730日礼拝説教

「水を経て救われる」  第一ペテロ3章13〜22節

もし、善いことに熱心であるなら、誰があなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けることがあっても、あなたがたは幸いです。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはなりません。ただ、心の中でキリストを主と崇めなさい。

あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう備えていなさい。それも、優しく、敬意をもって、正しい良心で、弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善い振る舞いを罵る者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになります。

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよいのです。キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。

キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです。僅か八名だけが、この箱舟に乗り込み、水を通って救われました。

この水は、洗礼を象徴するものであって、イエス・キリストの復活によって今やあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなく、正しい良心が神に対して行う誓約です。

キリストは天に昇り、天使たち、および、もろもろの権威や力を従えて、神の右におられます。

生老病死をはじめ、人には際限のない苦しみがあるのですが、キリスト者として苦しみを受けることは幸いです。使徒ペテロは、キリスト者はどんな苦しみにあってもキリストにあるなら必ず勝利すると、手紙で教会を激励します。と同時に人殺し、盗人、悪を行う者、他人に干渉する者として苦しみを受けることがないようにとも警告します。

ノアの洪水は、イエスを主と信じた者の受ける洗礼の象徴であると聖書は教えます。40日40夜降り注いだ大雨による大洪水で、すべての人々が滅びました。ノアの家族八人だけが箱舟に乗り込み救われたのです。今や人が罪による滅びから救われるために、神様が準備された箱舟はイエス・キリストです。

イエスは天地を創造された全能の主なる神であるにもかかわらず、罪の呪いから人を救うために人間となり、十字架の苦しみを耐え、死んで三日目に復活し、40日後に昇天して天の御座に着座され、天地の一切の権能をもって万事を治める主権者です。大洪水が押し寄せる際に、ノアの家族が箱舟に乗り込み救われたように、神様が備えて下さった救いの箱舟であるイエス様を信じて心にお迎えする者は、誰でも罪赦されて救われます。その信仰の告白としての水のバプテスマは、キリストの死と復活に預かることの象徴です。

受洗者は、正しい良心で神に誓約します。良心とは、自分の言動の全てを見ていて自分の心に証言するため神から授かった賜物です。救われた受洗者は、キリストに倣い善に励み、救いの証しができる用意をしているものです。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩のモデルは、花巻の禅寺の三男に生まれた斎藤宗次郎でした。学校教員で国粋主義者の斎藤が、聖書に触れるや、主を信じ受洗しました。それからは証しと善行に邁進したのですが、生家からは勘当され、教員職を追われ、「ヤソ、国賊!」と迫害されるのですが、黙々と愛の奉仕の働きを続けた結果、花巻を離れ上京する際には、町長はじめ多数の町民が駅に歓送する出発となったと言われています。斎藤こそ宮沢に「そういうものに 私はなりたい」と感動を与えた苦しみの人でした。

723日礼拝説教

「白鳥の歌に聴く」  ピリピ4章1〜4節

ですから、私が愛し、慕っているきょうだいたち、私の喜びであり、冠である愛する人たち、このように、主にあってしっかりと立ちなさい。私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。

なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。

主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。

何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、 あらゆる人知を

白鳥は死ぬ直前に美しい声で歌う伝説があります。使徒パウロが自分の死を予感し獄中からピリピ教会に書き送った白鳥の歌から聞こえてくるのは、一本の紐に結ばれた真珠です。パウロは自らの宣教で誕生したピリピ教会をこよなく愛し、しっかり立ちなさい、同じ思いを抱きなさい、いつも喜びなさい、と激励しています。そしてその秘訣が主にあることを強調しました。

教会は圧倒的多数の十字架の敵に囲まれており、その影響でキリスト者の信仰が動揺しかねません。十字架の罪の赦しを得て神に立ち返ることに無頓着な人々の神は自分の腹であり、地上の生活の幸福しか考えません。束の間の地上生活であっても如何に生きるか勿論大切です。しかし、主にあってしっかり立つには、究極の国籍が天にあること、救い主イエス・キリストが間もなく再臨され、その時、栄光の体に復活させられることを確信し、待望することが何より一層大切です。

パウロはこの書簡に、ピリピ教会で指導的働きをしていた二人の婦人、エポディアとシンティケの実名を挙げ、意見の違いからか対立していた二人が一致するよう勧告しています。この世の至る所で人は分裂し対立し亀裂が入っています。人が分裂するのは各自の思考が違うからです。一致をいくら希求し努力しても破れは避けられません。教会が一致を保つ秘訣は、ただ各自が主イエス様に包まれ、思考を調整していただくことにあります。

主にあるとはイエス様の死と復活に預かることです。古い自分がイエス様と共に十字架で死んだこと、更にイエス様と共に神に服従する新しい自分に甦らされたことを認めることです。お互いがその確信を得ている時、互いの思いが調整され一致することが不思議と可能になります。

教会の中の破れに気付いたなら、そこに一致が実るように祈ることで加勢しましょう。キリスト者は自分を廻る困難な状況にあっても、いつも喜ぶことが求められます。それは無理難題のようですが、イエス様に包まれるとき、聖霊の働きで実として喜びが実るのです。主にある喜びの秘訣に生きましょう。

716日礼拝説教

「キリストの律法」  ガラテヤ6章2節

きょうだいたち、もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。

何者でもないのに、自分を何者かであると思う人がいるなら、その人は自らを欺いているのです。おのおの自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分だけには誇れるとしても、他人には誇れなくなるでしょう。

「互いに重荷を担いなさい」という勧告の前提となる「キリストの律法」はどのように理解するべきなのでしょう。ガラテヤ書では、神との関係が正しくされるのはキリストの真実によるのであり、律法の行いにはよらないと、律法が否定的に語られています。律法の行いとキリストの真実を信じる信仰とは真逆の関係のようです。

聖書で律法と言う場合、それはモーセの律法のことで、エジプト奴隷から解放された直後に、シナイ山でモーセに授けられた十戒です。恵みにより解放され神の民とされたイスラエルと神との誓約共同体の規範なのです。

パウロがこの律法を否定的に扱ったのは、それまでにユダヤ人たちが、この神与の律法を誤用し、律法を厳格に遵守、安息日を守り、割礼を受けるなら、これによってのみ神の前に人は正しくあるとしていたからです。異邦人はイエス様を信じても律法を守らねば救われないと誤解したからです。

律法そのものは聖く正しく良いものです。人に自由を得させる喜ばしい真理です。キリストは、この律法が申命記6章の神を愛する愛、レビ19章の隣人愛に要約されるとし、それを前提に新しい戒め「あなたがたは互いに愛し合いなさい」を弟子たちに命じられました。パウロがガラテヤ6章で「キリストの律法」と言う場合の律法とは、イエス様がその生き様において現された愛の精神を意味するのです。

そこで私たちが互いに重荷を担うなら、その愛の精神を全うすることになるのですが、その重荷とはここでは1節の誰か兄弟が犯した過ちのことです。自分に対する罪であれば、直接に話し合い解決し和解するべきですが、第三者の過ちを正す場合には、柔和な心で対処し、自分も同じ過ちを犯す危険性を有することを自覚し、過ちを犯した人を見下す傲慢な心が無いか、慎重に吟味することが求められます。

しかし自分の重荷で精一杯の者には到底負いきれません。そのためにもイエス様は「重荷を負うて苦労している者は、私のところに来なさい」と私たちを招かれます。イエス様のくびきを共にすることで可能となることでしょう。

7月9日礼拝説教

「まだ生きている」  使徒行伝20章1−12節

この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ました後、ギリシアに来て、そこで三か月間過ごした。

パウロは、シリア州へと船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀が起こったので、マケドニア州を通って帰ることにした。同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。この人たちは、先に出発してトロアスで私たちを待っていたが、私たちは、除酵祭の期間が明けた後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。

週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。私たちが集まっていた階上の部屋には、たくさんの灯がついていた。エウティコと言う青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。

パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒がなくてよい。まだ生きている。」そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った若者を連れて帰り、大いに慰められた。

使徒パウロの宣教ビジョンのスケールは壮大で、ローマを目指し、更にその先のイスパニアにまで福音を宣べ伝えようと準備しました。第三次宣教旅行の途次、エペソに三年近く滞在したパウロは、マケドニアに渡り、コリントを訪ね、エルサレムに向かおうとしていました。この箇所には、その旅行の主たる務めが、人々を慰め励ますことであったことが明らかにされています。「言葉を尽くして人々を励ました」とされるパウロの語った言葉は神の言葉です。

真の意味で人の心を慰めるのは御言葉です。御言葉には人を救い、癒し、慰め、励ます力があるのです。気落ちし落胆するとき、静かに神の言葉に聴きましょう。失望し落ち込んでいる方に、そっと慰めの御言葉を語って差し上げてください。

パウロには他に8名の旅の同行者がいました。彼らにはパウロに同行して福音の宣教に協力すると共に、エルサレムに救援金を届ける大切な任務が課せられていました。当時のパレスチナを襲った厳しい飢饉で貧窮していたエルサレムの兄弟達を支援するため、パウロは自らが開拓した異邦人教会に義援金を呼びかけていたのです。

彼らはその諸教会を代表し、パウロは貴重な救援金を信頼のおける複数のこれらの人々に託そうとしていたのです。その意図を「このような手順を踏んだのは、私たちが携わっている豊かな寄付について、人にとやかく言われないようにするためです。」と、コリント第二の手紙8章20節に語っています。

教会の会計は公明正大でなければなりません。この愛の救援金がエルサレムに届けられた時、窮乏していた聖徒たちがどれほど慰められたか知れません。必要とされる人々になされる具体的な支援は力強い慰めと励ましになるのですから、折あるごとに実行させていただきたいものです。

トロアスの日曜礼拝で青年ユテコが三階から転落死した際に、パウロの手当てで蘇生した出来事は、人々の大きな慰めとなりました。礼拝するその場に生ける全能の愛なる神様が共におられることを、彼らが透かし見ることができたからです。主は慰めに満ちた神です。

7月2日礼拝説教

「キリストの真実」  ガラテヤ2章11~16節

ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、責めるべきところがあったので、私は面と向かって非難しました。というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。彼らが福音の真理に従ってまっすぐ歩いていないのを見て、私は皆の前でケファに言いました。

「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」

私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。

これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。

教会の使命は福音の宣教であり、福音に生きることが課題です。使徒パウロは、自ら開拓したガラテヤの教会の福音の歪曲を深刻に受け止め、驚きを隠せません。パウロが去った後に、偽教師が律法主義思想を持ち込んだ結果でした。

ユダヤ人は生まれながらの神の選民意識が強く、ユダヤ人クリスチャンの中には、異邦人がイエス・キリストを信じても、律法を遵守し、割礼も受けなければ救われないと主張する者が多数いました。初代教会では、この信仰と律法の問題が深刻なまでに表面化したため、第一回目に相当する教会会議がエルサレムで開催され、エルサレム教会の監督ヤコブや、使徒ペテロ、ヨハネ他、主だった諸教会の代表が、徹底的に議論しました。その結果を反映して、使徒パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。(2:16)」とガラテヤの人々に再確認を促しました。

律法は救われた人が守るもので、守れば救われるのではありません。そればかりか、私たち人間の側の信仰の故に救われるのでもなく、どこまでもイエス・キリストの真実にあるのです。イエス様が父なる神のご意志に従い、十字架の死に至るまで忠実であったそのご人格とその贖いの御業により、罪深い私たちは赦され救われるのです。このイエス様を救主として信じる信仰を通して恵みにより救われたのです。そして救われた者が、その後の生活で福音の真理にどのように生きるべきか、それが大切な課題です。

パウロはその課題を、教会の柱と目されたペテロの誤った行いを取り上げました。ペテロはイエス様を信じた代表的なユダヤ人クリスチャンでした。にも関わらず、異邦人クリスチャンに対して行為が、その場しのぎの偽善であると、パウロは糾弾したのです。クリスチャンであるのに、そうではない人々と体面を保つために、クリスチャンらしからぬ振る舞いを演じることは厳に慎むべきなのです。家庭、職場、仲間の間で、どう生きるべきなのでしょう。