7月3日礼拝説教(詳細)

「子供たちのパン」  マルコ7章24〜30節

さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。

この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。

イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。

すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。

そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。

そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 今日、読んでいただいた聖書箇所は、キリストがティルス地方に行かれた際に起こった出来事で、フェニキアの女の悪霊に憑かれた娘が癒された物語です。

キリストが何故、フェニキアに行かれたのか、また何故、ある家に入り誰にも知られたくないと思われたのか、その理由はここでは明らかにされていません。先週水曜日の祈祷会で、男子は一階ホールで集まり祈ったのですが、終わってその帰り際に、一人の兄弟が、棚の雑誌を指し示し、「先生、今月の『舟の右』雑誌の特集は牧師の休暇になっていますよ」と注意を促してくれました。可能性の一つとしては、食事する暇もなかったキリストと弟子たちは、しばし休息するために休暇で国外に出たのかもしれません。或いは、何かと敵対する律法学者との論争を避けるためであったか、それとも、自分の不倫を糾弾した洗礼者ヨハネを斬首したガリラヤ領主のヘロデ王が、ヨハネの再来ではと恐れて殺害しようとするのを避けるためであったのかもしれません。ところが結果的には、人々に気づかれてしまい、しかも、いち早く駆けつけたのがフェニキアの女でした。フェニキアと言えば現在のレバノンの辺りと思えば見当がつきますね。この女には可愛い娘があり、しかもその娘は気の毒にも悪霊に憑かれ苦しめられていたのです。だから何としても癒して欲しいと、女は足元にひれ伏し、キリストに懇願しているのです。すると、その女に対して、キリストは「先ず、子供たちに十分に食べさせるべきである。」と言われました。そればかりか続けて「子供たちのパンを取って、子犬に投げてやるのはよくない。」とまで言われたのです。

 このキリストの短い語りかけで、「子供たち」と「子犬」が対照的ですね。場所が場所、ユダヤではなくフェニキアですから、「子供たち」がユダヤ人を表し、「子犬」が異邦人を意味して語られていることは明らかでしょう。聖書では、イスラエルが神の子と呼ばれていました。モーセが、奴隷であったイスラエルの民を解放させるため、エジプトのパロに遣わされた時、こう言えと命じられています。「主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。』」出エジ4章22節です。また預言者ホセアも11章1節に、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」と主の言葉を語っています。旧約聖書によれば、神の目にイスラエルの民は神の子なのです。「神の子」とは明らかに特別な権利ですね。聖書によれば、イスラエルの民は神から特別な権利を与えられた宝の民であったのです。

誰かの子供であるということは、その親子関係が普通、正常であれば、その子供には、他の子供たちとは違って、特権があるということになりますね。第一に、親から愛される特権が子供にはあるでしょう。第二に、親から保護され守られる特権も子供にはあります。第三に、親から育てられ教えられる特権も子供には備わっています。そればかりか、親の資産を必ず相続することになる特権が子供にはありますね。

私が60歳から70歳まで、オーストリアの首都ウイ—ンで10年間、教会牧師として奉仕している間に、私の父が102歳で逝去いたしました。長生きしたのです。当然、遺産相続が浮上しました。私は五人兄弟で、上に兄二人、姉二人がいました。姉二人は独身を通していたため、父は姉二人には、多く与えるように遺言していたので、姉たちには各々に600万円、男達は300万円と決まり、分配されることになりました。今思い出しても、その父の遺産がウイ—ン宣教でどれほど役立ったか知れません。それは父の子供としての特権でした。

しかし、イスラエルの民の神の子の特権は比較できない驚くべき豊かなものです。天地の創造者であり、万物の所有者の子なのですから。イスラエルは特別に神に愛され、神に保護され、神に育てられ、神の嗣業を受け継ぐ特権が与えられていたのです。ですから、主イエスが、「先ず、子供たちに十分に食べさせるべきである。」と言われたとき、それはすべて物事の順序として、神の子であるイスラエルが優先的に第一に扱われるということを意味したのです。

 では何ゆえに、イスラエルの民が特権のある神の子とされたのでしょうか。神の子とされる何か特別な条件を彼らが満たし、優れていたからでしょうか。普通、私たちの生活の中での親子関係では、子供となる条件は二つしかありませんね。一つは父と母の間に誕生することでしょう。もう一つは養子縁組によって法律的に子供とされることです。しかし、イスラエル民族が神の子とされた条件は、そのどれでもありませんでした。彼らが神の子とされた条件は、ただ一つ、一方的な神の選びだったのです。それは、創世記12章のアブラハムに対する神の召しで明らかで、神はアブラハムを呼び出され、彼にこう言われました。2節「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」これは一方的な神の選び以外のなにものでもありません。このアブラハムからイサクが生まれ、イサクにヤコブとエサウが生まれ、ヤコブから12部族が生まれ、イスラエル民族が、長い歴史の過程で形成されたのです。ところが実は、その神の選びには、人類救済の遠大な計画が込められていたのですね。最初に創造された人、アダムとエバが罪を犯し、神から離反し堕落したため、この人類を救済するために、一つの民族を造り、その民族からキリストを、救い種をこの世に送り出すための計画だったのです。そして、驚くことに、キリストがこの世にこられ、この神の計画が実現した今現在、神の子となる全く新しい条件が明らかにされました。それが、キリストを信じる信仰なのです。

ヨハネ1章10〜13節にこう記されています。「(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。」この言とは御子イエス様ですね。『その名を信じる人々には、神の子となる特権を与えた』即ち、御子イエスを主と信じる、それは霊的な誕生であり、ただその条件を満たせば誰でも神の子となる特権に預かることができるのです。キリストがフェニキアの女に語ったまさにそのとき、女は「子供」ではなく「子犬」でした。犬は犬でも「食卓の下の子犬」ですから、可愛い愛玩動物を意味してはいますが、この時、「子犬」とは異邦人のことを意味しており、罪により彼女は全く特権から外れた人でした。ところが、この女は子犬にもかかわらず、即ち異邦人であるにもかかわらず、神の子の特権に預かることができたのです。それは、彼女がイエスを信じたからです。心に救い主として受け入れたからです。「主よ。食卓の子犬でも、子供のパン屑はいただきます。」主イエスは、「その言葉で十分です。」と、この女の告白に、生きた信仰を認められました。フェニキアの女は、イエスが神から遣わされたキリストであることを素直に、純粋に受け入れたのです。その信仰によってその瞬間、女は神の子とされたのです。キリストは、やがて、すべての人の罪の赦し贖いのため、十字架に架けられ、復活されます。そして、今や、誰でもキリストを受け入れ信じるものは罪赦され、神の子の特権に預かることができるのです。そう言う時代に私たちが生きていることは感謝なことではないですか。

 フェニキアの女は、キリストを信じる信仰を告白した瞬間に神の子とされ、それによって、具体的に、神の子の祝福に預かることができました。子どもであれば、必要なパンをお腹一杯に食べさせられるのです。フェニキアの女は、信仰により神の子とされたので、もはや「パン屑」ではなく、「パン」を十分に食べさせていただくことができたのです。「パン」はここで原語では「アルトス」が使われ、これは、人間の生活の必要を表す象徴的な言葉であります。礼拝でも私たちが唱和する主の祈りに「私たちに日ごとの糧を今日お与えください。」と祈るよう教えられていますね。この「糧」の原語は、このアルトス、パンなのです。「パンを今日お与えください」を「糧を」に意訳されているのです。神の子とされた者は、父なる神に日々の必要の満たしを、それが何であれ、期待することが許されているのです。そして、今日の聖書箇所から、そのフェニキアの女の必要が、娘の悪霊からの解放、即ち癒しであったことが分かります。主イエスは言われました、「悪霊はあなたの娘から出て行った。」どうでしょうか、女が帰宅すると、その時、娘は遠く離れた所に居たにもかかわらず、すでに癒され解放されていたのでした。神の子とされた者達の沢山の祝福の一つは、病気が癒されることですね。主なる神は、今日も病人を癒すことを願っておられことをはっきりと確認しておきましょう。かつて主は、イスラエルの民に(出15:26)「わたしは主であって、あなたを癒すものである。」と言われました。神の子であったイスラエルに、神がそう言われたとすれば、信仰により今現在、神の子とされた者たちにも、主は同じように語っておられるのです。現代においても、医療従事者や適切な薬も癒しに有効であると同時に、主は、医者の中の医者なのであり、信頼する者の期待に応え癒される方なのです。

 癒しのためには、私たちの信仰を行動に移すことも必要ですね。フェニキアの女は、「すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足元にひれ伏した」と、その信仰を祈り求めることで行動に移しています。全ての人が瞬時に癒されるということではないでしょう。いつでも完全に癒される訳でもありません。しかしながら、癒される資格があるとか、ないとかそういう問題ではありません。私たちに求められること、必要なことは、病気の癒しと解放のために、主イエスに率直に謙遜に、執拗に祈ることであります。癒しのためには、信じるクリスチャン一人一人に聖霊の力が与えられていますから、全てのクリスチャンは癒しのために祈ることができるのです。主は、言われました「ただ聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。」その聖霊の力には、病気を癒す力も含まれていることは間違いないのです。人を癒すのは人間の力ではありません、聖霊の力です。私たちの責任は、聖霊に心を開き、信じ認め、力を受け取り、信仰を行動に移し、具体的に祈ることです。そして、聖霊が臨在され、「神は癒してくださる」と信じる信仰のある人々で、癒しの場所を作ることが必要になりますね。主イエスが、ヤイロの12歳の娘を蘇生させた時もそうでした。主が駆けつけた時にはすで死んでいたのですが、その家から不信仰な人は外に出し、3人の弟子と両親だけを連れて中に入り祈られました。(マルコ5章21〜43節)

これから毎週礼拝の後に、ゲストルームで具体的な必要のために祈りますので、一緒に祈りたい方は、是非参加してください。ケアセルの家庭集会でも祈ることにしましょう。午後2時からの第二礼拝でも、友の会でも祈りますので、期待してください。

そして、いつでも癒しのために心を開いておきましょう。どこに居ても、それが道端でも、病人の人には希望されれば癒しの祈りをすることにしましょう。今週もきっと、必要とする方を主が備えておかれることでしょう。

 

 すでに、ジョン・ウインバー牧師の癒しの証を以前に紹介していますが、彼が1983年にスウエーデンのゲーテボルク市のバプテスト教会であった四日間の癒しのセミナーでの報告があります。この町は、若い頃に北海道で一緒に奉仕したスエーデン宣教師のヘルベル先生が引退された後に住まわれた町で、欧州在住中に家内と一度訪問したことのある港町です。そのセミナーには300人が出席していましたが、最初の二日間は、みなさんはあまり乗り気でなかったそうです。ところが三日目に、彼は「神が、左胸に癌を患っている人を癒そうとしておられると感じました。」そこで、会衆に「神は今、左胸を癌に侵された方を癒そうとしておられます。」と語りました。聖霊の賜物の一つで「知識の言葉」が与えられたのです。すると二階座席の女性が立ち上がり、「サンフランシスコにいる自分の友人が左胸に癌を患い、そのため断食してとりなししているところだ」と語りました。それには皆どよめき、これはすごいという雰囲気になりました。ところが、ウインバー牧師は、知識の言葉により、その女性がこの聴衆の中にいると感じていたのです。そこで彼が再び語りました、「主が言っておられるのは、どうも今の方ではないようです。癒されるべき女性は、今この場所におられます。入院しておられて、今日の朝だけ、外出許可をもらって来た方です。その方は60歳です。私の真ん前か、少し右側に座っておられるようです。」すると、黒い毛皮のコートをまとった女性が立ち上がり、スエーデン語で「私です。私です。」と応えたのです。祈りますから前に出てくださいと彼は彼女を前に招き、一緒に祈ってくれる方を会場から募りました。すると、一列目の三人の男性が協力を申し出、二人が後ろに一人が前に立ちました。女性ですから胸に手を置いて祈れないので、ウインバー牧師は、女性に自分の手で胸を覆い、その上から男性に手を置いて祈ってもらうがどうかと尋ねました。後ろの二人は彼女の肩に手を置き、彼が「まず私が祈ります。」と言うや、その時、通訳者がまだ訳さないうちに、心に信仰の言葉が湧き上がったのです。彼が英語でそれを口に出し、「イエスの御名によって癒されなさい。」と発言したところ、それと同時に、神の力が一気にくだり、四人に触れたのです。彼らの体が揺れ始め、次の瞬間、四人とも床に倒れてしまいました。それから倒れた四人は、泣きながら床の上で神を賛美したとのことで、後で完全に癒されたことが報告されたということです。素晴らしいですね。「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも同じです。」(ヘブル13章8節)イエスをキリストと信じる私たちを、神は恵みにより神の子としてくださっておられます。その特権を活かし、その祝福に預かろうではありませんか。そうすることが今週も許されていることを感謝しましょう。