものです。そんなある日の日曜日の礼拝のことでした。牧師のメッセージで献身の招きがあったのです。「将来、福音宣教のために牧師、伝道者になるよう召されていると思う人があれば、立ち上がってください。」と語られたのです。その時、私はもう一人の男性と、その場で立ち上がってしまったのです。それが今だにこうして牧師をし、説教をしている理由です。イエス様が「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」という命令と約束は、個人的であると同時に普遍的なものです。すでに人間存在として今の時代に呼び出されている人に対する、第一には救いの招きであり、更に職業使命の招きでもあります。イエス様を救い主として信じるなら罪から救われます。そしてイエス様に来る人は、誰でも新しく造り変えられる、即ち神が与える職務、神が成させようとする使命が与えられるのです。

第二コリント5章17節に「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」と書いてあります。イエス様を信じる時、キリストによって神との関係に入れられただけではありません。誰でもキリストに来る者は、職業や使命も新しくされる、場合によっては更新されるのです。ペテロとアンデレは、キリストに来ることによって魚をとる漁師から伝道者に、やがては使徒に変えられることとなりました。これはペテロとアンデレの個人的な召しです。個人的経験です。しかし、救われること、召されること、それは全ての人に普遍的な経験であります。ある人は、キリストの元に来ても今まで通りの仕事を続けます。ある人は今までの仕事とは違った働きをするように求められます。ある人は同じ仕事をしながら教会の中で新しい職務に就くことがあります。ある人は日本から海外に移動することが求められるかもしれません。私は、石川県の松任市で23年間、牧師をしていたときには、自分はこのままで終わるだろうと予測しておりました。ところが59歳の後半に、降って湧いたように、欧州のウイーンでの働きの招きが持ち上がりました。それは「私に付いて来なさい」と招かれ従った私の生活で生じた新しい創造でした。

III. 積極的献身

ペテロとアンデレをご覧ください。彼らはイエス様の招きを受けると、すぐに網を捨てて従いました。彼らはイエス様の招きと命令に積極的に献身したのです。ペテロとアンデレは、イエス様を心から信頼したので従う決断をしたのです。信仰とは抽象的な概念ではありません。真実な信仰は必ずキリストへの従順の行動となるものです。従順は信仰の別名です。同義語です。信じる人は主に従うのです。主に従うのは主に信頼した結果なのです。

ペテロとアンデレの献身が、非常に積極的であったことは、彼らが主の召しのお言葉を受けたときに、躊躇せずに直ちに従ったことに表れています。「二人はすぐに網を捨てて従った」のです。前の段階で、ペテロもアンデレもこの出来事に先立ち、事前にイエス様との何回かの出会いがあったことに触れました。ですから、この「直ぐに」とは、時間的な長短のことであるよりも、硬い意志の決断を意味すると取るべきでしょう。人が洗礼を受ける時というのは、個人個人違っています。教会に来始めてから比較的短期間に受洗する人もいれば、何年も何年も教会生活を続けて、洗礼をためらう人もいます。松任キリスト教会時代でしたが、二人の年配のご婦人たちが実に礼拝に出席して教会生活を忠実に果たしておられましたが、ご主人がそれぞれ未信者であるため遠慮し、洗礼は受けようとしませんでした。ところが、私と妻がウイーンへ転勤となることが確定した途端、彼らは揃って主人たちを説得し、洗礼を受けられたのです。私もウイーン行きについては、打診を受けた際に、決断するには数ヶ月を要したものです。大切なことは、決断することです。そのために時間がどれだけかかっても神の目には問題ではありません。主にとっては1日は1000年のようであり、1000年は1日のようだからです。

主の招きに応じて献身するために非常に大切なことは、捨てなければならないならそれが何であれ、誰であれ捨てる用意があることです。ペテロとアンデレは「直ぐに網を捨てて従った」のです。得るためには捨てなければなりません。捨てることは新しい何かを獲得するためには必須であります。私が松任教会を後にしウイーンに行く決断をしたことを老人ホームに入居し老いた父に手紙で知らせると、努力し育てた松任の教会も建築した会堂も後に残して去ろうとする私に対して激怒し、「そんなお前の顔を二度と見たくもない。」と手紙で抗議してきました。勿論、大分時間が過ぎてからそんな父も理解を示してくれたものですが。捨てることにはそれなりの問題が残ることは避けられません。しかし、何か、大切にしているものを捨てない限り、新しい使命、課題を果たすことは出来ないのです。この新しい年の初めに、主があなたを通して何かを成させようとしておられます。そのために妨げになる何かをしっかり握っているならば、整理して捨てる覚悟をしようではありませんか。

17日礼拝説教(詳細)

「畏れ敬い過ごす」  第一ペテロ1章17〜21節

私たちは2024年を新年として迎え、7日が経過しようとするところです。元旦には、震度7を超す大地震が能登方面に発生し、意外な年明けとなりました。この地震を受けてすでに死者は110名を超え、行方不明者を数えると300名を超えるかもしれません。先週木曜日には、72 時間を過ぎていたのに、瓦礫の下から80歳のおばあちゃんが救出されたようです。生き埋めになっている方がまだいるのであれば、何とか速やかに助け出されることを祈るばかりです。私たちは心から哀悼の意を表すと共に、しっかりとした支援体制が組まれ、復旧が迅速に進むよう協力したいと思います。私たちの所属する教団では、3日に理事長が北陸教区長をはじめ関連する教区長らを交えて対策会議をオンラインで実施しました。私たちの教会でも今日から災害支援募金を実施しますので、各自応分の支援に是非ご協力ください。さて今日この最初の礼拝では、第一ペテロ1章17〜21節をお読みします。

また、あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼んでいるのですから、この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい。

知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。

あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。したがって、あなたがたの信仰と希望とは、神にかかっているのです。 

I. 畏敬の旅路

年明けの今日、2024年の新年を展望する私たちに対して勧告されている言葉として、

17 節の最後の言葉に注目しましょう。使徒ペテロが聖霊に感じてこう勧告しています。「この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい。」

  離散して過ごす 

この使徒ペテロの手紙の最初の読者は、1章1節によれば、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、ビティニアの各地に離散し、滞在している選ばれた人たち、」と呼びかけられており、小アジア地方、現在のトルコ地方の各地に離散し在住していた異邦人クリスチャンたちであったことが判ります。ですから、17 節で「この地上に生活しなさい」と言う勧告は、明らかに地理的、物理的に住み分けて生きることです。当然と言えば当然のこと。当たり前のこと。それは人間としての私たちの基本的な生き方です。私であるなら、日本の大阪府の泉佐野市東羽倉崎町7−1となります。誰しもが間違いなく、どこそこの町の何番地かに暮らしています。

  寄留して過ごす

しかし、今日、ここに集まった私たち、皆さんは、地理的には同じ条件でありながら、他の人々とは違って過ごすのです。聖書は、イエス・キリストを信じた者は、この地上では寄留者だと言われているからです。聖書が「この地上に寄留する間」と言うことを別の言い方をすれば、「この地上に仮住まいする間」と言うことなのです。自分の土地、自分の所有する家に住んでいたとしても仮住まいなのです。寄留者とは市民権や滞在権を持たない外国人のことです。ある国に長期に渡って居住する他国人のことです。「いいえ、私はれっきとした日本人、日本国籍あり、市民登録済みです。一生私は自分の持ち家に住む権利を確保しています」と言われるかもしれません。しかし、一度イエス・キリストを主と信じたのであれば、あなたは霊的に、この地上では寄留者、天の都を目指す旅人なのです。元旦礼拝で、一休和尚が歌ったという狂歌を紹介しました。「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

しかし、私たちは違うのです。地上の旅路の目指す目的は天国です。この新年の初め、一年を展望する時、改めて、自分の人生の究極の目的、目指すものは永遠の天国であることを確認することにしようではありませんか。

  畏敬して過ごす 

そして、その過ごし方、生活の仕方、暮らしの仕方の基本的感情が畏れなのです。恐怖の恐れではありません。おそれはおそれでも字違いです。畏敬の念の畏れです。畏怖の畏れです。「この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい。」畏れをもって生活する、過ごす、それが私たちの生活の基本感情です。元旦にはとてつもない大地震が突発しました。そうかと思えば、明けて翌日2日には羽田空港で、大型旅客機が海上保安庁の機体と衝突し炎上する事故が発生しました。幸い400人近い乗客全員が無事避難できたことは不幸中の幸いでした。我が家には暮れの29日から福岡市に在住する三男が泊まっておりました。年明け4日午前の便で、関空から帰宅したところです。その息子が空港玄関で車から降りる直前に「あんな航空機事故があった直後だから、何か心配だよね。」と心境を漏らしていました。人がこの地上で生活するということは、何処にいても何をしていても、心配や不安や恐れはつき物です。能登地震で、命を瞬時に失った方々は、元旦の祝いの日に、まさか死ぬことなど夢想だにしなかったことでしょう。それほどに、人間の存在そのものは脆いのです。弱いのです。儚(はかな)いのです。壊れやすいのです。しかしどうでしょう、イエス・キリストを信じた時から、恐れは、別な畏れ、神を畏れ敬う畏怖の畏れに変えられたのです。天災の恐れや不安、人災の不安や恐れ、自分の失敗や事故の恐れ、次から次と起こってくる出来事に対する恐れを遥に、遥に凌駕する、神への畏敬の念が、私たちを圧倒することになるのです。ローマ8章28節にこう語られているではありませんか。「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益としてくださることを私たちは知っている」イエス様を信じて、神様が万事を益としてくださることを私たちは知っているからです。神の愛と神の偉大さを知る時に、私たちは、この新しい年も、神への畏敬の念に満たされ、畏れかしこみつつ生きることができるのです。生きるべきなのです。

II. 畏敬の理由

そして、この新しい年を展望するに際して、この地上の旅路を畏敬の念をもって生活するその確かな理由、根拠をここで確認しておくことにしましょう。恐れや不安や心配に圧倒されやすい地上の現実生活の只中において、私たちが真の意味で、神様を畏れ敬い生きる理由、根拠をここで三つ確認することができるのです。

①裁かれるから

その畏れの第一の理由は、私たちの信じ信頼する父なる神様から間違いなく裁かれるからなのです。意外に思われるでしょうか。17 節の前半を見てください。

「あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼んでいるのですから、この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい。」

後半の勧告の言葉は、前半がその前提とされています。神への畏怖の念、畏敬の念の背景にあるのは、神の義による裁き、審判なのです。神の本質が善であること、神様が良いお方であること、それゆえに神の愛が強調されるあまりに、神の義、神が不義、過ちを裁く方であることをなおざりにしがちなものです。しかし、ここで、神様の裁きといっても、しっかり覚えておいてください。イエス・キリストの故に、信じる人の罪や罪責は、もはや絶対に裁かれることがないという事実です。救い主イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなり、十字架で神の義の厳しい裁きの全てを引き受けてくださったために、キリストを救い主と信じた者は、死んでも決して最後の審判を受けることはありません。決して決して裁かれないのです。

しかし忘れないでください。生きている間、この地上の生活において、クリスチャンであっても、その行いは公平に裁かれるのです。パウロはガラテヤ6章7節で、はっきりこう明言しました。「思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」私は自分の手痛い経験を思い出します。ウイーン滞在中のことです。ある晩10時過ぎに、私は車を大通りの路上に駐車しておきました。日本では路上駐車はどこでも不可ですが、ウイーンではほとんど何処でも可能なのです。ところが翌朝、私が10時過ぎに停車場所に戻ったところ、何と私の車が見当たりません。レッカー車で移動されていたのです。道路脇の道路標識で分かったことは、その場所は、荷物出し入れする倉庫の入り口付近で、朝8時まで駐車できる制限付きの場所だったことです。車を引き取るのに200ユーロもレッカー車移動代金を支払い、後から更に罰金が請求されてしまいました。ユーロの相場は現在150円前後ですから、3万円も払ったことになります。そこで、もし私が担当官に「私はクリスチャンですから、勘弁してください」と弁解したからといって、果たして聞いてもらえるでしょうか。蒔いた種は刈り取るのです。それは一事が万事です。

神様は私たちを神の子として義をもって扱われ、必要なら懲らしめることをもよしとなされる方なのです。「人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」とは、そればかりではありません。キリスト者の良い行いに対して報いてくださるお方でもあることを意味します。使徒パウロはコリント第一15章、復活の章の最後に、こう激励して言いました。「私の愛する兄弟たち、こういう訳ですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」(58節)自分のした良い行いが、生きている間に直ちに具体的に報われると言うことではありません。パウロはこの激励を復活の真理を語った最後に結んでいます。キリスト者は復活するのです。主が再び来られるとき、信者たちは復活し、主が愛の労苦に必ず報いてくださるのです。私たちは人の評価や人の報いを期待して良い行いをするのではありません。公平に評価し報いてくださる神様に期待して善を行うのです。これこそ、この新しい年を敬虔に畏敬の念を抱いて過ごす第一の理由であります。

②贖(あがな)われたから 

更に、この地上を寄留者として畏敬の念で生活する第二の理由は、先祖伝来の空疎な生活から贖われたからです。18、19節でこのように書かれています。

「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

贖うとは、身代金を払って解放することです、買い戻すことです。今からもう22年も前のことですが、当時の小泉純一郎首相が2002年9月に北朝鮮を訪問、金正日総書記と会談するという衝撃的な事件がありました。北朝鮮との国交を回復する狙いがあったのでしょう。その際に、北朝鮮側から、拉致した日本人は五人が生存し、八人が死亡していると報告を受けました。そして、何と翌月10月に生存していたとされた五人が帰国することができたのです。しかし、その裏で、人道支援の名目で身代金として食料25万トン、500億円相当、それに医薬品11億円相当が、北朝鮮側に払われたと言われています。解放された五人にそれを換算すれば、一人当たり100億円が支払われた勘定です。贖うとはそういう意味です。何故、私たちが神様に畏敬の念を払うのでしょうか。それは、神様が私たちを贖ってくださったからです。私たちを空疎な生活から贖うために、身代金としてキリストの尊い血が流されたからです。イエス・キリストは傷も染みもない小羊のようです。十字架に犠牲としてキリストが死なれたのは、私たちを罪の奴隷から買い戻すためであり、先祖伝来の空疎な生活から買い戻すためであったのです。

この「空しい」とは、マタイオスの訳で、空虚な、空疎な、愚にもつかぬ、無価値な、虚偽の、無益な、何の役にもたたないと言う意味です。「先祖伝来の空しい生活」を具体的に言えば、

その第一は偶像崇拝でしょう。人間の造り出した神々です。神ならぬ神々です。偶像崇拝とは、偶像を自分で操作することで、自分たちの幸福を引き出そうとする試みです。令和6年は辰年、龍が縁起が良いとされ、テレビニュースで京都左京区にある九頭龍大社の参詣模様が放映されていました。順番に拝もうとする参拝者が長い行列を作っているのです。それこそ、馬鹿馬鹿しい空虚な営みではありませんか。日本人として私たちはありとあらゆる偶像礼拝を先祖より伝来されてきたのです。

第二にそれは、知者の議論です。私たち日本人は長い歴史過程を通じて先祖より優れた知的遺産を引き継いできました。日本人は知性と理性を重んじる民族です。日本の文盲率もゼロに等しく、国民全体に対する教育の普及は素晴らしものです。そして、あらゆる分野の研究開発は世界の先端を行くものです。先週、私はネット上で、「日本でキリスト教が1%を超えない理由」というタイトルのホームページを見つけました。日本にはキリスト教が広まる三回のチャンスがあった。その一つはザビエルが到来したとき、二つは明治維新、三つは太平洋戦争終戦。だが、ザビエルにより布教されたが鎖国禁止令で失敗している。では鎖国が解除された明治維新ではどうか。失敗している。その原因は天皇による神道が国教として強制されたからだと説明する人がいるが、では、終戦では信教の自由が保障されたのにも関わらず失敗している。その発表者の結論は、「日本人が昔から理性を重んじる民族であるために、キリスト教には馴染まないからだ」というものでした。私たちは日本の伝統的な文化を軽んじるものではありません。にもかかわらず聖書的な見地からすれば、人間の理性、知性、知者の議論は虚しいのです。先祖伝来の知性、理性は愚かなのです。第一コリント一章の19、20節にこう語られている通りです。「『私は知恵ある者の知恵を滅ぼし悟りある者の悟りを退ける。』知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」何故でしょうか。それは、人間の知恵、理性によっては絶対に神を認めるには至らないからです。

先祖伝来の空しい空疎な生活の第三は、欲情に支配された生活です。この同じ手紙で、ペテロは手紙の読者、異邦人キリスト者たちのかつての生活を取り上げ、4章 3、4節でこう語ります。「かつてあなたがたは、異邦人の好みに任せて、放蕩、情欲、泥酔、馬鹿騒ぎ、暴飲、律法の禁じる偶像礼拝にふけってきましたが、もうそれで十分です。あなたがたがもはやそのような度を越した乱行に加わらないので、あの者たちは驚き怪しみ、そしるのです。」ここで、「あなたがたがもはやそのような度を越した乱行に加わらない」と手紙の聞き手にペテロは率直に言います。何故、彼らが最早それまでのめり込んでいた乱行に加わらないのか。それはイエス・キリストを信じたからなのです。

なぜキリスト者は神を畏れ敬い過ごすのですか。それは、偶像崇拝、神を認識できない理性、それに乱行から贖われたからです。先祖伝来の空疎な生活から贖われたからです。買い戻されたからです。その奴隷であったのに、解放されたからです。それ故に、神を畏れ敬うものとされたのです。

  希望があるから 

神を畏れ敬い生きる生活の更に素晴らしい理由は、私たちの将来には決定的な希望があるからです。21節にはこう記されています。「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。したがって、あなたがたの信仰と希望とは、神にかかっているのです。」

希望とは、あることを未来に成就させようと願い望むことでしょう。キリスト者が地上生活を神を畏れ敬い過ごすのは、キリストを信じることにより、未来に確かな希望の実現成就が保証されたからなのです。それは、キリストが神の大能の力によって復活させられたように、私たちも身体が復活させられることです。キリストは、すでに一度、現れてくださいました。それは罪の赦しを得させる救いをもたらすためです。その同じキリストが再び来られます。その時、信じた者は皆蘇り、新しい身体が与えられることになるのです。私たちは、キリストを復活させられたこのような偉大な神を畏れ敬わないわけにはいきません。

歳を重ねるごとに、肉体的な衰えを止めることはできません。パウロは第二コリント5章1〜5 節にその希望を見事に語っています。「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。それを着たなら、裸ではないことになります。この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に吞み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。」パウロはこう語る中で二度も「私たちは呻いています。」と言って憚(はばか)りません。それが私たちの地上での生きる真実な姿ではありませんか。しかし、希望があるのです。未来に復活が約束されているのです。このような希望を確かにされる神を畏敬の念で崇めないわけにはまいりません。

III. 畏敬の秘訣

このように「畏れをもって生活しなさい」と勧告され、その理由が確かにされたとしても、実際に畏れをもって過ごす秘訣がなければ、ならないでしょう。このテキスト箇所から、少なくとも確かな三つの秘訣が明らかにされていますから、是非、今年これらの秘訣を実行実践してみてください。

①知識による秘訣 

その第一の秘訣は、知識による秘訣とも言うべきものです。18 節に「知ってのとおり」とあるではありませんか。使徒ペテロが語ろうとしたことは、手紙の読者たちがすでに知っていることだと言うのです。ペテロはすでに彼らが知っていることを敢えて取り上げ語るのです。知っていることを知る、それが神を畏れ敬う生活の秘訣です。一人一人、ある日ある場所で、初めて福音に触れ、イエス・キリストを信じる救いの瞬間があったことでしょう。それ以来、聖書を読み始めたでしょう。それ以来、礼拝に出席し説教を聞き続けたことでしょう。それを何週も、何ヶ月も、何年も続けてきたことでしょう。言ってみれば、それは知っていることを知り続ける姿勢です。初代教会で活躍した使徒ヨハネは愛の説教者だったといわれています。こんな逸話があります。エペソで牧師をしていた時、ある礼拝でヨハネが語った主題は「互いに愛し合いなさい」でした。すると次の週も同じ主題でした。それが三週、四週と続いたので役員がヨハネ牧師に、「先生、もうそのテーマは何回も聞いております。どうか別の主題でも語ってください。」と願い出たのです。しかし、それに対して「あなたがたが互いに愛し合うようになるまでは、語り続けます。」とヨハネが答えたというのです。皆さんも気がついていることでしょう。何年も礼拝に出席していると、「あれ、これはいつか聞いたことがあるな」と思うことがきっとあることでしょう。しかし、それでいいのです。私たちは自分の知っているはずの知識をもう一度繰り返し、繰り返し知る必要があるのです。それが神を畏れ敬い生きる生活の秘訣なのです。今年も何回も聖書を読み返してください。神の言葉に聞き続けるようにしましょう。

信仰による秘訣 

更なる秘訣は神を信じる信仰によるものです。21節でペテロは信仰を二度語り強調しています。「あなたがたは、神をキリストによって信じています。」と言い、「あなたがたの信仰と希望とは、神にかかっているのです」キリストを受け入れた最大の所産は、それによって人は神を信じ信頼するようにさせられることです。見えない神を信頼すること、これが畏敬の念に満ちた生活をする秘訣です。

③祈りによる秘訣 

そしていうまでもないこと、それは祈りこそ畏敬の念に生きる最も確かな秘訣であることです。17 節で「あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて裁かれる方を、父と呼んでいるのですから」と読者にペテロは語ります。神様を父と呼ぶ、それは祈りなのです。日毎に「天の父なる神様」と祈り呼びかけること、それが決定的な畏怖の念に満ちた生活の秘訣なのです。

私はあの有名な絵画「祈りの手」の作者アルブレヒト・デューラーの逸話が思い出されます。彼は幼い時から画家になりたいと思っていました。彼は当時有名だった画家のところに訪ねて行き絵を習いたいと言いました。その画家のところにはデューラーと同じ年頃の書生が一人いましたが、彼らはすぐに仲良くなりました。ところが二人はとても貧しかったので絵を描くどころか毎日の生活さえも大変な状態でした。ある日、デューラーの友達は自分たちの状況を案じて一人が絵を描いて、もう一人がお金を稼ごうと提案しました。そして、また後で役割を交代すればいいと言いました。初めはためらっていたデューラーでしたが、そうしなければ二人とも絵を諦めるしかないと言った友達の言葉を聞いて提案を受け入れることにしました。まずは友達の方から先に金を稼ぎました。その間、デューラーは一生懸命絵を描いて何年か後には展覧会を開くほどまでに才能を開花させました。作品が初めて売れた日、デューラーは友達を訪ねました。しかし、彼は辛い労働のせいで指が曲がってしまい絵筆を持つことができなくなってしまいました。デューラーはとてもショックを受け深い悲しみに落ちてしまいました。友達の犠牲によって、自分は成功できたと思ったからです。そんな、ある日またデューラーが友達を訪ねると友達はデューラーのために祈っているところでした。「あっ、あの手!今の私があるのはあの手だ。あの手を描こう。そして友達のありがたい犠牲を世の全ての人に伝えよう。」こうして生まれたのが、あの有名な「祈りの手」だそうです。今年も手を重ね合わせて神様にイエス様のお名前により祈りを捧げようではありませんか。そして、この新しい年を神様を畏れ敬い過ごす年とすることにしましょう。