430日礼拝説教(詳細)

「飢え乾きの癒し」  ヨハネ6章34〜40節

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と言うと、

イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたは私を見ているのに、信じない。

父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。

私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」

御名を崇めます。今日の聖書箇所ヨハネ6章34〜40節を読みましょう。前後を読めば分かるように、この箇所はキリストの5千人の給食物語に続いていることが明らかです。イエス様が、何と僅か二匹の魚と五つのパンで五千人を養われたというのです。驚くばかりの信じ難いような奇跡です。この6章には、頻繁にパンが出て来るので、その数を数えたところ22回なのです。と言うことは、72節から成るこの章では、3節に一回の頻度となるわけです。パンと言えば皆さんは何を連想されるでしょうか。

私は10年ほど住んでいたウイーン時代に、食べた絶妙なあるパンを思い出すのです。このパンを売る店は、ウイーンからドナウ河を1時間も車で遡ったヴァッハウ渓谷のデュルンシュタイン町にありました。間口の狭い小さな店なのです。しかし、午前中に行かなければ売り切れてしまいます。外側がカリっとした丸いパンで、何とも美味しいパンなのです。欧州はパンが主食なのでどれも美味しいのですが、これは正直別格でした。イエス様が、ガリラヤ湖畔で五千人を養われたというパンはどんなパンだったのでしょうか。

主は群衆を解散させると、その対岸のカペナウムに弟子たちと移動されていました。ところが、一部の群衆が数艘の船に分乗して、その後を追いかけました。そして彼らが一行を見つけて追いつくと、イエス様が彼らにこう語られたのです。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して餓えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」

.癒しの必要

イエス様はここで、ご自分がパンであると言われました。そして、イエス様を食べるなら、飢えることも渇くことも無いと言われたのです。人が飢えたり渇いたりするのは、人が生き物だからです。神様が人間に命を与え、人間を生き物として造られたからです。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」と創世記2章7節に書いてある通りです。実は、分かっているようでいて、よくわからないのがこの命です。生物を研究する学者たちなら、当然よく分かっているかと思えば、ある学者などは、何と言うかと思えば、「生命は定義するより,研究する方がやさしい」と言い、定義しなくても見れば分かるものだと言うくらいなのです。それでも理解の助けになるように、調べたいくつかの定義を挙げるとこうです。「構造の維持保存」「有機的感受性」「導きの力」「ある方向への衝動」「環境への適応力」などなどです。

私がこれまで最も親しんできた定義は、最後の「環境への適応力」で、これが一番説明しやすいと受け止めているものです。その簡単な例を言えば、私たちの鼻の息がそうでしょう。私たちを取り囲む環境である空気に肺が適応し、吸い込んでは酸素を摂取し、吐いては炭酸ガスを放出しています。これはまさに生命作用ですね。命がなければ、呼吸することはない。命があっても酸素が欠ければ死んでしまいます。パンを食べようとする!それは生命があるからです。水を飲もうとする!それは生命があるからです。これらはすべて生命作用です。パンを食べようとしてもパンがなければ飢えてしまう。水を飲もうとしても水がなければ渇いてしまいます。そして、飢え渇きが極限に達すると、人は死んでしまいます。ですから、飢え渇くなら、癒されること、満たされることが絶対に必要になります。

①身体の飢え渇きの癒し

私個人が非常に飢えを深刻に覚えたのは、私がまだ20代後半で断食を6日間実践した時のことでした。北海道の北見市の断食道場で、私は水を少量摂るものの6日間絶食でした。食べ物が無いのではなく、あっても食べない断食の試みです。1日も過ぎないうちに、たちまち空腹は募るばかりでした。これは本当に貴重な経験でしたね。ところが世界の飢餓の現実は、データによれば実に深刻なのです。2021年の時点で飢餓に苦しむ人は8億200万人に上るとユニセフが報告するのです。ユニセフによればコロナ大流行によって一気に情勢が悪化したと説明されていました。そればかりではありません。飢餓状態ではなくても、健康的な生活を送るために十分な食品を確保できない食糧不安に陥っている人達が23億人もいると報告されるのです。もっと身近な話しをすれば、日本の子供の貧困率があります。信じ難いのですが、今現在、日本では 7 人に 1 人の子どもが貧困状態にあるとされている、その数は260万人に達すると言われているのです。私の長女が夫の藤村牧師と奉仕する藤沢キリスト教会では、定期的に「子供食堂」を運営しているのですが、それは沢山の欠食児童が、周辺に現実にいるからなのです。身体上の飢え渇きの癒しは、本当に深刻なまでに必要な課題です。

心の飢え渇きの癒し

最近ある方の文章にこんな風に書いてあるのを読みました。「最近は、心の渇きを感じる日々です。コロナの影響もあるのかと思いますが、ギスギスとゆとりのなさを感じます。」人の飢え渇きは身体だけではないのですね。心にも飢え渇きがあるのです。心が乾燥する。潤いがなくなってしまう。何となくバサバサ無味乾燥に感じられる。イライラする。キレやすい。怒りっぽい。命が環境への適応力だとすれば、心の飢え渇きも、人は何とか解消しようと、自分の環境に適応して働きかけ、自分なりに癒そうと努力するものではないですか。もちろん、人によってその解消方法は千差万別ですから、全てをここで挙げることは到底できません。ただ言えることは多くの場合、この世の物事は、わたしたちの渇きを解いてくれないばかりか、おうおうにしてかえって一層の渇きを増し加えるだけだということです。

昔、中国で活躍した伝道者のウオッチマン・ニーの書いた文章が優れているので、そのまま紹介しておきます。「この世の物事が人に与える喜びと楽しみは、むしろ人のために渇きを作り出すものです。人が金持ちになって享楽に浸れば浸るほど、一層富と享楽を欲するのが世の常です。人が美しくモダンであればあるほど、ますます美しくモダンでありたいのです。もし芝居を見に行かなければやがては行きたいと思わなくなります。ところが一度でも行くと、渇きが出てきてさらに行きたくなります。先週の土曜日に映画を見に行かなかったら、今週の土曜日には行かなくてもすみます。ところが先週の土曜日に映画に行ったとすると、今週の土曜日には行かずにはいられなくなるのです。ですから行けば行くほど見たくなるし、見たいと思えば思うほど、ますます見に行くことになります。とにかく内なる渇きが解決されないばかりか、かえって募るばかりです。その他の事もやはり同じではないでしょう か。とばくをする者はますますかけごとをしたくなるし、ダンスをする者は踊れば踊るほど踊りたくなるし、たばこを吸う者は吸えば吸うほど吸いたくなるし、酒を飲む人は飲めば飲むほど飲みたくなるものです。このようなことだけでなく、人生における正当な事柄においても同じ原則です。地位が高ければもつと高くなりたいし、事業が大きければますます大きくしたいし、金銭を多く持つ人ももっと多く欲しいと思うものです。」

イエス様は、あのヨハネ4章でサマリヤの女にこう語られたものです。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。」(ヨハネ 413)私たち人の心には、身体の飢え渇きのみならず、癒し難い飢え渇きがあり、その癒しを必要としています。

③霊の飢え渇きの癒し

更に言うならば、人には最も本質的な飢え渇きがあるものです。それは霊の飢え渇きとも言うべきものでしょう。人間には、自分が何故生きているのか、その目的を是非知りたいものだという渇きがあるのではありませんか。人間には、自分の本当の幸福が何であるのかを是非知りたいし、体験したいという強い飢え渇きがあるのではないでしょうか。そればかりではありません。こうして生きているのに、何故自分は死ななければならないのか、死んだらどうなるのか、是非知りたいという飢え渇きがあるものです。人生の目的も、人生の幸福も、何故死ぬかについても、これはどんなに進んだ科学技術であっても、教えてくれるものではありません。

.癒しの供給

人間の全存在の飢え渇き、身体の飢え渇き、心の飢え渇き、そして霊の飢え渇き、そのすべての飢え渇きの癒しを提供してくださるのは神様です。イエス様が、この短い聖書箇所で、3 回も父なる神様の御心に言い及んでおられることに注意してください。38節では「私が天から降って来たのは、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」と言われ、39節では「私をお遣わしになった方の御心とは、終わりの日に復活させることである」と言われ、40節でもくり返し「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」と語られました。天の父なる神様は、人間の飢え渇きを癒すことを深い愛をもって、その強い意志でお決めくださったのです。人間の全存在の飢え渇きを癒すことは、永遠に変えられることのない神様の決定的なご意志なのです。

そればかりではありません、飢え渇く人々の中から誰を癒すか、神様はあらかじめ定め選んでくださいました。主イエス様が、37節で「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る」と言われたのは、その意味です。39節でも「私に与えてくださった人を」と、再び父なる神様の選びを語られ、飢え渇きの癒しは、神様が予め選ばれた人に与えられることを断言なされました。では、癒される人と癒やされない人が、あらかじめ決まってしまっているということでしょうか。もしそれならば、神様は不公平なお方ではないでしょうか。そんなことはありません。第一テモテ2章4節にはこう書いてあります。「神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。」神様は、すべての人を例外なく、あらかじめその飢え渇きが癒やされるよう選んでおられます。しかし選びの真理は、その神様の選びを人間が各自が選択するときに、神様の選びが現実になるということなのです。神様は一人一人を例外なく、依怙贔屓(えこひいき)なく選んでおられるのですが、それは独断的、強制的、一方的な選択ではなく、相互的な選びなのです。

その上で、天の父なる神様は、命のパンを確かに配給してくださいました。38節で「私が天から降って来たのは、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」と言われ、39節でも「私をお遣わしになった方の御心とは、」と 2 回も、神様がイエス様をこの世に遣わされたことに触れたのは、父なる神が人の飢え渇きを癒すパンを、確かに配給しようとされたということなのです。その前の、32節では「私の父が天からのまことのパンをお与えになる」と語られ、その上で35節に「私が命のパンである。」と言われているのです。

では、イエス様が人の飢え渇きを癒す命のパンであるとは、どういう意味なのでしょうか。これから後の44〜72節では、まだ読んでいませんが、この点で大混乱が起きていることが分かります。イエス様は、ご自分を「パンである」と言われる。常識的にはパンは口に入れて食べ、飲み込み、胃腸で消化されてエネルギーになるものです。54節でイエス様が、「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である」と語られるや、たちまち、いよいよ、群衆の間に混乱が起きました。群衆は「どうしてこの人は自分の肉を我々に与えて食べさせることができるのか」と議論しつまずいてしまうのです。

ここで決して誤解してならないのは、パンを食べる、肉を食べるとはどこまでも比喩的な表現であることです。ですから、63節で、主イエス様ははっきりとこう説明されたのです。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」そういうわけですから、「パンを食べる」とは、イエス様を信じ受け入れることなのです。そして、イエス様を信じるとは、イエス様の語られる言葉を信じることなのです。この議論の結果、残念ながら、大勢が去っていきました。しかし、残った弟子たちの中から、ペテロが賢くもこうイエス様に告白しているのを聞いてください。「主よ、私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。」

これはギデオンの機関誌に掲載された「手渡された一通のメモ」と題した平尾政信さんの証し文です。「1992年の夏の出来事です。この出来事は私の 人生に大きな転機をもたらすこととなったのです。実は私は、失意の中でその旅行に出かけました。理由は結婚に失敗し、もう自分の人生どうなっても構わないというような思いで日々を過ごしていた時だったのです。心の中は失望と、憎しみと、自分自身の不甲斐なさに対する怒り、情けなさと恥ずかしさが入りまじり、相手を憎み、友人や家族までも逆恨みし、誰をも信じることができない、全くの暗闇の中をさまよっていました。そんな中、文化交流でドイツを訪れることになったのです。私はいけばなのある流派の家元の子として生まれ、やがては家元となる身でした。様々な分野、日本文化で活躍されている方々といっしょにこの旅行に参加したのですが、私はひたすら自分の心情を隠し、誰にもそんなみじめな状態であることを悟られぬようにと精いっぱい見栄を張っていました。そして何日かが経ち最後の日、何気なく添乗員さんと話しながら歩いているとき、急に自分自身の心情を、自分でも不思議なのですが、話し始めていました。その時、添乗員さんはそれをただ聞いてくださりその日は終わりました。翌朝、私たちは帰国する日で添乗員さんは、現地に残って後発で来る方を案内されることになっていました。そこでこのメモをくださったのです。そのメモのことばとは「愛は寛容であり、愛は親切です。 また人をねたみません。 愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに 真理を喜びます。」このメモが私の心を打ちました。人を赦すことのできないこんな自分が赦されている!こんな私が愛されている!それを知ったとき自分自身がすっと楽になりました。そして、第一コリントのみ言葉を何度も繰り返し読んでいました。もっと聖書を読みたい、知りたいという思いが私の中で沸き起こってきました。家に帰ってから、前にどこかで聖書のようなものを見かけたと思い本棚を見てみるとビ二ールの表紙の一冊の本がありました。それはギデオン協会さんが配布された聖書でした。どうして家にそれがあるのか、だれがいつどこで手に入れたものなのかは全くわからないのですが、家に聖書があったのです。手に取って読み始めましたが、内容はよくわかりません。そこで、もっと知りたいと思い添乗員さんに連絡を取って何度か会ってお話をし、教会へ連れていってもらって信仰告白をし、私のクリスチャン生活が始まりました。憎しみと失望の中で、落ちるところまで落ちてやれ、とあきらめていた人生でしたが、イエスさまと出会い、私の人生は失望が希望に変わり憎しみは愛へと変えられました。今は、献身し牧師として、妻とふたりの子どもと共に主に仕える最高の人生を送っています。」

心がカラカラに渇いていた平尾さんの心は、イエス様によってその渇きが癒されました。素晴らしいことです。平尾政信さんの傷つき渇いた心が癒やされたのは、添乗員がさりげなく手渡してくれたメモでした。そして、そこに記されたメモこそ、聖書の言葉、神の言葉、命の言葉だったのです。

.癒しの段階

ここにきて最後に、人には、その飢え渇きを癒やされる段階があることを確認しておきましょう。飢えや渇きがどんな類のものであるかが、ここでは問題ではありません。癒やされるために、その人自身が、癒しのためのどの段階にあるかが問題です。

第一の段階は、イエス様を観察している段階です。主は36節に「あなた方は私を見ているのに、信じない。」と人々に語っておられます。最近、近くの老舗の和菓子屋製造会社がパン専門店を開店しました。私はそれを知っています。その店の前をもう何回も車で通りかかります。しかし、見ているだけで一回も入って買ったためしが有りません。

第二の段階は、イエス様に来る段階です。主は37節に「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。」と言われます。現代において、イエス様の所に来るとは、教会に来ることと言って間違いありません。或いは、クリスチャンだと分かっているある個人に近づいてくることです。或いは、こっそりと聖書を読んでみたり、ネット上でキリスト教番組や集会を観察することです。覚えてください。あなたが、教会にやって来たことには深い意味があるということです。それは、神様に選ばれて摂理的にあなたが、イエス様に与えられたことを意味するのです。教会に来ることは、確かにあなた自身が決断して決めたことでしょう。しかし、それに先行して神様の選びがあったことを覚えておいてください。

次に、これは癒やされるために必要不可欠な段階です。主は、35節で「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」と明言されました。イエス様を信じること、それは、イエス様を救主として信じて心に受け入れる祈りを捧げることです。イエス様が自分の生活の中にお入りになることを許容することです。イエス様に信頼して、全てをお任せすることです。その信仰の度合いの程度は、各自千差万別です。洗礼を受けていないけれど信じている方がおられます。洗礼を受けて、教会員になった方がおられます。その程度はどうあれ、主の約束は「私を信じる者は決して渇くことがない。」なのです。ヨハネ7章でも37節で主は叫ばれました。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。」渇いている人は飲む、飢えている人は食べる!それは、イエス様を信じて祈ることです。その時、癒されるのです。癒やされます。間違いありません。

しかし癒しのためには、もう二つの段階があることを忘れないでください。主はそれを40節で「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであ」る、と言われます。永遠の命とは時間的に長く続くことよりも、質的な意味が込められます。主はヨハネ17章3節で永遠の命をこう定義されました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」聖書を読んでいる、祈っている、それでいて、神様を知らない、イエス様を知らないことがありえます。本を読んでもその作者を直接に知らないのと同じことです。関係を築き上げるには、そのための時間を取らなければ、相手を本当の意味で知ることはできません。昔ダビデがそう願ってこう詩篇27編4節で告白しています。「私が主に願った一つのこと、私はそれを求め続けよう。命のある限り主の家に住み、主の麗しさにまみえ、主の宮で尋ね求めることを。」そんなことができるのは今時、教会に住む牧師だけでしょう、と言うかもしれません。そうではありません。自分の生活の中に、主イエス様と二人だけ過ごす時間を取り分けることです。

もう一つ残された段階は、これからやがて経験する完全な癒しの段階です。それは「復活させられる段階」です。主は、40節で言われます、「私の父の御心は、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」これが究極の癒しの段階です。イエス様が再び来られるその日、私たちは甦らされるのです。その日、私たちは新天新地に住むことが許されます。その日、「渇いている者には、命の水の泉から価いなしに飲ませよう」(黙示録21章6節)と言われます。その日には、私たちの一切の飢え渇きは完全に癒やされ満たされることになるのです。

主は言われました。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」あなたには飢えがあるでしょうか。イエス様が命のパンです。あなたには癒し難い渇きがあるでしょうか。イエス様が命の増し水です。主は来て食べなさい、来て飲みなさいと、今日も招いておられます。あなたは癒しのどの段階におられるでしょうか。

4月23日礼拝説教(詳細)

「終りの時の秘義」  コリント第一15章50〜58節

きょうだいたち、私はこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。また、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐこともありません。

ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます。この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。

この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利に吞み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか。」

死の棘は罪であり、罪の力は律法です。私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。

私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。

今日の聖書箇所、コリント第一15章からお読みします。先日こんな記事が報道されていました。「スペイン南部グラナダ郊外にある地下約 70 メートルの洞窟で生活していた女性が 14 日、500 日ぶりに地上に姿を現した。登山家のベアトリス・フラミニさん(50)は、社会からの隔絶が時間感覚や脳波、睡眠にどのような影響を与えるかを調べる実験に協力していた。研究チームは、地下で過ごした期間の世界記録を更新したと話している。 フラミニさんは、ロシアによるウクライナ侵攻開始やエリザベス英女王死去の前の 202111 月に実験を開始。洞窟で 2 度の誕生日を迎えた。「65 日目から日数を数えるのをやめ、時間感覚も失われた」と振り返る。実験中は 60 冊の本を読んだり、絵を描いたりして過ごした。会見では「出て来たくなかった」と話し、「『もう終わり? まさか』と言ってしまった。まだ本を読み終えていなかったのに」と語った。」愉快な実験ですね。

私が非常に興味深かったのは、この女性登山家が、洞窟にこもって65日目から日数を数えるのをやめたところ、時間感覚を失ってしまったという点です。人は誰でも時間感覚を無くしてしまったら、まともな生活ができません。今日は、何年何月で何日なのか、何時なのか、分かっていることが生活する基本になっています。しかし、では、私たちは、今自分が歴史上、一体どの時代に生きているのか、よく十分にわきまえて生活しているのだろうかという疑問が湧いてきます。今日読んだ15章52節には「終わりのラッパの響き」と書いてあります。これは、終わりの時を告げ知らせる天使の吹き鳴らす合図のラッパの響きのことだと理解されます。私たちが今こうして聖書を読むということは、500日間洞窟に籠って出てきた女性登山家のようではないでしょうか。フラミニさんが洞窟から出てきて、初めて今何月で何が起こっているか分かったように、私たちもまた、聖書を通して、自分の生きている時代が分かるというものです。聖書によれば、神様が天地を創造されてから、それこそどれだけの年数が経過したか正確には分かりません。それでも、聖書によって、今私たちが生きている時代が、終わりの時の終りであるということが分かるのです。聖書によれば、終わりの時はメシアなる主が来られる時だとされています。救い主であるイエス様はすでに2000年前に来られました。そして、イエス様はもう一度、来臨されようとしておられます。ですから、終わりの時というのは、イエス様が来臨された時から始まり、イエス様が再び来臨される時までのことを意味しているのです。そういうわけですから、「ラッパの鳴り響くとき」とは、イエス様が再び来られる再臨の時のことです。使徒パウロが、「ここで、あなたがたに秘義を告げましょう」(51節)と言う秘義とは、人間の理性では絶対たどり着くことのできない、神様ご自身が啓示して教えてくださる真理のことです。ここに私たちは、この終わりの時の隠された秘義を見ることが許されるのです。

.キリストの勝利

54節後半から57節にこう書いてあります。「「死は勝利に吞み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか。」死の棘は罪であり、罪の力は律法です。私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。」終わりの時の秘義、奥義の第一はキリストの勝利です。

使徒パウロは、神様が主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださった、とその秘義を明かします。何に対する勝利かというと、それは死に対する勝利です。「死は勝利に吞み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか」死はそれまでは、人間に対する圧倒的勝利者でした。人間誰一人として死に対抗し、死を打ち負かすことができません。聖書は、死が恐怖の王であり、最後の敵だと言います。ある人にとって死は、塹壕を掘ってジワジワと攻めてくる敵のようです。別の人にとって死は、一発で仕留める狙撃兵のような敵です。他の人にとって死は、超高音速のミサイルを撃ち込む敵です。人の死に方、死ぬ年齢は違っても、生きている人間が例外なく、必ず死ぬことが定まっています。患者を看取るお医者さんには、病気の原因は診断して分かっても、何故人が死ぬのかその理由は分かりません。聖書だけが、人の死ぬ理由を明らかにするのです。ローマ5章12節にこう書いてあります。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。」最初の人、アダムがエデンの園で、禁断の木の実を食べて罪を犯したので、人類に死が入ってきてしまったのです。55節に「死よ、お前の棘はどこにあるのか。」と問いかけられ、56節に「死の棘は罪である」と答えられています。猛毒を持つサソリの棘が刺さったら、たちまち死んでしまうように、罪が原因で人間は死に定められてしまったのです。ところが、終わりの時に、神様はイエス・キリストによって、罪に対する勝利を私たちに与えてくださったのです。罪の全く無い人間として遣わされたイエス様が、十字架上で、人間の罪の全てを引き受け、身代わりとなって神様に罰せられたからです。恐ろしい死から棘が引き抜かれてしまったのです。その結果、死の力は無力となり、死は最早敵ではなく、恐怖の王でもなくなってしまったのです。

この素晴らしい死に対する勝利の力強い一つの証しを見つけたので紹介しておきます。「大阪の吹田市に野口さんという方がおられます。1994年5月24日に、奥さんの淳子さんをガンで亡くされました。当時、淳子さんは34歳でした。まさに人生半ば、まだこれからという時です。2人の間には、7歳の娘さんと4歳の息子さんがいました。淳子さんは亡くなる前に、この2人の子供さんに遺言を書いておられます。こんな内容です。

「愛するま一ちゃん、のり君。ママは大好きなパパとま一ちやんとのり君を残して天国に行くことになりました。ママと会えなくなって、ま一ちやんとのり君はずっとさみしい気持ちでいっぱいでしょう。でもね、のり君とま一ちゃん。病院にいたママのことを思い出してみて。ママは苦しくてしんどそうだったでしょう。足も動かなくて大変だったでしょう。天国のママはもう、病気ではありません。天国には病気も苦しみもないからです。そして、ママは今、大好きなイエスさまのお傍にいます。ママにとってどちらが良かったかよく考えてみて。ママは自分の病気のことを知ってからず一っと、ま一ちやんとのり君に何を残してあげたら良いのか、そのことばかり考えていました。そしてママが、ま一ちやんとのり君に残してあげられるものは、ただ一つだということが分かりました。それは人間としての自分の罪を認め、イエスさまを信じる心です。ま一ちやんとのり君は、これからママが傍にいなくてさみしくてたまらない日があるかもしれない。困ったことにぶっかる時が来るかもしれない。そんな時は、どうぞ目を閉じてお祈りしてみて御覧なさい。きっとママの顔が見えるはず。そしてイエスさまのお声が聞こえるはず。そして忘れないで。イエスさまはいつも、ま一ちやんとのり君のことを見守って下さっています。ママも天国から、いつもいつもあなたたちのことを見守っています。パパが弱音を吐いたりすることがあったら、ま一ちやんとのり君がパパを励ましてあげてね。さよなら、とは言いません。ま一ちやんとのり君がイエスさまをずっと信じていたら、天国でまたママと会えるから、だからママは、またね、と言います。ママが今、神さまからいただいたいのちは尊い永遠のいのち。主よ、どうぞ私の子供達が神様に愛される人になりますように、見守って下さい。ま一ちやんとのり君は、ママが神さまからお預かりした大切な宝物でした。ママは2人を神さまにお返しします。これからは、きっと神さまが2人を正しく導いて下さることでしょう。ママはあなたたちのことを心から愛していました。」

淳子さんは、2人の子供達に、最後に「さよなら、とは言いません。またね、と言います」と言い残しました。淳子さんには再会の希望があるからです。死はキリストの命に呑み込まれてしまいました。これは、イエス様を信じる者の大勝利です。

.恩寵による変化

終わりの時の秘義の二つ目は、51節にあります。「ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。」

使徒パウロは、コリントの教会に対して15章全部を費やして復活について語ってきました。 そして、イエス様を信じたクリスチャンたちの復活は、主イエス・キリストが再び来臨される時に起こる、と語ってきました。この再臨に際して復活することを、テサロニケの教会に対して語った時には、それに先立ち教会から質問が届けられていました。それは、「イエス様を信じていたのにすでに死んでしまった兄弟たちは再臨の時、どうなるのだろうか」という質問でした。ですからパウロはそれに答えて、次のように書き送っていたのです。4章13〜16節「きょうだいたち、眠りに就いた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。主の言葉によって言います。主が来られる時まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。」イエス様が再臨される前に死んでも問題はないとパウロは答えます。必ず最初に復活させられるからです。

ところが、ここでコリント第一の手紙で問題にされているのはというと、「イエス様の再臨に際して生きているクリスチャンたちは、その時どうなるのか」ということなのです。パウロが「私たちは皆が眠りに就くわけではありません。」とここで答えるとき、当時は、自分たちがまだ生きている間に、イエス様が再臨なされるだろうという確信が強かったようです。そこで、生きたままでイエス様の再臨を迎えるなら、どうなるのか? そういう疑問に対して、パウロはここで、はっきりと「私たちは皆、変えられます」と、その秘義を語っているのです。つまり、生きたまま、そのままの体で天に引き上げられるのではなく、変えられた新しい体で携挙されることになる、と語っているのです。ですから、それに先立って、50節で「肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。」とはっきり言いました。肉と血とは私たち人間の身体のことです。何故神の国を受け継げないのか。それは神の国が永遠であり、人間の身体は違うからです。限界があり永続することがないからです。

「ヒトはどうして死ぬのか」とか「生物はなぜ死ぬのか」と学者は、人間の死を研究し、その研究成果を発表しています。それによると、どうやら、身体の死は、構成する細胞の死によると考えられているようす。身体は約60兆個の細胞で構成されています。常に細胞が死んでは再生される活動をしていると言われています。ある学者は、細胞を二つに分類し、それを再生可能細胞と非再生細胞と呼びます。非再生細胞とは、寿命が尽きるまで活動する細胞のことで、脳細胞の神経とか心臓の細胞がそれに相当しています。再生可能細胞は、寿命尽きると死ぬが再生を繰り返して活動し続ける。それ以外の細胞は皆それに相当することになります。ある学者さんは、それを分かりやすく電車のチケットで喩えて説明します。非再生細胞は定期券のようだ、再生可能細胞は回数券のようだと言います。再生可能細胞は、死んでは再生する活動を、だいたい50〜60回位、繰り返すことが突き止められています。回数券を使い切ったら、それでお終いであるように、人は死ぬことになるわけです。定期券と回数券のような細胞で構成されている私たちの身体は、それゆえに、長続きすることができ無いのです。使い切ったら終わりなのです。

ところが、終わりの時の秘義が明らかにするのです。「終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます。」(52節)そうです。「変えられる」のです。その変えられることが、更に53節では言い換えられて、こう言われています。「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。」「朽ちるもの」それに「死ぬべきもの」とは、血肉のことです、私たちの身体のことです。「朽ちないもの」と「死なないもの」とは復活の身体のことです。キリストが再臨なされる時に、その時、まだ生きているクリスチャン達は、自分の身体の上に復活の体を着せられる、と言い表されているのです。この身体の上に新しい身体を着せられるという神秘的な体験が、実際具体的にどういうものであるかは、とても簡単に説明できません。しかし、一つ言えることは、今ある私たちの肉の体も、新しい体に取り込まれて、復活の体にされるのではないかということです。私が私であることは、自分の体を離れてありえないことです。今現在、私が私として認識されるのは、私自身の体にあってこそです。イエス様が来臨され、新しい体が与えられ変えられるとしても、私自身であることには、変わりはありません。

先週月曜日、私は泉佐野警察署で、免許更新手続きをしてきました。持参するものに免許証用の顔写真がありました。その一ヶ月ほど前に、石川県の長男から屋根裏に保管されていた私たち夫婦のアルバムが一箱送られてきていました。若い頃の写真ばっかりです。結婚式のアルバムもあります。私はそこから剥がして切り取り持参したでしょうか?とんでもないことです。三ヶ月以内に撮った写真でなければ受け付けられません。私自身に変わりなくても、全く顔付きが変わっているからです。先ほど話した体の細胞の再生活動からも分かるように、今の体と10年前、20年前、50年前の体は全く違うのです。それでも、復活の新しい体を与えられる時には、お互いに誰であるかを認め合うことができることは間違いないでしょう。主が再臨される時に、私たちは「変えられる」それは、想像するだけでも楽しみではありませんか。

.試される働き

最後に明らかにされる終わりの時の秘義が、最後の58節に明らかにされています。「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」それは、終わりの時、主イエス様が来臨なされる時に、私たち一人一人の働きが試されることになるということです。この時代の終わりに、主イエス様が再臨される、その時、新しい体に変えられ天に引き上げられる、そのような希望が未来に与えられているのであるから、「いつも主の業に励みなさい。」と、勧告されています。このことについては、すでに3章10節から、使徒パウロが語ってきたことでした。そこを改めて読んでみましょう。「私は、神からいただいた恵みによって、賢い建築家のように、土台を据えました。そして、他の人がその上に建物を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです。この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てるなら、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれが明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを試すからです。誰かが建てた仕事が残れば、その人は報酬を受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐるようにして救われます。」パウロが据えた土台とは、明らかに主イエス・キリストのことです。人がイエス様を信じるということは、建築のために基礎土台が据えられたことを意味するのです。イエス様を信じた人は、生涯をかけてその上に家を建てることが求められます。そこで、家を建てるのにどのような建築資材を使うのか、どのように建てるのか、その働きの結果が、終わりの時に、試されることになると教えられているのです。「誰かが建てた仕事が残れば、その人は報酬を受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。」15章の最後でパウロは「いつも主の業に励みなさい。」と、勧告するのですが、神様のために労した働きは、必ず報われることになります。しかし、その質が悪ければ報われません。その人自身、救われないことはありません。イエス・キリストを信じているのであれば、復活し天に引き上げられることに変わりはありません。しかし、働きが試され、報われるか報われないかは別問題です。

私たち人間は必ず死ぬことになります。70歳でしょうか。80歳でしょうか。100歳まで生きる人もいます。まれに120歳近くまで生きる人もいます。しかし、それが限度です。私たちには、キリストの復活の勝利、キリストの再臨における私たちの復活の希望があります。であるとするなら、改めて、今から自分がこれからどれ程、生きることになるかを計算し、「主の業に励むこと」が、自分にとっては何であるのかを、考えることにしたいものです。私は先週、78歳を迎えたばかりです。80歳まで残すところあと2年なのです。もし80歳で召されるなら、残された時間は本当に僅かしかありません。

こんなユニークな証を見つけたので紹介しておきましょう。アメリカの FBI の調査によりますと、今、全米では年間に百十万台の車が盗まれているそうです。27秒に一台の割合で盗まれる計算になります。そして、盗まれる車の種類は日本車が多いそうです。一番盗まれる車はホンダのアコード、二位がトヨタのカムリ、五番目にシビック、そして六番目がカローラです。いま盗難防止用の装置が売られていますが、一番ポピュラーなのがクラブと呼ばれる、棒のようなものをハンドルにつけてロックするものだそうです。このクラブという道具を発明したのが、ジェームズ・ウィナーという人です。ある時、彼は自分の車を盗まれました。キヤデラックを盗まれて頭にきたのです。それで、どうやったら盗まれないかとその道具を考えついたそうです。彼はその商品を作って、売って、彼の会社はすごく儲かりました。彼の夢は、六十五歳になったらビジネスを離れ、悠々自適に余生を過すことでした。そして、彼は六十五歳の時に、自分の会社を売って莫大なお金を手にし、夢の実現のためフロリダに引っ越したのです。仕事を離れて、これから余生を過ごすのです。これから、好きなゴルフを毎日、釣りも毎日、旅行だって、好きな時に好きな所に行けるこれからの人生は楽しくなるに違いない、と彼の夢は膨らんだのです。ところが、なんと三ヶ月で飽きてしまったそうです。余生って、余った人生って言うのでしょう。みなさんの中に、そういうライフプランのある人は、「よせ」と言われます。彼は、アメリカの田舎の農家で生まれ育った人です。経済的には、それほど恵まれていませんでしたが、精神的に、また信仰的に非常に豊かな家庭に育ちました。お母さんが熱心なクリスチャンでした。だから、子供の時からいつも教会に連れて行かれたのです。ところが、彼が家を離れてビジネスの世界に身を投じてから、次第にイエスからも教会からも遠のいて行きました。仕事が忙しくなってしまって、ほとんど教会の礼拝にも行かなくなっていました。引退後のある日、彼は浜辺を散歩していました。自分の人生をこれからどう過ごしたらいいのか、祈りともつかない瞑想をしていた時に、彼の心の中にはっきりとイエスの声が聞こえて来たのです。イエスが彼に、「もう一度、献身しなさい。本気で献身しなさい。自分の利益のためではなく、利益は全て私の働きのために捧げなさい。そうすれば、私はあなたを祝福する」と言われたそうです。彼はすぐにビジネスの世界に戻りました。そして、ある倒産しかかった会社を買取り、それを見事に再建し、利益を生み出す会社に育て上げました。今、利益の全部を、彼は宣教の働きのために捧げています。彼は「もうこの生活を死ぬまで変えない。こんな素晴らしい人生を、私は最後まで送ることができる。神に感謝する」と言っています。

「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」この終わりの時に、私たちの主イエス・キリストは罪と死に勝利してくださいました。復活されたイエス様は間も無く再び来られます。その時、信じる者たちは、変えられ、天に引き上げられるのです。この新しい週の日々も、このような希望を胸に、主の業に励むことにしましょう。そう心がけるあなたと主が共におられ、豊かな喜びに満ちた生活に導いてくださるよう祈ります。 

416日礼拝説教(詳細)

「目開かれ心燃え」  ルカ24章13〜35節

この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパと言う人が答えた。

「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」

イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。

「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡し、十字架につけてしまったのです。私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。

「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

こう話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

聖書はルカ24章13〜35節をお読みします。先週は教会暦でいうイースター礼拝を喜び祝い、また、続いて教会墓地において、主にあって眠りにつかれた17名の兄弟姉妹達を偲び、墓前礼拝も守り行えたことを感謝しています。しかし、イースターがこれで終わったということでは決してありません。敢えて言えば、毎週の教会礼拝はイースターなのです。日曜日の早朝に主イエス様が復活なされたので、私たちは日曜日の朝に集い、甦り生きておられるイエス様に礼拝を捧げるからです。先程、私はハモニカで聖歌256番を演奏しましたが、その折り返しはこうです。「生ける主は、明日も我を罪より守られ、墓より蘇られし命を与え、生きたもう」そうです。主イエス様は甦り生きておられるのです。

先週、キリストの復活は、空の墓物語と復活顕現物語に分けて書かれていると申しました。その意味では、今日の聖書箇所は、キリストの復活顕現物語となります。

2 階の踊り場の絵画をご覧になったでしょうか。ドイツ人画家ロバート・ズントによる名作「エマオへの道」です。エルサレムからエマオに道ゆく二人の弟子たちにイエス様が現れなさった、あの光景を描いたものです。二人の弟子の一人の名前は、18節でクレオパであることが分かっています。しかし、もう一人は分かっておりません。一説によればクレオパの妻ではないかと言われています。私も改めて絵を見なおしたのですが、確かに左の人物は後ろ向き姿で長髪ですから、クレオパの妻としてもおかしくありません。或いはまた、クレオパの息子かも知れないという説もあります。夫婦、或いは親子であったとすれば、片方の名前だけでも十分です。いずれにしても、夫婦の体験、親子の体験として読んでも味わいがあるかも知れません。

エルサレムからエマオの村までは、11キロ程度の道のりで、歩いて 3 時間程度で、それほど遠くありません。二人は、過越祭でエルサレムに来ていたのでしょう、しかもイエス様の弟子であったに違いありません。この二人の弟子達に、復活されたイエス様が現れてくださったのです。これによって復活なされたイエス様がどういうお方であるかが、鮮明に明らかにされます。これは純粋にクレオパたち二人だけの経験でありますが、また、同時に私たちすべての経験でもあると言っても差し支えありません。決して他人事ではないのです。

.人生同伴者

第一にイエス様は、私たちにとって人生の同伴者であります。その日、即ち日曜日の夕暮れ時、彼らはエルサレムからエマオ村の我が家への帰路にありました。村に向かって道を急ぐ彼らが、話しをしながら歩いていると、イエス様が後ろから近づいて来られました。そして、二人と一緒に歩いて行かれた、というのです。ところが、二人にはそれがイエス様であると全く分かりません。二人の目が遮られていたからだと聖書は言っています。二人には、それがイエス様だとは全く分からないにもかかわらず、一緒にイエス様と歩いている、実はそれは、イエス様が、私たち一人ひとりの人生の旅の全ての行程を、私たちがそれとも知らずに、共に歩いてきてくださったことを意味するものなのです。私は、16 歳で初めて教会に行く機会を得ました。聖書の話をそれから聞くようになり、イエス様のことが少しづつ分かるようになりました。しかし、だからといってそれから、イエス様が私と一緒に、寄り添って歩いてくださるようになった、というのではないのです。私は全然、知りませんでしたが、私が母の胎内に宿る時から、それまでもずーと一緒に共に居てくださった。いや、聖書によれば、生まれる前から、天地万物が造られる前から、私のことを知っていてくださった、そう教えられているのです。

ここで、二人が後ろから近づき一緒に歩く方が、どうしてイエス様だと分からなかったのでしょうか、これは不思議です。彼らは弟子達でしたから、生前のイエス様に会っていたに違いありません。そのなりふり分かっていてもいいはずです。それなのに彼らは分からなかった。それは、復活の体が、マリヤから受け継いだ肉体とは、違った全く新しい体であったからなのです。使徒パウロはその点、コリント第一15章で、復活の体を栄光の体、朽ちない体、強い体、そして霊の体と説明しています。この霊の体という場合の、霊の意味の一つは見えないものということです。霊が肉の目で見えたら霊ではありません。よくある人が幽霊を見たというのですが、それは間違いです。復活されたイエス様の体は本質的に全く、私たちの生まれつきの肉体とは違うのです。

先週月曜日に、九州の福岡にいる三男とラインで話す機会がありました。彼はずっと遠く離れた福岡に住んでおります。それなのに彼の声が聞こえるばかりか、彼の顔が見えるではありませんか。彼も私たちの顔が見えている。彼は丁度、自分で作った肉ジャガの夕食を食べている所でした。その食べる音まで聞こえてくるのです。本当にリアルです。私たち人間でもこのような高度の科学技術で、遠隔地の人と、目の前にいるように感じられるくらいリアルに接触することができるようになっています。ところが、スイッチをオフにすれば、どうでしょう。たちまち息子の姿は消失してしまうのです。だからと言って、彼が存在しないわけではありません。このエマオへの二人旅人が経験した復活の主の旅の同伴、それは、また、私の経験であり、皆さんの経験であります。私たち一人一人が、それとは全く知らずに、自分なりの人生を歩んできましたが、復活された主イエス様は、ずーといつでもどこでも、一緒に歩いてきてくださっていたのです。

.問案傾聴者

復活の主は、私たちの人生同伴者だけではありません。イエス様は私たちの問案傾聴者でもあります。17節をご覧ください。イエス様は、後ろから彼らに近づき、彼らと一緒に歩きつつ、彼らに質問してこう言われたのです。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」復活の主は、二人の会話に深い関心を示され、問案しておられるのです。問案とは、相手の安否を案じて問いかけることです。問案とは相手を理解しようとし、自分を愛するように愛する愛の行為の一つなのです。エマオに向かう二人の旅人は、エルサレムで起こった今日1日の不思議な出来事を、真剣に話し論じ合っておりました。17節をもう一度ご覧ください。「二人は暗い顔をして立ち止まった」と彼らの表情が書いてあります。口語訳ではこの「暗い顔」を「悲しそうな顔」と訳しています。何故二人が暗い、悲しい顔をしたのか、次の18節のクレオパの発言でわからないでもありませんね。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存知ないのですか」自分たちと同じエルサレムの方から近づいて来たのだから、きっとエルサレムに滞在していたに違いない、そうだとすれば、こんな大事なことを、知らないはずがない。ですから、二人が暗い顔つきをしたのは、この変わった同伴者に対する不快感を意味したのかも知れません。しかし、それ以上に、旅する二人の心境をその顔付きが表していたのではないですか。イエス様がそこで「どんなことですか」と二度目に問いかけると、二人はそれから立て続けに、どっと語り出したのです。それは19節から24節まで続く、かなり長い語りです。それは、一言で言えば、彼らの失望と困惑です。彼らの経験した失望は20節の一言「それなのに」込められています。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに」二人は他の弟子たちと同様、イエス様に絶大な期待感を抱いてきたのです。ああそれなのに!宗教家や政治家達がイエス様を十字架によって死刑に処してしまった。彼らの望みが、それによって一瞬にして消えてしまったのです。彼らの経験した困惑は、日曜日のまさに今日起こった出来事、つまり仲間の女達の行動と発言にあります。女達は遺体に香油を塗ろうと墓に行ったが墓は空(から)であった、イエス様の遺体がそこに無いばかりか、天使が現れ、復活してイエス様は生きていると告げたと言う。それを聞いた仲間の何人かが、墓に急行すると案の定、墓は空だという。エマオ途上の二人の弟子達は、この一連の出来事を全く理解できず、心底から途方に暮れていたのです。その失望し困惑しきっていた二人に問いかけられたイエス様は、じっと二人の語り出す話しに耳を傾けられました。復活されたイエス様は、彼らを愛し、彼らを理解し、彼らの失望、困惑、悩みに寄り添おうとなされたのです。

復活されたイエス様は、あなたをも愛されておられます。あなたを理解しようと問案されるばかりか、あなたの関心事、悩み事、あなたの失望、困惑、を忍耐強く傾聴してくださるお方なのです。ドイツの作家、マックス・ピカートの名著に「沈黙の世界」があります。そこには、神の沈黙が語られています。神様は本当に居られるのだろうか。居られるとしても、神様は何も語らずに黙っておられるだけではないのか。私たちにはそんな疑問が心をよぎるのではありませんか。呼べど叫べど、神様はあたかも黙っておられ、沈黙しているばかりのように思える時があるのです。しかし、ピカートは、それは神様がその人に絶大な関心を寄せておられることを意味し、その人に耳を傾け傾聴しておられる事だと言うのです。聖書には、登場人物が経験した数多くの失望、幻滅が語られていることを私たちは知っています。信仰の父と言われるアブラハムがそうでした。75歳で神様の召しを確信し、指し示されたパレスチナに来たものの、妻は子供を産めずに、彼には世継ぎがいつまでもいません。アブラハムも深い失望、幻滅を経験させられたのではないですか。

ルツ記に登場するナオミがそうでした。イスラエルに旱魃(かんばつ)が襲い掛かり、生計を支えるため他国のモアブの地に、家族あげて移住したものの、愛する夫が大黒柱であるのに、あえなく死んでしまう。そればかりか、二人の息子が現地の女性と結婚したものの、二人とも何故か次々と死んでしまう。それはそれは、ナオミにとっては幻滅もいいところでした。ある人は、期待して入学したのに、学校生活に幻滅させられるでしょう。ある人は、期待して入社した会社の内部事情にがっかり幻滅させられます。ある人は、胸膨らませて結婚したのに配偶者に失望させられがっかりしてしまう。こんなはずじゃなかった!見えなかったものが見えてくる時の幻滅感を人は、一度ならず二度も三度も、いや、失望の連続を経験させられるものなのです。しかし、その悩みを、その失望を、その困惑を分かってくださる方がおられるのです。あなたの、私の人生の道行に静かに近づき、同伴して寄り添い、共に歩んでくださる復活のイエス様です。主イエス様は、あなたに問いかけ、あなたに傾聴し、あなたを理解し、あなたを知り尽くされるお方なのです。そして、その人の経験する幻滅も、神の計画の内にあるのであって、必ずや言語に絶する喜びに導かれるに違いありません。イエス様は優しく問いかけ、忍耐強く人の話に傾聴され、それによって、人の心の内にある失望、幻滅の膿を搾り出してくださるのです。

.聖書講解者

この人生同伴者であり、問案傾聴者である復活のイエス様は、また聖書講解者であります。 27節によれば、彼ら二人の話しを忍耐強く傾聴されたイエス様は、聖書全体にわたり、二人に解き明かしをされました。人の直面する失望、幻滅を凌駕し、喜びへと導き入れる鍵があります。それはイエス様の聖書の解き明かしなのです。32節をご覧ください。「二人は互いに言った。「道々、聖書を解き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」」彼らは最近起こった一連の出来事により、ほとほと幻滅し、困惑し、混乱していました。しかし、イエス様が聖書から真理を説き起こされるのを耳にした途端に、彼らの心境に一大変化が起こったのです。彼らの心が燃えたのです。これは御言葉体験と言って良いでしょう。聖書の言葉が自分に向かって語られている。今まで判らなかった聖書の言葉が判った。私共はそんな体験を皆持っているはずです。この御言葉によって心が燃えるという体験は、一時の感情の高揚とは少し違うと思います。そのようなものは一時的であり、すぐに冷めてしまうものです。そうではなくて、目に見えない世界、神様の御支配、神様の御業に目が開かれるという体験なのではないかと思います。主は、それに先立ち二人にこう言われました。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち」これは随分と厳しいお言葉です。

今日、信徒会で、皆さんにお渡しする文書があります。「コンプライアンス」です。法令遵守という意味です。これは一般社会でも真剣に取り組まれつつあるもので、健全な人間関係を築いていこうとする取り組みです。セクハラとかパワハラという言葉をよく耳にするようになっています。相手に対して人格を傷つけるような暴力を振るうことを差し控えるべきであるということです。暴力でも腕力や武力で振るうのに限らず、言葉の上での暴力も要注意だというのです。それからすると、イエス様の二人に対する言葉、「ああ、愚かで心が鈍く」これは、相手を傷つけるパワハラではないかと思ってしまうかもしれません。しかし、そうではありません。それは霊的な問題点を見事に指摘したお言葉なのであり、外科医が鋭いメスで癌を切り取るようなものです。霊的な癌とは不信仰です。神様のお言葉が信じられない不信仰です。しかし、復活のイエス様が解き明かしてくださる。解読してくださる。そうすると理解できるようになる。そのずっと先の44節から読んでいくと、イエス様が再び集まった弟子達に、聖書を解き明かしておられる場面が出てきますね。45節をご覧ください。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた。」そうです。今現在、復活されたイエス様は、悟りの鈍い私たちの心を開いてくださっておられるのです。この恵みのみ業がなされるので、聖書を理解し、信じることができるのです。人に言われなくても、自分で思い嘆くことがありませんか。「ああ、何て自分は鈍く、よく分からないのだろうか」それは当然なのです。神様のお言葉は人間の理性によっては簡単に分からないからです。復活されたイエス様の助けと導きがなければ、決して理解することができないのです。分からなくて当然なのです。実は、日曜日に、このエマオ村への途上で、この二人にイエス様が聖書を解き明かされたことが、今日の教会の日曜礼拝の説教の原点となっているのです。私たちが日曜日に礼拝に集まり、聖書のメッセージに傾聴する、それは、私たちが復活のイエス様にお会いすること、イエス様とのお交わりに導き入れられているということなのです。エマオへの二人の旅人の心は暗く悲しみでいっぱいでした。しかし、イエス様が聖書を解き明かされたときに、彼らの心は燃えたのです。温められ、活気づけられました。それが、私たちの日曜の礼拝の生きた体験でもあるのです。

.臨席共食者

三人の旅の一行は、そうこうしているうちに目指すエマオ村にたどりつきました。すると、イエス様はそのまま、先に行こうとされました。それと気づいた二人が、イエス様をお泊めしようと「一緒にお泊まりください」と熱心に勧めたのですが、イエス様はそれに応じて、彼らの家に入られました。そしてその晩、彼らの家で夕食が供えられた時のことです。30節をご覧ください。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。」彼らの自宅で、夕食を備えたのは、クレオパとその妻でしょう。しかし、その夕食の主役が逆転し、イエス様になっているのです。これを聞いて思い出しませんか。これとそっくりの記事がルカ22章の最後の晩餐の記事にあるのです。19節です。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、使徒たちに与えて言われた。」そうです。エマオの夕食は聖餐式の手順そのものなのです。そして、その時、全く不思議なことが起こりました。31節をご覧ください。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」そうです。パンが裂かれ、手渡された瞬間に彼らの目が開け、それがイエス様だと分かったというのです。復活のイエス様が現れてくださる確かな恵みの手段が二つ教会に残されています。それが聖書の説教と聖餐式なのです。私たちが日曜に説教を聞くのはそのためです。私たちが毎月聖餐式に預かるのもそのためです。復活されたイエス様の臨在に触れさせていただくため、聖書の説教はなされ、聖餐式を執行されるのです。

私たちは、毎日食事をいただくことの大切さを良く知っております。野菜やお米や肉や魚をいただくことで、肉体的健康を管理しエネルギーを供給することを知っています。更に、人が一緒に食事をすることには、エネルギーや栄養摂取する以上に、そこには家族であること、仲間であること、共同体であることを自覚させる機能があることも知っています。それ故に、家族が一緒にテーブルを囲むことは大切です。結婚式や葬式や何かしらの通過儀礼に際しては、一緒に食事をすることを、私たちは共食と呼ぶのはそのためです。

しかし、私たちは今日の聖書箇所を通して、主にある兄弟姉妹と共に、主の制定された聖餐式に預かることに、特別な意味があることを学びます。それはパンと葡萄酒の盃に預かることを通して、復活のイエス様の臨在に触れさせていただくことなのです。エマオの二人は、一瞬目が開かれ、それがイエス様だと分かりましたが、「その姿は見えなくなった」のです。見えなくてもいいのです。イエス様がそこにおられることがわかっただけでいいのです。今や、私たちに求められているのは「見ないで信じる信仰」です。それからエマオの二人は、すぐさま立ち上がり、日の暮れた夜の道を、エルサレムに向かって急ぎ戻りました。そして、自分たちの身に起こったことを分かち合ったのです。すると、そこに居合わせた使徒達や弟子達もまた、自分たちの身に起こったことを分かち合いました。教会は、復活のイエス様の現れを共有する共同体です。今週も、ことあるごとに集まることにしましょう。お互いの経験と信仰を、そこで互いに分かち合うことにしましょう。今日は読んでいない、36節を見るとこう記されています。

「こう話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた」とあります。主にある兄弟姉妹が集まると、そこに復活のイエス様は必ず臨在してくださいます。平和と平安を与えてくださいます。主イエス様は蘇られました。生きておられます。イエス様は私たちの人生の同伴者であります。イエス様は、私たちを問案し傾聴してくださる愛に満ちた理解者であります。イエス様は、聖書の真理を、私たちの鈍い心を開いて解き明かされる講解者でもあります。そして、私たちが集まり食するとき臨席される供食者なのです。主は復活なされ生きておられます。イエス様の恵みと祝福とが豊かに皆様お一人お一人にありますよう祈ります。 

4月9日礼拝説教(詳細)

思い出しなさい」  ルカ24章1〜12節

そして、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。すると、石が墓から転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに立った。

女たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか。」

そこで、女たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。女たちはこれらのことを使徒たちに話した。

しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。

しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

私たちは今朝、今年のイースターを祝おうと集まりました。聖書の箇所をルカ24章1〜12節よりお読みします。イースターは元々、春を意味するのですが、春を喜び楽しみ祝うため、私たちは集まったのではありません。春を祝うなら、私たちは桜の下に集まり宴を設けたでしょう。「草は枯れ、花は散る」美しい桜の花も散ってしまいます。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」そうです。私たちは、変わることのない御言葉により、イエス様の復活を祝うため、ここに集まったのです。主の復活は、四福音書すべてに記録されていますが、どれも空(から)の墓物語と主の顕現(けんげん)物語に分類されております。今お読みした聖書箇所は、そのうちの空の墓物語に属することは一読して明らかです。

週の初めの日、日曜日の早朝のことでした。数名の女達がエルサレム郊外の墓地に、埋葬されたイエス様の遺体に香油を塗るべく、向かおうとしていました。イエス様は、金曜日の午前9時にゴルゴダの丘で十字架につけられました。午後3時には息を引き取り、その遺体は国会議員のアリマタヤのヨセフとニコデモによって十字架から取り下ろされ、彼らによって墓に埋葬されていました。金曜日の日没から安息日が始まるため、残された時間は非常に短く、ヨセフとニコデモは、その遺体に香油を塗り、白布を巻き付けはしたものの、遺体埋葬の施しは、略式で済まさざるを得ませんでした。それを見ていた女達が、土曜の安息日をおいて日曜の早朝に墓に出向いたのです。その傷つけられた痛ましいイエス様の遺体に、丁重に油を塗ることによって、埋葬の儀礼を完成させるためだったのです。ところが、彼らが行って見ると、塞いでいた墓石が転がされていたのです。中に入って見ると、主イエスの遺体が見当りません。すっかり途方に暮れていると、その時、突然二人の天使が現れ、恐れ驚く彼らにこう語られたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか。」

.空の墓の矛盾

これは、女達の矛盾した行動を、非常に鋭く突く言葉でした。この女達は、10節によれば、「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。」と言われています。マグダラのマリアはイエス様により悪霊から解放され、母マリアとはイエス様の弟子ヤコブとヨハネの母でした。彼らは皆、イエス様を信じ、イエス様を愛し、イエス様に従い仕えてきた敬虔な婦人達ばかりでした。彼らは、そのイエス様の痛ましい十字架の最期に直面し、深い悲しみの内に哀悼の意を、精一杯表そうと、その遺体の埋葬の施しを、丁寧にしようと墓に来ていたのです。その女達に天使は言うのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」それは、彼らの行動の矛盾を鋭く突く問いかけでした。

矛盾という漢字の由来は、何でも切れないものはない鋭い刀と何でも突き通すことのできない盾で争ったらどういう結果になるか、という問いかけです。そんなことはあり得ませんね。これと同様、辻褄が合わないことを矛盾と言うわけです。いや、そんなことはない。女達からすれば道理に適ったことをしようとしていました。その行動は矛盾していません。彼らは、忠実にイエス様に仕えてきた。そのイエス様が死なれて埋葬されている。その遺体に最後の埋葬の施しをしようと彼らは墓に来ていた。それは、どう見ても一貫しており合理的であり、尊敬の心情のなせる適切な事宜を得た行動そのものです。 しかし、神様の視点からすれば、その行動は矛盾していたのです。何故なら、イエス様が生きているのに、イエス様が死んでいると疑いなくそう思い込み、行動していたからです。

お墓とは、死者を葬ってある所です。遺骨を安置する場所です。亡くなった故人を偲ぶために非常に大切な場所です。今日、私たちが午後に墓前礼拝をしようとしているのも、その意味ですることです。私たちの教会墓地には、すでに召された17名の兄弟姉妹達の遺骨が納骨されています。お墓は、彼らがかつては生きておられたが、今は死んで生きておられない印なのです。ですから、あの数名の女達が、イエス様の墓でしようとしていた行為は、物事の順序からすれば、当然であったのです。

ところが、それは矛盾した、辻褄の合わない行為なのです。何故なら、イエス様の埋葬された墓は空であったからです。彼女達は、墓を間違えたのでしょうか。そんなことはありません。彼らは埋葬されるのをしっかりと見届けていました。弟子達が夜陰に乗じて盗み出したのでしょうか。そんなことはありません。墓はローマ兵に厳重に見張られ、封印までされていました。イエス様は単に気絶しただけで、仮死状態から回復し、自力で墓から脱出したのでしょうか。そんなことをできるはずがありません。衰弱した体で大きな石を転がすことなどできるはずがないのです。イエス様は復活されたのです。イエス様は生きておられたのです。にもかかわらず、そうとも知らない彼らは、イエス様の死んだ遺体を、墓地に探しにやってきていたのです。

もし、私たちがイエス様を単に過去の偉大な人物、英雄、道徳家とみなして尊敬しているだけだとするなら、それは矛盾しています。イエス様は生きておられるからです。もし、私たちがイエス様を道徳的に完全な模範として見習おうとしているだけであるとするなら、それは矛盾しているといわなければなりません。生きておられるイエス様の助けなしに真似ることなどできるはずがないからです。イエス様は、過去の偉大な人物、英雄、道徳家ではありません。今現在、復活し生きておられるのです。

女達は、ユダヤ人として土曜日の安息日を守り、日曜の早朝に墓に向かいました。それは、その後のキリスト教会の日曜礼拝の先駆けであります。キリスト教会は、ユダヤ教の土曜安息日の習慣から、イエス様が日曜早朝に復活されたことによって、日曜日に礼拝をすることに移行してきたのです。しかし、私たちが日曜の朝の礼拝に来たとしても、復活して生きておられるイエス・キリストに対する確固とした信仰がないなら、それは矛盾した行為ではありませんか。それではどんなに立派な教会堂であったとしても、それは単なる空っぽの墓同然になってしまうからです。天使は言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」それは今朝、私たちに問いかけられている鋭い問いかけではありませんか。私たちは、それに対して答えなければなりません。

.空の墓の真実

墓が空であったとは、一体何を意味しているのか、これでもう明らかですね。イエス様が死から復活されたということなのです。これが空の墓の真実なのです。イエス様が「生き返ったのだ」という言い方をすることがありますが、これは正しい言い方ではありません。聖書には、死んだが生き返った人たちの例が幾つかありますね。マリヤとマルタの兄弟ラザロがそうでした。彼は、死んで埋葬されすでに四日目に入っていましたが、イエス様によって生き返り、墓から出てきました。百人隊長の12歳の少女もそうです。イエス様がその隊長の願いに応えて、その家に着いた時には、時遅く、少女はすでに死んでおりました。しかし、イエスは家の中に入るや、「タリタ、クミ」「少女よ、起きなさい」と命じると、少女は生き返ってしまったのです。使徒行伝9章のヨッパでの出来事、ペテロが死んだ敬虔な婦人のドルカス、別名タビタを蘇生させたケースもそうです。ペテロが 2階に安置された遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と言うと、目を開き彼女は起き上がっているのです。しかし、彼らは生き返りましたが復活したのではありません。彼らは一度死んで生き返りはしましたが、やはり、もう一度寿命尽きて、いつしか死んだに違いないのです。

その意味で復活は、生き返ることとは全然違います。もう二度と死ぬことがなく永遠に生きること、それが復活なのです。イエス様の復活の体は、マリアから生まれもった肉体と全く違いました。それは栄光の体でした。朽ちることない強い体、霊の体であります。永遠に生きる体です。イエス様が十字架で死なれたにもかかわらず、三日目に復活されたことが何を意味するか挙げておきましょう。

第一に復活は、イエス様の語られた言葉の確実性を証明するものです。天使はこう告げます。「人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか」主は受難を 3回、弟子達に予告されました。そのどの予告に際しても「三日目に復活する」と語られていたのです。その結果、人間的には信じ難い復活が現実となりました。その意味で、復活だけでなく、その他全てについて、語られたイエス様の言葉の確実性を保証している、と言うことなのです。

第二に復活は、イエス様の神性を確証するものです。ローマ1章4節を見てみましょう。「聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。」イエス様が人となられた神であることが、復活によって確証されたのです。

第三に復活は、イエス様の御業が受領されたことを確証するものです。ローマ4章25節をみるとこう書いてあります。「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じる私たちも、義と認められるのです。イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。」復活がなければ、十字架の死は単なる敗北の死でした。しかし、復活により、十字架の死は罪の身代わりの死であったことが確証されたのです。

第四に復活は、イエス様が我らの大祭司であることを確証するものです。ローマ8章34節をみてみましょう。「誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。」イエス様が永遠の大祭司であることは復活によって確証されたのです。

第五に復活は、人もまた復活させられることの保証です。ローマ8章11節にはこう書いてあります。「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。」そうです。復活は私たちにとって、私たちも復活するという永遠の望みなのです。

最後に復活は、イエス様が今も生きておられることを意味するということです。天使は女達にこう言いました。6節です。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」死んだ人の終の住処は墓でしょう。しかし、イエス様の埋葬された墓は空であったのです!イエス様は生きておられるのです。「あの方は、ここにはおられない」墓にはおられません。

では、イエス様はどこにおられますか。復活の物語のキリストの顕現の数々を見れば分かることでしょう。イエス様はマグダラのマリヤに顕現されました。(ヨハネ2011)、イエス様は二人の女達に途中で顕現されました。(マタイ 28:9)、イエス様は、エマオ途上の二人の弟子に顕現されている。(ルカ 2413)、ペテロ個人に顕現され(ルカ 2434)、10人の弟子達に一度に顕現(ヨハネ2019)され、更に11人の弟子達に顕現(ヨハネ2026)テベリヤの海では弟子達に再び顕現(ヨハネ21:1)され、ガリラヤの山でも弟子達に顕現(マタイ28:16)第一コリント15:6によれば、500人の兄弟達に一度に顕現され、ヤコブにも個人的に顕現(第一コリント 157)なされました。そしてオリーブ山で、最後に昇天に際して弟子たち全員に顕現されておられるのです。

復活し昇天されたイエス様はではどこに生きておられますか。「我生くるに非ず、キリスト我が内に生きるなり」復活の主イエス様は、インマヌエルとして私たちと共に生きておられるのです。これこそ空の墓の真実そのものです。

.空の墓の現実

しかし最後に、空の墓には深刻な現実があることを私たちは認めなければなりません。それは、人は簡単に復活を信じられないという現実です。空の墓で天使のみ告げを受けた女達は、墓を飛び出し、急ぎ仲間の弟子達のところに駆けつけ、一部始終を告げ知らせました。彼らは、香油を塗るため墓に行ったら墓の石が動かされていたこと、墓の中を覗くと、そこにはイエス様の遺体がなかったこと、突然眩く輝く天使が二人現れ、イエス様の復活を告げられたこと等々、興奮気味に弟子達に報告したに違いありません。ところが、弟子達の反応はどうであったか。11節「しかし、使徒達は、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女達の言うことを信じなかった。」というのです。

この「馬鹿げたこと」と訳された原語は強烈です。馬鹿話、愚論、ナンセンス、たわごと、ある訳は「作り話、冗談」としています。ギリシャの医者は、昔、この言葉を「熱にうかされた人間の戯言」を表すのに使っていたと言われる用語でした。女達の言うことなど信用できないと、使徒達は一笑したのです。ここで敢えて、彼女達の仲間の弟子達が「使徒達」と強調されていることが印象的です。やがて初代教会の核となる重要人物ばかりのことです。イエス様に召されて三年余、寝食共にし、何もかも見聞し体験してきた人物ばかりです。ところが、彼らには、イエス様の復活が「馬鹿げたこと」だと言わざるを得ないほどに、信じられなかったのです。これこそ空の墓を巡る厳しい現実そのものです。

人が死ぬことは決まっています。これは誰も否定できません。人の死は最後の敵であり、恐怖の王です。人間はこの死と戦い、不死を夢見て、不老長寿の薬を探してきました。どんなに医学が進歩し、科学が発達しても、人間の死を阻止することが、いまだできていません。それ故に、一旦死んだ人が復活することなど、人間的には考えられないことです、夢想だにできないことなのです。皆さんの中には、いまだに復活を信じられない方がおられるかもしれません。信じられなくても当たり前なのです。

しかし、事実は事実なのです。墓は空であったのです。イエス様は蘇り、生きておられること、それは永遠に変わらぬ事実なのです。この復活を信じられない、と言う空の墓の現実を打ち破る道は、たった一つしかありません。それは天使の一言です。「まだ、ガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。」そうです!主イエス様の語られた言葉を思い出すことなのです。イエス様はこの驚くばかりの出来事が起こる前に、すでに復活を予告されていました。

その予告された通りのことが起こったのです。十字架にはりつけにされ、死んで三日目に、神の大能の力により復活させられたのです。生きておられるのです。その天使の勧告を受けた女達はどう反応したでしょうか。8節です、「そこで、女達はイエスの言葉を思い出した。」彼らはイエス様から聞いていたのに、忘れていたのです。いや、彼らにはイエス様が何を言わんとしたか理解することができていなかったのです。しかし、天使に「人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか」と告げられて、イエス様の言葉を思い出したのです。そして今、この空の墓に起こっている出来事が何かを悟ることができたのです。

「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです」とローマ書に書いてあるではありませんか。私たちが日曜日の度ごとに教会に集まり、礼拝を捧げるのは何故でしょうか?それはイエス様のお言葉を聞くためなのです。イエス様の語られた言葉を思い出すためなのです。私たちは、日々の歩みの中で、押し迫ってくる耐え難いような重圧や困難、悲しみや苦しみによって、ともすれば、イエス様の語られたお言葉を忘れてしまうのです。心にあったお言葉が吹き飛んでしまうのです。吹き消されてしまうのです。眼に見える現実、肌で感じる現実の重圧の前に、圧倒され打ちのめされてしまうのです。あの12弟子達のことを思ってください。イエス様が逮捕され政治的宗教的重圧にさらされ、十字架に惨たらしく殺害されていく有様を目の前にして、彼らがどれほど落胆し、意気消沈し、希望を失ってしまったことか。その圧迫された状況下においては、女達の報告は、熱病に浮かされた病人のうわ言としか思えなかったのは当然です。しかし、どうでしょうか。女達がイエス様の言葉を思い出し、彼らがイエス様の復活を信じ、信じたばかりか、それを使徒達に語り伝えた時に、一人の男の心が動かされたのです。12節を見てください。

「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」ペテロが、大祭司の中庭でイエス様を否認した事実は、仲間内に知れ渡っていたことでしょう。彼は、皆の前で、「他の弟子達がイエスを知らないと言っても自分は絶対に知らないなどと言うことはない」「主よ。ご一緒なら牢であろうと死であろうと覚悟しております」と啖呵を切っていました。ところが否認してしまったのです。ペテロは、取り返しのつかない失敗をしたのです。本来ならば、恥ずかしくてとても人前に出ることができなかったはずの弟子でありました。しかし、彼は失望落胆していた仲間のうちに、それでも留まることができたことは幸いです。彼は、女達の報告を聞いた時、ただ一人、馬鹿げた、戯言とは受け止めず、立ち上がったのです。そして墓に走り出したのです。そして空の墓の真実を確かめに行ったのです。そして驚きながら家に帰って行ったのです。主イエス様の語られた言葉を思い出す、思い出して信じて他人に語り出す時、霊的な波紋が広がるのです。

この箇所に続いて復活の主の顕現物語の一つ、エマオの途上の二人の弟子への権限が続きます。旅の途上で復活の主に出会った二人は、深く感動し、直様エルサレムに立ち戻り、弟子仲間のところに来てみたことが、33、34節にあります。「すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。」このシモンとはペテロのことでしょう。イエス様を否認して失敗したペテロは、女達の報告によって心動かされ、空の墓の箱を確認した後に、何らかの形で復活の主が彼に現れてくださったのです。「お話しになったことを思い出しなさい」信じ難い現実にあって、主の語られた言葉を思い出すことが鍵なのです。主イエス・キリストは復活され生きておられます。この新しい週の日々も、絶えず、主のお言葉に傾聴することにしましょう。その主のお言葉を、折々に思い出すことこそ、勝利の秘訣なのです。

  4月2日礼拝説教(詳細)

「十字架の賭博者」  ルカ23章32〜43節

ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

〔その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」〕

人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。民衆は立って見つめていた。

議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた罪状書きも掲げてあった。

はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。 同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。

するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。

先ず初めに今日は、主に感謝し皆様に御礼申し上げたいと思います。それは二日前の3月31日をもって、当教会に赴任して満八年が経過したからであります。皆様の篤い祈りとご支援が無ければありえないことであり、心から感謝致します。私は、今月中にも78歳に成ろうとしており、あと二年もすれば80歳です。健康の許す限り奉職させていただきますが、どうぞ今後ともよろしくお祈りください。

それでは、受難週の聖書箇所としてルカ23章32〜43節をお読みし、お祈りすることにいたします。イエス様は公生涯の最後、日曜日にロバに跨りエルサレムに入場されました。昼間はエルサレム市内で活発に活動されると、夜は弟子たちと共に、ベタニヤに寝泊まりされました。木曜日の夕べのことです。過ぎ越しの食事を終えて、ゲッセマネの園で祈りをされているときでした、イエス様は弟子のユダに裏切られ逮捕されてしまいました。イエス様は直ちに、大祭司の公邸で夜通し尋問を受けると、翌朝には招集された議会で弾劾され、直ちにローマ総督ピラトに引き渡されて死刑が確定し、その金曜日の午前9時に、ゴルゴダの丘で十字架にかけられ、午後3時には息絶えてしまわれたのです。

.賭博者の兵士達

さて、今日お読みした箇は、その執行された十字架刑の一断面ですが、その内の一コマ、特に34節に注目してください。「人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。」それは、四人のローマ兵士達が役得でイエス様の衣をくじ引きして分け合った場面のことです。彼らは、総督ピラトからイエス様の身柄を引き渡され、十字架を背負わせ刑場に連行し、刑を執行する責任を任された4名の屈強なローマ兵達でした。ここのところを、詳しく留めているヨハネ19章23、24を見ると、さらにその状況が浮き彫りにされます。

「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」」ローマ兵達が役得として分け合っていたのは、イエス様の身につけておられた5つの所持品、すなわち下着、外衣、帯、サンダル、ターバンでした。4人がそれぞれ一点を確保した後、彼らは最後に残った下着をくじ引きにしたというのです。彼らは、数字が刻まれた六面のサイコロを順番に各自が振るい、最高数字の出た幸運な者がそれをゲットしたというのです。

くじを引くこと、それは一種の賭博行為でありました。賭博は定義するとこうなります。「賭博とは、金銭や品物などを賭けて勝負を争う遊戯のことである。金銭や品物などの財物を賭けて、(偶然性の要素が含まれる)勝負を行い、その勝負の結果によって、負けた方は賭けた財物を失い、勝った方は(なんらかの取り決めに基づいて)財物を得る、と言う仕組みの遊戯(ゲーム)の総称である。」その賭博をもう少し厳密に分類すると、賭博は、賭事(とじ)と博戯(ばくぎ)の二つを合わせた言葉であり、賭事は勝負事の結果に参加者が関与できないもの、博戯 は勝負事の結果に参加者が関与できるものと区別されることになります。

賭事を判りやすい例をあげれば、競輪、競馬、競艇、ルーレット、それに宝くじがそれに該当することになります。博戯の例を挙げれば、賭け麻雀、賭けゴルフ、賭けポーカーなどが該当し、チェスや将棋、囲碁もプレイヤーが金銭をかければ博戯となるということなのです。調べていて意外であったのは、金融商品の株や相場も賭博の性格があるということです。株と言えば、バブルの時代に民営化したNTT株が1株122万円で一般公開された時でした。私の知人が一人一株限定であるため、名義を借りて次々と買い求め、10株を集め、意気揚々としていました。NTT株は連日鰻登りで上昇し、ついに300万円を突破したのです。彼はスーパーで魚屋をしていましたが、「安月給で働く意欲が無くなってしまうよ」と言うのです。ところがどうでしょうか!ある日、株価は急落したのです。その結果、彼はとんでもない大損をすることになってしまいました。保険については、こんな解説もありました。「保険の歴史は賭博から生まれた物であり、事故に遭遇するというギャンブルに金銭を賭けるもの、とされている」というのです。どうぞ保険関係者の方は気を悪くしないでください。保険もギャンブル性を持っているのですね。

ご存知のように、来週日曜日の9日は、大阪府知事選が予定されています。私も選挙公報を参考に投票に行く予定ですが、興味深いのは、6人の候補の内5人が「I R・カジノ」を争点に挙げている点です。I R とは総合型リゾートのことです。I 候補は「ストップ大阪 I R!大阪にカジノはいらない」と、T 候補は「I R・カジノは住民投票へ、市民の負担がどこまで膨らむかわからない」と、Y候補「2029年 I R・カジノ開業」と書き、T 候補は「カジノ誘致は中止、ギャンブル依存症や治安の悪化など人生と地域を壊します」と、Y候補は、「カジノ計画を即時撤回、外資への府民財産流出とギャンブル依存症から大阪を守る」と訴えているのです。皆さんは誰に一票を投じられるでしょうか?それはともかく、ギャンブル、賭博のイメージはどう見てもあまり芳しくありませんね。

しかし、このローマ兵士達のくじ引きの姿は、私たち人間の生きる姿の一面を投影しているのではないですか?なぜかと言えば、賭博の「賭ける」と言う言葉の基本的な意味は、「ある事柄をあらかじめ約束すること」にあるからです。人が「神仏に賭けて誓う」と言ったら、それは約束を相手の人に強調することでしょう。人が「賭け事をする」とは、負けた者が勝った者に金品を払うことをあらかじめ約束して勝負を行うことでしょう。人が「命を賭ける」「首を賭ける」と言えば、それは失敗した時は、その命、首を犠牲にする覚悟で物事を断行する約束をすることでしょう。私たちの人生を喩えた言い方にも「人生は賭けだ」というのがありますね。それは人生には偶然性、不確定性が付きものであり、物事の結果は、必ずしも予測した通りにならないことを言い表した言い方でしょう。人生を賭けて家を買ったけれども、住宅ローンで破綻してしまう人があります。一生を賭けて仕事を見つけたと思ったら、会社が倒産してしまう人があります。演歌に川中美幸さんが歌う「人生賭けてます」がありました。ネットで調べたら歌詞はこうなのですよ。「人の数だけ夢がある 誰でも叶う物じゃない 本気で手に入れたいのなら やるしかないよ 急がば回れ チャンス チャンスチャンス ゲットして 一発夢をつかんでちょうだい パッとパッとパッと花咲く かっこいいトコ見せてちょうだい ほれてよかった そう思いたい 人生賭けてます あなた一筋」 強烈な恋愛の歌ですね。2節、3節もありますが、やめておきましょう。一回性の人生は、私たちが生きる人生、ある意味賭けではないでしょうか。

.賭博者のイエス

ところで、もう一度34節を注意して読んでみるとローマ兵のくじ引きに関係する一人の人物がクローズアップされます。「人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った」くじを引いて下着を分け合った人々、四人の賭博者ローマ兵士と、そこに実はもう一人の賭博者がいるのです。それは十字架に付けられたイエス様のことなのです。私はこの説教の準備する中に、一つの素晴らしい詩を見つけました。それはスターダット・ケネディの詩です。文語調の訳ですが聞いてください。「兵士らは、座して彼を見守りぬ 兵士らが、サイコロをもて遊ぶ間に 彼は犠牲となりぬ 世の罪を除くため十字架の上に死にき。わがキリストも賽を投ぐる者。己が命をとりてこれを投げたまえり 世人を救わんがため。」イエス様は賭博者だと詩人は謳うのです。イエス様は、父なる神様への忠誠に全てを賭けた賭博者なのです。イエス様は私たちを救わんがために十字架に全てを賭けられた賭博者なのです。

ローマ兵士達がくじ引きにした下着は、ヨハネ19章23節によれば、「それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった」と言われていますね。「縫い目なしのもの」とは何を意味するのでしょうか。これ実は本来、大祭司の着用する衣類を意味し、イエス様が神と人との間を取り持つ大祭司であることを示すものなのです。大祭司にとって一番重要な務めがあります。それは、年に一度、イスラエルの民の罪の赦しのために、犠牲の羊の血を携えて、神殿の誰も立ち入ることを許されない至聖所に隔ての幕をくぐり入り、贖いの務めを果たすことでした。縫い目なしの下着とは、イエス様が、全人類の罪の赦しを得させるための大祭司であることを指し示していたのです。

その大祭司の取りなしの祈りが、この34節のイエス様の祈りなのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」ヘブル9章22節に「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」とあります。イエス様は、ご自分が神の犠牲の子羊となり、十字架で流されたご自分の血を携え、天の至聖所に入り、私たちの罪の赦しのために取りなしてくださる大祭司なのです。罪とは何でしょうか? それは、「自分が何をしているのかわからない」無知であります。一回性の大切な人生を神との正しい関係が破れたまま、何のために生きているかを知らずに生きることが罪なのです。イエス様が取りなされた「彼ら」とは誰のことでしょうか。特定されていないということは、このゴルゴダの丘の刑場に居合わせたすべての人々のことでしょう。それは、イエスと共に磔刑に処せられる二人の犯罪人です。無関心に役得でくじ引きするローマの四人の兵隊達です。十字架を見つめている民衆のことです。嘲笑っている議員達のことです。侮辱する兵士たちのことです。いや、「彼ら」とは、そこに居合わせてはいないすべての人々のことでもあるのです。ローマ3章23節「すべての人は罪を犯したために、神の栄光を受けられない」とあります。イエス様は、このすべての人を罪から救うために、十字架に命を賭けられたのです。

イエス様は、表面的には、ユダに銀貨30枚で裏切られ、ユダヤ議会で死刑が求刑され、ピラトにより死刑が確定し、ローマ兵士によって十字架で殺害されたと言えるでしょう。しかし、イエス様は人に殺されたのではありません。イエス様は自分の命を犠牲として、罪の身代わりとなるため、自発的に差し出されたのです。ヨハネ10章11節「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と主は言われました。ヨハネ10章18節では「誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる」と言われました。イエス様は、十字架に自分の命を賭けたのです。そしてそれは敗北の賭博ではなく、勝利の賭博であったのです。イエス様は十字架で命を賭け、しかし、三日目に復活されました。神様の大能の力によって蘇らされたのです。イエス様は罪と死に打ち勝たれた勝利の賭博者なのです。今や、イエス様を信じる者は、誰でも罪赦され、神様との正しい関係に入ることができるのです。

イエス様は道であり、真理であり、命なのです。

.賭博者の犯罪人

そして、私たちは今日、この賭博者イエス様の脇に、もう一人の賭博者を見せられているのではないでしょうか。それは、イエス様と十字架に付けられた犯罪人の一人のことです。犯罪人の一人は、イエス様を呪って「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」と悪口をぶちまけました。

ところが別な脇の犯罪人は「お前は神を恐れないのか。 同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と彼をたしなめました。そして、イエス様に向き直り、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と、謙虚に申し出ているのです。すると、イエス様は「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と答えられました。

マルコの福音書では、この犯罪人である彼らは「強盗」となっています。一説では、彼らはローマ帝国へのレジスタンスの闘志ではなかったかと考えられてもいます。彼らは、見せしめのために、十字架の極刑によりさらし者にされていたのです。彼らもまた、何らかの意味で人生に賭け、戦ってきたのではないでしょうか。レジスタンスの闘志であったとすれば、自分の命を革命に賭けたに違いありません。しかし、人生の最後、末期に、犯罪人の一人は、イエス様に自分を賭けたのです。この二人の犯罪人達は、私たちの姿を投影するものではありませんか。この二人が罪人であるように、私たち全てが神様の前に罪人であります。罪を犯した魂は滅びます。十字架は私たち罪人の究極の宿命を指し示すものです。「人が一度死ぬことと、死んだ後に裁かれることが定まっている」人は罪ゆえに裁かれざるを得ない存在なのです。人がどんなに上手く逃げ遂せたとしても、最後には神様に捕まってしまいます。神から逃げることはできません。捕えられ裁かれ、罰せられるのです。強盗の一人はイエスを呪いました。強盗の一人はイエスに賭け、イエス様に自分を委ねました。今日、私たち一人ひとりが、み言葉の前で問われています。「あなたは誰にかけていますか。何に賭けていますか?」

私の尊敬する牧師の一人に菊池龍之介先生がおりました。もう召されて天上の人ですが、そのお母様の逸話が忘れられません。菊池先生のお母様は、静岡県浜松の名門に嫁がれました。熱心な浄土真宗の家でした。ある日、家族会議が招集され、嫁であるお母様に厳しい要求が親族一同から突きつけられたのです。それは、家風に馴染まないキリスト教信仰を捨てるべきこと、そうでなければ家を出ていくべきことでした。しかし、それに対して嫁であるにもかかわらず、彼女は毅然として「私はイエス様を信じる信仰を捨てることは致しません。出ていかねばならないのであれば私は家を出て行きます。」と答えたのでした。するとどうでしょう。その回答には親族が驚いてしまったのです。彼女に席を外してもらい、しばらく話し合った結果、親族一同は、彼女の信仰を容認し、家に留まることを許すことにしたのです。それは、日頃の彼女の嫁としての立派な立ち居振る舞いの故に、家を追い出すことが忍びなかったからなのです。その結果、どうなったでしょうか。次々と家族親族が救いに導かれることとなり、その息子である龍之介がやがて献身して牧師となり浜松教会を開拓牧会し、やがてアッセンブリー教団の二代目の総理に任命される、その息子もまた献身して牧師となって活躍することとなったのです。これはなぜでしょうか。菊池牧師のお母様が、イエス様に自分の命を賭けた結果なのです。あの強盗の一人が「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と告白し、イエス様に願い出た時、イエス様は「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と約束されました。約束の日付は「今日」です。イエス様を信じたその日、パラダイスにいることになったのです。

ここで、シンガーソングライターの小坂忠さんの「パラダイス」の歌詞が思い出されます。「パラダイスは遠い南の島じゃない。あなたの心の中にある」そうです、イエス様に人生を賭け、イエス様と共に生きる生活はパラダイスなのです。イエス様を信じたからといって、自分の人生が何もかも確実になることでも、問題が無くなることではありません。不確実性は消えることはありません。箴言16章33節にこういう素晴らしい教えがありますね。「くじは人の膝の上に投げられるが、ふさわしい裁きはすべて主から与えられる」口語訳が馴染みやすいので引用しておくとこうです。「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。」

私たちは、事あるごとに決断を迫られるのです。そしてクジを引くように、状況を精一杯判断し、自分で決断しなければなりません。それはくじを引くような者です。その結果がどうなるかは、分からないものです。しかし、その時に主イエス様に信頼して決断するなら、主が最善に導いてくださるとの約束なのです。その結果は、自分が思っていた、望んでいたことではないかもしれません。しかし、善なる神様は、あなたのため、私のために最善に導かれるお方なのです。この新しい週も、不確実な日々であるかもしれません。サイコロを振るうような状況に置かれるかもしれません。しかし、共におられる主が導いてくださることを確信し、安心して判断決断して進んでいくことにいたしましょう。