430日礼拝説教

「飢え渇きの癒し」  ヨハネ6章34〜40節

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と言うと、

イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたは私を見ているのに、信じない。

父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。

私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」

5千人を僅か二匹の魚と五つのパンで満腹させられた主が、「私が命のパンである。」と言われます。人を生きた物としたのは命の息を吹き入れ創造された神です。環境に適応する力の与えられている人間の飢え渇きを、真の意味で癒すのは神であることを主は明らかにされたのです。

人には肉体的な飢え渇きがあります。人には精神的な飢え渇きもあります。それ以上に、人には霊的な飢え渇きがあるのです。肉体的な飢え渇きが満たされただけで人は満足しません。精神的な飢え渇きが満たされたとしても、満足することはできません。主がサマリヤの女に「この水を飲む者は誰でもまた渇く。」と言われた通りです。神に向けて造られた人間は、神に向かうまでは真の意味で満足することはできないのです。

教理問答の第一問は、「人生の目的は何ですか?」で、その解答は「人生の目的は神を知ること」です。第二問は、「人間の幸福は何ですか?」であり、その解答も「人間の幸福は神を知ること」です。最初の人アダムの罪により堕落した私たち人間は、神を知ることによってのみ本質的な飢え渇きが癒されるのです。

神はすべての人の飢え渇きを癒すご計画を実行に移し、御子イエス様を遣わされました。パンを食べ、消化して飢えが満たされるように、神が人と成られたイエス様を受け入れ信じることにより、根本的な飢え渇きが癒やされるのです。イエス様を信じるとは、そのお語りくださる言葉を聞いて信頼することです。

主は「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言われました。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉により生きるものだからです。イエス様のお言葉が命のパンです。弟子のペテロは「主よ。私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。」と告白しました。主イエスを認め、近づき、信じて祈り交わり永遠の命に預かりましょう。

私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。

416日礼拝説教

「目開かれ心燃え」  ルカ24章13〜35節

この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパと言う人が答えた。

「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」

イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。

「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡し、十字架につけてしまったのです。私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。

「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

こう話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 御復活の主イエス様は、エマオ村への二人の旅人に現れ、生きておられることを確証されました。後ろから近づかれた方が主イエス様であると気づかず旅を続ける二人の旅人の姿は、今を生きる私たちに重なります。イエス様は私たちの人生の行き道の同伴者であり、私たちがそれとも知らずにずっと一緒に居てくださる方なのです。生まれた瞬間から主は共におられ、いや、天地が創造される以前から私たちをご存知であったと聖書は教えます。

その日にエルサレムで起こった出来事を語り合っていた二人の旅人に、「その話は何のことですか」と関心を示され、彼らの語る話しに耳を傾ける主は、私たちを心の深みまで理解してくださる問案傾聴者でもあられます。

問いかけられた主に、立ち止まって語り出した二人の顔は暗く悲しげでした。彼らはエルサレムで起こった出来事で痛く失望し、かつまた困惑していました。この方こそ待望のメシアだと期待したイエス様が、権力者たちの手により十字架で処刑されてしまいました。仲間の女たちが墓に出向いて香油をその御遺体に塗ろうとすれば、墓は空であるばかりか、天使が現れ「イエスは生きておられる」と告げられたとも言う。人は心病み痛む時は辛いものです。しかし、イエス様は優しく問い掛け、忍耐強く傾聴くださる方です。神様の沈黙は愛するがゆえの傾聴なのです。そこで心の開かれた旅人たちに主は御言葉を解き明かされました。

失望、落胆、幻滅、困惑、苦しみの解決の鍵は御言葉にあります。イエス様は聖書の講解者として、私たちに分かりやすく解き明かしてくださる方です。到着したエマオ村の夕食の席で主がパンを裂くと、一瞬にして彼らはイエス様だと分かりました。イエス様は今も教会の聖餐式に臨席され共に食しご自身を現される方です。主イエス様は生きておられます。

4月9日礼拝説教

「思い出しなさい」  ルカ24章1〜12節

そして、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。すると、石が墓から転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに立った。

女たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか。」

そこで、女たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。女たちはこれらのことを使徒たちに話した。

しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。

しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

十字架で息絶えたイエス様の亡骸に香油を塗ることで、埋葬の最後の手入れをしようと墓に来た婦人達に、輝く天使は、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」と鋭く彼らの行動の矛盾を突きました。

墓は死者の埋葬する場所で、人がかつては生きていたが、今は死んでいないことの印です。墓が空(から)であったのは、婦人達が墓を間違えたのでもなく、弟子達が密かに盗んだからでもなく、主がその朝、すでに蘇り生きておられたからです。

イエス様をはるか古代の偉大な英雄、優れた教師、立派な道徳家であったと、私たちが単に尊敬しているに過ぎなければ、それは矛盾です。天使は、「あの方は、復活なさったのだ。」と告げます。空の墓の真実は、キリストの復活です。明瞭に「人の子は三日目に復活する」とあらかじめ告知されたイエス様のお言葉が実証されたのです。主のお言葉は信頼して間違いありません。

ローマ1章4節は、復活によるイエス様の神性を確証し、ローマ4章25節は、復活により罪人が義とされる主の業(わざ)の有効性を確証します。イエス様は復活し昇天され、今や大祭司として務められます。イエス様の復活により、主を信じる者の復活が保証されました。イエス様は、甦りであり命であり、信じる者は死んでも生きるのです。主は復活され、いつまでも生きておられます。「あの方は、ここにはおられない。」

空の墓物語に続く主の顕現物語で、弟子達に様々な仕方で現れてくださるイエス様が証言されています。何処に居られますか。いつでも何処にでも信じる者と共に居られます。

空の墓を後にし、婦人達が急ぎ使徒たちに報告したとき、厳しい現実が浮上しました。彼らはその話しが馬鹿げたことに思われたからです。復活は信じ難いのです。天使は、その不信の壁を突き破る秘訣を、主が「お話しになったことを思い出しなさい。」と勧告します。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起きます。

厳しい取り巻く現実の重圧の只中で、お言葉を思い出すことが肝心です。み言葉に傾聴し思い出そうではありませんか。

42日礼拝説教

「十字架の賭博者」  ルカ23章32〜43節

ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

〔その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」〕

人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。民衆は立って見つめていた。

議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた罪状書きも掲げてあった。

はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。 同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。

するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。

「人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った」十字架の下で、四人のローマ兵たちは、イエス様の五つの所持品を役得として分け合っていた。くじ引きは、賭けで勝負を争う賭博です。サイコロを振るそのローマ兵の姿は、人間の生きる姿を投影しています。

競輪、競馬、競艇、宝くじ、金を賭けた麻雀、ゴルフ、トランプ、チェスや将棋、株、相場、保険、カジノと賭けは生活に浸透しています。

人は何かに賭けて生きるものです。ある人はまた「人生は賭けだ」と言い切ります。それは人の生きる人生に偶然性、不確実性がつきもので、物事の結果が必ずしも予測通りにならないからなのでしょう。

しかし、ここに人間的には全く負けでしかない十字架に勝負を賭けた方がおりました。サイコロを振るうローマ兵が十字架に釘付けしたイエス様です。大祭司に裁かれ、総督ピラトに死刑を宣告され、ローマ兵に鞭打たれ、炎天下に磔刑に処せられたイエス様は、表面的には人に殺されたかのようです。しかし、イエス様は自ら命を捨てることを決断し、十字架の死に命を賭けたのです。

十字架上の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」との祈りは大祭司のとりなしです。イエス様は罪なきご自分の血を携え、大祭司として天の至聖所に入り、人類の罪の赦しを得させるため、十字架に付けられました。

罪とは、私たち人間が神との関係が破れたまま、何のために生きるのか分からずに生きることです。十字架に賭けられたイエス様は、神の大能の力により復活し勝利されました。

この賭けに勝利されるイエス様に死ぬ間際に賭けた人物こそ、イエス様の十字架の脇に同時に磔られた犯罪人の一人でした。もう一人の犯罪人はイエス様に悪口をつきましたが、彼は「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と謙虚に申し出ました。主イエスは彼を受け入れ「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と約束されました。

我々は、二人の罪人のどちらであろうか。主を信じて楽園に賭けましょう。