父の日 「顔と顔とを合わせて」

                     泉佐野福音教会  牧師 高木攻一

    「彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。」   マラキ三章二四節

 父の日は、二十世紀初頭、ワシントン州のスマート・ドッド夫人が、男手一つで育てられた体験から、父親に感謝するため、六月に白いバラを贈ったのが始まりだと言われ、母の日に多少押され気味ですが、日本でも少しづつ定着しつつあるようです。

 私は男の子三人に女の子二人を配偶者と共に育てましたが、子育てで苦労した記憶を実はあまり持ち合わせておりません。しかしながら、では子供たち一人一人の気持ちを父親としてどれだけ分かってあげられたのか、それは正直言って自信がないのです。先日、岸和田市の美しい蜻蛉池公園に妻と散策したおりのことでした。イケメンならぬイクメンを、すなわち幼児を乗せた乳母車を押す若いお父さんを見かけ、思わず内心応援したい気持ちに駆られたものです。

 バビロン捕囚解放後、預言者マラキが、「彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。」と来るべき主の日の預言を語ったとき、その時代のイスラエルに彼の見せられた現象は、人と人の絆の危うい状態ではなかったでしょうか。夫婦の絆、親子の絆、隣人の絆の危うさは、今まさに私たちの時代の特徴であると言っても過言ではありません。

 私たち人間をご自分に似せて造られたお方は、父なる神と御子とが永遠に顔と顔とを向き合わせられる存在であられます。それゆえ、人の本来のあるべき姿は、お互いに顔と顔を向かい合わせてかかわり絆を保つところにありました。ところがエデンの園で神に逆らい罪を犯したアダムが、「主の御顔を避け」て神との関係が断絶した結果、人としての本来あるべきかかわりの在り方も壊れてしまったのです。

 しかしながら、神の憐れみにより、御子イエスの十字架の死による罪の赦しがもたらされたことで、神と人とのかかわり、そればかりか人と人とのかかわりの回復が可能となりました。「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」今やキリストの仲保により神と人、人と人とは顔と顔を向き合わせ絆を深めることができるのです。

 現代人の多くは昨今、スマホを仲保に向き合おうとする傾向にありますが、スウェーデンの精神科医はその著「スマホ脳」で、情報伝達はできてもスマホではコミュニケーションはほとんど成立しないと警告します。その利便性が裏目に出て、むしろ人と深く関わる機会や経験を減少させてしまう危険と背中合わせであることを忘れてはならないでしょう。神と和解させられたキリスト者こそ、代用品に頼らず、顔と顔をあわせ、目線を重ね合わせて理解し合う努力を払うことが肝要でしょう。 

 自宅や職場ではなく、カフェや公園、心地よい第三の自分の居場所を意味するサード・プレイスが最近注目されています。教会にも一方通行的ではない集まりを試みてはどうでしょう。