830日礼拝説教(詳細)

「土の宿命の超克」  伝道の書9章1〜10節

9:1わたしはこのすべての事に心を用いて、このすべての事を明らかにしようとした。すなわち正しい者と賢い者、および彼らのわざが、神の手にあることを明らかにしようとした。愛するか憎むかは人にはわからない。彼らの前にあるすべてのことは空である。

9:2すべての人に臨むところは、みな同様である。正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも、清い者にも汚れた者にも、犠牲をささげる者にも、犠牲をささげない者にも、その臨むところは同様である。善良な人も罪びとも異なることはない。誓いをなす者も、誓いをなすことを恐れる者も異なることはない。

9:3すべての人に同一に臨むのは、日の下に行われるすべての事のうちの悪事である。また人の心は悪に満ち、その生きている間は、狂気がその心のうちにあり、その後は死者のもとに行くのである。

9:4すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せるししにまさるからである。

9:5生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。

9:6その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。

9:7あなたは行って、喜びをもってあなたのパンを食べ、楽しい心をもってあなたの酒を飲むがよい。神はすでに、あなたのわざをよみせられたからである。

9:8あなたの衣を常に白くせよ。あなたの頭に油を絶やすな。

9:9日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。

9:10すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。

 主の御名を賛美します。先週、引退教職の山城晴夫先生が胃癌のため22日に召天されました。享年91歳でした。山城先生夫妻は今年6月に四国のベテルホーム須崎に入所されていましたが、胃癌が発覚したため淀川キリスト教病院で治療を受けておられたのです。葬儀は25日に和泉神愛キリスト教会Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:DSCN0118.JPGで家族葬式にて執り行われたと教団より連絡がありました。コロナ感染予防のためにもそうされたのでしょう。私個人としても20歳前後に神学校で先生のご講義に預かった者で、大変お世話になりました。この教会にとっては、私たちが赴任する前に毎週礼拝説教を引き受けてくださったとのことで、教会としても深い関わりのある恩師であります。天寿を全うされて召天されたと受け止め、主に感謝するとともに、ご遺族のため、教会を代表して祈っていただきましょう。

  1. 伝道者の到達点

 さて、今朝は伝道の書9章が開かれていますが、この箇所を調べているうちに、私は思わず棒高跳びを連想させられました。調べたら今年2月8日にポーランドのトルンで20歳のスエーデン選手が世界新記録をマークしたと分かりました。6m17㎝!それまでの記録を1㎝上回ったと。何故連想したか。それは、神を信じた伝道者がこれまで人生をつぶさに考察した結果、今日の箇所で彼がその到達点に達したことが分かったからなのです。

 彼は1節でこう言います。「わたしはこのすべての事に心を用いて、このすべての事を明らかにしようとした。」「このすべての事」とはその前の8:16から「地上に行われるわざ」だと分かります。彼は「昼も夜も眠らずに窮めようとした」が、到底「人は極め尽くすことができない」とも言った事です。

 では彼の至った到達点は何か、一言で言えば、「すべての人間は神の定めの中にあり、終わりは死によって朽ち果てる、というこの限られた中で生きる他ない」と言えるでしょう。

これを短く3つにまとめて簡単に説明してみることにします。

  1. すべての人間は神の定めの中にある

 1節で「すなわち正しい者と賢い者、および彼らのわざが、神の手にあることを明らかにしようとした」と彼は言い、全ての人間は神の定めの中にあることを言い表しました。これは人間が安全で保障されているという意味ではなく、どんなに賢く正しく行われたとしても人間の行為は、実は神の御手に定められた業であって、人間は自由に物事を処置する力を本来持ち合わせていないこと示しているものなのです。その一つの例として彼は人間の愛憎を取り上げ、「愛するか憎むかは人にはわからない」と言います。

愛憎と言えば、あのダビデの息子アムノンが妹のタマルに恋した事件(サムエル下13:1)が思い出されます。「名はタマルという美しい妹」と紹介されるが、妹と言っても腹違いで、ダビデの長男アブサロムの妹でした。アムノンは強烈な恋煩いに陥り、策略を巡らし、仮病を装い、父ダビデにタマルの介護を要請し、食事の世話をしようと部屋に入ってきたタマルを冒してしまったのです。14節「タマルをはずかしめこれと共に寝た」とあります。しかし、15節を見ると驚くのです。「それからアムノンは、ひじょうに深くタマルを憎むようになった。彼女を憎む憎しみは、彼女を恋した恋よりも大きかった」アムノンの愛憎がこの時点で逆転したのです。人は自分の感情すら理解できず、抑制できない、その人間の全ては神の御手に把握されているということを伝道者は言わんとしているのです。

  1. 終わりは死によって朽ち果てる

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpeg そればかりか、彼の結論は人間の「終わりは死によって朽ち果てる」ということでした。2、3節をご覧ください。「すべての人に臨むところは、みな同様である」そこを共同訳は「すべての人に同じことが起きているにすぎず一つの運命が」とする。運命とは避けることも変えることもできないことです。全ての人に臨む宿命、それは何か、それが3節最後で明らかですね。「その後には死者のもとに行くのである」死ぬことです。死んで陰府に行くことです。伝道者はこの人生理解の到達点を「日の下に行われるすべての事のうちの悪事である」とし人の死は最悪だと結論しています。何故最悪かというと、2節で分かりますね。「全ての人に臨む」からです。その全ての人を8種類列挙し、いかなる道徳基準に従っても、誰がどうあれ、同一の宿命、人には死が臨むのだ、避けられない、ということ、だから最悪だというのです。

  1. この限られた中で生きる他ない

 その上で彼は、「この限られた中で生きる他にない」という到達点に達したと言っていることになります。4〜10節をご覧ください。その中で、その到達点を短い諺(ことわざ)で言ってのけます。「生ける犬は、死せるしし(獅子)にまさるからである」4節 犬とライオンが対比させられます。ライオンは百獣の王、力、権威、知性、高さの象徴です。一方、犬は古代では、軽蔑され、不潔、無価値、弱さ、低さの象徴です。ただの単純な比較であれば、はるかにライオンが優る。ところが、死骸(しがい)となり腐るライオンであれば、生きている犬の方が優るとこの諺は言うのです。

ではこの諺で何を言わんとしたのでしょう。4節「すべて生ける者に連なる者には望みがある」というのです。これです。生きてさえいれば希望があるというのです。その理由は何か? それを5節が説明します。「生きている者は死ぬべき事を知っている」小友訳「なぜなら、生きている者は、自分が死ぬことを知っているからである」と4節の理由を明らかにしている。これは随分皮肉な理由ではありませんか。自分が死ぬことを知っているから希望がある!?「その前に、一つの宿命、人が死ぬことは最悪だと言ったばかりじゃないのか?」しかし、その5節、6節を読むと分かる。つまり、死んでしまったら、死後には何も無い。そうであれば、たとえそれが束の間であったにしても、不条理に満ちているにしても、生きていることにはそれなりの価値があるのではないか!伝道者はそう結論したのです。つまり、周りが真っ暗闇だからこそ、ロウソク1本のかすかな光でも明るく輝くように、生きている時間、生きる価値が明るく光って来るというのです。

 その結果、7節から力強く人生を楽しく喜びをもって生きるように勧告します。7節では、喜びをもってパンを食べ、ワインを飲めと!8節では、喜びの表現として白衣を着、油を頭に塗れ!9節では、喜びをもって妻と楽しく暮らすがよいと!10節では、喜びをもって労働に励むがよいと命令調で勧告します!これは人が生きることの力強い肯定です。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-2.jpeg 私はここまで来たとき、どういうわけか、ターミナルケア、ホスピスが思い起こされました。「ターミナルケアとは、病気で余命がわずかになった方に対して行う、医療・看護的、介護的ケアのこと、残りの余命を少しでも心穏やかに過ごせるように痛みや不安、ストレスを緩和し、患者のQOL(クオリティオブライフ=自分らしい生活の質)を保つことを目的としています」と説明されます。もうこれ以上治療しても治る見込みがない場合の末期癌患者への配慮です。最初に報告させていただいた山城先生も恐らく、淀川キリスト教病院でターミナルケアを受けられていたかもしれません。この9章の伝道者の人生理解の到達点は、何かターミナルケアに似ていないでしょうか。

  1. 到達点更新の原則

 しかしながら私はここに至って、彼の人生理解の到達点を超える必要性を覚えざるをえません。彼は「すべての人間は神の定めの中にあり、終わりは死によって朽ち果てるというこの限られた中で生きる他ない」と結論します。しかし、これでは不十分なのです。この伝道者が誰であるかには異論があることはご存知の通りです。表題からするとソロモンかとも思われますが、むしろ、ソロモンの名を借りてある知恵ある教師が聖霊に感じて書き記したのだろうと推測されます。それも紀元前のギリシャ帝国時代であろうとする節が有力です。

 ここに私たちは聖書を理解する上で二つの解釈の原則を確認する必要があります。

  1. 「啓示の漸進性」

 その一つは啓示の漸(ぜん)進性です。ご存知のように聖書66巻はおよそ1500年位かけて40人程の人々が、違った時代に違った状況で霊感されて記録されたと理解されています。

そこで大切な理解は、人間に対する神の啓示は、徐々にしかも段階を経て漸進的になされたとすることです。教会の裏の田んぼをご覧ください。今や稲穂が垂れ下がり刈り入れを待つばかりです。このような稲の熟成は今日1日で達成された訳ではありません。苗の育成から始まり、田植え、手入れを経て、数ヶ月かけて熟成したことは明らかでしょう。これを聖書の啓示に適用すると、「啓示とは覆われたおおいが除かれる」ことです。旧約聖書の創世記が真理の啓示の苗床であって、それから次第次第に時間、時代を経過して新約聖書に至り、啓示が完全に熟成したと理解されることです。それを啓示の漸進性と呼ぶのです。その理解に立てば、伝道の書は、その啓示の途上にある知恵の書であるということになります。伝道者には聖霊により啓示の光が照射されてはいても、それは全面的ではありません。そこには彼なりの限界があったことが否めないのです。

  1. 「信仰の類比」

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-8.jpeg もう一つの解釈の大切な法則があります。それが「信仰の類比」と呼ばれるものです。それは 聖書は聖書によって解釈される、新約聖書は旧約聖書で、旧約聖書は新約聖書で解釈されるべきだとする法則なのです。神の啓示は新約聖書で完成したのですが、旧約聖書によって補完されるのです。旧約聖書は啓示の途上ではあるが、新約聖書によってその意味することが判明することになるというものです。

 

Ⅲ.更新された到達点

 この二つの原則により、この箇所の鍵となる4節をその二つの原則を生かして、説き起こしてみましょう。このところを共同訳は「確かに、すべて生きる者として選ばれていれば 誰にも希望がある」と訳されており、こちらの方がより適切なので、ここから三点を説き起こしていきましょう。

  1. すべて生きる者

 「すべて生きる者」とは誰のことを指すのでしょう。ただそれだけであれば、それこそ生きている全ての人でしょうが、ただ「すべて生きる者」ではなく「連なる者には」が続いている!それは「選ばれていれば」「数えられてさえいれば」によって全く違って来るのです。普通に「人が生きている」と言う場合の決め手は何か。二つあって、一つはその人が自然環境に反応しているかどうか、二つ目は社会的環境に反応しているかどうかです。空気を吸わない、食べない!もうその人は死んでいます。死んでしまった人は、どんなに呼びかけても反応しません。この二つが確かなら人は生きていると言えるでしょう。

 しかし、聖書によれば、もう一つの要素が確かでなければ死んだも同然なのです。それは、霊的環境に反応しているかどうか、すなわち、その人が神に呼びかけ、神の呼びかけに対応するかどうかなのです。神との関係に生きていなければ、人は霊的には死んでいるのです。

  1. 選ばれて生ける者

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-5.jpeg では、神との関係が確立している真に生きている者とは誰のことか? それは「生ける者に連なる者」「生きる者として選ばれてい」る者、「生ける者に数えられている者」誰でしょうか。そうです!神に選ばれ、神に数えられた人なのです。聖書において「神の選び」は最も重要な真理の一つであり、また、神の主権的な行為であって神秘的でもあります。ローマ8章29、30節を読んでみましょう。「神はあらかじめ知っておられる者たちを・・・あらかじめ定めて下さった」30節では、その定めた者を召し、義とし、栄光を与えられたと教えています。神の予知予定です。これによれば、神の選びはある特定の人に限定されているかに見えます。しかし、そうではありません。神は全ての人を選ばれたのです。そして、キリストの十字架の罪の赦し、贖いの御業は万人のためなのです。神は愛です。神は全ての人を愛し選んでおられるのです。では、その神の選びはどのように具体化されるのか?それは、我々人間が神の選びを信仰によって選び取ることによって成立するのです。

 旧約の予言書ハバクク2:4が新約のローマ1:17、ガラテヤ3:11、ヘブル書10:38に引用されている。「義人はその信仰によって生きる」非常に重要な一句です。この箇所に関連して言えば、「生ける者として選ばれた者」とは、信仰によって生きる義人のことなのです。人はキリストを信じて義とされる!それは神の選びの選択なのです。

 スーパーで買い物するでしょう。ミルクを買う場合は一方的な選択ですね。自分で選び決まります。しかし、人格的な選択は相互的なのです。私は家内を紹介されて配偶者として選択したのですが、それで決定ですか、そんなことはない。彼女の意思決定なしにはあり得ない。神の選びは人の選択を待つのです。礼拝後に「奉仕の誓約」の学びがある。「自己の型」を調べる作業をしている。個性検査によれば、外向、内向それぞれ長所、短所あることが分かる。自分は短所ばかりだとわかった時、果たして自分はだから神に選ばれていないと思うべきでしょうか。そんなことは絶対にありません。罪深い、だらしない、情けない、だから選ばれていない、そんなことはないのです。神は誰であっても選ばれたのです。その選びはあなた自身が感謝して選ぶことによって実現するのです。今年の7月5日に二人の兄弟たちが洗礼受けました。覚えてください。それは彼らが神の愛の選びを自らの意志で選び取った結果だったのです。「生ける者として選ばれた者」とされたのです。

  1. 望みのある生ける者

 その選ばれた生ける者にこそ、聖書から言えることは真の希望があるのです。「確かに、すべて生きる者として選ばれていれば 誰にも希望がある。」伝道者によればその希望とは、「自分がやがて死ぬべき事を知っているので、その結果として、束の間の人生ではあるが価値があることがわかるので、楽しく喜んで生きる事が出来ること」だと言う事でした。それはそれで素晴らしいことではあります。だが、神に選ばれて生きる者と数えられた人の希望は、新約聖書の光に照らせば、それどころではないのです。計り知れない希望があるのです。

ⅰ.死ぬべき理由を知っている

 伝道者は希望の根拠として「生きている者は死ぬべき事知っている」としてますが、選ばれて生きる者は、勿論自分が死ぬ事を知り、なおかつ、なぜ死ぬのかその理由を知っているのです。人が罪のために死に定められたと言う事です。「罪を犯した魂は必ず死ぬ。」エゼ18:4」と聖書が教えるからです。

ⅱ.死ぬが救われた事を知っている

 そればかりではない。罪を犯したために死ぬことは定まっているけれども、十字架のキリストの贖いのみ業のゆえに罪が赦され救われ、神に立ち返ることができた事をも知るのです。ローマ5章1、2節を読めば明らかです。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」その先の5節を読めばこうです。「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

ⅲ.死んだ後 行く場所を知っている

 その希望は更に、「死ぬことは知っているが、死んだ後に自分の行く場所を知っている」ことを意味しています。伝道者は、人には皆「一つの宿命」が臨み、3節では「死者のもと」に行くと言い、10節ではその「死者のもと」を「あなたの行く陰府」と呼んでいます。そして伝道者の知る範囲では人の死後、死者が行く場所、陰府は5節、10節によれば全く意識の無い世界として描かれています。ところが、新約の光に照らされるとその知識は一新されます。

4節には「生ける犬」が登場しましたが、ルカ16章のキリストの話には、犬は犬でもデキモノを舐められた犬が登場する。ご存知でしょう「金持ちとラザロ」物語です。金持ちは贅沢三昧(ぜいたくざんまい)だが、ラザロは食卓から落ちる残飯で凌(しの)いでいる。そこで場面が一転する。二人が同じ日に死ぬのです。そして死んだ二人の死後の場所が明らかにされます。ラザロはアブラハムの懐(ふところ)に!金持ちは黄泉(よみ)に置かれたのです。金持ちは黄泉で火炎に苦しみ、ラザロは安息している。金持ちが苦しみのあまり「ラザロを遣わし、水で冷やしてくれと」叫ぶ!伝道の書の理解の違いは、黄泉でも死者には意識があると言うことです。黄泉とは死者が行くところです。誰もが行く場所です。ところが、キリストが来臨されたことによって、信仰による義人の死後の行く場所はパラダイスとなったのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-7.jpegイエスが十字架で、信仰の告白に導かれたあの強盗に語られた言葉を知ってください。ルカ23:43「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」パラダイスとは主がおられる場所です。

 あの使徒パウロが獄中で書いたと言われる最後の手紙ピリピ書1章21〜23節で語った彼の確信を読んでみましょう。信者の死後に行く場所は、パラダイス!そしてそれは「キリストと共にいること」なのです。パウロにとっては、そこに行くことがはるかに望ましいと言うのです。それこそ最高の希望なのです。

ⅳ.死んでも復活する事を知っている

 そればかりではありません。希望の最高の最高が選ばれて生きている者にはある!それは死んでも生きる!死んでも復活させられる望みがあるのです。キリストは十字架で死んだ!死んで陰府に降られた!しかし、神の大能の力により甦らされた!信じる者はキリストと同じく復活するのです。キリストの復活は初穂であり、初穂の後に次々の穂が出るように、信者は蘇る、新しい、朽ちない、強い、栄光の体が与えられるのです。復活の章、コリント上15章51、52節「終わりのラッパの響きと共に、またたく間に一瞬にして変えられる」のです。

そしてこのような信仰の希望が確かな時に、あの伝道の書9章7〜10節が、今を生きる私たちにも新鮮な響きを持って聞くことができるでしょう。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-12.jpeg 喜びを持ってパンを食べ、ワインの飲め!白い服を身につけ頭に油を塗れ!9節「日の下で神から賜わったあなたの空(くう)なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。」結婚生活もこの希望の光の下で新しいのでその意味が更新されるのです。「空なる命の日の間」これは「束の間の人生」と言うことでしょう。それでも豊かな価値があると言うことなのです。

 そして、10節が光ります。「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。」これを照らす言葉は、あのコリント上15:58でしょう。「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。私たちの労苦、奉仕、活動は、あの希望に生きる時に意味を持ってくるのです。私たちは愛する贖い主イエスにやがて相まみえる時に何を期待するでしょうか。そうです!あのお言葉です。「よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」(ルカ19:17)

 22日に召天された山城先生は主のもとに行かれたのです。当教会の墓碑銘には沢山の兄弟姉妹たちが記録されている。彼らは皆、主のもとに、パラダイスに行かれたのです。そして、復活の日には間違いなく、我々は彼らと再会することになるのです。

 「生ける犬は、死せる獅子にまさる」今自分は獅子、ライオンのようではないかもしれない。否、むしろ犬のようなのかもしれない。つまらないように見えるかも、価値がない、弱い、卑しい!だが、「生ける犬」は死んだライオンに勝るのです。

 カナンの女がイエスに叫んで言った!「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」しかし、イエスは答えられた「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」だが女は食い下がって言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」主は彼女の謙遜な信仰を見て感心され、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」と言われ、その時、娘は癒(いや)されたのでした。

 主は今生きる、私たち、無きにひとしき者たちの信仰の祈りを聞き賜うのです。小友牧師はテレビ講義の演題を「それでも生きる」とされた。そうです。今生きる現実は矛盾だらけ、不条理に満ちるでしょう。だが、選ばれて生きる者とされた者は、希望に輝き、喜び楽しく生きることができる。またそうあるべきなのです。

8月23日礼拝説教(詳細)

  「時と方法を弁(わきま)える」  伝道の書8章1〜17節

8:1だれが知者のようになり得よう。

だれが事の意義を知り得よう。

人の知恵はその人の顔を輝かせ、

またその粗暴な顔を変える。

8:2王の命を守れ。すでに神をさして誓ったことゆえ、驚くな。

8:3事が悪い時は、王の前を去れ、ためらうな。彼はすべてその好むところをなすからである。

8:4王の言葉は決定的である。だれが彼に「あなたは何をするのか」と言うことができようか。

8:5命令を守る者は災にあわない。知者の心は時と方法をわきまえている。

8:6人の悪が彼の上に重くても、すべてのわざには時と方法がある。

8:7後に起る事を知る者はない。どんな事が起るかをだれが彼に告げ得よう。

8:8風をとどめる力をもつ人はない。また死の日をつかさどるものはない。戦いには免除はない。また悪はこれを行う者を救うことができない。

8:9わたしはこのすべての事を見た。また日の下に行われるもろもろのわざに心を用いた。時としてはこの人が、かの人を治めて、これに害をこうむらせることがある。

8:10またわたしは悪人の葬られるのを見た。彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。

8:11悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。

8:12罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている。

8:13しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである。

8:14地の上に空な事が行われている。すなわち、義人であって、悪人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。また、悪人であって、義人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。わたしは言った、これもまた空であると。

8:15そこで、わたしは歓楽をたたえる。それは日の下では、人にとって、食い、飲み、楽しむよりほかに良い事はないからである。これこそは日の下で、神が賜わった命の日の間、その勤労によってその身に伴うものである。

8:16わたしは心をつくして知恵を知ろうとし、また地上に行われるわざを昼も夜も眠らずに窮めようとしたとき、

8:17わたしは神のもろもろのわざを見たが、人は日の下に行われるわざを窮めることはできない。人はこれを尋ねようと労しても、これを窮めることはできない。また、たとい知者があって、これを知ろうと思っても、これを窮めることはできないのである。

 ハレルヤ!「言うまいと思えど夏の暑さかな」それでも暑いですね。こんな時ですから、聞くだけでも気持ちが涼しくなるような爽やかな話しができればと思うのですが、今日も伝道の書8章が開かれております。その前の7章の時には「ゴツゴツの岩」の印象だと申しましたが、今回8章は「迷路」の印象なのです。迷路パズルです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:b84f3ba3d88e8b0f120f24c453934f74.jpgこの迷路をネットで検索したところ面白いタイトルが目に飛び込んできました。「藤井聡太、強さのルーツは迷路と木登り」先週、彼は快挙を遂げましたね。18歳1ヶ月で二冠を達成したのです。その強さは別格のようで七番勝負4連勝です。その強さの根っこに迷路があったとは驚きです。5歳から将棋習い始め、同時に迷路作りに没頭したそうです。その作品の一つがこれです。これを見て「やっぱり並みじゃないな」と痛感しました。8章を読まれ、迷路に見えませんか? 先週は伝道者が「謎掛け謎解き」を使っていると言いましたが、今週は迷路パズルを使っているのではないかと思わされた次第です。この章全体を散々思考錯誤した結果、私なりに到達したパズルの到達点はどこでしょうか、それが5節の一句「知者の心は時と法をわきまえている」なのです。そこで今日のメッセージの趣旨を一言で言うとこうなります。「時と方法を弁える知恵ある者は、不条理極まりない今の時でも責任を持って生き、喜び楽しむことができる」と言うことです。

  1. 知恵ある者に弁(わきま)えられる時

 ここを9月から使う予定の聖書協会訳は「知恵ある者の心は時と法をわきまえる」と訳しています。では、知恵ある者によって弁えられる時とは何でしょうか。それは私達が生きる時、時間、時代のことです。すでに3章で時は取り上げたのですが、それがどんな様相を帯びたものであるかを更にこの8章に順に追ってみましましょう。

 1起こる事が予知予測できない時  

7節「後に起る事を知る者はない。どんな事が起るかをだれが彼に告げ得よう。」これは人間の予知予測不能のことです。「いやそれは、古代のことであって現代は全く違う。どんなことでも予測できる時代ですよ」と言う人がいるかもしれません。「天気予報を見てごらんなさい」と言うでしょう。しかし、事実は実は「一寸先は闇」なのではないですか。この2020年がコロナウイルス感染でこんなに混乱するなどと、誰が予想予測できたでしょうか。

 2起こる事を抑制制御できない時 

次は8節です。そこに「風、死の日、戦い、悪」が挙げられていますね。悪を富と訳す説もあります。人間には抑制制御できない限界があるということです。風が自然を代表するならば、自然災害をどれだけ人間は制御できていますか。災害を予測して入念に対策を立てますが、予測を超えた災害によって受ける被害は甚大(じんだい)なのです。死の日、人間は自分の死を制御できますか。否です。戦争はどうですか。世界の歴史で国同士が相互に平和条約を締結したのにあっけなく破棄し戦争に突入することがどれだけ繰り返されてきたでしょうか。

先週は終戦記念日に因みお勧めをしました。15日のドキュメンタリー「日本本土上陸作戦」を見たでしょうか。連合軍が早期終結に向けて立案した軍事作戦です。11月1日に鹿児島上陸、3月1日千葉県九十九里浜も上陸する。前者はオリンピック作戦、後者はコロネル作戦と呼ばれました。対する日本の戦略は1億玉砕覚悟(ぎょくさいかくご)、総動員作戦でした。男子は13歳から40歳、女子は16歳から40歳まで一般市民2700万と500万の現役軍人で総当たりする。「戦いに免除はない」その通りです。だが8月15日に無条件降伏したのは何故か。昭和天皇が御前会議で、九十九里浜の防備体制の不備を指摘し、とても勝ち目は無いと判断した結果だったのです。もし、実行されていたらどうなっていたでしょうか。想像してみてください。

 3人が人を支配する災いの時  

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images.jpeg9節これを聖書協会訳は「今は人が人を支配し、災いを招く時代である」適訳ですね。最近、国際ニュースにベラルーシの大統領選挙結果が話題に上っています。80%の投票率でルカシェンコ現大統領の再選確定。だが不正投票だとデモが強く抗議活動を展開しています。欧州で最後の独裁政治家だと言われる。人が人を支配する災いの典型です。このような極端ではなくても人が人を支配するところに至る所、災いが蔓延しているのではないですか。

 4義人と悪人があべこべの時 

これは3つの節に挙げられています。

10節「またわたしは悪人の葬られるのを見た」これは悪いことをした人が盛大に華々しく葬儀され、街中で賞賛される矛盾です。

12節「罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがある」おかしくないですか。悪いことしたら罰せられ、癌を罹って早死にすべきではないのか。

14節はもっと皮肉な現象です。義人と悪人があべこべになっているような現象が私たちの生きる時代には実際に、今現在も、現実にあるということです。

 5犯罪の増加傾向の時 

11節にはこう言われます。それは、犯罪に対して裁判制度が十分機能しないために、犯罪が増加傾向にあるということです。司法制度が近代的に整った現代で、犯罪増加率はどういう傾向を示しているのでしょうか。政府統計を見る限りでは減少傾向にあることは好ましいことです。しかし、これはあくまで認知された犯罪行為であって、完璧な数字でないことは明らかです。

 6神の働かれる時 

ここまで8章の迷路をたどると、正直言って、心が暗くなりますね。知恵ある者によって弁えられる時、時代はこれが全てなのでしょうか。絶望です。そうではありません。

知恵ある者は、信仰の目で生きる時代を透かし見、弁えるのです。それは一見、不条理に満ち、不合理な時代であるように見えるとしても、確かな事実をそこに確認するのです。それは時を貫いて神が働いておられるという事実なのです。16、17節で彼はこう断言します。「わたしは神のもろもろのわざを見た」そうです。これはすでに3章で確認した事実です。11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい。人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」あの3章冒頭では「すべてのわざには時がある」そして28の出来事が振り子時計のように詩的に謳われていました。そして、その全てを貫き神が働き業(わざ)をなさっておられる。それが知恵ある者の時の弁えなのです。7章でも「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。」を学んだところです。順境逆境の全ても神の業だということ。しかもその業の全てを人は「窮めることはできない」のです。

 先日、米国の生物学者が沖合3000mの深海の生物研究を紹介していた。無人の潜水艇を潜らせる。真っ暗な深海に次々と新種が発見され捕獲される。それは珍しい。こんな記事「824 AFP】地球上には870万種以上の生Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-5.jpeg物が存在するという論文が23日、米オンライン科学誌プロス・バイオロジーに発表された。ただし、これまでに発見・分類された種はこのうちのほんのわずかだという。生物種はこれまでに約125万種が発見・分類されている。全体数の推定は、これまで300万~1億種と大きな開きがあった。」神が全て創造されたとすれば窮め難いのです。

 中でも極め堅くしかも決定的に美しい神の業(わざ)があります。それこそ、神の御子イエスキリストの誕生であります。昨日、役員会で今年のクリスマスコンサート中止を決めました。コロナ第二波の故(ゆえ)です。残念至極です。何故毎年実施しますか。それは御子の御降誕の素晴らしさ、偉大さ、美しさを人々に一人でも多く知っていただきたいからです。聖歌70番は「たみみなよろこべ」です。その理由を歌います。「主は来ませり」英語Joy to the world the Lord is come. 御子イエスが来られたからです。それは神の愛の表れの極みなのです。「神はその独り子を賜う程に世を愛された」その愛は極め難く深く長く高く広いのです。この御子イエスが私たちに言うのです。「私が生きるのであなた方も生きるのです」ですから、この世界、社会がどんなに不条理であってもここに生きる根拠があるのです。

  1. 知恵ある者に弁えられる法

 では知恵ある者に弁えられる法とは何でしょうか。他の訳はこうです。「知恵ある者の心は時と法をわきまえる、知恵ある者の心は時とさばきを知っている、知恵の心は秩序の時を知っている」実はこのように方法、法、裁き、秩序と種々訳される原語は「ミシュパート」で、その他に「義、正義、公平、公正、定め、権利」とも訳され、これは神の統治支配の総称と言える重要な用語なのです。ですから、知恵ある者がミシュパートを弁えるとは、神が世界と宇宙を統治しておられることを認識することなのです。では神はどのように統治されるのでしょうか。

 1神は秩序を定めて統治される 

ある訳がミシュパートを「秩序」としたのはこの角度から神の統治を見ているからです。コリント上14:33に「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。」秩序とは「相互に一定の関係・規則によって結びつき調和を保っている状態」「物事の正しい順序・筋道」のことです。神は万物の創造に際して被造物を秩序あるものとして定められました。私たちはこれを「創造の秩序」と呼ぶのです。その典型的ケースが男女の秩序でしょう。最初に造られたのは男です。そして女が「助け手」として次に造られました。これが男女の秩序です。

この8章には政治の秩序が秩序の一つとして取り上げられていますね。2〜5節がそれです。ここには王と王に仕える重臣の秩序が勧告されています。「王の命令を守れ」仕える重臣、家来達は、王の権威に服して逆らわない。それによって調和が保たれるからです。ダニエルに 2:21 神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。」とある。またローマ13:1には「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」政治の秩序は神によるのです。人は急いで変革を求めることは控えねばならないのです。革命による変革を私たちは知っています。人間の力で新しい秩序を急速に作り出そうとし、その結果失敗したケースをいくつも見ています。政治の秩序ばかりでありません。家庭の秩序、学校の秩序、社会の秩序、会社の秩序。そして教会の秩序がありますね。それがどんな形態であっても神は最低限の平和を保つために秩序を定め統治されるのです。これが知恵ある者の弁えです。

 2神は法を定めて統治される  

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-4.jpegそれは、また神が法を定めて世界を統治されることを弁えることです。その典型がイスラエルに出エジプトに際して与えられた十戒でしょう。世界の国々には憲法が定められているでしょう。そのどの憲法にもこの十戒が基本となっていることは驚くべきことです。毎週の礼拝で朗誦するのは誤解しないでください。これを遵守すれば救われるということではありません。十戒は奴隷から民が解放された後に授けられたものです。解放され救われたので新しい生き方の指針として与えられたのが十戒なのです。同様に、キリストを信じて救われたから十戒を規範として生きることなのです。

 3神は裁きで統治を完了される  

その上で、知恵ある者が弁えるのが、神は裁きで統治を完了されることです。秩序を定め、法を与えられる神は、その神の統治に対して人がそれぞれどのように対処するかに対して最終的に裁かれます。神の世界統治は、最後の日に決定的な審判によって完成されます。私たちは、この8章を通して、私たちの時代の現実を見せられます。それは義人と悪人があべこべになるような不条理な不合理な時代なのです。先日も悪徳の栄えを語りました。理不尽な繁栄がまかり通るのが現実です。11節でも「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。」カルロス・ゴーン元会長は裁判寸前に5000万円かけて日本を逃亡し、レバノンに隠れてしまいました。金さえあれば地獄の沙汰も金次第の現代版です。しかし神の前には通用しないのです。いつか語りましたように、God’s judgement is slow but sure.「神の裁きはゆっくりだが確実である」「天網恢恢疎(てんもう かいかい そ)にして漏()らさず」が張りめぐらしたは広く、目が粗いようだが、悪人・悪事は決して取り逃がさないということです。

 神の統治が裁きで完成するとすれば、どうでしょうか。私たちに希望はありません。何故なら、誰一人として神の前に立ち、裁きに耐える事のできる人はいないからです。「全ての人は罪を犯したために神の栄光を受けられない」のです。

ところが神の裁きによる統治は既に完了済みなのです。人類に対する神の罪の裁きは十字架においてキリストが裁かれることにより完了したのです。主イエスは十字架上で言われた。「全てが終わった」完了したと言う事です!人類の罪はイエスにおいて完全に裁かれたのです。ですから、信じる者の罪は赦され、無罪放免され、最終審判においては裁かれることは絶対にないのです。ハレルヤではないか。知恵ある者はこの不条理な世界を貫くこの神の統治をスカし見るのです。

  1. 時と法を弁える知恵ある者

 では時と法を弁える知恵ある者とは誰のことでしょうか。それは先週も1節で触れた「顔を知恵により輝かす人」です。知恵ある者、知者、それは高学歴の人のことではない。最高学府を卒業し、2000冊を読破し論文がパスした博士ではありません。そうではなく、神の御顔を照らされた人のことです。礼拝の最後に祝祷で何と唱えているでしょうか。「主が御顔をあなたを照らし、あなたを恵まれますように、主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」神の御顔を照らされた者の顔は輝くのです。詩篇の119:135にこう祈りがある。「み顔をしもべの上に照し、あなたの定めを教えてください。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-5.jpeg聖書で神の顔を照らされ輝いた人物の代表はモーセでしょう。出エジプト記34:35 イスラエルの人々はモーセの顔を見ると、モーセの顔の皮が光を放っていた。モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた。」あまりに眩しいので顔に覆わねばならないほどだったのです。 

仁井田先生の証を紹介しました。彼の学歴は中卒でした。それもまともに勉強したことがなかった人です。そんな彼が救われ献身した時に彼の心境を一変するみ言葉に出会った!それは詩篇119:130「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」それによって俄然(がぜん)彼は聖書の人となられたのです。知恵のある者とは信仰の知恵を与えられた人です。その人は時と神の統治を弁えるのです。その時、何が起こるでしょうか。自分の生きる時代、そこに何が起こるか先は読めない、悪人と義人があべこべ現象の矛盾がある、人が人を支配して害が多発している!だがしかし、今現在に、自分の責任をしっかり果たし、喜び楽しみ生きようとするのです。15節はこう語ります。「そこで、私は喜びをたたえる。 太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに人に幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に伴うものである。」そうです。時と法を弁える者は、生活のキートーンは喜びなのです。口語訳「歓楽」は誤解を招きます。しかもそれは「日々の労苦に伴うもの」だと。それは自分の役割、責任をしっかり受け止め、汗水流して勤労に励む姿です。喜びは勤労に付随する者なのです。

 あのマタイ24章は終末のこと、主の来臨が語られた箇所。そこで主はこう言われた。「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」(44−47)これが今の時を生きる知恵ある者の姿ではないですか。

 この新しい週も新型コロナウイルス感染がどう拡大するか分かりません。不確定なことは多く、また不条理な出来事に遭遇するかもしれません。にも関わらずです、私たちは喜び生きることが可能なのです。主が御顔を照らしてくださるとき、私たちの顔も喜びで照り輝くに違いないのです。英語の合言葉に「PTL(Pray The Lord」」がある。主を賛美せよ!それに付け加えて、「PTL anyhow」何があってもとにかく主を賛美せよ!それで行きましょう。ハレルヤ

816日礼拝説教(詳細)

8月9日礼拝説教(詳細)

82日礼拝説教(詳細)

「順境逆境の対処」  伝道の書7章1〜14節 

7:1良き名は良き油にまさり、

死ぬる日は生るる日にまさる。

7:2悲しみの家にはいるのは、

宴会の家にはいるのにまさる。

死はすべての人の終りだからである。

生きている者は、これを心にとめる。

7:3悲しみは笑いにまさる。

顔に憂いをもつことによって、

心は良くなるからである。

7:4賢い者の心は悲しみの家にあり、

愚かな者の心は楽しみの家にある。

7:5賢い者の戒めを聞くのは、

愚かな者の歌を聞くのにまさる。

7:6愚かな者の笑いは

かまの下に燃えるいばらの音のようである。

これもまた空である。

7:7たしかに、しえたげは賢い人を愚かにし、

まいないは人の心をそこなう。

7:8事の終りはその初めよりも良い。

耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる。

7:9気をせきたてて怒るな。

怒りは愚かな者の胸に宿るからである。

7:10「昔が今よりもよかったのはなぜか」と言うな。

あなたがこれを問うのは知恵から出るのではない。

7:11知恵に財産が伴うのは良い。

それは日を見る者どもに益がある。

7:12知恵が身を守るのは、金銭が身を守るようである。

しかし、知恵はこれを持つ者に生命を保たせる。

これが知識のすぐれた所である。

7:13神のみわざを考えみよ。

神の曲げられたものを、

だれがまっすぐにすることができるか。

7:14順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpeg ハレルヤ!今日は最初に「冷静の祈り」として良く知られたラインハルト・ニーバーの祈りを朗読して始めたい。何故なら今日の主題に叶う内容だからです。

神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。いっときに、一日だけを生き、いっときに、一瞬だけを喜ぶ。苦しみも平和へ続く道として受け入れ、イエスの如く、この罪深い世界をあるがままに理解して後悔せず、主の意志に身をゆだねれば、すべてをあるべき姿にしてくれると信じて、そして、現世では適度の幸福を、来世では、主と共に至高の幸福を感じることができるように。アーメン」 

先週、聖書を区切る章と節は、500年程前に便宜的に付けられた、本来は区切りなく続いていたと申しました。その意味から今日の箇所は6章12節を受けていると思われます。

12節「人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。」これは問い掛けです。「何が善であるか?」その視点で見ると、7章1節から一つの言葉「まさる」が繰り返されるのに気づきます。これは「価値がある、意味がある、良い」とも訳される言葉です。6:12では人の人生を「短く、むなしい、影のようだ」と形容するのですが、それを受けて7章ではその「人の人生には価値がある、善がある」と12回も強調していることが分かるのです。

 と同時に、その人の人生には、順境の日、逆境の日があるとも14節で強調されていることが分かります。順境とは幸福ということ、逆境とは不幸のことです。人生は幸福の日がある、不幸な日もある。幸福だけ続くことはない。両方ある。それには誰でも同感できる事実ですね。私自身、75年生きてきてつくづくそう思う。はっきりと色分けはできないけれども、「あの時期は逆境だったな、大変だったな、辛かったな」と思えるのです。皆さんもそうではありませんか?

 では、今日の聖書は何と私たちに語りかけるか、「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。」と言うのです。そこで、今日は、ここから「順境逆境の対処」と題して四つのポイントでお話しすることにいたします。

 そのポイントの第一は現実を受容することです。人が生きて誰もが実感するのは人生には順境あれば逆境もある。幸福かと思えば不幸があることです。そして聖書は「神は、・・・・彼とこれとを等しく造られたのである」と14節で教えるのです。彼、それは順境のこと、これ、それは逆境のことです。両方とも神が造られたと言うのです。神は幸福ばかり続くよう造られたのではない、不幸も造られたと教えるのです。その上で、その対処の仕方として「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。」と言うのです。「順境の日には楽しめ!」それは分かりますよね。これを拒否する人いますか。しかし、「逆境の日には考えよ!」どう考えるべきか?不幸が襲った時、不運に見舞われ、疲労困憊した時、果たして「神が両方造られた」この考え方を素直にできますか? 神が不幸、苦しみ、悲しみも造られた!本当ですか?と言いたくありませんか。否むしろ「何故、私にだけこんな難題が降りかかるのだ。あの人は幸せなに!」と反発したくなる!文句乁いたくなりませんか。「神がそうなるよう定めたとするならあまりにもひどいではありませんか!」と言いたくなる。当然です。

 これに対して理解の助けとなる教理を紹介したい、それはウエストミンスター信仰基準にある第一原因、第二原因と呼ぶ教理なのです。(17世紀に英国ロンドンのウェストミンスター教会で開催された神学者会議によって、作成された。)引用すればこうです。「第一原因である神の予知と聖定との関連においては、万物は不変的かつ無謬的に起こってくる。しかし同一の摂理によって、神はそれらが第二原因の性質に従い、あるいは必然的に、あるいは自由に、または偶然に起こってくるように定められた」ここで言う第一原因とは「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められた」と言う意味です。では第二原因とは何か? それは人間に与えられた自由のために必然的に偶然に起こってくること、しかもそれをも神が容認されているということなのです。と言うことは人の人生には第一原因、第二原因による結果が絡み合っていると言って差し支えないのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.png そこで13節を見てください。「神のみわざを考えみよ。神の曲げられたものを、だれがまっすぐにすることができるか。」1章15節にもあった言葉です。「曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。」1章では、これは自然界の神の創造を指していました。地球は23.4傾いていますね。誰かこれを真っ直ぐにできる人がいますか。不可能です。しかし7章は人の歴史のことです。歴史はどう見ても真っ直ぐには見えません。曲がっている、歪んでいるのではないですか。

 今年になって新型コロナが蔓延しています。誰がこのような現象を予見できましたか。パンデミックで世界中が影響を受け「曲がってしまった」、場合によっては悲惨な不幸に見舞われる人が沢山いる。原因は何か。特定できていない。有力説は自然環境が激変し野獣のコウモリに眠っていたウイルスが人に感染したのではないか。これは第一原因ではありえません。これは第二原因、人間が作り出した人為的問題なのです。

 この曲がった現実に直面する人が陥りやすい問題点がいくつか挙げられています。

●虐げ、抑圧、暴力が賢い人さえ愚かにされること(7節)

●賄賂や誘惑が人の心を損なうこと(7節)先週も紹介したが、進行性筋萎縮症の女性患者の安楽死に協力した医師二人が逮捕されている。彼等は優秀な医師でしょう。知者でしょう。しかし、130万の謝礼の誘惑に負け愚かな行為をしてしまったのです。

●忍耐心を失い高慢に陥ること(8節)

●セッカチ性急で苛立ちやすくなること(9節)

●現在に満足できず過去の郷愁に浸ること(10節)「「昔が今よりもよかったのはなぜか」と言うな。あなたがこれを問うのは知恵から出るのではない。」これは年配者には要注意ではありませんか。気をつけましょう。ノスタルジア、感傷にふけって過去ばかりを見る危険です。

 では、どうしたらいいのか?第一番に大切な態度、それはこの現実、現状を受け入れることです。神が曲げることを良しとされた現実を受容することです。その態度が冷静の祈りにも表現されています。「苦しみも平和へ続く道として受け入れ、イエスの如く、この罪深い世界をあるがままに理解して後悔せず、主の意志に身をゆだねれば、すべてをあるべき姿にしてくれると信じ」る。受け入れる、理解する態度が大切であると言うことです。極端な革命によって曲がった社会を一気に真っ直ぐにすることではありません。これは単なる諦めでもない、神を認めその摂理的配剤に委ねることなのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images.jpeg 対処の第二ポイントは最悪を想定することです。これは「順境の日」に対応することと言えます。物事が順風満帆の時の基本態度です。ご覧ください。1節〜6節はバラバラのようでしょう。だが、一つのことを強調していないでしょうか。どれもが対照的な言葉で構成されています。1節「良き名、良き油、死ぬ日、生まるる日」2節「悲しみの家、宴会の家」3節「悲しみ、笑い」4節「悲しみの家、楽しみの家」5節「戒め、歌」どちらが優れているか比較されている。ここに強調されているのは人の死なのです。悲しみの家とは葬儀の事、悲しみとは死別の悲哀の涙の事。どう言うことか?順境の日に対処するには常に最悪を想定しているべきだと言うことなのです。 

あるフランスの詩人は言った。「太陽と死は直視することができない」そうです!人は死ぬ!必ず死ぬ!分かってはいるが直視できないし、したくない。絶えず忘れようとし、意識の下に隠しておきたい!ところが、誰か知人が、家族が死ぬ!すると葬儀に列席する!どうなるか?誰でも人が死の現実を見ないわけにいかない、考えないわけにはいかないのです。棺の蓋を開け最後の別れを告げる、火葬の扉に棺を押し入れる、骨を拾い壺に納める、墓地に埋葬する!「死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる。」と2節で言う通りです。人はそこで死の現実に直面する、否が応でも直面させられるのです。聖書は「死ぬ日は生まるる日にまさる」と「喪の家はまさる」と教える。何故ですか。それは人生の最悪を人に想定させ、死を前提に今を生きるようにさせるからだと言っているのです。

 それに関連して11節に「知恵に財産が伴うのは良い。それは日を見る者どもに益がある。」と言われていますね!この知恵とは自分の最悪、自分の死を心に留めて生きる知恵のことです。その人には財産、富は好ましくなると言うのです。5章ですでに富、財産、金銭について学んだところです。そこでは、持ち主に財産が害を及ぼすと言われたが、何故ですか?人が神を無視するばかりか、自分の死、最悪を想定せずに富の奴隷となるからです。富は死んだなら手放さねばならないのに、あたかも永遠に自分の所有物だと誤解し、好き勝手に楽しく生活しようとするからです。しかし、最悪を想定する人、賢い人は、与えられた富、財産が真の意味で喜ばしいものとなるのです。何故か?富は死んだなら手放さねばならないことを弁(わきま)え、神から委託され貸し付けられたものと自覚するので、懸命に使うことができるからなのです。 

人は、人生を楽しみたいのです!笑いたい!愉快にカラオケで歌いたいのです!だが、最悪を想定無しの笑い、歌は、6節を借りれば「かまの下に燃えるいばらの音のよう」なのです!私は幼児時代に母が里帰りした時に連れて行かれた千葉の実家のカマドが想起させられる!燃料は裏山からかき集められた枯葉でした。文字通り「パチパチ」と勢いよく燃え上がる!だが、直ぐに燃え尽きてしまう!次々と素早く絶えず足さないと消えてしまう! 生活の中で現実を逃避させるような皮相な娯楽は避け、人は最悪を想定して生きるべきなのです。死ぬことから逆算して現在を生きるべきなのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-3.jpeg 対処の第三のポイントは最善を期待することです。順境の日は問題ありません。これは、逆境の日に必要な態度と言えます。それは最善を期待し神に祈ることです。私は直ぐにあのヨハネ11章のマルタとマリアを想起させられます。ある日、彼等は逆境に直面したのです。愛する弟のラザロが病気だったのです。その病名原因は定かではない。おそらくかなりの重症でしょう。その時、彼等は最善を期待し主イエスに願い出たのです。「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」人を派遣し伝言している。そこで何を期待したかは記されていない。だが、想像することはできる。この状況での最悪は弟ラザロが死ぬことですが、姉妹達は最善を期待して、すなわち、ラザロの病気回復することを期待し、イエスが直ちに来て癒してくださるよう要請したのです。

 そうです。旧約の詩篇の詩篇をご覧ください。「悩みの時に主を呼び求める」歌が沢山あります。 50:15には「 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。とあります。詩 86:7には、「 わたしの悩みの日にわたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられるからです。」とダビデの確信が歌われています。人は逆境の日に最善を期待して主に祈り願うことが許されている!何たる幸いではないでしょうか。ところが、私たちはあの二人の姉妹たちの最善の願いが叶わなかったことを知っているのです。主イエスは彼らの期待に反して、直ぐに来てくださらないどころか、数日後に遅れて来られた!その時にはすでにラザロは死んで埋葬され4日も経過していたのです。マルタがベタニヤ村外れでイエスに苦言を呈したあの言葉が理解できますね。「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。」遅れてマリヤも同じ苦言を呈したことを私たちは知っています。彼らの最善の期待は裏切られてしまったのです!ラザロは最悪の事態に陥いり死んで腐りかけて!

 だがどうでしょうか、主は彼らの期待以上をなされたのです。主は約束して実はこう約束されていたのです。その時、イエスの答えはこうでした。「こMacintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-5.jpegの病気は死ぬほどのものではない。」しかし口語訳は適訳ではない。結果的にはラザロは事実死んで埋葬されることになっていたから。原語では「死」の前の前置詞「プロス」は「近くに、面して」だが含みが沢山ある前置詞だ。それ故、別訳はこうだ。「この病気は死が目的ではなく、これは死ぬための病気ではない、この病気は死で終わるものではない」最後が聖書共同訳です。

この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」どう言うことか?主の意図された最善は彼らの期待した最善を遥かに上回るものだと言うことのです。死でおしまいではない。主はラザロを蘇らせ、それによって神の栄光を表されたのです。エペソ3:20は神を賛美するように こう勧告します。これも共同訳で引用しよう。『私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々にわたって、とこしえにありますように、アーメン』人生の逆境にあって、知りうる限りの最善を期待して主に祈りましょう。主は必ずあなたの願い思いを遥かに超えて最善を為してくださるに違いありません。

 対処の最後のポイントは自分の果たすべき責任を実行することです。それはあのベタニヤのマリヤとマルタに言えることでもありました。主イエスはあの最悪の状況で、即ち、ラザロが墓に埋葬され4日も経過した時点で到着されたばかりか、イエスは墓への案内を求め、墓場に近づくとマルタに言うのです。「石を取り除けなさい」ところが、マルタは「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」と反発しました。しかし、主イエスは再び繰り返し「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」とマルタの協力を強く求められたのです。マルタがそれに応えて石を動かした途端、どうでしょうか。神の栄光が現され、ラザロは甦らされたのです。主はマルタの協力で奇跡を成されたのです。

 世界は神の第一原因により創造されましたが、人間の自由意志による第二原因により混沌とした状況に置かれているのが現実です。しかし、そこに神は介入なされ、神の栄光を表そうとされるのです。その時に、神は、人間の自由意志に訴え、神の働きの協力者となることを求めておられるのです。全ては神が成される!だが、私たちにもほんの少し参加参与を求められるのです!人間の犯した過ちによる悲惨な状況を変えるため、神は人間の自由参加を呼びかけるのです。

 私は使徒パウロを想起させられます。ローマ書9〜11章はユダヤ問題がテーマです。パウロは同族イスラエルのために断腸の思いを語ります。ローマ9:2「すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。」それはイスラエルが神の前に頑なになって神から離れていたからでした。パウロの願いは彼らがイエスを信じて救われることでした。そして救われる時が来ることを確信してこう言ったのです。11章25節ご覧あれ!「兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。」異邦人の救いの数が満ちればイスラエルは救われる!ではパウロはどうした!その異邦人の数が少しでも早く満たされるために、自分で出来ることを開始したのです。彼はあの時代に地中海沿岸を3回も巡回し、福音を宣教した。異邦人の数が少しでも早く満ちるように、彼は自分で出来ることを実行に移したのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-1.jpeg いつか証したが、私はワールドビジョンの呼びかけに応じてチャイルドスポンサーを志願しました。何故か?チラシにこう書いてあったからです。「全てのことができるわけではありません。しかし、できることがあるのです。」今現在、8億人の子供が飢餓状態に陥っている!だがその一人でもサポートすることが大切だと知ったからです。今月から4500円を送金する。バングラディシュの5歳のフィロジ君が紹介されてきている。出来ることどんなに小さいことでもする!それが求められているのです。

順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。」今あなたは、順境の日でしょうか!大いにエンジョイしてください。しかし、最悪を想定した上で楽しんでください。そうすることが許されているのです。今あなたは、逆境の日でしょうか。不幸だと感じているでしょうか。「考えてください」「神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために」逆境をも許されたのです。最善を期待して祈ろうではありませんか。神はあなたの願い、考えをはるかに超えて叶えてくださるに違いありません。その時、あなたは神を知ることができます。冷静の祈りを祈りましょう。「神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。」今週もそのどちらであったとしてもふさわしい態度で主の前にいかしていただきましょう。