331日礼拝説教

「復活開示の未来」  マタイ28章1〜10節

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」

女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。

 キリストが死から蘇り、光り輝く天使が出現するや、監視のローマ兵達は驚愕し卒倒してしまった。

香油を埋葬のため遺体に塗油するつもりで墓に来た二人の女達に、天使は『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』と弟子達への伝言を託した。

イエスの驚くべき復活の事実は、イエスが正真正銘の神であることを確証し、またイエスを信じる者たちの救いの確かさを確証する。十字架の死は人類救済の代償行為であり、キリストの義が本来不義である信者に転嫁されることにより、神と正しい関係に入れられることになる。

そればかりではない。イエスの復活は初穂であり、これはそれによって信者達の復活の保証でもある。主は「私は蘇りであり、復活である」と言われた。

人は誰でもイエスを主と信じるなら死んでも復活する恵みに浴する。「終わりのラッパの響きとともに、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます」(第一コリント15:52)何という恩恵か。

その復活のイエスは、蘇られて弟子達に先駆けガリラヤへ行かれると約束された。主イエスは我々に先立ち待っておられる神であることを明らかにされる。エペソ1:4によれば、主は天地万物創造前から私たちを待たれた。詩篇139:16によれば、主は誕生前から胎児の私たちを待たれた。ヨハネ14:1〜3によれば、主は私たちが死の間際でも待たれることが明らかである。ガリラヤは弟子達の生活の場であったことからして、主は私たちの現在生きる現場に待って準備されるお方でもある。

この復活の主イエスを信じる者は心の目でお目にかかる。そこには無上の喜悦が取り巻く状況がどうであれ、泉のように湧出する。間接的ではなく直接的に会うことでファースト・ハンドの主を知る知識を会得する。

ガリラヤで主は弟子達に「行って全ての民を弟子とせよ」と使命課題をも付託された。束の間の人生を何の為に生きるのか、真剣に自問する者に主は応えてくださる。「あの方にお目にかかれる」何という至福か、感謝しよう。

3月24日礼拝説教

「わたしがそれだ」  ヨハネ18章1〜11節

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。

イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明や灯や武器を手にしていた。

イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「誰を捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「私である」と言われた。

イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「私である」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。

そこで、イエスが「誰を捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。

イエスは言われた。「『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」とイエスが言われた言葉が実現するためであった。

シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした。僕の名はマルコスであった。

イエスはペトロに言われた。「剣を鞘に納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

 「ナザレのイエスだ」と特定逮捕するため、詰めかけた多数の武装兵士の前に、毅然として進み出た主イエスは、ただ一言「私である」と申し出られた。人間としてのイエスは、軽蔑されたナザレ出身であることを問題なく自分だと同定し、自分を他人に自由に投げかけることができたのです。

人の大切な基本は、ありのままの自己に気づき、自分を肯定する価値を知ることです。自分が誰であるかが曖昧である、自己イメージが低くい、相手が自分をどう思うか無意識に気になりすぎる、それはアイデンティティ(自己同一性)の問題です。自分で思う自分と他人の思う自分とが、一定でない、一致しないことが重なると自信喪失につながりかねません。

主イエスほど誤解され、誤って評価され、批判された人はいませんが、それにもかかわらず誰の前でも自由であり得た秘訣は、父なる神と常に交わり、絶対的な評価を得ていたからです。主イエスが一言「私である」と発言すると屈強な数百人のローマ兵士たちが、後退りして転倒した事実は、主の神性の顕現です。

この「私である」は、出エジプト記3章の「燃える柴」による神啓示に直結します。主なる神はモーセに「『私はいる』という者である」とその御名を啓示されました。この「私はいる」がヘブライ語でヤハウエであり、ギリシャ語で表せばエゴ・エイミなのです。完全武装したローマ兵士たちが、ぶっ倒れたのは、神の顕現が原因でした。

主イエスは、真の神が人間の像で現れた方であり、自存し、永遠であり、万物の根源なる偉大な神なのです。二度目に主が「私である」と語られ「私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と命じられたことには、この人となられた神が、私たちをケアされる羊飼いであることが示されます。主は「私は良い羊飼いである」と言われた通りです。主独り逮捕され、弟子たちは無事に逃げました。

主は真実なお方であり、耐えられない試練に遭わせないばかりか、必ず逃れの道も備えてくださいます。神に愛されている自分を肯定し、偉大な神に信頼し、試練を乗り越えるのです。

317日礼拝説教

「一粒の麦」  ヨハネ12章20〜26節

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。この人たちが、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとに来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

イエスはお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。

私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

ギリシャ人たちが、主に面会を求めたのは、巡礼者で賑わう過越祭の時です。祈願、感謝で神々を祀る祭りは古今東西、人間共通の慣わしで、八百万の神々を祀る日本は祭りの宝庫です。会堂に集い、律法遵守した異邦人は当時、神を恐れる者と呼ばれました。

祖国ギリシャから遠路旅し、エルサレム神殿に礼拝に来た彼らが主イエスに会いたいと切望したのは、ユダヤ教に改宗しても満たされない心の渇きがあったからでしょうか。弟子のピリポに取り次ぎを頼んだのは、彼の名がギリシャ名でギリシャ語も解したからでしょう。ピリポはアンデレに相談し、彼らを主イエスに紹介する務めを果たします。

アンデレは自分の兄弟のペテロを、ピリポはナタナエルをすでにイエスに紹介していた個人伝道の模範でした。人は誰かの手引きにより信仰に導かれるもの、私たちも渇き求める人々に備えある者でありたいものです。

その弟子達に主は「人の子が栄光を受ける時が来た」と告げられました。神様が御子を評価し栄誉を与える時こそ、十字架の殉難なのです。主はご自分を一粒の麦に喩え、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と受難の目的を語られました。

十字架刑はローマ帝国の極悪刑ですが、主の死は罪人である私たちの身代わりの死でした。主の十字架刑の死は、神の義と愛とを同時に満足させる死です。人類の罪を罰せざるを得ない神の義と、人類を赦し受け入れ祝福する神の愛とが、同時に十字架によって満たされたのです。

主の十字架の死は、罪の奴隷である私たちを買い戻すための身代金でした。神が十字架の受難を御子の栄光とされたのは、その驚くばかりの救いが十字架に込められているからです。

主はその十字架を目前に、弟子達に自分を捨て、主に仕える者となることを勧告されます。自己愛、自己中心の弊害を避け、主に奉仕する秘訣はイエス様に従う信仰の従順にあります。イエスに仕える具体性は、人の必要に奉仕し、自分の時間と財と能力を進んで提供することです。主はあなたを必要とされるのです。

310日礼拝説教

「ナルドの香油」  ヨハネ12章18節

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に席に着いた人々の中にいた。

その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。

弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。

イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」

 ベタニア村の食事会の席で、イエス様の御足にマリアにより注がられた高価なナルドの香油の香りは家中いっぱいに溢れました。人間の生き方で、最も価値あるのは信仰と希望と愛であり、中でも最も大切で永遠に残るのは愛です。

ラザロは主の食卓に同席することで愛の勇気を示しました。主によって死から甦らされた評判のラザロは、近隣の人々の好奇の的となることを嫌いました。しかし彼の復活で多くの人々がイエスを信じたことで、ユダヤ教指導者は彼を殺害する計画をしたのですが、証しのため同席を恐れません。彼の勇気、それはイエス様への信仰と愛の結晶でした。

姉のマルタは、信仰と愛がもてなしの奉仕として結晶しています。ルカ10章でのマルタは、妹のマリアを痛烈に批判したものです。ただ何もせずにイエス様の足元に座り傾聴するマリアの姿に我慢ができませんでした。

ここには、マリアが高価な香油を注ぎ出すマリアに我慢ならず、それは浪費で無駄だと厳しく批判したユダがいました。マルタとユダには、人の物の見方の狭さを見せられます。

物の見方は、その人の内にあるものの範囲からなされるのが常です。マルタは自分の機敏な接待の能力の範囲でマリアを批判し、ユダは自分の経済観念と能力の範囲でマリアを批判します。皮肉にもユダは経済の賜物が金銭愛へ、金銭愛から盗みへ、盗みから裏切りへとずれ落ち、首吊り自殺で終わります。

マルタは感謝なことに誘惑に勝利し、喜びをもってひたすら奉仕に余念なく専念できました。「私はこう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、本当に重要なことを見分けることができますように。」というパウロの祈りがあります。

マリアの主への愛は、香油を注ぐことで王と即位されるイエスを洞察し、そればかりか、一週間後に迫る十字架の受難を洞察したマリアは、主の御体の埋葬の香油注ぎを先取りしました。そして、御足への香油注ぎで、緊迫する状況でもベタニヤ村に足を運ばれた主に、いつも共におられるインマヌエルをもマリアは愛により洞察できたのです。

33日礼拝説教

「永遠の命の言葉」  ヨハネ6章60〜71節

弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。

しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、

「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。

イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。

シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。

あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」

イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 ペテロは12人を代表し、「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」と告白しました。これはヨハネ版の信仰告白で、神の聖者とはメシアの呼称です。一方では、「これはひどい言葉だ」と痛烈に批判し、イエスから離れて行く弟子たちが多数ありました。同じ奇跡を目撃し、同じ教示を聞きながら、どうして信従と離反が同時進行したのでしょうか。

5千人のパンの給食奇跡を受け、主は「私が命のパンである」と比喩的にご自身を啓示され、そればかりか、「私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である」とも語られました。ナザレの大工ヨセフの倅であることを知っていた群衆は、イエスがご自分を「天から降ったパンである」と言われただけでも、いささか躓いていたのに、「私の肉を食べ、私の血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」とまで断言するに至っては、我慢できなくなってしまったのです。

しかし、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むことは、切迫していた十字架の受難の予告であります。文字通りイエスの身体は十字架で切り裂かれ、血潮が流されました。それは私たちの罪の赦しを得させるための贖いの犠牲の受難でした。このイエスを救い主と信じる者には永遠の命が賜物として与えられるのです。

12名の弟子達は、この命にすでに預かっていることを感謝し、イエスを救い主と告白したのです。永遠の命とは、信じる者が神の恵みにより滅びず、渇かず、裁かれないことです。喜びに溢れ、復活の希望が与えられ、神を知り、御子を知る深い交わりに入れられる祝福です。

自然環境に適応する肉体的生命、社会環境に適応する魂の社会的生命だけでなく、罪によって神との交わりを失った人間は、神を個人的に人格的に知ることのできる霊的命を付与されるのです。

最初から信じない人、信じても理由を付け離反する人、召されても裏切る人がいます。しかし、「主よ、私たちは誰のところへ行けましょう」とイエスへのひたすらな忠誠を保つ人はなんと幸いでしょうか。聖餐式においてその幸いを確認しましょう。