12月25日礼拝説教(詳細)

「幼子が飼葉桶に」  ルカ2章1〜7節

その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録であった。

人々は皆、登録するために、それぞれ自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。

今年は25日が日曜と重なったため、クリスマス礼拝を今日開催することになりました。先週金曜日のニュースによれば、ロシアと戦争状態に置かれているウクライナのウクライナ正教会が、今年からクリスマスを欧州と同じに25日に祝うことを決めたそうです。ロシア正教が1月7日に祝うのが習慣なので、ロシアとキッパリ決別することが理由だというのです。実は、キリストが12月25日に正確に誕生されたのかどうか、はっきり分かってはおりません。その決まった由来は、4世紀ごろに、当時のローマ暦で12月25日が冬至であったため、25日を便宜的に、キリスト降誕日に、教会が定めたことにあるとされています。しかし、本質的に正確な誕生日は問題ではないのです。キリストが、歴史的に確かにベツレヘムで乙女マリアから生まれたことが大切であり肝心なのです。

今日のこのクリスマス礼拝で開かれている聖書は、救い主イエス・キリストが、ユダヤのベツレヘムで誕生されたことを、短く的確に告げ知らせている箇所です。その1節が「その頃」で始まっていますね。そして、キリストの誕生を、歴史上実在したローマ皇帝アウグストスの治世下であったと告げているのです。この皇帝アウグストスが、紀元前63年〜紀元14年まで、存在したことは歴史的に全く問題がなく、今日それは証明済みです。その皇帝の統治のある年のことでした。皇帝アウグストスから、ローマ帝国内に向け、住民登録を一斉に実施するよう、勅令が発令されたのです。それは絶対服従命令でした。その目的は明らかです、徴兵と徴税を確実に実施できるようにするためでした。

ヨセフはその勅令に従いました。ナザレから120キロも離れた自分の出身地ベツレヘムへ、住民登録をするため、許嫁で身重のマリアを伴い、旅立ったのです。それは泉佐野市から琵琶湖くらいの距離でしょうか。身重のマリアをロバに乗せ、歩いてゆっくり行く旅、それは随分と難儀したことでしょう。二人は、その長旅に難儀したばかりではありませんでした。彼らには難題が待ち受けていたのです。旅先のベツレヘムで身重のマリアが産気付いてしまったのです、更に最悪なことに、ベツレヘムの町中に、彼らが泊まる宿がどうしても取れなかったというのです。聖書から分かることは、彼らがかろうじて確保できたのは家畜小屋、馬小屋であったこと、そのために、生まれたばかりの赤子を、布に包んで飼い葉桶に寝かせざるを得なかった、ということなのです。

.喪失した居場所

救い主イエス・キリストは、その誕生に際して馬屋の飼い葉桶に寝かされました。その理由は、明らかです。「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。」7節。しかし、キリストが飼い葉桶に寝かされたのは、住民登録で町に旅人が殺到したので、事の成り行きで、単に宿屋がふさがっていたからだというのではありません。「宿屋には彼らの泊まる所がなかった」ヨセフやマリアだけではありません。私たち人間、誰にとっても、自分の居場所が無いこと、それは重大な死活問題ではないでしょうか。ですから、キリストが馬小屋の飼い葉桶で生まれたということ、その大切な意味は、居場所の無い人々に、心から安心できる居場所を与えるために、キリストは来てくださった、ということなのです。

私がまだ40代の石川県の松任でのことでしたが、男の子と女の子の二人の子持ちの婦人が教会に来られました。後で分かったことは、その婦人のご主人が長く東京に単身赴任されておられ、家に帰ることは稀であったことでした。その結果、子供たちは父親に馴染まなかったのです。お父さんは、たまに自分の家庭に戻っても、子供たちとしっくりしません。その結果、彼には家族としての居場所が本当の意味でありませんでした。家庭とは、本来、家族が楽しく団欒できる場、人が最も安心してくつろげる居場所のことでしょう。しかし、夫婦の仲が悪い、両親から子供が虐待される、兄弟喧嘩が絶えない、嫁が舅や姑にいびられる、小姑に嫌がらせをされる、さまざまなあつれきによって、家庭に居場所が無い、そういう人が、実際沢山いるのが現実であります。

一方で、家庭では暖かい安心できる居場所があったにしても、中には、自分の働く職場に、居場所が無い人々が沢山いるのも現実ではないでしょうか。上司のパワハラがある、同僚の妬みで足を引っ張られる、仕事のやり方が悪い、仕事が鈍く能率が良くないと批判される、同僚のストレス発散のスケープゴートにされてからかわれる、いじめられる。「無理をするな そう言いながら 無理させる」サラリーマン川柳ではありませんが、意地の悪い上司の劣悪な管理、残業残業で身も心もクタクタになる。

私が 35 歳ごろでしたが、札幌市の大手の幼稚園事務所に事務で採用されて働いた経験があります。借りた家の家主がその経営者の理事長だったので、たまたま働くよう誘われたのでした。経理を担当していたのですが、ある日、理事長に次の日曜の運転を頼まれたのです。しかしその日予定があって断ったのが理由で、解雇されることになってしまいました。自分の言う通りに動かないと内心腹を立てたのでしょう。理事長曰く「二ヶ月間は給与を支給するから辞めてくれたまえ」と。文字通り私は居場所を失ってしまいました。来る日も来る日も仕事を与えられず、ただただ二ヶ月間、毎日掃除するばかりでした。そのとき、職場で居場所を失う悲哀をつくづく痛感させられたものです。

私は、3年前に、町内会の当番が回って組長を一年担当しました。改めて、日本では社会共同体意識が薄くなりつつあるな、と痛感させられたものでした。古い村落ではまた違うのでしょうが、新興住宅地では、共同体意識が非常に希薄なのです。近所に一緒に住み分けながら、お互いが無関心で、名前さえも知らない人が多いのではないでしょうか。村八分になるような極端な阻害は、無いにしても、自分の住まいは確保できていても、精神的な居場所があるとは言えない人が、地域社会には沢山いるのではないでしょうか。

職場に自分の居場所がない。学校に居場所がない。家庭に居場所がない。この社会の中に居場所がない。私たちは、そういう苦しみ悩みを感じることがあるのです。自分がだれからも必要とされていない。何の役にも立っていない。だれからも認められていない。愛されていない。別の言い方をすれば、だれともつながっておらず、どこにも属していない、と言ってもいい。そんな思いを感じるとき、私たちは、自分が安心して居られる居場所がどこにもないように感じるのです。自分には価値がないと感じるからです。酷い場合には死んでしまいたいと思うことさえあるはずです。

.用意された場所

このような人間の基本的な必要である自分の居場所について、私たちは自然に、自宅でもない職場でもない、精神的に心地よい居場所を、それとなく見つけているものだ、と社会学者が研究し、それを「第三の場所」と提唱しているのを読んだことがあります。アメリカの都市社会学者のオルデバーグによる分析です。それは、義務や必要性に縛られるのではなく、自らの心に従い、進んで向かえるような場所です。趣味を楽しんだり、息抜きをしたりできる、心安らぐところで、その場所は人により千差万別である、というのです。人によってはそれがカフェであったり、クラブであったり、公園であったり、ボランティア活動であったりする訳です。皆さんも、無意識に行きつけのカフェなどがあるのではないでしょうか。この「第三の場所」理論に触発されてスターバックスやドトールといった大手カフェは、居心地の良い環境を作るのに、あの手この手の工夫を凝らしているそうです。

しかし、今日私たちは、このクリスマスにおいて、比較にならない素晴らしい「第三の場所」が用意されていることを、この聖書に確認したいと思うのです。救い主イエス・キリストが、その誕生に際して、馬小屋の飼い葉桶に寝かされた事実が、人に備えられた最高の居場所を指し示しているからなのです。

第一に備えられている心やすらぐ居場所、それがキリストの愛なのです。キリストは言われました。「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)キリストは、「私の愛にとどまりなさい。」と呼びかけ招いておられます。そこにこそ、あなたと私の憩いの居場所があるからだ、と言われるのです。愛される時に、人はそこに精神的な安心のできる場所を見つけることができます。愛されていない人は、自分の身の置き場がありません。たとえ誰に愛されることがなくても、キリストは違います。

「私はあなたがたを愛する」と言われるのです。キリストが私をあなたを愛してくださるのです。クリスマスは、神の人間に対する愛の表れです。神が人間である私たちに対する愛を行動に移された歴史的瞬間なのです。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)神はあなたを、私を愛しておられます。神は、永遠であり、無限であり、極めがたい広い愛で、あなたを私を愛されるのです。

讃美歌の「君は愛されるために生まれた」は、韓国人のイ・ミンソプ牧師が作詞作曲したワーシップソングで広く知られていますね。その歌詞はこうです。『君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている。永遠の神の愛は 我らの出会いの中で実を結ぶ。君の存在が私にはどれほど 大きな喜びでしょう。君は愛されるために生まれた 今もその愛受けている』その通りです。誰にも愛されず、誤解され、拒絶され、粗野に扱われることがあるにしても、キリストの愛の内に、心安らぐ居場所が用意されていることを感謝しようではありませんか。

更に、用意された心からくつろげる居場所があります。キリストは言われました。「私の父の家には住まいが沢山ある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14章2、3節)確かに用意されている居場所、心から安らげる場所、自由に自分自身であり得る第3の場所、それは、天の父の家なのです。ベツレヘムに生まれ、エルサレムで罪の赦しのため十字架に命を捨てられたイエスは、復活され、昇天し、天の父のもとに行かれました。それは、私たちのために、永遠の憩いの居場所を父の家に備えるためだったのです。自分の家庭に居場所がなくても、自分の職場に居場所がなくても、地域社会からも孤絶して居場所がなくても、天の父なる神の家には住まいが、居場所が沢山、広く備えられているのです。私たちの生きる人生は「空(くう)の空」です。はかないのです。短い束の間の人生なのです。人生において私たちは旅人であり寄留者であり、目指すは天の父の家にある自分の居場所なのです。永遠の住まいなのです。そこに住宅事情の心配はありません。家賃の心配、建て替えの心配もありません。神の家族が平和のうちに、心安らかに共に生きることができる永遠の居場所が天に備えられてあるのです。

最後に備えられた心安らげる居場所を確認しておきましょう。黙示録2章の主の言葉に聞いてみましょう。その4〜5節です。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛を離れてしまった。それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。悔い改め無いなら、私はあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。」 使徒ヨハネは、絶海の孤島パトモスで、その黙示の中に、イエス・キリストの手にある7つの星と7つの金の燭台を見せられました。主はそれらを解き明かされ、7つの星は教会の天使たちである、七つの金の燭台は、七つの教会だと明かされました。教会は暗い世を明るく照らす燭台なのです。イエスは弟子たちに「あなたがたは世の光りである」と語られました。暗黒を照らす光であることを、教会は期待されているのです。燭台や、ランプスタンドが、ある特定の場所に置かれているように、教会には、その置かれた特定の場所があるのです。この2章の主の言葉は、トルコ地方のエペソ教会に、第一義的には語られた言葉でした。主は警告し、「悔い改めなければ、その場所から取り除ける」と、エペソの信者たちに警告されました。なぜでしょうか。その理由は「初めの愛から離れてしまった」からなのです。教会はキリストの愛に信仰をもって答えた愛の共同体です。その愛にかげりが生じる、愛の対象が変わってしまう、愛が冷えてしまう。何らかの理由で、エペソ教会のキリストに対する愛と信仰が、冷めてしまったのです。私は、10年間のウイーン滞在中、トルコのイスタンブールを一度訪ねたことがあります。そして友人に案内されて飛行機でエペソに移動し、その古代の遺跡を見学して来ました。そこには巨大な円形劇場がありました。図書館がありました。どれもすごいスケールで感動的でした。しかし、教会が跡形もないのです。建物が無いのではなく、集会がエペソには存在しないのです。黙示録の時代に存在したエペソ教会は、その場所から取り除けられてしまっていたのです。

あなたも私も世を照らす燭台として、この場所に、この教会位置に置かれております。しかし、問題は、あなたも私も果たして「初めの愛」を離れてはいないかということです。私は先日、この教会の2013年の写真集を家内と一緒に見る機会がありました。また、教会40周年記念誌を何回か読む機会があります。そこに記録された人々の証の数々、そこに残された写真の数々、それは、何と愛と信仰と希望に燃え、明るく輝いていることでしょうか。そこに私は、この教会の「初めの愛」を見せられる思いがするのですが、皆さんは、その初めの愛に踏みとどまり、いや、いよいよ、主に対する愛が増し加えられ、心が神への愛で燃えているのでしょうか。多くの人が、教会で主を信じて救われ、それでいて教会から離れ去っていくのです。これは悲しいかな 現実なのです。何故か初めの愛を離れてしまうのです。キリストへの愛が冷めてしまうのです。それは、大切な霊的な場、自分の燭台、世の光りとしての居場所を、居るべき場所を離れること意味するのです。あなたも私も、キリストの愛に自分の喜ばしい居場所を得たのではありませんか。あなたも私も、キリストが約束された天の父の家の住まいに希望を託したのではありませんか。もし、あなたや私が「初めの愛」を離れることがあったとしても、この教会堂は鉄筋ですから、ガンとして残るかもしれません。しかし、燭台としての教会は、神の定められた場所から取り除けられることになるかもしれません。

キリストはベツレヘムで乙女マリアより生まれ、馬小屋の飼い葉桶に寝かされました。それは、居場所のない者のために救い主となられたしるしであります。この後の聖書記事によれば、野辺の羊飼いが暗い夜に夜番をしていると、天使が主の栄光の輝きの中に現れ、こう告げたと記しています。「今日、ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」(2章11、12節) 飼い葉桶は、羊飼いたちの発見のしるしであり、それはまた、居場所の無い人にキリストが居場所を与えてくださるしるしでもあるのです。

家庭に居場所のないと感じている人、職場に居場所がないと悲しんでいる人、必要とされていない、認められていない、阻害されている、誰であっても、キリストはその人のために、お生まれくださいました。そして、「私の愛のうちにとどまりなさい」と優しく今日も招いておられるのです。そこに愛があり、そこに自由があり、そこに真理があり、そこに魂の安息があるのです。「いや、私には家庭もある、満足な職場もある」しかし、そう言いつつも、「私には、永遠にくつろげる、自分自身であり得る本当の居場所がない」と感じている方にも、主は今日、招いておられます。飼い葉桶に寝かされた幼子イエスが、最後に寝かされたのは十字に組まれた狭い十字架上でした。それは、信じる私たちに憩いの居場所を与えるための犠牲であったのです。この大いなる主イエスを賛美しましょう。そのたぐいまれなるご降誕の事実を喜び祝い歌いましょう。「君なるイエスは今あれましぬ。グローリヤ、インエクシャスデオ」と賛美しましょう。

12月18日礼拝説教

「受胎告知の秘儀」  ルカ1章26〜38節

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

マリアは天使に言った。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。

ハレルヤ! 第四アドベントを今日迎え、四番目の蝋燭に点火されました。キリストのご降誕を祝うことがアドベントの趣旨です。25日の降誕日を前に、今日の午後にはクリスマス祝会も予定されます。お弁当を共にし、楽しい出し物も沢山あるので、是非参加下さい。

さて今日、聖書箇所をルカ1章から読んでいただきました。乙女マリアに対する天使ガブリエルの受胎告知です。ガリラヤの村ナザレに住む乙女マリアに天使が突然現れ、神の託宣を語りかけたという物語です。この場面を多くの画家が想像して描いた受胎告知の絵画が沢山残っております。中でもダビンチやグレコが大変有名ですね。これらの絵画には、乙女マリアが静かに読書していると、背中に羽根のある天使ガブリエルが右手に白百合の花を持ち現れる、そういう構図が多いのですが、どこまでも、画家が想像した芸術作品です。

I.   祝福の宣言

天使ガブリエルによるマリアへの受胎告知は、大いなる祝福の宣言でした。「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」天使はマリアにこう宣言したのです。「おめでとう」とお祝いされるのは誰でも嬉しいことですが、見ず知らずの人から藪から棒に言われたら驚きますね。ちなみに、日本語の「おめでとう」には二つの由来説があり、一つは、種から芽がでること、「芽出た」からという説と、愛する可愛がるの「愛でる」に程度が甚だしいを意味する「いたし」が付いたという説です。では「おめでとう」と訳された聖書はというと、本来「喜べ」を意味するカイレという語が使われています。このカイレは、どうも当時の日常生活では挨拶言葉であったらしく、「やあ、こんにちは、ごきげんよう」と、普通に使われていたようです。ですから日本語の聖書訳も、この天使の最初の言葉を「おめでとう、こんにちは、喜びあれ、祝福あれ、めでたし、喜べ」と様々なのです。

更に、そのおめでたい、祝福、喜びの根拠が、天使の次の「恵まれた方。主があなたと共におられる。」という語りかけによって明らかになります。それは言い換えれば「神の一方的な好意にあずかったがゆえ」だということなのです。しかも具体的にどんな神の好意に預かるか、天使は驚くマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産む」31節、と明言しています。マリアがこの時、何歳であったのか分かりません。12歳と言う人もいれば、14歳、16歳、22歳だと様々に憶測されています。ただ一つはっきり分かっていることは、乙女マリアがヨセフと許嫁の関係にあり、近い将来、夫婦になろうとしていた乙女であったことは間違いありません。若い男女が結婚する、その新婚夫婦に子供が誕生する、それは本当に喜ばしいことです。天使ガブリエルが、そのマリアとヨセフの計画を事前に知っていて祝福したとすれば、それはそれで、それなりの意味があると言えます。

しかし、天使の受胎告知は、そんな常識をはるかに遥かに超えた祝福でした。天使ガブリエルのマリアに対する受胎告知は、まだ結婚してもいない、夫婦関係に入ってもいない乙女に、男子が生まれる、しかも、その名もイエスと既に決まっている。そればかりか、天使ガブリエルは、その生まれる子供の未来を、こう確言してはばからないのです。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」32、33節です。「いと高き方の子と呼ばれる」と言うこの「いと高き方」とは天地万物を創造された至高の神様のことです。乙女マリアに生まれる子は、その至高の神の子だと、天使は宣言しているのです。そればかりではありません。天使は続けてこう確言して宣言します、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」35節。

では、偉大な人、いと高き方の子、聖なる者、神の子と呼ばれた、マリアに間も無く生まれるであろうこのイエスという男の子は、一体誰であり、何をしようとするのでしょうか?天使の宣言によれば、この男の子がやがてダビデ王家の位に着き、イスラエルを永遠に治めることになるとされていますが、ただの一民族に関わるだけなのでしょうか。実はこの箇所でマリアには明らかにされなかった事実を、許嫁のヨセフに同じ天使ガブリエルが現れ、告げ知らせていました。それはマタイ1章に記されております。ご覧ください。この受胎告知から間も無く許嫁のマリアが妊娠したことに気づいたヨセフが非常に苦境に立たされ悩むことになります。その悩むヨセフが思案するある晩のことです、同じ天使ガブリエルが彼に現れ、こう語ったとマタイ1章21節が記録しています。天使は言います、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」天使ガブリエルによる受胎告知の秘儀がここにあります。乙女マリアから誕生しようとしていたその名をイエスと呼ばれる男の子は、神が人類を罪の奴隷から解放すると約束されたメシア、救い主であるということです。

私たちは、キリストの降誕日の12月25日が近づくと、しきりに「クリスマス、クリスマス」と口にいたします。キリストとは救い主を意味するギリシャ語です。ではマスはと言えば、実はラテン語で、カトリック教会で言うミサのことで、聖体拝受なのです。聖体拝受とは私たちプロテスタント教会で言う聖餐式のことで、私たちはミサと呼ぶことはしません。

しかし、クリスマスはキリストの降誕の祝として日本語に定着していますから、遠慮なく使って差し支えありません。因みに、このクリスマスのマスのラテン語の語源を辿ると「送る、放つ、解放する」を意味するミテレと言う言葉に行き着きます。そして、このミテレから派生した二つの言葉が、メッセージでありミサイルです。ミテレには放つという意味があるのでミサイルと言う言葉が生まれたのでしょう。このミサイルと言えば、北朝鮮の弾道ミサイル発射、ウクライナでのロシアのミサイル攻撃が思い出され、気持ちが暗くなりますね。

 しかし、もう一つのメッセージがクリスマスにぴったり該当するのではありませんか。クリスマスとは、私たち人間に罪の赦しの救いを与えるために、救い主イエス・キリストがこの世に送られた神の愛のメッセージであるからです。神は愛の弾道ミサイルをこの世に解き放たれたのです。私たちに与えられている責任は、この神の愛を喜び祝い、この神の愛のメッセージを人々に広く伝えることです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一4章10節) 「ここに愛があります。」これがクリスマスのメッセージです。神は愛です。その神の愛は、キリストの誕生、キリストの十字架の犠牲の死によって明らかにされたのです。主の御名を賛美しましょう。主に感謝しましょう。そして、この福音が、神の愛のメッセージが解き放たれるよう祈りましょう。

II. 実現の保証

では、天使がこのような祝福を宣言したからと言って、果たして本当に実現する保証があったのでしょうか。マリアは、突然の天使の出現に戸惑ったばかりか、非常に恐ろしかったことでしょう。そればかりではありません、天使ガブリエルの受胎告知には、素直に納得することができず、マリアは疑問を抱かざるをえませんでした。それは当然のことです。マリアはこう疑い天使に質問しています。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」(34節)確かにマリアはヨセフの許嫁でした。当時は、子供の頃に両親同士によって、本人の意志に関係なく結婚が決められるのが習慣でした。そして当時のイスラエルでは、許嫁(いいなずけ)した二人の男女は、法律によれば結婚した夫婦とみなされましたが、決して結婚するまで同じ家に住むことはありません。「私は男の人を知りません」とは、結婚してまだ夫婦の関係に入ってはいないという意味です。それゆえに、マリアの疑問は当然であり、理にかなったものであったと言うことができるでしょう。

ところが、この時、天使ガブリエルによって、乙女マリアの受胎と出産の実現保証が、マリアの疑問を払拭し、はっきり宣言されたのです。「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(35節)この「聖霊があなたに降り」の聖霊は神です。マリアは神の力によって受胎し、人間の夫婦関係によらずに子供が生まれると、出産実現の超自然的な保証が宣言されたのです。11月に世界の人口は80億を突破したと国連が発表しました。その一人一人に例外なく受胎、誕生があります。しかも、神から離れた誕生はありえないのです。人間誕生は、男女夫婦の営みの結果でありますが、また、創造者なる神の働きの結果です。これが聖書の教えです。

しかし、救い主イエス・キリストの誕生は、全く特別な神の介入による受胎と誕生でした。人間は人類の始祖アダムの犯した罪のために、生まれながらに罪人であります。ですから、神は、私たち人間に罪の赦しを与えるために、罪の無い人間を必要とされたのです。罪ある人間が他の誰か罪人のために身代わりになることはできません。罪の無い人間だけが、他の人間の罪を担って犠牲になることができるからです。その意味で、人間の夫婦関係によらず、聖霊によりマリアに身籠り、誕生されたイエス・キリストは、唯一の罪なき人間なのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)主イエスは、十字架で罪の赦しを得させるため命を捨てるために生まれました。

私がハモニカで吹いた「オーホーリーナイト」の二番目の歌詞はこう歌います。「輝く星を頼りに、旅せし博士のごと、 信仰の光によりて、我らも御前に立つ、馬ぶねに眠る御子は、君の君、主の主なり、我らの重荷を担い、安きを賜うためにと、来たれる神の子なり」そうです。神である方が、神の御子が、人間の形を取って現れてくださいました。これは秘儀の中の秘儀であります。誰もこの奥義を、人間の理性では理解することができません。神は、私たちを愛するがゆえに、ただ、愛するがゆえに、御子を犠牲にすることで、罪を赦し、私たちとの関係を回復させるために、乙女マリアによるイエスの誕生を、聖霊の力によって実現されたのです。

III.  信仰の従順

しかし、この受胎告知の秘儀は、乙女マリアの信仰の従順なしにはあり得ませんでした。マリアは、天使ガブリエルの突然の出現に驚き、その告知には疑問を抱き、「どうして、そんなことがあり得ましょうか。」と反論せざるを得ませんでした。しかし、聖霊が自分を覆い、神の全能の力によって受胎し出産することができることを天使に告げられ、更に、親戚のエリサベツの妊娠と出産の不思議を告げられ、マリアは信じて従うことを決心したのです。マリアが、親類のエリサベツが高齢であるのに妊娠したことを事前に知っていたか否かは定かではありません。それでも、身近な高齢の叔母のエリサベツ夫婦が経験しつつある不思議な出産の出来事は、マリアの信仰の大いなる助けになったことでしょう。

それゆえに、天使ガブリエルは、こう確言したのです。「神にできないことは何一つない」(37節)この言葉をマリアはきっと先祖物語で聞いて知っていたのではないでしょうか。この言葉は、アブラハムとサラに対して語られたあの言葉と同じでした。創世記18章には、三人の旅人がアブラハムの天幕を訪問した物語が記されています。食事の後で、天使が、アブラハムの妻サラに来年、男の子が生まれていると予告しています。しかし、妻のサラは幕の後ろで聞いていて、年寄りの自分に生まれるはずがないと、天使を馬鹿にし、心の中で笑ってしまいます。その時、天使が言うのです。「主にとって不可能なことがあろうか」そうです。全能の神に不可能はないのです。その予告通りに年老いたアブラハム夫妻に男子のイサクが誕生しています。

マリアは、先祖アブラハムのサラに起こったことが、今、自分の親類の叔母エリサベツにも起ころうとしてことを知らされ、その結果、自分の身に起ろうとしている、受胎出産を確信させられたのです。マリアは答えて言いました。「私は主の仕え女(め)です。お言葉どおり、この身になりますように。」(38節)それは誠に素直な信仰の従順の告白でした。神の働きは人間の信仰の従順によって実行に移されるものです。人類の救済、罪の赦しは、この普通のか弱い乙女の信仰の従順によって実現されました。

神の愛の働きは、今なお私たちの間で、進められようとしています。神が今日も必要とするのは、マリアのような素直で謙遜な神に従順な人です。この第四アドベントにおいて、神が私たちを愛するがゆえに救い主イエス・キリストを送ってくださったことを感謝しましょう。乙女マリアから人間の関係によらず、聖霊の力で御子イエスが誕生された秘儀を感謝しましょう。そして、乙女マリアの信仰従順によって、救いの道が開かれたように、私たちをも現代において、用いていただくように、「お言葉どおり、この身になりますように」と、私たちもまた献身することにいたしましょう。クリスマスの祝福がありますように。

12月11日礼拝説教(詳細)

「いつも喜び祝う」  テサロニケ上 5章16〜24節

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。

あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。

第三アドベントを迎えた今日、テサロニケ上5章を読んでいただきました。今から挙げる5つの箇所で、使徒パウロが何と語ったかによって、この手紙の主題がはっきり明らかになります。1章10節です。「あなたがたは、御子が天から来られるのを待ち望むようになった」2章19節です。「私たちの主イエスが来られるとき」次に3章13節です。「私たちの主イエスが、その全ての聖なる者と共に来られるとき」さらに4章15節「主が来られる時まで」最後に5章23節です。「私たちの主イエス・キリストが来られるとき」使徒パウロは、5章の各章すべてで「主イエスが来られる時」と語っています、即ち、手紙の主題はキリストの再臨であることが明らかです。

御子のご降誕、クリスマスを祝おうとするこの時期に、何故、主題がキリスト再臨のこの手紙を読むのでしょうか。それは、御子イエス・キリストが誕生された究極の目的が、キリスト再臨にあるからなのです。キリストは罪から人を救うために誕生されました。キリストが再び来られるのは、救われた人の救いを完成するためであるからです。使徒パウロはこの手紙を閉じるにあたり、23節にこう祈りました。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。」二千年前に誕生された主イエスが再び来られるのは、救われた私たちを「非の打ち所のない者」とするためです。イエスを信じたクリスチャンは、罪赦され救われましたが完全ではありません。私たちは、しばしば自分の不甲斐なさに失望するのですが、主イエスが再び来られる時、非の打ち所のない者にされることを感謝しましょう。そして再臨されるまで、私たちの霊と心と体が健全であるよう、神が守ってくださるよう、私たちも祈りましょう。

I.    健全な心

 先週月曜日、後期高齢者の認知機能検査が教習所でありました。検査の一つは、16の絵を見る記憶検査で、私が解答できたのは僅か11でした。次に、ヒントによる記憶検査では、ヒマワリとパイナップルの画像がイメージとして浮かんでも名前がなかなか思い浮かばず、それでもギリギリで全部回答することができました。3時間の検査終了後、20人の受講者全員に結果通知書が配布された時のことでした。私の前の婦人が突然さめざめと泣き出したのです。担当者が何故泣くのか心配しましたが、原因が分かりました。この婦人は、通知書の文章を誤解したからです。

その文章とは「『認知症のおそれがある』基準に該当しませんでした。」で、確かに読みようによっては失格したと受け取られかねないような否定表現だったのです。この婦人は泣く必要は全くありませんでした。合格していたのですから。

人の心の機能の一つである感情は、外部から受ける刺激に喜怒哀楽のいずれかの情感で反応するものです。最近、人の脳が出すホルモンについての研究が注目されていますね。それによると、物事の捉え方によって、脳は体によいホルモンを出したり、害になるホルモンを出したりするというのです。ストレスが加わった時、緊張して不安や恐怖を感じたり、怒りや恨みなどの気持ちで受け止めると、脳内にアドレナリンが分泌され、これらは血管を収縮させて脳梗塞などを引き起こす有害物質ですから病気になったりする、というのです。逆に物事を前向きに受け止めると、副腎皮質ホルモンやエンドルフィンというホルモンが分泌され、これらは肉体的、精神的ストレスを和らげて免疫力を高める働きをするというのです。

 使徒パウロが、「健全な心が守られるよう」祈ったその祈りの背景には、その前の16節で語った「いつも喜んでいなさい」の勧告があったに違いありません。健全な心とは「いつも喜んでいる」ということです。心が喜びに満ちていると、免疫力がアップするのです。脳が活性化され記録力が良くなるのです。血の巡りも良くなり、自律神経のバランスが整えられるのです。エンドルフィンのホルモンが分泌されるとモルヒネの数倍の鎮静効果があり痛みが軽減されるとも言われます。

だからこそ、サッカーファンはカタールまで、どれだけ旅費がかかっても応援に出かけるのでしょう。彼らは喜びに溢れ歓喜したいのです。だからこそ、人々はテレビや映画や演劇のエンターテイナーに惹きつけられ、笑い、興じるのでしょう。そうすることによって、笑い喜び楽しむことができるからです。

 しかし聖書は「いつも喜んでいなさい」と勧告するのです。喜びが自分の生活の基調音であれ、と言っているのです。ある人は喜びを定義して「欲求が満たされている状態」だと言います。食欲、せいよく、睡眠欲という生理的欲求があります。安心感に対する欲求がある。人と関わりたいという社会的欲求がある。地位や権威を持ちたい自我欲求もある。自分の潜在能力を顕在化させたい自己実現欲もある。それらがすべて満たされたら、目を輝かせて幸福感に浸ることが、果たしてできるのでしょうか。

いつも喜んでいる、いつも目が輝いている、そんなことはあり得ないでしょう。外部からの刺激、欲求の充足では不可能なのです。

II.  健全な霊

 それゆえに、聖書は「絶えず祈りなさい」(17節)と勧告するのです。聖書が、できそうにも無いことを勧告するはずがありません。外部からの刺激、欲求の充足とは全く違う喜びかたが、ここに勧められているのです。使徒パウロが23節で祈った「霊を完全に守り」という祈りの背景には、この勧告があるに違いありません。霊とは、神に向けられた生命です。神の形に似せて造られた人間だけに与えられた生命です。

人間は自然に適応し、社会に適応する生命があります。しかし人間だけに、目に見えない神に適応できる生命が、即ち、霊があるのです。しかし、罪によって堕落した人間の霊は死んでいます。ところが、人がイエス・キリストを救い主として信じた時に、霊が生き返えらされ、その結果、神と交わることができるようになるのです。その神との交わりが、神に対する語りかけ祈りなのです。この使徒パウロが、ピリピ3章1節で「私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。」と勧告していますね。「主にある」とはキリストを信じて神に祈ることです。そのキリストとの生命関係が、「葡萄の木と枝」でヨハネ15章で喩えられていることをご存知でしょう。主イエスはこう言われました。5節「私は葡萄の木、あなたがたはその枝である」そして「人が私に繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。」と約束されました。続く11節で語られたことは、その結ぶ実のことで、主イエスがこう語られるのです、「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」神に祈るとは、神の言葉を聞いて告白し、神に自分の言葉で語りかけることです。祈りとは神との対話です。その祈りの中で、神の語りかけを受けるときに、キリストの喜びが注ぎ込まれるのです。祈りの中で自分の言葉で語りかけるときに、喜びが満ち溢れてくるのです。それは、外部からの刺激や欲求の充足によるものとは、全く違った喜びです。主イエスは、ヤコブの井戸に水を汲みに来たサマリアの女に、「この水を飲む者はまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。」と語られました。「その人の内で泉となる」と約束されたのです。

今日、洗礼、入会式での誓約の言葉を耳にされたでしょう。第一問「あなたは、天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか。」第2問「あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われたことを確信しますか。」あなたが健全な霊を保ち、喜びに与かることを望まれるのであれば、他の神々、偶像と関係してはならないのです。救い主イエス・キリストを信じ、御名によって神と交わり、祈るときに、無尽蔵の喜びが溢れるようになる、聖書にはそう約束されているのです。

.健全な体

 先週水曜日のこと、長男から嬉しいメイルが届きました。次女の三年生のHが読書感想文で表彰された知らせでした。読んだ絵本はイギリスの作家コーリン・アーヴェリスの作品で、「ばあば に えがお を とどけてあげる」です。その粗筋はこうです。 「ばあばの笑顔が大好きなファーンだが、最近ばあばが笑わなくなったことが気になっている。ママに聞いてみたら、ばあばは人生から「よろこび」が消えたようだと答えた。「よろこび」とは何かと聞くと、ママはこう言った。「ひとのこころをしあわせにして、めをかがやかせるものよ」ばあばに「よろこび」を取り戻してあげようと、ファーンは「みつけものバッグ」を持って、家の中や公園で「よろこび」を探して捕まえようとしたよろこびをみつけるのは、かんたん。でも、つかまえるのはむずかしい!!ファーンは「よろこび」を持って帰れずに、落ち込んだまま家に帰った。ファーンは帰って、ばあばにその日起こったできごとを全て語った。すると、ばあばはこれまでみたことないくらいの笑顔を見せてくれた。「あなたが ただいてくれるだけで、せかいじゅうのよろこびをもらったきぶんよ」 次の日、ファーンは、ばあばを連れて公園へ行き、「よろこび」を見つけることができた。」というものです。私の孫のHは、400字原稿用紙2枚の感想文に17回も「喜び」という用語を使っていました。母と並んだ孫の目はそれこそキラキラ輝いており、私も思わず喜びをもらった次第です。この可愛い少女ファーンは、お婆ちゃんを喜ばせようと、家の中や公園で「よろこび」を探して捕まえようとしました。喜びというものは、探そうとすれば、どこにでも宝の山のようにあるということでしょう。

 使徒パウロは、23節の祈りで「体を完全に守り」と祈ったとき、その祈りの背景には、18節があったに違いありません。「どんなことにも感謝しなさい。」と勧告している強烈な言葉です。人は体を通して自然界と繋がり、社会と繋がっているものでしょう。体の目を通して物事を見、耳を通して聞き分け、五感を通じて様々な現象や出来事と出会うことになります。聖書は「どんなことにも感謝しなさい」と勧めるのは、健全な霊で神と交わるときに、物事の見方、物事の聞き方が変えられるからなのです。あらゆる物事、出来事、人々に神は働いておられるのであって、神の支配から外れた現象など一つもありません。すべてを神の御手にあるものと認めるときに、それはその人のうちに感謝となり、そこに泉のように喜びが溢れ出てくるのです。

 随分昔の書籍ですが、M・キャロザースの著作の「獄中からの賛美」に掲載された証を紹介しましょう。「ジムの父は三十年もの間、アルコール中毒でした。その三十年間、ジムの母は神のいやしを祈り続けていました。ジムが成長してからは、彼とその若い妻もともにそのことで祈っていました。しかし目に見える成果はありませんでした。ジムの父は自分の飲酒が問題だという事を認めようとしませんでした。そして、もしだれかが彼に向かって宗教のことを口にしようものなら、怒って座を立ってしまうのでした。ある日ジムは、集会で私の話を聞きました。それは、私たちが自分を苦しめている状況を変えてくださいと神に願うのでなく、私たちの身に起こるあらゆる事について神を讃美し始める時に、さまたげが除かれて神の力が働きはじめるということについての話でした。ジムはその集会の録音テープを家に持ち帰り、友人たちに何度もくり返し聞かせていました。そんなある日、ふと彼は、自分が父の今の状態を感謝して、神を讃美しようと努めたことはまだ一度もなかったということに気づきました。彼は熱心にその事を妻に話しました。「お父さんのアルコール中毒のことを神さまに感謝しよう。いまの状態がお父さんの人生に対する神さまのすばらしいご計画のうちにあるのだから、神さまを讃美しようじゃないか」この時から、神が働き始めました。それから数週間のうちにジムの父は自分がアルコール中毒であることをはっきり認めました。そして、キリストに助けを求め、完全に癒されてしまったのです。今では彼は家族と一緒になって神をほめたたえ、神を讃美するとどのようなことが起こるかを証しするものと変えられました。ジムは言いました。「わたしたちは30年間も父を変えて下さるようにと神に祈っていました。ところがたった一日、わたしたちは現状をそのまま感謝し、そのことを神に讃美しただけで、このようなことが起こったのです」と。

 ある方にとっては「どんなことにも感謝しなさい」とは無理難題だと思われるかもしれません。なかなか「晴れてもアーメン、感謝!雨でもアーメン、感謝!」とすんなり感謝することはできないかもしれません。しかし、健全な霊で神と交わるときに、すべてが神の御手の中にあることが分かり、万事を一切合切を益に変えてくださることが分かるときに、感謝に変えられるのです。使徒パウロは24節で、トドメを刺すようにこう語ります。「あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。」勿論、霊と心と体の健全さが完全になるのは、キリストの再臨の時です。しかし、真実な神はそれまでの私たちの日々の歩みにおいて、私たち一人一人の霊と心と体の健全さを増強してくださるのです。

 「いつも喜んでいなさい」いつも目を輝かせていることができるように、毎日、時を定めて神に祈りましょう。「絶えず祈りなさい」そうすると、すべてが神の御手の中にあることが確信され、「どんな事にも感謝」できるようにされるのです。賛美に「明日はどんな日か私は知らない」という素晴らしい作品があります。明日は分からないけれど、明日を守られるイエスがおられる、と歌うのです。今週の日々の歩みにおいても、何が起こり、誰と出会うか分かりません。しかし、すべてが御手の中にあることを覚えて、どんなことがあって、誰にあっても、何をされても、「どんな事にも感謝」しようではありませんか。そして、再び会うときには、目を輝かせて喜び証しを分かち合う事にいたしましょう。

12月4日礼拝説教(詳細)

「聖書が私の物語」  ルカ4章16〜21節

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。

「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ打ちひしがれている人を自由にし 主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して座られた。会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 ハレルヤ!第二アドベントなので第二のキャンドルに点火されました。この日にルカ4章を朗読していただきましたが、第二アドベントがバイブルサンデーだからであります。そのルーツは、古く500年前の英国聖公会の祈祷書作成に遡り、彼らは四つのアドベントに特別祈祷を制定しました。第 1主日は「キリストが与えられたことを感謝する主日」、第2主日は「聖書が与えられたことを感謝する主日」、第3主日は「イエス・キリストの降臨の備えをする主日」、第4主日は「再臨の備えをする主日」と言うようにテーマをつけることにしたその結果なのです。そこで、英国聖書協会が第二を「み言葉の主日」とし、やがて日本聖書協会もこの運動を起こし、バイブルサンデーとした、そういう由来が実はあったということなのです。

 主イエスは、生まれ育ったナザレ村の会堂に入ると預言者イザヤの巻物が手渡されました。それまでに律法を教えるラビと知られていたからでしょう。主イエスは、会衆に向かって朗読し、こう語り出されました、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」その時、主イエスが手にされ朗読した羊皮紙の巻物は、私たちの聖書で言うイザヤ書61章1、2節に相当する箇所でした。聖書は今現在3200以上の言語に翻訳されています。印刷されるようになって依頼、全世界で150億冊以上が発行されたとされます。聖書は世界の超ベストセラーなのです。

I.    イエスの物語

 聖書のこのルカ福音書は、医者でもあったルカが著者だとして知られています。彼が、その冒頭文で、こう語り出しています。1章1、2節をご覧ください。「私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々が、私たちに伝えたとおりに物語にまとめようと、多くの人がすでに手を着けてまいりました。」ルカはこの福音書をローマ政府の高官であったと思われるテオピロに献呈する形で綴ろうとしたようです。そこで、テオピロに宛て、ルカ自身も「私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。」とこの福音書を綴る動機を申し送りました。今日ここで取り上げようとしている大切な用語が、ルカの挨拶文にあります。それは「物語」で、物語とは、辞書によれば「主に人や事件などの一部始終について散文あるいは韻文で語られたものや書かれたもののこと」とされていることが分かります。物語がそうであるとすれば、この福音書は、ルカがすでに出回る文書や、出来事の目撃者との直接インタビュー記事を生かして綴った、主イエスの物語である、ということになるでしょう。

すると、「何だ!それでは小説や作り話みたいではないか?」と誰か思われるかもしれません。ところがそうではないのです。今現在、この物語については、物語論(ナトロジー)として、専門的な研究が大変進んでおり、ビジネスの世界でも絶対無視できない領域になっているということが分かっております。なぜかと言いますと、人間の脳は物語に対応するように生物学的に配線されており、物語には特別な三つの効能があるからなのです。第一に記憶に残りやすい、第二に物事の理解を円滑にする、第三に感情を動かし共感を呼ぶ、そういう優れた機能が物語にはあるからなのです。

ルカがこのような物語の効果、物語の機能を果たして知っていて福音書を書いたかどうか分かりません。しかし、キリストに救いの福音を物語形式で書き残したことは、最善の知恵であり、最上の手段であったのです。私たちの手にする66巻から成る聖書には、律法があり、歴史があり、預言があり、詩歌があり、格言があり、手紙形式があります。聖書は実に多くの文章形式から出来ているユニークな書物であります。しかし、福音書はその形式の中では歴史文書に入りますが、もっぱら物語形式で綴られていると言って間違いありません。その福音書の中の主イエスの教えの多くも、譬え話が多く、物語形式で語られていることには、私たちも気づいていますね。それは、記憶に残りやすく、理解を円滑にし、共感を呼ぶからなのです。

ヨハネ5章39節では、主がこう語られました。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しするものだ。」三浦綾子さんがある小説の中で「大根はどこを切っても大根です。」と書いておられるのを思い出すのですが、大根ならぬ聖書は、それこそどこを切ってもキリストなのです。

子供に読み聞かせる絵本に「飛び出す絵本」があります。絵本自体は薄っぺらいのですが、子供が頁をめくるとびっくりさせられます。動物や人間が飛び出してくるように細工されているからです。聖書は主イエス・キリストの物語であります。どの頁を開いても、そこからキリストが飛び出し来られる、そういう素晴らしい書物なのです。英語で歴史をヒストリーと言いますが、ある人は、これはヒズ ストーリー(his story)を意味すると言うのですが、勿論、その語源はギリシャ語のヒストリアから由来していて、ヒズ ストーリーとは関係がありません。それでも聖書に当てはめれば、聖書はヒズ ストーリーなのです。彼の歴史物語なのです。主イエス・キリストの物語なのです。英国聖書協会が、第二アドベントを「み言葉の主日」とし、やがて日本聖書協会もこの運動を起こし、バイブルサンデーとしているのですが、主の物語として、こんなにも分かりやすい、記憶しやすい、共感を得られる聖書が与えられていることを主に感謝いたしましょう。

II.  私自身の物語

 1941年12月8日の真珠湾攻撃で「トラトラトラ」(ワレ奇襲に成功セリ)を打電した空襲部隊総指揮官をしていた淵田美津雄大佐をご存知でしょうか。以前にも説教で紹介したことがありました。奇襲は成功し、何隻もの戦艦、駆逐艦を撃沈し、米軍2334人も戦死し、これをもって太平洋戦争に突入することになったことは周知の事実です。彼はその意味で大任を果たした英雄でした。しかし、それから4年後、彼は終戦後、敗戦の絶望の泥沼に落ち込んでしまいました。英雄どころか国民からも白い目で見られ、軍事裁判をも受けざるを得なかったのです。そんな淵田大佐が不思議な巡り合わせで、初めて読んだ聖書に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」とイエス・キリストが十字架上で祈った場面でハッとさせられたのです。彼はその回想の中でこう語ります、「私は、47年間も『何をしているか分からずにしていた』という自分の罪を自覚した。そしてはっきりと、イエス・キリストが私のその罪のために死んで下さったのだということを知った。」と語るのです。私は個人的に彼の伝記を読み、また淵田さんが東京の淀橋教会で1000人以上の会衆の前で説教するのを聞いて大変感動したことを覚えております。私はその彼の伝記物語に、更に彼の証し説教の彼の人生物語に、それを読み、それを聞くにつけ、淵田さんを理解し、記憶し、共感させられました。

 人間は物語たる動物なのです。私たち人間は、神の創造の6日目に、動物と一緒に創造され、最後に造られた生き物ですが、他の動物と全く違う一点は、人間が物語る生き物であり、自分の人生を物語らない訳にはいかない動物であることです。誰も彼もが、必ずしも文書に残るような長い自分物語を書く訳ではありませんが、時には長く、時には断片的に、私たちはそれとなく、いろいろな形で、様々な場で、お互いに自分を物語っているのではないでしょうか。時には、自分の物語、ストーリーが自分を苦しめ、自分に起こった悪い出来事の理由を見つけ出すことで、原因を自分自身に求めれば「自分がダメなせいだ」と落ち込んでみたり、他者に原因を求めれば「おまえのせいだ」と怒りが、ムラムラと込み上げてくることがあるでしょう。先に挙げた淵田大佐の戦後の落ち込みは酷いものだったようです。自責の念で彼はひどく落ち込み、他責の念で、日本の政治指導者や軍幹部に対して、激しい怒りが込み上げてきたことでしょう。しかし、彼が聖書を読んだ途端に、淵田大佐の物語にイエス・キリストの物語が突然かぶさってきたのです。そして聖書の物語が、いつしか彼自身の物語となっていくのです。聖書が淵田大佐の物語となっていくのです。聖書を開き読み進む、聖書の語りかけを聴き続けるとき、聖書の物語の中に居る自分を見つけ出されたのです。淵田大佐はやがて、米国に招かれ、アメリカ中の教会を巡回し、真珠湾攻撃の指揮官だった戦争犯罪者が、救われてクリスチャンになった喜びを証し、説教し続けられました。私はその説教、証を直接若い日に聴かされ深い感動と共鳴を感じたものでした。

ここで旧約聖書詩篇139篇を思い起こし読んでみましょう。神に知られていることを歌った感動的な詩ですが、13〜18節を朗読してみます。

まことにあなたは私のはらわたを造り母の胎内で私を編み上げた。あなたに感謝します。私は畏れ多いほどに、驚くべきものに造り上げられた。あなたの業(わざ)は不思議。私の魂はそれをよく知っている。私が秘められた所で造られ、地の底で織りなされたとき、あなたには私の骨も隠されてはいなかった。胎児の私をあなたの目は見ていた。すべてはあなたの書に記されている、形づくられた日々のまだその一日も始まらないうちから。神よ、あなたの計らいは、私にはいかに貴いことか。その数のいかに多いことか。数えようとしても、砂粒よりも多い。果てに至っても、私はなおあなたと共にいる。』

詩篇記者は、自分の人生を母の胎内の胎児に遡り、神に知られる身の幸いを謳いあげているのです。この16節で「全てはあなたの書に記されている」の全ては、その前の胎児を意味するとも、後の日々とも受け取れる言葉です。聖書を私訳した関根正雄さんは、これを大変に大胆にこのように意訳しています、「あなたの御眼は わが生涯を見渡され それらはみなあなたの書に記され、わが日々は 私が見る前に形造られた。」そう訳して間違いありません。

聖書は、天には生命の書があり、そこにすべての人間の人生が、例外なく記録されていると教えているのです。そうであるとすれば、我々人間一人ひとり自分の人生物語は、すでに書き上げられていることになるでしょう。事前に全てが決まっている決定論ではありません。自分の人生物語が、神の前には、全てあらわであることを、実は聖書を通して分かるようにされるのであります。主イエスが、ナザレの会堂で、預言者イザヤの巻物を、私たちの聖書で言えば、61章1、2節に相当する箇所を朗読された時、こう言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」これは、聖書の言葉を聞いたその日、主イエスの物語を聞いた人の人生物語に、キリストの物語がかぶさることを意味するのです。ある人には、自分が貧しい者であった時に、主の言葉が語りかけられ、豊かにされた日があるでしょう。貧しいとは、聖書では経済的な意味だけではありません。自分の在り方に失望、絶望し、自分はもうダメだと思いつめてしまうことでもあります。聖書はそれを「心の貧しさ」というのです。ある人には、主の福音によって抑圧された状態から解放された日があることでしょう。悪い習慣に捕らわれている人、悪霊に取り憑かれている人、飲酒や麻薬に捕らわれている人、他人のきつい批判で呪縛されている人、罪過ちの奴隷状態の人、その人が、その日、主イエスが語られる言葉によって解放されるのです。ある人には、目が見えないのに、主イエスの福音により開眼させられた日があるでしょう。心の目が開かれ、それまでは見えなかった神の国の現実を見せられるのです。ある人には、打ちひしがれた状態から、主イエスの福音によって自由にされた日があるでしょう。押さえつけられ、踏みにじられ、虐げられている人が主によって自由にされるのです。「今日」というのは毎日毎日の日々のことです。神の言葉が語られた日に、その日に、キリストの物語が、聞いた人の物語に重なり、語られた言葉が実現成就するのです。その時、主イエスの物語と自分の物語が重なり、被さり、聖書が自分の物語であることに気づかされるのです。

先月半ば、私はスイス日本語キリスト教会のM兄からメイルで原稿を依頼されました。私の近況を1200字以内にまとめて送ってほしいとの要請でした。スイスの教会が定期に発行するニュースレターで皆さんに私の近況を紹介したいとのことだったのです。既に送ったその原稿内容を今思えば、最近の自分物語を物語ったのだなとつくづく思うのです。4月に受けた人間ドックの結果を5月に、直腸癌だと宣告されたその日に、ヨハネ9章3節「神の業がこの人に現れるためである」を与えられたことを書きました。今回の癌発病には神の目的があることを理解したと。更に6月に手術計画が提示された日に、ヨハネ21章から与えられた言葉を語りました。主がペテロとの関係回復に際して「あなたは私を愛するか」と問われると、ペテロが「私はあなたを愛します」と答える。すると、主イエスは彼らに「それでは、私の羊を養いなさい」と命じられます。その日、その時に、この言葉を通して、私の人生物語に主イエスの物語が被さってくるのです。私はそれによって癒されることを確信させられ、癒されて尚暫くは牧師としての責任を果たすことを主が求めておられることを確信させられました。私はそのように私の物語をスイスに書き送りました。私の物語は聖書なのです。聖書によって私の物語が新しく新しく書き綴られていくのです。

.語り部になる

 その意味で、私たちは聖書が自分の物語になったことを証言する語り部になることが求められているのではないでしょうか。主イエスを信じる以前は、物語、ストーリーが自分を苦しめ、自分に起こった悪い出来事の理由を見つけ出すことで、原因を自分自身に求め「自分がダメなせいだ」と落ち込み、他者に求め「おまえのせいだ」と怒りが湧いてくることで苦しんでいたかもしれません。しかしイエスを信じた今は違うのです。聖書が自分の物語であることを自覚させられる時、その物語の中心におられる主イエスを認め、感謝と喜びに溢れるのです。それは他の人々にも物語らないわけにはいかない喜びではありませんか。今、主イエスは、主イエスの物語の語り部を必要とされています。クリスチャンが証しをするとは、自分の日常生活を、時系列的に何月何日、何があった、何をしたと、ずらずらと並べ立てることではありません。

自分の人生物語が主イエスの物語と重なり、その新しい自分の物語を人々に語ることなのです。私はかつて10年間、ウイ—ン在住中に「ウイ—ンVIPクラブ」を立ち上げ、ウイ—ン独特のホイリゲと呼ばれるレスランを会場に集会をしていたことが思い出されます。このクラブは日本のある実業家が起こした運動で、日本全国に開催されているのが、ウィーンの私たちにも紹介されたその結果でした。VIPVery Important Person)の意味は「最重要人物」ですが、世俗的な意味では全くありません。聖書はイザヤ43章4節に「あなたは私の目に尊く、重んじられる。私はあなたを愛する」の言葉に立脚した活動なのです。他ならぬ愛なる主、全能の父なる神が、こんなに罪深い者をも「最重要人物である」と呼びかけてくださる、そう受け止めて集まるクラブでした。会費を出し合って会食を共にし、ゲストの証を聞いて分かち合う、それは楽しい集会でした。フランスやイギリスのVIPクラブとも連絡を取り合い、交流する機会もありました。人は主イエスを信じ受け入れ救われたならば、それまでの人生物語がどれほど暗く曲がったものであっても、神に重んじられ、尊ばれ、愛される者なのです。あなたは、その意味で、ただ主イエスを信じたがために、神の目にはビップ、最重要人物なのです。今日、第二アドベント、み言葉の聖日、バイブルサンデー、聖書が与えられていることを神に感謝しましょう。そして、今日、聖書から言葉が語られたなら心をかたくなにしないようにしましょう。「今日、あなたがたが耳にした時、実現した」この「あなたがたが耳にした時」の直訳は「あなたがたの耳の中で」となります。この後に続く出来事を追うと分かるのは、このナザレでは、会堂でみ言葉を聞いた会衆は頑(かたく)なであったことです。耳の中にまで預言は届きましたが、心の中にまで入らなかったのです。

4章の29節は、意外な結末で驚きです。会堂にいた会衆は皆憤慨し、総立ちになってイエスを町の外に追い出してしまったのです。崖から突き落とそうとまでしたのです。そうであってはならないのです。聖書の言葉を耳で聞いて、耳の中で止まらず、心に受け入れ、聞き従う時に、人の人生物語は全く新しくされるのです。新しい月、12月に入りました。クリスマスの祝いが近づいてきました。今週、そして今月も、機会あるごとに、人々に自分の物語の語り部とさせていただきましょう。自分の人生物語の只中にお立ちくださる生ける主イエスを証しすることにしましょう。その時、聞いた人々の人生物語も、変えられることになるのです。私たち人間は物語る動物、生き物なのです。聖書を自分の物語とさせていただき、かつまた物語る者となろうではありませんか。