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「堂々と神に近づく」 エペソ3章1〜12節

こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ――わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。

この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。

わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。

それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。

この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。(口語訳)

 主の年2021年、新年おめでとうございます。皆様の上に豊かな溢れんばかりの神の恵みと祝福を祈ります。最初に、メッセージの聖書箇所を読みます。エペソ3章です。

 この新しい年の初め、私はミステリーで開始したいと思います。何故ならば、皆さんもお気づきでしょう、この箇所には四回も「秘義」(聖書協会共同訳)が繰り返されるからです。別訳では「奥義」「秘められた計画」とか訳されますが、原語ではミューステリオンで、英語のミステリーの語源なのです。ミステリーとは隠された秘密、人知では計り知れないことです。皆さんの中には、ミステリー小説やミステリー映画が大好きだという人がきっとおられるでしょう。このお正月にじっくり鑑賞したいと計画されているかもしれません。調べたら映画専門チャンネルで、年末年始四日間、「松本清張、横溝正史、森村誠一、横山秀夫」物を朝から晩までやっていると宣伝していました。有料でしょうけれど!

 その道の専門家が、ミステリー小説の定義をこう言っています。第一に「発端の不可思議性」第二に「中途のサスペンス」第三に「結末の意外性」

I.       発端の不可思議性

 発端の不可思議性とは、奇妙な事件や謎を提示して読者を引きつけることです。そこで、今日、私は皆さんに一つの謎を提示したいと思います。その謎とは、実は、私たち自身、身近な人間自体が謎だということなのです。

 早稲田大学人間科学部人間情報科学科 戸川達男教授が「人間についての謎」論文を書いて、こう切り出します。『とにかく人間の謎に関しては手付かずの大きな問題が数多くあり、それらは冒険家もあこがれるような巨大な未踏峰であると同時に、もしもその一角でも登頂に成功すれば、その背後には広大な未知の世界が広がっているかもしれないので、成功の波及効果は計り知れない

 その上で、6つの謎を挙げられます。

第一は「心の謎」です。こう言われます。『心に関して分からないことがあるという以前に、心という概念自体が分からないことの一つである。哲学者は「心とは何か?」という問題に正面から取り組んできたが、何々論と呼ばれるような様々な考えが提起されるばかりで、共通理解には至っていない』

第二は「意識の謎」こう言われます。『生命科学がこれほど進んでいる今日、意識の解明がまったく進んでいないばかりか、この現状をあまり深刻に受けとめられていないのは正に謎である』

第三は「自由意志の謎」こう言われます。『自由意志という概念はあまりはっきりしていない』

第四は「自己概念の謎」こう言われます『自己あるいは自分という概念も、分かりきったことのようで、実はなかなか難しい』

第五は「感情と気分の謎」

第六には「人間らしさの謎」こう言われます『古来から「人間らしさとは何か」という問い掛けがなされてきたが、いまだにはっきりした答えがない』これは驚きではありませんか? 全てが謎だと言ってはばからないのです。

II.     中途のサスペンス

 教会で購読している雑誌に「100万人の福音」があり、その1月号に、この「人間についての謎」に引きづり込まれた医学博士を見つけましたので紹介しておきます。

その副題には「睡眠の謎を追い求めて」とはっきり書いてありました。睡眠は「現代脳科学のブラックボックス」だと言われるのです。それは、筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構長・柳澤正史教授のことです。彼は睡眠覚醒を制御する神経伝達物資「オレキシン」の発見者で、2016年には紫綬褒章を授与され、他にも沢山表彰されている有名な科学者です。

この柳澤さんがこう言われるのです。「私は筑波大学にある研究所を統括しながら、睡眠の研究をしています。睡眠というのは身近な割りにはわかっていないことが多くて、そもそも「動物は、なぜ眠らなくてはいけないか」がわかっていません。また「眠気が脳内でどんな実体をとっているのか」も全くわかっていないのです。」これまた驚きです。この偉大な科学者が「分かっていない」を連発するのですから。

 一体、日頃どのように研究されるのでしょうか。彼はこう言います。「僕らの研究では、たくさんの遺伝子変異マウスの睡眠状態を計測することが基本です。これまでに一万匹以上測りました。膨大な数のマウスの世話をしながら、コツコツ研究していくのは日本人が得意だと思います。」これを読みながら思い出しましたね。北海道の伊達市で5年奉仕した時、教会に実験用ハツカネズミ養殖会社で働く若い20代の青年がいたのです。無菌状態にして研究者に提供するネズミを飼育するのが彼の仕事でした。柳澤教授は1991年に渡米し、テキサス大学で24年間研究し、とうとうオレキシンを発見されたのです。それは睡眠の謎解きの根気のいる地味な実験研究の成果だったのです。

III.   結末の意外性

 私は最初にミステリーの定義は「発端の不可思議性」次に「中途のサスペンス」と言いましたが、柳澤教授は睡眠の謎に引き込まれて、研究のサスペンスを経験した結果、到頭(とうとう)、大発見されたのですが、その結果の意外性が、そのエッセイの最後に綴られていました。彼はこう締めくくるのです。『聖書に「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる」(ローマ120)とあります。初めて読んだ時、こういうことが聖書に書いてあることが驚きでした。科学者の使命はまさにここにあると思っています。被造物を詳細に観察し、創造主なる神の御手の業を読み解くのが、僕にとっての科学の究極の目的だと思っています。』

 柳澤教授のミステリーの結末は何と「神との出会い」であったのです。彼にとってはオレキシンの発見以上の驚き、それは創造主なる神の発見であったのです。

 今日、元旦の礼拝で、私たちにとっての「隠された秘密」ミステリーとは、312節です。『キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。』堂々と神に近づくことができることなのです。

この箇所に秘義が4回と言いましたが、ここには神が数えてみれば6回あることが分かります。この神とはどういうお方であるのか、それを明らかにしているのは9節です。「すべてのものを造られた神」そうです。私たちが近付こうとしている神とは創造の神です。今日、元旦ということで、日本中の神社仏閣で初詣が行われたことでしょう。お賽銭を投げ入れ新年の加護を祈ったことでしょう。しかし、私たちが近付こうとしている神は、これらの八百万の神々では全くありません。万物、一切を創造された唯一真の神なのです。早稲田大学の戸川教授が、何もかもよく分かっていない謎だらけだと言われた人間をも造られた方、創造の神なのです。聖書を初めて読む方が誰もが驚くのは、聖書の第一声です。『初めに神は天と地を創造された』で開始するからです。今朝、私と妻はお祈りを捧げたが、私が最初に口にしたのはこの創世記11節でした。7時過ぎに祈り終わって、15分ほど体操していると、東の空に朝日が立ち上りました。素晴らしい光景です。太陽は神ではありません。その太陽をも神が創造なされたのです。

 聖書を読み進めば、この唯一の神が「全知全能偏在」であることが分かります。その本質が「霊、自存、永遠、無限、無窮、不変、唯一」であることが分かります。その属性が「義、聖、真実、善」であることも分かります。神が霊であるとは、見えないけれども人格あるお方であるということです。では、見えない神にどこで、どのように近づくことができるようになったのでしょうか?12節にははっきりこう書かれています。『私たちは、キリストの真実により、堂々と神に近づくことができます。』これは画期的な翻訳です。「キリストの真実により」真実とは嘘偽りがない、誤魔化しがない、信頼できることです。

 先週、一冊の本が届いた!タイトルは「トランプの真実」何故か?113日に米国大統領選が実施された。バイデンが当選したようだが、まだ確定したわけではない。7400万票も獲得したのにこの選挙は不正だとトランプは敗北を認めません。このトランプに関しての日本での評判は非常に悪い。彼を好きに思う人は少ない。新聞もテレビも皆酷評である。ところが関心あってネットで検索したところ、その評価は全く逆転している。ネット上で論陣をはる中川牧師も高原牧師もトランプファンなのである。そこで真相を確かめようとしたのが購入の動機です。すると読めば読むほどに、トランプに対する評価が変わってくるのです。16日には上下議会で選挙人が確定し、20日に就任式が予定される。米国に公正が行われるよう祈ってください。

 しかし、神に近づくことができるのはトランプの真実ではありません!キリストの真実です。11節に『これは、神が私たちの主キリスト・イエスにおいて実現してくださった永遠の計画に沿うものです。』キリストにおいて神が実現された計画とは、

①神が御子イエスを人間の形で遣わされたこと(これを私たちはクリスマスでお祝いしたばかりですね)

②神が御子イエスを十字架で罪の身代わりとして罰せられたこと。

③神が御子イエスを全能の力で死から蘇らせ、信じる者に永遠の命を与えられることです。私たちは、これを罪の赦し、贖いの救いの御業と呼ぶところのことです。

 これによって全世界に何が起こったのでしょうか?それは神の民イスラエルだけではなく、イスラエル以外の異邦人と言われるすべての民族、人種が、神に近づくことができるようになったということなのです。6節ご覧ください。『すなわち、異邦人が福音により、キリスト・イエスにあって、共に相続する者、共に同じ体に属する者、共に約束にあずかる者となるということです。』「相続する者」とは神の相続人です。「体に属する者」神の民に所属することです。「約束にあずかる者」聖書の神の約束にあずかることです。キーポイントは「共に」です。イスラエル、神の民と共に、異邦人である我々もあずかることです。以前は全く無縁であった。関係なかった。だがキリストにより共有する立場に置かれるようになった、といことなのです。

 31日昼ごろでしたか宝くじの当選発表が報じられていました。当たれば7億円だと言うのです。今日、少し態度がいつもと違う人がいたら要注意です。大体、当選した人は人が変わってしまうと言われますから。しかし、驚かないでください。聖書のミステリーによれば7億円などは話にならないのです。キリストを信じた人は「神の相続人」なのですから。

 12節で「キリストにあって」とはイエスをキリストと信じ受け入れることによってキリストと結びつくことです。その人には大きな変化があります。それはその瞬間から、創造主である唯一の神を「天の父よ」と呼びかけお祈りをし、神との会話が始まることです。最初に「主の祈り」の賛美をささげました。それは信仰者に起こった恵みを歌った賛美なのです。「天の父よ」と呼びかけ神に祈りが始まると何が経験されますか?生活の狭間で「思い煩う」ことから解放されることなのです。マタイ62534節で、主は言われます。「思い煩うな」そして、「空の鳥を見なさい」と促されます。「天の父は鳥を養ってくださる」と。また、「野の花がどのように育つのか、よく学びなさい」と。神が装ってくださる。あなたがたは鳥より花より優れた者ではないか。父がよくしてくださらないはずがないだろう、と言われる。34節最後にこう語られました。「だから、明日のことは思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 2021年が今日、開始しました。これから365日どのように展開するのでしょうか? コロナは依然として収束していません。経済状況は非常に厳しいものがあります。しかし、「思い煩う」必要はさらさらないのです。何故ならば、偉大な全能の慈愛に富める父なる神の御手の中に生かされているからなのです。

 宗教改革者のマルチン・ルターをご存知でしょう。彼は讃美歌作家でもあり、聖歌202番の『み神は城なり』は彼の作です。12節の詩にこう歌います。

1「み神は城なり 盾なり武器なり 悪に勝たしむる 強き助けなり 歳を経たる 暗きの長 秘術尽くし攻めきたるも などか恐るべき

2「我らの力は 弱く頼りなし されど選ばれし 神の人ぞある そは誰ぞや万軍の主なる キリストイエス 勝ちを得たもう唯一の神なり

 そのルターが残した言葉にこうある。「今日はするべきことがとても多い日なので、いつもより一時間程長く祈りの時間をとらなければならない」彼は多忙の人でした。しかし祈りの人でもあったのです。忙しいからこそ彼は力の源泉である神に近づき助けを得て偉業を成し遂げることができたのです。

 12節の「堂々と神に近づく」もユニークな訳です。口語は「大胆」でしたから。「堂々と」誤解しないでください。神と対等に接近できることではありません。どこまでも人間は泥、粘土、アダムなのです。だが、今やキリストの故に、恐る恐るでも、憚って、こそこそでもなく、神の子供として晴れ晴れとして、近づくことができることなのです。

 このエペソを書いた同じパウロはローマ書828節でこう言いました。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。

 

 大胆に堂々と神に祈りにより近づきましょう。そうすることが今年も許されているのです。天の父はご計画に従って今年も万事が働いて益となるようにしてくださることを私たちは知っているのです。ハレルヤ!