2月27日礼拝説教

「子供たちのパン」  マルコ7章24〜30節

さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。

この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。

イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。

すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。

そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。

そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 主は、国外のティルス地方に移動すると、その娘が悪霊に苦しむフェニキアの女から娘の癒しを懇願された。それに対し「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。」と告げ、続けて「子どもたちのパンを取って、子犬に投げてやるのはよくない。」と素気無く願いを退けられる。

聖書には、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」とイスラエルが神の子だと証言されている。彼らには神に愛され、保護され、養育され、嗣業を約束される権利があった。主が「まず、子どもたちに」と言われる時、神の経綸では選民であるイスラエルが優先されることが意味された。

彼らが神の子とされた条件は、彼ら自身には何もなく、ただ一方的な神の選びだった。神は一人アブラハムを選び出し、歴史の行程で神の民を形成された。実はそこに、アダム以来の罪により堕落した全人類救済のため、この民からメシアを送り出す計画が込められていた。

そして感謝すべきことに、主イエスの到来で救いが成就した結果、神の子となる全く新しい条件が開示された。それは御子を信じ受け入れる信仰である。主は「ご自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与え」られる。それは霊的な誕生である。

気の毒な母親が嘆願した時には、彼女は子犬であり異邦人であった。だが、彼女が「主よ。食卓の子犬でも、子供のパン屑はいただきます。」と謙遜に信仰を持って食い下がった瞬間、彼女は神の子とされ、子どもたちのパンに預かる特権を得ることができたのだ。主は「その言葉で十分です。」と信仰に即応え、娘は完全に癒されることとなった。

パンは人の必要の全てを象徴する。主の祈りで「日毎の糧を与えたまえ」と祈る糧の原語はパンである。日々の必要の一つには病気の癒し、悪霊抑圧からの解放が確かにある。可愛い娘が解放され瞬時に癒されている。

今現在、神の子とされた我らにも「私は主であってあなたを癒す者である」と主は約束しておられる。信仰を行動に移し病者のため祈ろうではないか。

2月20日礼拝説教

「押し流されない」  ヘブル2章1〜4節

こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。

というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。

この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。

 2018年9月4日、瞬間風速58・1mの強風に煽られ、走錨状態に陥ったタンカー宝運丸は、関空連絡橋に激突してしまった。ヘブル書は、その書かれた時代のキリスト者が、霊的に漂流、破船し沈没しかかっていたことを通し、今を生きる私たちに、「だから、私たちは押し流されないように、聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。」と警告する。

キリスト者とは、キリストの十字架の死と復活による罪の贖い、罪の赦しにより神との関係が正しくされた者。だが、何らかの圧力、誘惑により倦み疲れ、信仰の破船に遭遇する危険は避けられない。

神は人類救済の計画の最終段階として、御子イエスを救い主として遣わされ、御子によって最後的に語りかけられた。信仰はその語りかけを聞くことにより、聞くことはキリストの言葉により、人はキリストを信じて救われる。

御子イエスは万物の創造者、相続者、神の栄光の輝き、神の本質の現れ、万物の保持者であられるにもかかわらず、私たちと同じ人と成り、私たちの罪責を引き受け、身代わりとなって十字架に罪の赦しを完成してくださった。信じて受ける救いは文字通り大いなる救いである。ここで「聞いたことにいっそう注意を払う」とは、船の航行で投錨することを意味している。私たちが聞いたこと、即ち、十字架の福音にしっかりと信仰の錨を降ろすなら、凄まじく荒れ狂ういかなる嵐にも押し流されることはない。

神が歴史上に成し遂げられた救いの業は、御子により、御子から直接聞いた12使徒により証言され、そればかりか神ご自身が、聖霊と奇跡により保障される堅固な救いの岩だ。

具体的に信仰の錨を降ろすとは、生活の優先順位に神を第一とすること、神の語りかけに固執して傾聴すること、罪の赦しのため十字架の受難を耐えられた主イエスの御名をそれこそ夢中で賛美すること、自分に分け与えられている聖霊の種々の賜物を生かして人々に奉仕することにある。更に、不思議で応える神に、個々の必要を祈ることにある。

押し流されないよう信仰の錨をしっかり降ろそうではないか。

213日礼拝説教

「一線超える信仰」  マルコ2章1〜12節

幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。

すると、人々がひとりの体の麻痺した人を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、体の麻痺した人を寝かせたまま、床をつりおろした。

イエスは彼らの信仰を見て、体の麻痺した人に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。

ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。

イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。体の麻痺した人に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、体の麻痺した人にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。

すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。

 この奇想天外な中風の癒しは、私たち読者には非常に印象的である。語弊あるが、この出来事の至る所が一線を超えていると言わざるを得ない。

主イエスの居られたカペナウムの家に、惨めな中風を四人の友人が、ワラ蒲團の四隅を担い連れ来たが、戸口まで家は隙間なく人で溢れ、阻害されてしまった。すると、やおら屋根に登り、穴を掘り開け、主イエスの前に病者を吊り降ろし、結果的に癒しの恵みがもたらされることと相成った。目的は達成されたが、その手段は現代で言えば不当家宅侵入罪で、一線を超えている。

だが、主イエスは彼らの行動に生きた信仰を認め応じられたのだ。その患者に「子よ、あなたの罪は赦された」と主は直言されたが、これは居合わせた律法学者達には、神を冒涜する不敬罪であった。一線を超えた発言どころか死刑に相当すると思われている。

ナザレの寒村の無学な大工の倅のイエスの、身のほど知らぬ発言は、彼らには由々しい行為であった。続く主イエスにより投げかけられた「この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」との質問は、常識的論理の一線を越えた逸脱ではなかっただろうか。

人間的には、結果の見えない罪の赦しの宣言よりも、即、結果が見えることが決め手となる癒しの宣言が、当然困難であろう。だが、主の言わんとされたのは、癒しの宣言を容易とすることにある。それは中風の癒しの実行によって、結果的に主イエスが罪の赦しを宣告する権威が証明されたからであった。

主はご自分を「人の子」と呼び、旧約に約束された救い主であることをここに証明されている。この中風患者は、神との関係、人との関係が罪で麻痺した人々を象徴している。彼をイエスに連れ来た四人は、宣教を委ねられた教会を象徴する。

信仰と愛の一致で一人の魂の救いのために労を厭わず、有効な手だてを工夫しよう。病と抑圧の癒しのために積極的に祈ろう。主イエスには癒しは易しいことであり、御心のままに祈りに応えてくださる。全ての重荷を主に委ね祈ろう。

2月6日礼拝説教

「神の支配の秘儀」  マルコ4章10〜12節

イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。

それは

『彼らは見るには見るが、認めず、

聞くには聞くが、悟らず、

悔い改めてゆるされることがない』ためである」。

 主イエスは喩えで多くを語り、その主題は神の国であった。主イエスの主題は、公生涯の最初から最後まで一貫していた。

神の国とは、神が王として支配されることを意味する。詩篇145篇に王ダビデが「あなたの王権はとこしえの王権、あなたの統治は代々に」と讃えたその神の支配は、主イエス・キリスト目に見える形で具現した。この事実は秘儀であり、それまで隠されていた真理が、今やキリストにあって、明らかにされたことを意味する。イエスが居られ、イエスが語り、イエスが業を成すところに神の支配が現在している。

十字架に贖いの業を成し遂げ、復活された主イエスは生きておられ、今現在、私たちと共に居られ、私たちは神の支配の只中にいる。

ガリラヤ湖上で嵐に襲われ、沈没寸前に弟子たちは、その神の支配の現実を見せられていた。「向こう岸に渡ろう」と語られた主イエスは艫(とも)の方で、嵐にも関わらずに熟睡される。

弟子たちが翻弄されたのは、主イエスにある神の支配の理解が不十分であったためで、主イエスが言葉を発せられたなら、その途上に何があろうとも、その通りになるはずであった。「私の口から出る私の言葉も空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし、私が託したことを成し遂げる。(イザヤ55:11)」

だが、主は言われた、『あなたがたには神の国の秘儀が授けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される』。

この喩えは本来、相手に分かり易くする話法であるのに、喩えで語られるこの神の国の秘儀は、イエスを受け入れず、理解しようとしない人々には、謎となり、結果的に隠されてしまう。

ところが、イエスを受け入れ、信頼し、イエスと共に歩む者には、この秘儀が開示され、授与され、生活のただ中に神の支配の現実を経験することが許されている。

『聴く耳のある者は聞きなさい』そして『何を聞いているかに注意しなさい』との主の勧告には、神の支配の現実の只中に生きる秘訣が秘められている。それは神の言葉を聞いて、聴くばかりでなく、生活の中で実行することに違いない。