3月31日礼拝説教(詳細)

「復活開示の未来」  マタイによる福音書 28章1〜10節

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」

女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。

ハレルヤ!主イエス・キリストは蘇り、生きておられます。賛美チームのエクレシアが、「主は今生きておられる」を歌ってくださいました。その根拠はどこにあるのでしょうか。そうです。今日、このイースターにあるのです。主の復活の事実を確かに語り伝えるマタイ28章1〜10節を今朝はお読みしましょう。

この「復活する」という表題の箇所は、「番兵、墓を見張る」と「番兵、報告する」の二つの表題の箇所で囲まれていることが分かります。十字架に架けられ墓に埋葬されたキリストの遺体は、ローマ兵達によって厳重に監視されていたのです。キリストの弟子達が夜陰に乗じて墓から遺体を盗み、「それキリストは復活したぞ」と、民衆に言いふらすのを敵対した祭司長達が恐れたからです。

キリストの埋葬された墓は、石の扉で遮断し封印された上、重装備のローマ兵に厳重に番兵されていました。しかしどうでしょう。それにもかかわらず、主が予告された通りに、死んで三日目にキリストは復活されました。その時突然、光り輝く天使が現れ、入り口の石の扉を転がし、その上に座ったため、兵士たちは震え上がり、卒倒してしまいました。

今朝、私たちが注目するのは、イエスの体に香料を塗ろうとその墓にやってきた女達に語られた天使の語ったメッセージです。天使はこう彼らに告げました。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(7節)

1.復活の開示

この二人の女、一人はマグダラのマリア、もう一人はイエスの母マリアのことでしょう。彼らは、死んで葬られたイエスの遺体に、埋葬準備の香料を塗るため墓にやってきました。イエスは、総督ピラトに死刑を宣告され、鞭打たれてゴルゴダの刑場に引き立てられました。朝9時から午後3時まで十字架に釘付けられ、晒しものにされました。そして最後にローマ兵によって心臓に槍が突き刺され、死んだことが確認されたのです。そして、イエスの亡骸はアリマタヤのヨセフとニコデモによって十字架から降ろされ、近くの園の墓に埋葬されたのです。その墓に現れた天使が、驚く二人に「あの方は、ここにはおられない。かねて言われたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」と告げたのです。言われて二人は恐る恐る墓の中を覗き込んだことでしょう。墓はローマ兵士に厳重に見張られていたのですから、弟子達が盗み出すことは絶対できません。その監視され蟻の這い出す隙も無い墓の中が空であるとは、これはイエスが蘇られた証拠以外の何物でもありません。キリストが復活したこと、即ち死から蘇られた出来事が、私たちに開示する三つの極めて重要な事実があります。

  キリストの神性確証

その第一点は、イエス・キリストが正真正銘の神の子であることが、復活によって確証されたということです。ローマ1章3、4節にこう言われているとおりです。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。」イエス様が神の子であるとは、イエス様が三位一体の神の第二神格であり、神であるということです。イエス・キリストが死んで三日目に蘇られたという事実は、イエス様が神であることを確証する決定的な出来事なのです。

  私たちの救いの確証

その第二点は、イエス様をキリストと信じる人々の救いが、確かであることが確証されたということです。それはローマ4章25節にこう言われているとおりです。「イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。」そうです。イエス様は不義なる私たち、罪深い私たちが、義とされるため復活されたのです。これはイエス様の十字架の死が、私たちの罪の身代わりであり、イエス様を信じる者の罪が赦されるばかりか、キリストの義が転嫁されることによって、神との正しい関係に入れられたことを確証する事実なのです。大切なポイントは、「復活させられた」という受け身形の言い方です。復活された、蘇られた、それは、イエスの力によるのではなく、神のなされた業であるということを意味します。神が人間の罪を赦すために、イエスを神の子羊とされ、十字架に犠牲とし、イエスを復活させられたのです。十字架は罪の赦しを人に得させ、救おうとされる神様の御業なのです。人が信仰により罪が赦され、神との正しい関係に入れられることが、この復活によって決定的に確証されたのです。素晴らしいことです。感謝なことです。主を褒め称えましょう。

  私たちの復活の確証

第三の更に素晴らしい点は、イエス様をキリストと信じる人々が、キリストが復活したのと全く同じように、たとえ死んでも復活することの確証であるということです。イエス・キリストは復活されました。信じる私たちも復活させられるのです。イエス様が、ベタニヤのマルタとマリアの弟のラザロを蘇らせたというヨハネ12章の出来事の中での、マルタとのやり取りを思い起こしてみましょう。23節の箇所で、イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と応えています。するとイエスは言われたのです。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」イエスが村に着いた時には、ラザロはすでに墓に埋葬され4日が過ぎていました。もう遺体が痛み腐り始める頃です。しかし、イエス様は、墓に向かって「ラザロよ、出てきなさい」と命じられると、ラザロは蘇って墓から出てきたのです。それは、イエス様を信じる者が、死んで復活する予表です。ラザロが甦らされたように、信じる者もやがて甦らされるのです。

あの復活の章と呼ばれるコリント第一の15章で、このように高々と謳われているのをご存知でしょう。「ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます。この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。」(51−53節)キリストを信じる者も間違いなく死にます。死ぬことは人に定まっています。しかし、復活の体が与えられ、甦らされるのです。それはキリストご自身が復活されたからなのです。キリストの復活が私たちの復活の希望の確かな動かぬ証拠です。エクレシアの皆さんが賛美礼拝で「私は奇跡を信じる」をリードされ、私たちは一緒に声高らかに歌いました。キリストが復活された奇跡を信じるなら、私たち自身もまた恵みにより復活させられる奇跡を信じ、主に感謝しようではありませんか。

.復活の前途

光り輝き眩いばかりの天使の出現に驚く二人の女達に、更に天使はこう語りました。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(7節)あの方とは十字架に架けられ、埋葬され、復活された主イエス様のことです。イエス・キリストが、復活されて第一に意図されたことは、弟子達に先立ってガリラヤに行くことだと、天使は告げ知らせたのです。この「先に行く」と訳された原語のプロアゴーは、人に先立つ、先手を打つという意味です。このお言葉から分かることがあります。それは、イエス様がいつでも私たちの先を行き、先に待っていてくださる神様であるということです。

  天地創造前

主が、私たちを待っていてくださる神であることを、エペソ1章4節は何と言っていますか。「天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。」そうです。遥か時間の彼方の天地創造前に、私たち一人一人の出現を待っておられたと言われているのです。太陽も月も星も、地球も出現する以前です。時間を超越して、私たち一人一人は例外なく、すでに神に知られていたのであり、予定され、予知され、その出現が待たれていたのです。私たちが、2024年3月31日にここにこうして存在するのは、偶然でも進化でも無いのです。主は私たちを万物創造前から待っておられたのです。

  胎児出産前

では詩篇139篇ではどう語られていますか。13節「まことにあなたは私の腹わたを造り、母の胎内で私を編み上げた。」更に16節「胎児の私をあなたの目は見ていた。全てはあなたの書に記されている、形づくられる日々のまだその1日もはじまらないうちから。」驚くべき記述ではありませんか。私たちが母親の胎に宿った瞬間から誰よりも生まれてくるのを待っていてくれるのは自分の産みの母親だと普通は思うことでしょう。ところが聖書は、母親の胎内に私たちがまだ胎児として居る時に、それ先立ち主が、誰よりも私たちを一人一人待っておられたというのです。

先週木曜日に、以前奉仕した教会に属する60歳半ばの姉妹からお電話をいただきました。彼女の声は明るく感謝に満ちていました。実は数ヶ月前の電話で相談を受け、看護師としての仕事に疲れ果て、娘の残された一年の学費120万円をどう捻出するか途方に暮れていました。しかし、今回の電話で彼女は、突然道が開かれ訪問看護で年収370万円が保証され、4月から勤務を開始するとのことで、喜んでいました。

実はその娘さんは養子縁組で養育してきた子供であり、生まれたばかりの乳幼児を引き受けたのです。人の出産、出生、誕生には複雑な問題が付きものです。しかし、母親、父親が誰であれ、どのような環境、状況で生まれたにしても、それを超えて、あなたも私も、感謝なことに、神によって先立ち待たれていたのです。

  死去昇天前

では、生まれる前に待っておられる神は、私たちが死ぬ時にも先立って待っていてくださるのでしょうか。人は誰も死ぬ時には一人で死ななければなりません。教団機関誌のアッセンブリー4月号の見開きに、私の尊敬する佐々木正明先生の手記が掲載されていたので一気に読み下しました。佐々木先生は神学校の一期上の先輩であり、神学校生活を共に過ごした2年間が懐かしく思い出されます。

先生は、海外宣教のビジョンが与えられ、奥様と長年フィリピンで宣教師として活躍され、帰国後は長崎県の佐世保で牧師として奉仕されていました。2年前に直腸癌の手術を受けられ、しかも第四期で、術後に肝臓にも第四期の癌が見つかり、手術不可能と宣告されておられたのです。その後、どうされたか心配していました。この先生の手記によって、3年半前に既に50年以上連れ添った奥様を亡くされていたことも分かりました。しかし、その頁に掲げられた先生の笑顔の写真と、そのタイトル「スキップで駆けるように」が非常に意外なくらいに印象的です。奥様が心筋梗塞と癌で亡くなる、ご自分も末期癌で抗がん剤治療を受けておられる。何をとっても暗い材料ばかりなのです。ところが文章全体が底抜けに明るいのです。その中でも幸いなのは、末期癌が最近の C T検査で完全に消滅していることが判明したことです。その上で、先生はこう言って憚りません。

「私もこの世を去り、神様にお目にかかる日を待ち望んでいます。少しも怖くありません。」何故、先生はそう言えるのでしょうか。それは、間違いなく主イエスが待っていてくださるからなのです。ヨハネ14章1〜3節に主はこう約束されました。「「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」そうです。主イエスは、私たちに先立ち私たちの永遠の生活のために準備して待っていてくださるのです。ですから死ぬことも心配ありません。イエス様が待っていてくださるからなのです。

  生活現場前

では「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」とはどういう意味でしょう。それは蘇られたイエス様が、私たち一人一人の慣れ親しんでいる生活の現場に、先んじて待っていてくださるということなのです。

マタイによる福音書で強調される真理の一つは、インマヌエルです。神様が共におられることです。それが救い主の御名です。受胎告知では、ヨセフに生まれる子の名がインマヌエルであると告げられました。マタイ18章20節では、「二人又は三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と告げられました。マタイ28章の最後には「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます。私たちと共におられる神、これは素晴らしい真理です。

しかし、「この先に待っていてくださる神」も素晴らしい約束なのです。私たちの今現在置かれている状況はどうでしょうか。身の回りはどうでしょう。会社はどうでしょう。地域社会はどうでしょう。日本を巡る状況はいかがなものでしょう。そして世界情勢を見渡すときに、私たちに見えてくるのは、混沌と混乱であり暗いのです。人間的な視点で見る限り、私たちには見通しが効かないばかりか、一体これからどうなるのか、不安にならざるを得ないのです。そのような私たちに、この天使は「あの方は」即ち復活され生きておられるイエス様は「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と告げているのです。ガリラヤとは、弟子達の故郷です。弟子達の生活の拠点です。彼らはそこで召し出され、そこで宣教活動を共にしたものです。復活されたイエス様は、あなたに先立ち、あなたの生活の場に準備して待っていてくださるということです。

私自身、もう4月になれば79歳に、そして来年には80歳を数えようとするのですが、自分の人生の歩みを回顧する時に、気づくのは、私の生涯を通して、一貫して主なる神様が私の前を行き、先行して準備してくださっておられたということです。アブラハムはイサクを捧げる試練を与えられた時に、何と藪に角をかけて動けなくなっている雌羊を見つけ、イサクの代わりに犠牲に捧げることができました。その時、アブラハムはその場所を「ヤハウエ・イルエ」と呼ばざるを得ませんでした。主の山に備えあり!そうです。

アブラハムは前もって先立ち待っておられる神を認め、崇めざるを得なかったのです。

.復活の至福

イエス・キリストの復活は、私たち信じる者には至福なのです。天使は女達にこう言います。「この方に、そこでお目にかかれる」そうです。復活の主は、生きておられる主イエス・キリストは、待っていてくださり、私たちは生けるイエス様にお目にかかることができると言われているのです。これくらい素晴らしい、幸せ至福はありません。

ヨハネ21章には、ガリラヤ湖で魚を獲っていた弟子達が復活の主に再会したユニークな記事が載せられています。ペテロを中心に七人の弟子達が漁で沖合に出ました。しかし、全くの不漁でした。一匹も魚が獲れないのです。そんな彼らに岸から呼びかける声が聞こえました。「子たちよ。何かおかずになる物は獲れたか。」弟子たちは答えたのです。「獲れません」するとその声の主は「船の右側に網を打ちなさい。そうすれば獲れるはずだ。」と指示したのです。彼らは言われ通りに、網を打ってみました。するとどうでしょう。獲れた魚があまりにも多くて、網を引き上げることができないくらいだったのです。その瞬間です。ヨハネがペテロに「主だ」と言ったのです。ヨハネにはその声音、その指示の仕方から、そしてその結果からピンと来たのです。イエス様だ、間違いないと。すると、それと聞いたペテロの反応ぶりをみてください。彼は裸だったので、上着を纏って湖に飛び込んだというのです。彼はイエス様に会いたくて、船で岸まで漕ぎ寄せるのが待ちきれず、泳いだのです。一体、イエス様にお会いできるその至福は何でしょうか。

  無上の喜悦

それは誰もが漏れなく経験させられることです。それは、イエスにお目にかかると無上の喜びが込み上げることです。この28章の箇所で、二人の女性たちが急いで弟子たちに知らせようと走って行くと、イエス様が行手に立っておられたと記されています。イエス様は彼らに何と言われましたか。「おはよう」です。「おはよう」と訳されてそれでいいのです。挨拶用語として「こんにちは、ようこそ、やあ、ごきげんよう」場合には「さようなら」とも訳されるものです。しかし、この言葉の本来の意味は、「喜ぶ、喜べ」なのです。あのガリラヤ湖で海に飛び込んでいの一番に、イエス様にお会いしようとしたあのペテロが、貴重な言葉を残しているのでみてください。ペテロ第一1章8、9節です。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。」外見上のイエス様を見たこともないのに、信じられるということは、実質的にイエス様にお目にかかっていることを意味するのです。その結果が喜びなのです。言葉に言い尽くせない素晴らしい喜びに溢れるのです。

  新しい啓示

主イエスにお目にかかる至福の更なる一つは、主ご自身に関して新しい啓示を得ることです。人を知る場合に、間接的に知ることと直接的に知ることには大きな違いがあります。天使が女たちに「あの方にお目にかかれます」と言ったのは、イエス様のことを直接的に新しく啓示されることになります、と言っていたに等しいのです。クリスチャンたちを迫害していたかつてのパウロが、イエス・キリストに出会ってから、何と言っているでしょうか。彼は「私の主イエス・キリストを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私は全てを失いましたが、それらを今は屑と考えています。」(ピリピ3章8節)とまで言うのです。イエス様にお目にかかると、その偉大さ素晴らしさがさらに悟ることができる。主を直接的、体験的に知ることができる。そこで価値の大転換を経験させられるのです。

  使命と課題

主イエスにお目にかかる更なる至福は、主によって自分に新しい使命が与えられることではありませんか。弟子たちがガリラヤの指定された場所に集合した時、キリストはこう言われました。「イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。」これを私たちは「大宣教命令」と呼びます。福音を全ての人々に宣べ伝えることです。最初に紹介したあの佐々木先生は、その意味でアジアのフィリピンに具体的に出て行き、福音を宣教されました。しかし、この使命課題は、宣教師だけのものではありません。全ての弟子、全てのクリスチャンに与えられた使命課題です。イエス様にお目にかかった者、救われた喜びを経験した人は、それを自分だけのものにしておくことができません。福音を他の人々と分かち合うこと、これこそ最大の使命課題です。今日、この年のイースターで、自分自身に与えられた使命を洗い直し、更新することにしましょう。女たちは急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました。それが私たちの姿勢であるべきではないでしょうか。

ハレルヤ!イエス・キリストは蘇られました。復活されたイエス・キリストは、あなたに先立ち前で準備して待っておられます。主はあなたのガリラヤ、あなたの生活の場で恵まんとして待っていてくださるのです。今週も、主にお目に掛かろうではありませんか。主は「私である。恐れるな。神を信じ、また、私を信じなさい」と励ましておられるのです。祈りましょう。  

324日礼拝説教(詳細)

「わたしがそれだ」  ヨハネ18章1〜11節

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。

イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明や灯や武器を手にしていた。

イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「誰を捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「私である」と言われた。

イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「私である」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。

そこで、イエスが「誰を捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。

イエスは言われた。「『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」とイエスが言われた言葉が実現するためであった。

シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした。僕の名はマルコスであった。

イエスはペトロに言われた。「剣を鞘に納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

今日の聖書箇所、ヨハネ18章からお読みします。教会暦で言う受難週が今日から始まります。この一週の間に人類歴史上、世界最大の出来事が神によってなされました。救い主イエス・キリストが金曜日に十字架に磔られ、死んで三日目日曜早朝に復活されたのです。今日、読んだ聖書箇所は、主が磔刑に処せられる前夜、ゲッセマネの園で、ユダに裏切られ逮捕される場面です。今日、注目するのは、この逮捕場面で主イエスが語られた一言、「私である」です。5節、6節そして8節と3回記されています。これは原語ギリシャ語では「エゴ・エイミ」と発音され、ヨハネ福音書には29回使用される、キーワードの一つです。

.主体的な同定

4、5節を読みます。「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『誰を捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『私である』と言われた。」イエスはいったいどのような状況で「私である」と言われたのでしょうか。主は、日曜日にエルサレムに入城され、木曜日に至ると、エルサレム市内の用意された二階座敷で、弟子達と過越の夕食を共にしました。あのダ・ビンチの描いた最後の晩餐です。食卓越しに12人の弟子達に教えを説き終えた主は、キドロンの谷の向こう、ゲッセマネの園に弟子達と入り、祈りの時を過ごされました。恐らく有力な金持ちでそこにオリーブ栽培の畑を所用する弟子が、イエスと弟子達に、自由に使用できるよう手配していたのでしょう。エルサレム滞在中は、その園を常に泊まる場とし、そこで祈ることを常としていたのです。

①危機的な状況

しかし、時は緊迫した状況に置かれていました。何故なら、弟子の一人のイスカリオテのユダが、イエスを銀貨30枚で敵に裏切ろうとしていたからです。ユダは、イエスと弟子達が園で夜を過ごすことを熟知していました。ユダは、この時を狙い定め、敵に通報し、イエスを逮捕するよう手引きをしていたのです。3節にこう説明されています。「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明や灯や武器を手にしていた。」この「一隊の兵士」の兵士とはローマ軍の600人編成の歩兵隊のことです。この「下役達」とは、神殿警護の守衛のことです。12節には「一隊の兵士とその大隊長」とあることから、この武装集団は千人隊長直々に指揮され、しかも、「松明や灯や武器を手に」して、お尋ね者イエス逮捕に、来つつあったのです。過越祭のその日は、満月でした。明かりは必要ありません。彼らはイエスと仲間が逃亡する、あるいは岩陰に隠れるのを恐れたのでしょう。その武装した一隊は、夜陰に煌々と照らされ、それはそれは、はっきり目立ったはずです。

②勇気ある発言

にも関わらず、主は逃げも隠れもしません。敢然と軍隊の前に進み出て、しかも、敢えて「誰を捜しているのか」と彼らに問いかけ、「ナザレのイエスだ」と隊長が答えると、イエスは「私である」といささかも怖じずに語られました。これはヨハネ福音書に29回使用されているエゴ・エイミの中でも、典型的な自己同定、自己同一視を意味する発言です。イエスは、この武装集団が捜しているのが「ナザレのイエスだ」と言われるや、「私である」と「私がそれだ」と、ご自分がナザレ出身であることを率直に同定されたのです。

人間にとって、最も基本的に重要なことは何でしょう。それは自分が誰であるかに気づき、そういう自分であることを肯定する価値を知っていることです。ユダヤ人哲学者のマルティン・ブーバーにこんな言葉があります。「『真に生きる』人間は、相手に映る自分のイメージを気にすることなく自然に自己を他者に投げかけるが、『見せかけに生きる』人間は逆に、まず他者が、自分をどう見ているかに関心を寄せ、自分を『自然』 とか『誠実』とかその他、自分が他者に受け入れられそうな外見を装うのである。こうした見せかけへの傾向が生ずるのは、まったく存在が確認されないよりは、偽りにでも存在が確認されたいという欲求があるからである。」意味深長な発言ですね。このことからすれば、

主はご自分が「ナザレのイエス」であることを、有りのままの自分であるとして受け止め、全く自然に、何のためらいも恐れもなく、自分自身を他人に投げかけることがおできになりました。

③自己同定の鍵

主はご自分がナザレ村の出身だと同定されたのです。あのナタナエルが「ナザレから何の良きものが出ようか」と小馬鹿にした、小さな田舎の寒村、そのナザレ村の大工ヨセフの息子であること、学問の無いこと、それを全く問題にもせず、ありのままの自分として「私である」「私がそれだ」と、主はご自分を相手に投げかけることができました。

自分自身のイメージがはっきりしない。自分をどう捉えるのかが、状況や一緒にいる人によって変化してしまう。自分の価値観や目標がくるくる頻繁に変わってしまう。教会にいる間は信心深いが、別の場所では不敬虔で冒涜的になる。他の人と親密で安定した関係を築くのに苦労する。他の人の気持ちに鈍感であったり、無関心であったり、共感するのに欠けてしまう。こうした人格的な悩み、問題は、その根底に自己同定、自己同一性の問題があるからです。

自分が誰であるのか、ありのままの本当の自分とは誰であるのか、その第一の手がかりは、勿論、自分で自分をどう思うかにあることは当然です。しかし、大切な手がかりの一つは、自分以外の誰か、他の人が自分をどう思っているかにあるといえるでしょう。私たちはオギャーと生まれついた時から、毎日、絶えず、自分に対する他人の語り掛け、評価を聞き続け、成長するものです。それで一喜一憂するものです。自分が誰であるのか、安定するのは、自分で思う自分と他人が自分のことをどう思うか、その二つの思いが、ピッタリ一致する場合です。

それが、人に安定をもたらし、自分に対する自信をもたらすことができるでしょう。しかし、往々にして自己評価と他人の評価には食い違いが生じるものです。その時、不安と自信喪失が起こらざるを得ません。イエス様がありのままの自分を受け入れ、自己同定、自己同一できたのは何故でしょうか。イエス様ほどに、自分の思いと他人の思いに食い違いが生じた人はいないのではないですか。主の自己同定の秘訣は祈りでした。主は絶えず神に祈り、神の前に出て、神様の絶対的評価を得ることを心がけておられたからなのです。公生涯の要所要所で、主は天の父の御声を確認されます。

ヨルダン川での洗礼に際して、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声を聞かれました。山で三人の弟子達と祈られた際にも、「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」と言う声を聞かれました。あのヨハネ12章でも、主が「父よ、御名の栄光を現してください」と祈られると、「私はすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」と言う声を聞かれました。人によって違ってくる評価ではなく、主は絶対的な神の評価を確認するときに、ご自分が誰であるかをしっかりと同定、同一視することがおできになったのです。

このオリーブ山のゲッセマネの園に入られた目的も祈りのためでした。他の福音書には、主がこの園で三度も祈られた記録が詳しく残されます。主は十字架を前に父の御心を求められたのです。イエスの生涯は文字通り祈りの生涯でした。朝に祈り夕べに祈られたのです。祈りにより神の前に出て、神の自分に対する思いを悟られる時に、主は人の前に、全く自由にありのままでいることがおできになったのです。あなたも私も自分の生活の場に自分の祈りの園を確保するようにしようではありませんか。自分の思う自分、他人の自分の思い、それだけでは不十分なのです。神が自分を思うところの自分が本当の自分なのです。

.圧倒的な認定

そして、続いて6節にも、もう一度主の語られた「エゴ・エイミ」「私である」があるので見てください。

①驚異的な反応

「イエスが「私である」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」そうなのです。主がありのままに「私である」と語った瞬間に、ドミノ倒しのように、そこに居合わせ

た並いる武装した数百人の兵士たちが、後退りして、何と地に倒れたというのです。

②メシアの認定

この逮捕の場面で主の語られたエゴ・エイミは、主体的な自己同定であると同時に、それは、圧倒的な自己認定でもあったのです。エゴ・エイミ、「私がそれだ」それはご自分が「ナザレのイエス」であることの主体的な同一視であると同時に、実はそれは、主が神性を有する神の御子であることの自己認定であったのです。マルコ14章を開いてご覧ください。主が逮捕され大祭司の法廷で尋問された場面が記録され、61節で大祭司がこう主イエスに尋ねていました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」すると主はこう答えられました。

「私がそれである。」これが原語でエゴ・エイミなのです。「私がそれである。あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」エゴ・エイミ、「私である」

「私がそれだ」、主のこの発言、これは、ご自分が神であられることの自己認定なのです。         

御名啓示連鎖     

そして、これこそ、あの出エジプト記3章14節の神の御名の啓示に連鎖するものなのです。モーセはイスラエルのエジプト奴隷解放を目前に、神の御名の啓示を求めました。誰が自分を遣わすのか、その所在を明らかにしておかねばなりませんでした。主はその時、彼にこう啓示されました。「モーセは神に言った。御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、「あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました」と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」』 「私はいる」これが唯一真の神の御名です。これがヘブライ語で言うところのヤハウエです。そして、これがギリシャ語で言い表せばエゴ・エイミなのです。ヨハネ福音書中に主が29回使用されたこのエゴ・エイミ発言は、この出エジプト記3章に連鎖し、これを意識されてのことなのです。

(ア)   イエスは自存する神である

と言うことは、イエス様が、エゴ・エイミ「私である」と言われたのは、ご自分が、自ら存在される自存の神であることを自己認定されたことです。自存するとは、自ら存在するとは、人が誰かが居るとかいないとか言うことに全く関係なく、自ら、存在することです。他人の証明や保証を全く必要とせずに、存在される神様、それがイエスであることです。

(イ)   イエスは永遠の神である

エゴ・エイミ「私である」、ヤハウエ「私はいる」。それを英語で言い表すと時制が、時間がよく分かります。英語では「I am 」「I am that I am」日本語は時制が曖昧になりがちです。それは、神は常に現在であると言うこと、すなわち、言い換えれば永遠の存在であられることです。ヨハネ8章にもエゴ・エイミを使用された主イエスのお言葉が残されているのでご覧ください。8章56節から58節です。「あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」」そうです。イエス様はアブラハムより前から、即ち永遠に存在される方であると、認定されたのです。

(ウ)   イエスは存在の根源である

そればかりではありません、イエスはエゴ・エイミ、「私である」と発言することで、ご自分をあらゆる存在の根源であると認定されたのです。「初めに神が天と地を創造された」

(創世記1・1)天地を創造された方が人間をもご自分の像に似せて造られました。ヨハネ1章3〜4節はこう証言します。「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」この言、ロゴスはイエス様のことです。イエス様が創造者なのです。コロサイ1章16節はより明瞭に証言します。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られたのです。」そうです万物です。一切合切です。御子イエスが創造されたのです。驚くべき真理です。

何故、完全武装し、鍛え抜かれた恐ろしく頑健なローマ軍の強者どもが、将棋倒しにイエス様の前に、後退(あとずさ)りしてぶっ倒れてしまったのですか。「ナザレのイエス」という軽蔑を込めた呼び名に自分を同定したくらいの無抵抗の男に、何故ぶ様にひっくり返らねばならなかったのですか。イエス様がエゴ・エイミだからです。イエス様がヤハウエだからです。イエス様が「有りてある者」だからです。自存され永遠であり万物の存在の根源だからなのです。偉大な神であるからです。私たちは、この方を礼拝するため集まりました。この方の前にひれ伏し霊と真で礼拝するべきではありませんか。今日も、この礼拝の只中に、主は「私である」とお立ちになっておられるのです。前に進み出て来られるのです。

.牧会的な提示

そのイエス様が何とまた「私である」エゴ・エイミとご自分を牧会的に、続け様に提示されておられます。7節、8節で主はこう語られました。「そこで、イエスが『誰を捜しているのか』と重ねてお尋ねになると、彼らは『ナザレのイエスだ』と言った。イエスは言われた。『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」主の前に総崩れになり倒れ込んでしまった兵隊達に、主は同じ質問をされたのです。すると同じ質問が返ってきました。そこで主は「『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」と命じられたのです。

  牧者の配慮

私は改めて、29あるヨハネ福音書中の主が語られたエゴ・エイミの一箇所を思い出します。それは10章11節です。「私は良い羊飼いである。」これもまたエゴ・エイミなのです。エゴ・エイミに補う言葉がついた形です。「エゴ・エイミ・ホ・ポイメン・ホ・カロス」主はあなたは誰かと問われるなら、「良い羊飼いである」と提示されるのです。では良い羊飼いは羊のために何をするのでしょうか。主は答えられます。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」私たちは、この逮捕の場面に、危機に直面し、うろたえている弟子たちの姿を見せつけられます。彼らは、この襲いかかってきた暴力集団を前に、どれだけ驚き当惑し緊張したことでしょう。ところが、イエス様は、「私である」と再度発言し、「私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と命じられたのです。

  配慮の裏付 

そしてその根拠を9節が説明します。「それは『あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした』とイエスが言われた言葉が実現するためであった」どこにそのイエスの言葉がありますか。その前の章の主の祈りの12節です。「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。」これは父なる神へのイエス様の祈りです。イエス様はご自分が祈られたことを弟子たちのために実行されようとしたのです。

  牧者の真実

テモテ第二の手紙2章13節にはこう証言されていませんか。「私たちが真実でなくてもこの方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである。」『私たちが真実でなくても』 これは耳の痛い言葉ですね。そして、私たちのその代表がペテロでした。マルコ14章26節から読むと、主がこの園に行く途中で、弟子たちに「あなたがたは皆、私につまずく。」と語られました。すると、どうでしょうか。ペテロはこう答えたのです。「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません。」勇敢ですね。しかし、それに対して主はこう語られるのです。「よく言っておく、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」ところが、ペテロは言い張って断言したのです。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」しかし、結果はどうでしたか、私たちは知っているのです。彼は主の言われた通りに、大祭司の中庭で、主が裁かれている最中に、焚き火に当たりながら、三度もイエスを知らないと否認してしまったのです。しかし、聖書に書いてある通りです。「私たちが真実でなくてもこの方は常に真実であられる。」イエス様は真実なお方なのです。ご自分の祈られたこと、約束されたことは必ず実行なされるお方なのです。ペテロはこの時、剣を抜き放って大祭司の僕、その名もマルコスにうちかかり、その右の耳を切り落としてしまいました。もし、この事件を放置したら、どうなったでしょうか。イエス逮捕に同調して抵抗して傷害事件を起こした危険人物として、ペテロも逮捕され、ペテロも裁かれることになったことでしょう。しかし、ヨハネは記録しませんが、ルカは22章51節に『「もうそれでやめなさい」と言い、その耳に触れて癒された』と記録しています。イエス様は、ペテロの善意から出た行為とは言え、その不始末を、完全な癒しをもって繕い、ペテロが自由に去れるように配慮してくださったのです。

コリント第一の手紙10章13節にはあの素晴らしい約束があります。「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」「私である」「私がそれだ」エゴ・エイミと言われる方が、今日も共におられます。主は良い羊飼いです。羊であるあなたのために、主は牧会的な配慮をなさろうと備え、どのような試練の時にも試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださるのです。

リビングプレイズに「御手の中で」という賛美があります。「1.御手の中で 全ては変わる 賛美に 我が行く道を 導きまたえ あなたの御手の中で  2.御手の中で 全ては変わる 感謝に 我が行く道に 現したまえ あなたの御手の業を」今週も主の御手の中で、行く道を導いてくださるよう祈ろうではありませんか。

317日礼拝説教(詳細)

「一粒の麦」  ヨハネ12章20〜26節

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。この人たちが、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとに来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

イエスはお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。

私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

いよいよ餅つき大会の当日を迎えました。杵臼が用意され、餅米も潤かし蒸す準備もスタンバイのようです。我と思わん者は餅つきにチャレンジしてください。餅の由来を調べると、餅は稲の神様、稲霊を表し、神が宿る特別な食物として敬われ、五穀豊穣を願い、感謝し米ではなく、一手間かけて作る餅を神様に備えたと言われます。であるとすると、キリスト教会で餅を食べるのは問題ですね。私たちは餅に新しい理由を付け、餅は命のパンであるイエス様を象徴していると理解して、つき上げ食べることにしましょう。それにしても喉に詰まらせないよう充分気をつけてください。万が一詰まったら、頼りになる元看護師さんもおられますから助けていただいてください。今日の聖書はヨハネ12章20〜26節を読みましょう。先週の礼拝では、同じ12章からベタニヤ村でマリアが高価なナルドの香油を主イエスの御足に注いだ出来事をお話ししました。その日からすれば恐らく四日後のことでしょう。

すでに主イエスはエルサレムに入城された後のこと、それから4日後には十字架に磔刑されたことが、私たちには分かっております。

I. 祭りの時

今日の聖書箇所で、非常に大事なことは、その状況設定で、それが「祭りのとき」であったことです。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」と20節が始まります。

  神を祭る者

祭りは祭りでもこれは、過越祭の祭りであります。ユダヤ人たちが最も重要視した祭りで、先祖がエジプトから奴隷解放された歴史的体験を、追体験する祭り事でした。国内の成年男子は全員が参加することが義務化され、神学者のバークレイは、225万人は集まったと言っています。エルサレム市内だけなら3万人が限度ですから、それはそれは盛大な祭り事であったに違いありません。人が集まってお祭りをすること、それはユダヤ人に限ったことではなく、古代から人間であるなら、何らかの形式で必ず実施するのが習わしです。日本でも例外ではありません。八百万の神が祀られているとされる日本は、お祭りの宝庫であると言って差し支えありません。お祭りは何らかの信仰に基づくもので、神々に五穀豊穣を祈願したり、感謝したり、家内安全無病息災を祈願する宗教儀礼なのです。

  神を恐れる者

その祭りがエルサレムで行われた時、そのエルサレムの都にわざわざ遠路はるばる上って来た何人かのギリシャ人がいたというのです。これはギリシャ語を話すユダヤ人ではありません。ギリシャ生まれの生粋のギリシャ人のことです。ギリシャ人は好奇心が強く、新しい発見に関心があり、中には放浪癖の人もあったようです。最初の世界旅行者はギリシャ人であったと言われるくらいです。しかし、このギリシャ人たちは、単なる興味本位の観光旅行者ではなく、「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」とありますから、エルサレムに来たのは、神を礼拝することが目的でした。

「礼拝する」原語でプロスクネオーとは、ひれ伏して敬意を表明することですから、彼らはユダヤ教改宗者だったのです。聖書は、彼らのような異邦人、つまりユダヤ人以外の外国人で、ユダヤ教の会堂の礼拝に出席し、律法を守ろうとする者のことを「神を恐れる者」と呼んでいます。

僕を主イエスに癒やしてもらったローマの百人隊長がそうでした。

ペテロが導いたローマの隊長コルネリオもそうです。

ピリポがガザで信仰に導いたエチオピアの宦官もその一人でした。

このような異邦人で神を恐れる者に、沢山出会ったのが地中海沿岸を巡回して福音宣教をした使徒パウロでした。彼らは、異教の神々、偶像に飽きたりないのです。その道徳的な程度の低さと一神教のユダヤ教と比較するときに、彼らは俄然、改宗することができたのです。エルサレム神殿で礼拝しようとする異邦人改宗者のためには、かなり広い異邦人の庭が用意されていました。しかし、彼らは、そこから神殿の内部には、一歩たりとも入ることは許されませんでした。

  神に導く者

そのギリシャ人たちが、どうでしょうか、「この人たちが、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとに来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。」主イエスに面会を求めてきた、というのです。ギリシャ人たちは真理を探求し、真の神を知りたい、礼拝したいと切望し、念願のエルサレムに過越祭の祭りに辿り着きました。しかしながら、実際には、彼らは心の底から満足することができなかったのではないでしょうか。どうして彼らは、主イエスの所在に気づいたのでしょう。

これは推測です。恐らく、エルサレムに入城された主が、その神殿の異邦人の庭で、両替人や生贄の動物を売買する商人たちを、縄の鞭で蹴散らしておられたのを目撃したからではないでしょうか。ギリシャ人たちは、形骸化したユダヤ教、律法主義的な教え、商業化した神殿礼拝などに飽きたらないところへ、主イエスの言動を間近に目撃し、圧倒され、惹きつけられ、恐る恐る面会を求めようとしたのに違いありません。

そういうギリシャ人たちを受付、イエス様に紹介しようとした人物が、弟子たちの二人、ピリポとアンデレでした。この二人に共通することがあります。弟子たちの中ではギリシャ名はこの二人だけであったこと、それに、それまでも彼らが人々をイエス様に紹介する点で目立っていたことです。アンデレは、彼がイエス様と出会うと即座に、兄弟のペテロをイエス様に連れてきました。ピリポは、イエス様に出会って召されると、即座に同じ町のナタナエルに呼びかけ、彼をイエス様のもとに連れてきています。彼ら二人は、「私たちは救い主に出会った」と証し、喜んで人をイエス様に連れてこようとする個人伝道をするクリスチャンの代表なのです。

私が高校生で救われた時に、同じ頃、救われた 3 歳年上のUさんという方がいました。当時彼は、田無市のシチズンの工場に勤務していましたが、彼は喜びに満ち溢れ、非常に熱心に勤務する職場で証しをしました。彼は許可を得て会議室を借りて毎週、牧師を読んでは聖書研究会を開き、その結果、続々と教会に人々を連れて来るようになったのです。その中には、大学を卒業して工場の研究室に勤務していたYさんという方もやがて救われ、クリスチャンの女性が紹介され結婚し、教会の有力なメンバーになられたことが、懐かしく思い出されます。真理を求めている人々が沢山いるのです。人生の目的を探している人が沢山いるのです。どこから来てどこに行こうとしているのか彼らは漠然として分からないのです。本当に神がおられるのなら知りたいと願う人々が沢山いるのではないですか。

私たちは、改めてローマ10章12〜15節を聞く必要があるでしょう。「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。それでは、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と書いてあるとおりです。」私たちも、どうでしょう。ピリポとアンデレとに習うことにしましょう。人々をキリストに紹介する者としていただきましょう。

II. 栄光の時

しかし、どうでしょう、二人の弟子たちが、ギリシャ人たちにイエスとの面会を求められて、イエス様にお伝えした際に、「イエスはお答えになった」と言われていますが、誰に答えられたのでしょうか。原文によれば「イエスは彼らにお答えになった」なのですが、その彼らにギリシャ人が含まれていたか、これは明らかではありません。主イエスは二人の弟子たちにこう語られたのです。「人の子が栄光を受ける時が来た。」主イエスはここで「時が来た」と明言されておられるのです。

このヨハネ福音書で大きなテーマの一つは「イエスの時」です。2章で、あのカナの婚礼において母マリアに語られた時に、主イエスは「私の時はまだきていない」と言われました。7章で、兄弟たちにエルサレムに一緒に上るように催促さた時にも、「私の時はまだきていない」と言ってキッパリと断りました。そして今、ギリシャ人たちが面会を求めたその時です。イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た。」と二人に語ったのです。

イエスはご自分を指して「人の子」と言われました。人の子とはメシア、救い主を意味する呼び名の一つです。ご自分を神の救い主であると自覚された主イエスは、自分が神から栄光を受ける時が来たのだ、とここで宣言されたのです。この「栄光を受ける時」というのは、普通に考えられる晴れがましい時のことではありません。「栄光を受ける時」というのはノーベル賞をもらったり、あるいはオリンピックで表彰台に上ったりという時をイメージしがちですが、主イエスが栄光を受ける時というのは、そうではありません。

栄光と訳されるドクサは、本来は「意見、評価、評判」を意味するのですが、それが名誉、栄光、光栄を意味して使われる特別な用語です。この「栄光を受ける時」というのは、神様から評価され、特別に与えられる栄誉、光栄のことです。それが何を意味するかを主は次の24節ではっきりと語られました。「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これはイエス様がご自分を一粒の麦の種に喩え、これから間も無く受けようとされた十字架の受難を指して語られたのです。

栄光の時とは、受難の時です。何故、鞭打たれ、荊の冠を被せられ、五寸釘で両手両足を打ち付けられ、炎天下に晒し者にされることが栄光の時なのですか。それは主イエスが苦しみ死ぬことによって、人々に命を与えることになるからです。麦の一粒のタネが、そのままであれば、実を沢山結びません。地に蒔かれ、種が死ぬと根が出て、芽を出し、葉が付き、花さかせ受粉して沢山の実が実ります。それは自然の法則です。その自然法則が、人類の罪からの救済にも言える真理なのです。神様がイエスの十字架の死を高く評価され栄光をお与えになる理由は3っつあります。

  身代わりの十字架

十字架刑はローマ帝国の残酷な極悪犯罪者に科する刑罰です。しかし、イエスの十字架は、他の人のために、その人に代わって忍ぶ苦難でした。イエス様が十字架に磔にされたのは、罪なきお方が罪ある私たち人類の身代わりとなられたからなのです。神がイエスに栄誉を与えられるのは、罪なき御子が人類の身代わりとなられたからです。ペテロが第一手紙の2章22節に語ったのもその真理です。「この方は罪を犯さずその口には偽りがなかった。罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。」十字架が栄光の時とは、神が主の身代わりの犠牲の死に最高の評価を与えられるからです。

  神が満足する十字架

十字架のキリストの死を神が最高に高く評価されるのは、神様の義と愛とが完全に満足させられるものだからです。神は義です。義は正しさを要求し不義を放置せず裁き罰する性質です。神は愛です。愛は寛容であり赦し受け入れ祝福する性質です。キリストの十字架の受難の死は、その義と愛とを同時に完全にことごとく満たしました。神様は、人間の犯した罪のゆえに義により、これを裁き罰しなければなりません。しかし、キリストが全人類の身代わりに裁かれ罰せられ見捨てられました。神様は、罪ある人間が、滅びず赦され受け入れ祝福され愛したいと願われます。しかし今や、キリストが裁かれたので、罪の赦しが実現しました。神様が栄光を御子イエスに与えられるのは、その義と愛とが同時に完全に満たされたからです。

  罪より贖う十字架

第三の栄光の理由は、十字架が罪の贖いであるからです。贖うとは、奴隷の身代金を払って買い戻すことです。罪を犯した魂は罪の奴隷です。罪がその人の主人であり、その言いなりになっているのが、私たち人間の現実です。しかし、キリストの十字架は、罪の奴隷から買い戻すために、ご自分の命を身代金として払う業です。主ご自身がこう言われた通りです。「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20・28)パウロもこう言っている通りです。「キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を、ご自分のものとして清めるためだったのです」(テトス2・14)

キリストは十字架により、私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。もはや罪は所有する主人ではありません。罪の影響が無くなったのではありません。もはや支配されることはないということです。罪の影響から完全に解放されるのは、イエス様が再び来られることにより罪が無くなるその時を待たねばなりません。主イエスは一粒の麦となり、十字架の死によって信じる者に命を与えられます。ギリシャ人たちはイエスに面会を申し出ました。しかし、彼らが完全に救われるためには、十字架の受難を待たねばならなかったのです。

Ⅲ.献身の時

その上で、主は二人の弟子たち、ピリポとアンデレに、そして弟子たち全員に、献身を促され、こう語られたのです。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

  命を愛する者

主はこう言われます。「自分の命を愛する者は、それを失う」それは一体どういう意味でしょうか。「自分の命を愛する」これは当然のこと、命を粗末にするよりも、遥かに良いことではないでしょうか。自分の命を愛する、大事にする、「命あってのもの」ではありませんか。「自分の命を愛する」とは、そうです。この世の常識であり基準であり、奨励されている生き方です。人間は誰しもが自分の生命を保守する強靭無比の欲求を持つのです。これは自己保存の欲求です。それ無くしては確かに生きることはできないでしょう。しかし、その自己保存欲求の根底、奥深い所には、自分の利益を中心に物事を考えようとする自己愛と自己中心性が隠れているのです。貧乏ではなく豊かな金持ちになりたい。無名ではなく出世して有名になりたい。競争に勝って優勝したい。自分がこうなりたいと望む自己を実現したい。しかし、神を度外視した自己愛の追求の結果、人が陥るのは自分の命の喪失だと、主は警告されるのです。

  命を憎む者

そうではなくて、主は「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」と言われました。憎むとは強烈な言葉であります。それ程までに、人間の内にある自己愛、自己中心性は深刻なまでに強靭なのだということです。憎むほどの自己中心に対する強烈な決然とした対抗する態度がなければ、克服することができません。自分の生活を維持しよう、成功しよう、楽になろう、幸福になろうとする気持ちに逆らって行動するのは至難の業です。しかし、そうしない限り、永遠の命を得ることはできないのです。主は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)と教えました。一生を80年として、秒に換算するとこうなるでしょう。1 分は 60 秒、1 時間は 3600 秒、一日は 86,400 秒、一年は 31,536,000 秒、人の一生は 2,522,880,000 秒、約 25 億秒。友のためにその一日をささげて生きたなら、その人は自分の命の 25 億分の 8 万をささげていることになるでしょう。自分の命を友のために捨てる、この世で自分の命を憎むということは、具体的には、友のために、人のために、自分の時間を使う、自分の富を使う、そういうことになるのだと思うのです。

  仕える者

その上で主は、弟子とされた私たちに「仕える者になれ」とこう語られます。「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」「私に仕える者」が3回繰り返されます。この仕える者とは食卓の給仕のことです。給仕が客に奉仕するように仕える者のことです。イエス様に奉仕することは具体的には人にすることです。そして奉仕はイエス様に従うときに心からできることです。そして、奉仕する人と共に主がいてくださいます。さらに、奉仕する人を神様が、天の父が大切にしてくださるのです。神様が評価し栄誉を与えてくださると言われるのです。体が弱くなり、もう人のために何もすることが出来ないと嘆かれる方もおられるでしょう。しかし、祈ることが残されています。どうか祈ってください。私のために、教会の為に、祈ってください。祈ることは時間を要します。誰かのために祈るとすれば、誰かのために自分の命を献げていることになるのです。それが愛です。

主イエスは十字架に一粒の麦となって命を捨てられました。主は、私たちにも主の十字架の道を歩めと招いておられます。あなたの周りにも「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」と渇き求める方々がおられます。主は、その方々に命を与えるために、あなたを必要とされるのです。主の求めに答えて、私たちも新たな思いで献身することにしようではありませんか。

3月10日礼拝説教(詳細)

「ナルドの香油」  ヨハネ12章1〜8節

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に席に着いた人々の中にいた。

その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。

弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。

イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」

ご存知でしょうか。来週17日の礼拝後に恒例の餅つき大会が予定されています。石臼と杵で本格的に餅をつき上げますから、我と思わん方は是非奮って参加ください。ところで、この餅の由来を調べると沢山あるのに驚きです。ざっと挙げると5つもあります。

  望月の望説:昔は太陽や月を崇拝し、形を月になぞらえ円にしたことによる。

  鳥モチ説:突き立て餅はくっつくから、モチノキから由来している。

  長持ち説:長期保存に適した携帯する飯として重宝されたことから由来。

  台湾語説:モアチイと発音することから由来。

  ヘブライ語説:ユダヤ人が過越祭で食べる種無しパンをマッツアーと発音。それが訛って餅になったとする説。

さあ、果たしてどの説が正しいのでしょうか。お餅の由来はともかく、つき上げた出来立てのお餅を楽しく食べることにしましょう。

さて今日、聖書箇所は、ヨハネ12章1〜8節を読みましょう。気がつかれたでしょうか。今日の聖書箇所、実はお餅の由来の最後に紹介した種無しパンのマッツアーを食べる過越祭から始まっているのです。過越祭とは、昔イスラエルの民が430年間のエジプトの奴隷生活から解放された歴史経験を追体験するためのユダヤ人のお祭りの一つ、3月から4月に盛大に行われていました。エジプトから大騒ぎし急いで脱出するのに、食べるパンを発酵させて焼く時間も無い、だからイースト無しで焼いて急いで食べたことを思い出すために、彼らはわざわざ祭りで食べるのです。今日のこの聖書箇所は、その過越祭が近づいた時に、イエス様がベタニア村で食事のもてなしを受け、その際にマリアが高価なナルドの香油をその足に注ぎかけたため、香油の香りがあたり一面にいっぱいになったという物語であります。マリアが注いだナルドの香油の重さは330グラムでした。その価格は300デナリだと言われますから、換算すれば300万円になります。1g 一万円もする、それはそれは高価な香油だったのです。香油の香りは見えません。私たちすべての人間にとって、目に見えないもので一番大切なものがあると、聖書は私たちに教えます。コリント第一13章13節です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。」

信仰も希望も愛も見えません。しかし最も価値あるものです。そして、その中でも最も偉大なもの、それが愛であると聖書は教えるのです。その愛がこの場面に登場するベタニヤの3人兄弟姉妹に顕在化している事実を、私たちは今日、注目することにしましょう。 1.愛の勇気

その第一は、ベタニヤの三人兄弟のラザロに表れている愛の勇気です。1節をご覧ください。「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」2節にもこうあります。「イエスのためにそこで夕食が用意され、ラザロは、イエスと共に席に着いた人々の中にいた。」このラザロは、11章で詳しく紹介されている、病気で一度死んで墓に埋葬されていたのに、イエス様によって甦らされた、あのラザロのことです。

イエス様がベタニヤ村に着いた時はもう手遅れでした。ラザロは墓に埋葬され四日もたっていました。しかし、イエス様が開かれた墓に向かって「ラザロよ、出て来なさい」と大声で呼ばれると、何と生き返って布に巻かれたまま墓から出てきたというのです。このような普通あり得ないような大事件ですから、瞬く間に世間に噂となって広がったでしょう。沢山の人々が、死人から蘇ったラザロを見るためにやってきたことでしょう。

しかし、ラザロは控え目な人でした。群衆の好奇心を酷く嫌って、自分の姿を見せるのをできるだけ回避してきたようです。それなのに、そのラザロの名前が、ここに二度繰り返されていることは、一体何を意味するのでしょう。ラザロはベタニヤにただ居ただけではなく、イエスと共に食卓の席に着いた人々の中にいたというのです。それは、好奇心で集まる人々に対してでも、自分自身をさらけ出すことを意味しました。そればかりではありません。それは命の危険に自分をさらすことでもありました。何故なら、ラザロの復活後に、サンへドリン議会が招集され、イエス様を危険視する議論が白熱し、結果として逮捕命令が出されてしまったからです。イエスをお尋ね者とし、逮捕が命令されただけではありません。

「祭司長たちはラザロをも殺そうと企んだ。」と、12章11節によると、ラザロのことで多くのユダヤ人達がイエス様を信じるようになったことをも非常に危険視され、宗教指導者たちは、ラザロをも殺害する計画だったのです。にもかかわらず、ラザロが自分を公衆の面前にさらすのを躊躇わなかったのは何故でしょうか。それこそ、それはイエス様に対する愛のもたらす勇気であったのです。自分を愛し、自分を墓から蘇らせてくださったイエス様への愛は、人々に対する証しの勇気を生み出したのです。イエス様のためなら捕らわれ殺されることをも恐れない愛の生み出す勇気であったのです。

先週の金曜日の晩に地震に関連したオンラインによる祈祷会が実施されました。2011年の東日本大地震のその後の報告、それに今年の元旦の能登半島地震の支援活動報告と祈りの要請がなされました。その報告に長男の高木順一牧師と金沢聖書教会の浦野秀一牧師が能登半島地震の報告と証しで出演するということで、関心を持って参加しました。その報告で分かったことは、その祈祷会の日、即ち8日に珠洲市で炊き出しの支援活動を神奈川県藤沢の教会と協力して実施したこと、その炊き出しの会場になったのが、金沢聖書教会員の経営する喫茶店であったことです。私が非常に感動したことは、浦野牧師のそこに至る話しです。かいつまんで言うとこういうことです。

あの能登半島の最先端の珠洲市で喫茶店を経営される方が、2020年に突然、金沢市の教会の礼拝に救いを求めて訪ねて来られ、教会に来たいと申し出られました。しかし、金沢と珠洲市は距離にして120キロ、通うわけにはいかず、それからはオンラインで礼拝に出席され、オンラインで聖書を学び、その結果、信仰の告白に至り、翌年の2021年6月に珠洲市の海岸で洗礼を受けられました。彼は、大学生の長男と高校生の長女と奥様四人家族のOさんです。ところがその後、2023年5月には震度5の地震に見舞われて自宅が倒壊してしまいました。幸い大工さんが手入れした結果、何とか住めるようになりましたが、その翌年、今年の元旦に再び震度7.5の大地震に襲われてしまったのです。しかし、感謝なことに、経営する喫茶店は無事でした。その結果、彼は自分の喫茶店を支援の拠点にすることに勇気を奮って申し出、その結果、喫茶店が支援物資の集荷拠点とされ、さらに炊き出しの会場として用いられることになったのです。

私はこの証し報告を聞くに及んで、第一に、そこに見事な神様の摂理的な配慮を見せられ、そればかりか、O兄の大胆な勇気に感動するのです。彼の経営する喫茶店の店名は英語で「ANARCHY」と壁に大書されています。その意味は何と「無政府、無秩序、混乱」です。 そんな奇妙な名前をつけたO兄が、主を求めて救われ永遠の秩序の中に導かれたのです。そのO兄が、珠洲市で支援の拠点に喫茶店を提供した行為は、大変な勇気ある決断です。何故なら、奥能登地方は日本でも有数の伝統文化、宗教の根強い地域であるからです。その町や村の宗教行事には、文字通り全員参加が必須条件です。その只中で、キリスト信仰を表明することの恐ろしいばかりに勇気のいること、それは想像を絶する戦いです。

どうしてO兄が村外れになることをも覚悟して喫茶店を提供することができたのでしょうか。それは、イエス様を愛する愛が生み出す勇気の賜物なのです。イエス様を信じイエス様を愛するときには、不思議と証しする勇気が与えられるのです。あの珠洲市の市民にこの喫茶店が福音の証の拠点になることを祈るばかりです。素晴らしいことです。感謝なことです。

.愛の奉仕

更に私たちは、ベタニヤの3人兄弟(マルタ・マリア・ラザロ)のマルタに愛の奉仕を見ることができます。このマルタとは、あのルカ10章でよく知られたベタニヤのマリアとマルタのことです。イエスを家に迎え入れ、もてなしのために台所で忙しくし取り乱した、あのマルタのことです。その時、マリアはイエスの足元に座って弟子達と一緒に話を聞くだけでした。マルタは、はっきりした性格の人です。マルタは実際的な女性です。物事をテキパキ手際よく処理できる人です。手ずから働き忙しくしている性分なのです。そんなマルタにとって、マリアの態度は、到底我慢のできることではありませんでした。マルタはイエスに「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」とマリアを痛烈に公然と批判してしまいました。

その同じマリアのやることを公然と批判する人物が、ここにもおりました。それはイスカリオテのユダでした。その時、マリアはイエスの足に高価なナルドの香油を全部注ぎ出し、自分の髪でその足を拭っていました。ユダは、それを見て批判しこう公然となじったのです。

「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」それは全く話にならない無駄な浪費であって、由々しい問題だと糾弾したのです。私たちはこのマルタとユダに、人間の物の見方がいかにいびつなものであるかを理解することができます。マルタはマリアを何もせず怠けていると批判しました。ユダはマリアのすることを無駄な浪費の行為だと批判しました。人間の判断は、その人のうちにあるものに依存するのです。自分の都合の良いように、自分の能力の範囲内で、自分の価値観でしか物を見ないのです。マルタは、自分の料理の技術、手先の器用さ、物事の処理能力の巧みさの範囲内で、物事を見る傾向があったのでしょう。ユダは、使徒団の会計係で金入れを預かっていました。ユダには、財政のやりくり算段、経済的価値判断力の範囲内で、物事を見る傾向があったのでしょう。マルタには料理の賜物があったでしょう。ユダには金を扱う賜物があったのです。しかし、何か特別な賜物を持っていると、人は賜物の誇りや自惚れの誘惑に陥るものです。ユダはその誘惑に勝てず、金を愛し、金入れから盗み、ついには銀貨30枚で、イエス様を裏切ってしまいました。

しかし、感謝なことにマルタは今ここでは誘惑に勝利し、自分の賜物をフル回転させつつも、マリアを批判することもなく、喜びに満ち溢れて奉仕することができているのです。何故でしょうか。イエス様を信じたからです。イエス様を愛したからです。信仰と愛から生きた奉仕が生み出されたからなのです。もうそこには妹のマリアに対する批判はありません。マリアと自分の賜物の違いを認め、彼女はイエス様に対する愛を動機に、忙しくテキパキともてなしの奉仕に専念することができたのです。教会は、キリストを信じキリストを愛する人々の共同体です。

聖書はその心構えをローマ12章3〜6節でこう教えます。「私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を越えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。」自分に与えられている能力範囲内からだけの狭い物の見方を超えていくことにしましょう。キリストを愛する愛の表れとして自分の働きを忠実に行い、他の兄弟姉妹の違いを的確に認め、愛して受け入れ、愛して協力するよう務めることにしましょう。

.愛の洞察

最後に、私たちがベタニヤの三兄弟姉妹のマリアに見るものは、愛の洞察の素晴らしさです。聖書のピリピ1章9節で、使徒パウロがピリピの教会のためにこう祈っています。「私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように。」この祈りの美しい表れを私たちは、ここにナルドの香油を注いだマリアに見せられているのです。

①王なるイエス

マリアの愛が洞察したその第一点は、イエス様が神に油注がれた王であることです。ユダヤ人たちは、家に招いた客に敬意を表す意味で、高価な香油を一滴、その頭に注ぐことが習慣でした。しかし、マリアは、高価な香油、300万円もするナルドの純粋な香油の全てをイエス様に注ぎ出してしまったのです。それは、マリアの愛が本当に重要なこと、即ち、イエス様が、天の偉大な神によって油注がれた王であることを鋭く洞察したことの表れなのです。古代イスラエルでは、王が即位する式典において、大祭司によってオリーブオイルが頭に注ぎかけられました。油は神の霊の象徴であり、神によって王権が授けられたことを意味していたのです。この礼拝の最初に交読詩篇に第二編が選ばれたのは、そのためです。古代イスラエルでは、この詩篇が王の即位式で歌われました。そこには「主と主が油注がれた方」という言葉が使われているでしょう。この主が油注がれた方こそ権威ある王です。そして、これは預言的に神に油注がれた全世界を統治する王なるイエスのことを指し示すものなのです。主は復活され、ガリラヤで弟子達に再会された際にこう言われました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」そうです。マリアは、ベタニヤの夕食会で、愛によりイエスこそ真の王であることを洞察し、先取りして香油を注いだのです。ヘンデルがメサイヤのハレルヤ・コーラスに

「ザ キング オブ キング ザ ロード オブ ロード」と大合唱するのはその意味です。

イエス様が王の王であることを歌っているのです。

②受難のイエス

マリアの愛は更に十字架の受難のイエスを鋭く洞察しました。マリアがナルドの香油を注ぎ出すと、ユダは鋭く痛烈に批判しました。それは無駄な浪費に過ぎない。それなら、香油を売って貧しい人に施すべきではないか、と糾弾したのです。しかし、イエス様は斬り交わしてこう言われました。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。」イエス様がベタニヤ村を訪ねたのは過越祭の6日前でした。イエス様はその1週間後の金曜日に十字架につけられたのです。その日、すなわちその6日前の金曜日に、マリアはイエス様の十字架の受難を洞察し予見したのです。イエス様が険悪な雰囲気の中で、十字架につけられ埋葬されるとき、埋葬準備のためにその死体に香油を塗ることなどは到底、女の身のマリアにできることではありません。

マリアは、愛の洞察でイエスの十字架の死を予見し、人類の罪の救済のために身代わりの犠牲となられるイエス様に、心からなる愛と信仰を、前もって注ぎ出したのです。主は言われました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」そうです。マリアはこの時にしかできないチャンス、機会を洞察してたのです。できることを精一杯、心を込めてできるのは今この時しかないと見抜いたのです。

チャンスを掴まねば、成し得ないことがあります。したくても延期することがあるのです。大切な人がいつ逝去するかしれません。死んだ後では何もすることができません。語ることもできません。私たちも今できることを、先延ばしすることなく、なさせていただきましょう。

③共なるイエス

私たちは、聖書の他の箇所に、マタイやマルコの福音書に、無名の女性がイエス様の首に油を注いだ記事があることを知っています。しかし、今ここで私たちは、イエス様の足に油を注ぐマリアを見るのですが、それは一体何を意味するのでしょう。それは、マリアがイエス様に対する深い愛によって、イエス様がいつも共にいてくださることを洞察していたということではありませんか。前の11章の55〜57節を見るとそこには、「人々はイエスを探し、、」と大勢の人々がイエス様を探していたことが分かります。そればかりか、敵対した宗教指導者達がイエス様をお尋ね者と定め、全国的にその居所を探し出すよう命令していたことも分かります。しかしながら、彼らにはイエス様の居所が分からないのです。

しかし、そのような緊迫した只中、マリアは自分の前にしっかりと立たれるイエス様の足を熟視するのです、その御足に香油を注ぐのです。イエス様の御足!イエス様の御足がある!それは、ここに主が共におられる、いつでも、どこでも、いつまでも共におられることを意味する御足なのです。救い主の素晴らしい御名の一つはインマヌエルではありませんか。それは「神、我らと共におられる」を意味しますね。そうです。イエス様を愛する者、イエス様を信じる者には、イエス様の居所が分かるのです。「いつでもどんな時でもイエス様は共に居てくださる」という真理なのです。主は、「二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるのである。」(マタイ18・20)と約束されました。主は、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)と約束されました。ラザロが病気になった時、マリアとマルタがイエス様を呼べば、ベタニヤに来てくださっておられるではありませんか。そしてラザロを死人から蘇らせてくださいました。

イエス様は1週間後には捕えられ十字架にはりつけられようとしておられる。危険極まりない状況であるのにもかかわらず、優先して今ここベタニヤに来てくださっている。マリアは、イエス様をひたすら愛する愛により、イエス様がいつでもおられる居場所というものを洞察することができたのです。詩篇46編は、神が共に居られることを歌った信仰の詩です。そこには2回繰り返されるフレーズがありますね。「万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦」これが8節、12節に反復されます。その1節2節ではこう告白されます。

「神は我らの逃れ場、我らの力、苦難の時のかたわらの助け。それゆえ私たちは恐れない。地が揺らぎ、山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。」イエス様とその弟子達、またベタニヤの三兄弟姉妹を取り巻く状況は、暗澹たるものでした。しかし、その暗い押し迫った状況の只中に、マリアの注ぎ出したナルドの香油のふくいくたる香りが、家中いっぱいに広がったのです。「愛には恐れがありません。完全な愛は、恐れを締め出します。」(第一ヨハネ4・18)愛が満ち溢れると、恐れ、批判、不安を締め出し、勇気と一致と平安が生み出されるのです。

ラザロはイエス様を愛する勇気により、恐れず人前に出て証しをしました。マルタはイエス様を愛する奉仕により、喜びを持ってもてなし接待をしました。マリアはイエス様を愛する洞察により勝利を先取りすることができました。十字架にかかり復活され昇天された王の王なるイエス様は、今週も私たちの生活の場に来てくださるのです。そして、「私だ。恐れることはない。」「私だ。あなたに平安があるように。」と励まし助けてくださるのです。私たちもキリストに愛を注ぎ出し、私たち自身を芳しい香りとさせていただこうではありませんか。

3月3日礼拝説教(詳細)

「永遠の命の言葉」  ヨハネ6章60〜71節

弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。

しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、

「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。

イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。

シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。

あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」

イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

ハレルヤ!聖書はヨハネ6章からお読みします。今日この箇所を朗読したのは、教会暦によって今月末に今年の受難週を控えているからです。今年のイースター・復活節は31日となっております。このヨハネ6章は、ヨハネ版のペテロの信仰告白の箇所と言われております。

マタイは「あなたはメシア、生ける神の子です。」とペテロが告白したと言います。

マルコは「あなたはメシアです。」とペテロが告白したと言います。

そして、ルカは「神のメシアです。」とペテロが告白したと言っています。

ではヨハネはどうでしょうか。彼は「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」とペテロが告白したと証言しているのです。そして、ペテロはその告白に先駆けて、こうキリストに語りました。「主よ、私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。」

「人間は言葉を持つ動物である」と、ギリシャの哲学者アリストテレスは言いました。「人間であるためには言葉をもたねばならない。言葉をもつためには人間でなければならない」と語ったのは、ドイツの言語学者フンボルトでした。しかし、アリストテレスやフンボルトを持ちださなくても、分かりきったことです。私たち人間はみな、言葉の生き物なのです。私たちは言葉で話し、言葉で聞き、言葉を書き、言葉を読み、言葉で考えます。言葉無しに生きることは考えられないのです。

私は毎朝5時半に起床する際に発する言葉が決まっています。大きな声で「ハレルヤ!」と告白し、「グーテン・モルゲン」と妻を起こし、「イッヒ・リーベ・ディッヒ」と愛の告白をするのです。笑い話みたいですが、これが私の毎日の日課です。皆さんは1日の最初に発する言葉はいかがなものでしょうか。決まっていますか。

I. 信仰の告白

さて、使徒ペテロは、この場面で、他のどんな誰も、絶対に語ることの出来ない特別な言葉を持っておられる方として、イエス様に「永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。」と告白しました。ところが一方では、同じこの場面で、酷い言葉を語るとんでもない人だとイエス様を「これはひどい話だ。誰が、こんな事を聞いていられようか。」と痛烈に批判する人々がいたのです。この「ひどい話しだ」の「ひどい」という言葉は、物が乾いてコチコチで固いという意味で、受け入れ難い、もうこれ以上我慢できない、そんな時に使われるキツイ言葉です。それまで同じ言葉をイエス様から聞いたというのに、何故このような違いができてしまったのでしょうか。彼らを躓かせるような一体どんな酷い言葉をイエス様が語ったというのでしょう。ここで再び、私たちは、この箇所が置かれている文脈の中を、聖書理解の原則により、遡る必要があります。

文脈を遡れば、突き当たるのは6章1節から記されている、ガリラヤ湖畔での5000人の給食の奇跡です。イエス様は、そこに集まってきた5000人を越すお腹の空いた大群衆に、少年のお弁当の5つのパンと二匹の魚で、腹一杯になるまで食べさせるという、不思議な、それは不思議な、驚くばかりの奇跡を行われました。

その奇跡の後です。イエス様は群衆を解散させ、弟子たちと共に向こう岸のカペナウムの町に移動されました。そこで、イエス様は町のユダヤ人会堂に入られ、今度は、そこに詰めかけた弟子たちに話しかけ、こう語れたのです。34節です。

「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」これは、5000人の給食の後のことでもあり、イエス様は、これによって、視覚教材のように、パンによって比喩的に真理を語ろうとされたのです。しかし、この辺りから群衆との間にズレが出始めてしまいました。41、42節に人々が呟き始めたとこう書いてありますね。

「ユダヤ人たちは、イエスが『私は天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやいて、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。』」

しかし、その躓きと反発が頂点に達したのは、会堂でのイエス様の教えが、血を飲み肉を食べる話をしたその時のことでした。51節で主がこう語られたのです。「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。」」イエス様がご自分を「天から降ったパン」と語っただけでも理解しかねた群衆は、イエス様が更にご自分を「私が与えるパンは、私の肉である」と語るに及んで、遂にキレてしまったのです。そのあとで続いてイエス様は更に「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」(53節)とまで語っておられるのです。55節では念を押したかのように「私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。」とダメ押しをするように語られています。パンだけならまだしも、イエス様の肉を食べ、血を飲めと言われるに至っては、とてもとてもこれ以上我慢できない、と呟かざるを得なかったのです。

しかしどうでしょう。同じ5000人の給食の奇跡を目撃し、一連のイエス様の言葉を聞いていたペテロは、全くそうではありません。彼はイエス様に対して「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。」と積極的に発言することができました。呟き離れ去ろうとする人がいたのに、それは何故でしょうか?それは、イエス様が誰であって、何をしようとされるのかを、ペテロが悟ることができたからに違いありません。ペテロが、こう告白しているからです。「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」ペテロは信じているだけではなく知っていますとまで断言します。「あなたこそ神の聖者である」このペテロが告白した「神の聖者」とは、救い主、メシアの称号なのです。マタイはペテロが「あなたこと生ける神の子キリストです」と告白したと記録し、マルコは「あなたはキリストです」、ルカは「神のキリスト」と告白したと記録したのですが、ヨハネは「あなたこそ神の聖者です」とペテロが告白したことを記憶に留め記録していたのです。キリスト、メシアと神の聖者と言葉は違っても意味は同じです。イエス様は救い主であるということです。

54節でイエス様の語られた言葉、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」とは、別の言い方をすれば、それは受難告知だったということなのです。イエス様は、これから間も無く捕えられ、裁かれ十字架に付けられようとしていました。十字架の上でイエス様は鞭打たれ、釘付けられ、槍を突き刺され、肉は裂かれ、血が流されようとしていました。それは、私たち人間の罪の赦しを得させるための犠牲の受難でした。預言者イザヤが、預言して53章5節に語ったあの受難です。「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」そうです。ですから、肉を食べ、血を飲むとは、十字架のキリストの受難が、罪の赦しのためであったことと受け止め、イエス様を救い主と信じ受け入れることを意味したのです。私たちはこの後に聖餐式に預かろうとしていますが、そこでパンを食べ、盃を飲むのは、十字架の救いを確信し、イエス様を信じる信仰の告白を意味していることを覚えておきましょう。

II. 信仰の理由

では、このイエス様の肉を食べ、血を飲むこと、つまり、十字架を信じイエス様を信じる者に何が与えられますか。それが永遠の命なのです。54節「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」イエス様はそう約束されました。永遠の命とは、イエス様を信じる者に与えられる約束です。この永遠の命という言葉は、数えてみれば、このヨハネ福音書だけでも17回も使われています。それによって永遠の命が何を意味するか、消極的な意味と積極的な意味に解析することができますから、全部とまではいきませんが、読み進んでみましょう。

消極的な意味の典型こそ、ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」そうです。永遠の命を得るとは滅びないことなのです。

私たちは朝昼晩と食べ物を食べます。パンを食べます。お米を食べます。肉体の生命を繋ぐためです。しかし、どれだけ、毎日食べ続け、十分いただいたとしても滅びを免れることはできません。しかしイエス様を信じる人は滅びないのです。

ヨハネ4章13、14節で主はこうも約束されました。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」これは、イエス様がヤコブの井戸に水を汲みに来たサマリアの女に語られたものです。彼女は五度も結婚し離婚を繰り返していました。六度目の男とは同棲していた女です。彼女の心は傷つき、深く深く愛に渇ききっていたのです。しかし、イエス様を信じる者は誰でも、何ものによっても満たされない心の渇きが癒やされるのです。素晴らしい恵みです。

ヨハネ5章24節で主はこうも約束されました。「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」裁きを受けることがない!そうです。イエス様を信じる者は誰でも死んだ後で、神様の前での最後の審判で、自分の犯した罪の裁きを受けることがありません。これもまた素晴らしい約束です。

滅びない、渇かない、裁かれない、それだけでも素晴らしい約束です。しかし、そればかりか、もっともっと素晴らしい積極的な約束が永遠の命に込められ、信者に備えられております。ヨハネ4章35、36節を読んでみましょう。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月ある』と言っているではないか。しかし、私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである。」主は弟子たちに「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。」と約束されました。集める実とは喜びなのです。約束された永遠の命とは込み上げてくる喜悦です。喜びです。私は本当にクリスチャンとされ感謝に絶えません。何故なら信仰から来る喜びを生涯、与えられ続けて来たからです。

更にヨハネ6章39、40節を読んでみましょう。「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」これはハレルヤですね。永遠の命を得るとは、復活させられることなのです。十字架で死なれたイエス・キリストは、三日目に蘇りました。イエス様を信じる者は、主が復活されたように、誰でも死んでも蘇るのです。イエス様を信じるときから、人は誰でも死の恐れから解放されます。死は最後の敵であり、恐怖の王です。しかし、永遠の命が与えられた結果、復活の希望により死の恐れは吹き飛んでしまうのです。

更に更に最も素晴らしい積極的な永遠の命の約束は、ヨハネ17章3節の主の祈りのお言葉で明らかになります。1節から主の祈りを追って読んでみます。「イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた。父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください。あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」そうです。そうなのです。永遠の命とは神様を知ることなのです。イエス・キリストを知ることなのです。

命とは環境に対する適応だと言えるでしょう。人間は自然環境に開かれた生き物です。空気を吸い、食物を食べ、飲み物を飲むのは肉体に命があるからです。人間は社会環境に開かれた魂のある生き物です。他人の呼びかけに応じ、また語りかけるのは、社会的な生命があるからです。そればかりではありません。人間は本来、神に応えることのできる霊的に開かれた生き物として神の似姿に造られました。しかし、罪によって霊的生命を失ったために、神様と交わることができず、神様の呼びかけに応答できなくなってしまったのです。しかし、イエス様を信じた者には、永遠の命が与えられます。それは霊的な環境、目に見えない神様に適応する生命が付与されるので、神を人格的に知ることができるようにされることなのです。

昨年11月6日に、私にとってかけがえのない一人の老婦人がアメリカの地で召天されました。その方は、私が16歳の時に、私を信仰に導いてくれた芦田典介牧師の奥様、尚子先生です。若くしてご主人と共にアメリカに移住されました。そしてアメリカのカリフォルニアでご主人に看取られ85歳で天に召されたのです。その天に召された尚子先生の召天記念会が3月10日に教会で行われる知らせがメイルで寄せられました。そこには、召天された故人の生涯がご主人の芦田先生により見事に綴られていました。彼女は1935年に韓国インチョンで生まれ、終戦後に家族と共に九州大分県の佐伯市に移り住み、そこで高校生時代にアメリカの婦人宣教師と出会ったというのです。彼女の通った高校の隣近くに宣教師の事務所が所在していました。やがてドーリス・バッロアーという婦人宣教師と出会い、イエス様の福音を宣教師から聞かされ、イエス様を彼女は信じ受け入れたことがそれによって分かりました。ところが、両親は宣教師と交際するのに猛反対でした。それにも関わらず、宣教師と交際するのをやめなかったために、とうとう彼女は家から勘当され追い出されてしまいます。しかし、宣教師がその身柄を引き受け世話をされたため、彼女は学校を卒業すると東京の神学校に入学しました。そこで在学中に芦田典介氏と出会い、やがて結婚されて、お二人で所沢市にて開拓伝道に従事されたのです。私が最初に足を踏み入れた教会がその教会でした。私の今は彼ら二人を抜きには考えられません。彼らが私に福音を語って下さったのです。イエス・キリストを私に根気よく紹介してくださったのです。その結果、私はイエス様を個人的に主と信じ、その結果、恵みにより永遠の命に預かることができたのです。感謝です。感謝に絶えません。天国でやがて再会するときに、尚子先生に心から御礼を言いたいと思っています。

III. 信仰の決断

この主イエス・キリストの言葉が語られるところ、信仰の告白が捧げられた場面では、人々の反応が、実に様々であったことを、私たちは今日この聖書箇所から教えられます。

残念なことに最初から信じない人、信じようとはしない人が沢山いました。そればかりではありません。

イエス様に接近し、関心を示し、信じて従っていたはずであるのに、イエス様ともう共に行かなくなってしまう人が沢山いました。ガリラヤ湖畔には、イエス様のなされた驚くばかりの奇跡をみた群衆が詰めかけていました。彼ら沢山の弟子たちの多くは、解散した後も、船でカペナウムにまで、熱心にイエス様を探し求めて来ていたことが分かります。彼らの多くは、イエス様の評判が広まり、上向き状態である限り詰め掛けました。イエス様によって自分たちの必要が満たされると考えたからでしょう。しかし、彼らはイエス様が十字架に向かおうとしているのを読み取りました。イエス様の教えと命令に耐え難くなり始めました。それゆえに理由をつけては、イエス様から離れて行こうとしていたのです。

悲しい現実はイエス様が将来の使徒として選ばれた12弟子の中から、裏切る者が出たことです。「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(70、71節)12人の弟子たちは、多くの弟子たちの中から、将来の使徒となるよう、イエス様が徹夜して祈り厳選された器でした。主に信頼され、期待された人物ばかりでした。「このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」なぜ裏切ったのか、その心境のすべは知る由もありません。

イギリスの神学者で説教家のバークレイには彼の残したこんな逸話があります。「最後の晩餐を描いた画家の恐ろしい話!それは偉大な絵でありそれを描くのに彼は何年もかかった。彼はキリストの顔を描くのに、モデルを探しに行き、非凡な美しさと純粋さを秘めた顔の若者を発見し、彼をイエスとして描いた。次第に絵は描かれていき、次から次へと弟子たちが描かれていった。いよいよユダのモデルが必要な日が来た。彼は、ユダの顔を最後に残しておいたのであった。彼は町の貧民窟や悪に汚れた部屋を探しまわった。ついに彼は、非常に堕落し、悪意に満ちた顔をした男を見つけ、ユダの顔のモデルにするために、連れてきた。描き終わると、その男は、画家に言った。『お前は確か、前に俺を描いたことがあったよ。』『そんなことはあるはずはない。』と画家は言った。『いや、ほんとなんだ。』とその男は続けた。『前にお前が俺を描いたときには、たしか、俺はキリストだったぜ。』」イエス様の語られる言葉に対する反応の一つに裏切りがあることは事実であり、これがまた現実なのです。

しかし感謝なことに、永遠の命の言葉を聞いて心から信じて決断を表明する人がいました。イエス様は弟子たちに「あなたがたも去ろうとするのか」と問われました。これは言外に「そうではないだろう」という思いが込められた問いではないでしょうか。「まさか、あなた達まで離れようと思っているのではあるまいね。」「そうではないだろう」と念を押されておられる。私たちはいつもこの問いの前に立たされているのです。しかしその時、ペテロは答えて言ったのです。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。」ペテロは、「イエス様、あなたと取り替えてもいいような、そんな人は誰もいませんよ」と言い放つことができたのです。

私たちは、かなり深刻な病気の場合には、診断のセカンド・オピニオンを別の医者にも求めるべきだと言われていませんか。私たちはどのお医者さんにも感謝しています。お世話になっております。しかし、医者であっても人間である以上、完全な医者はいないのです。別な医者の診断を仰ぐことも場合によっては必要です。私の母は膵臓癌で死にました。最初に診てもらった町医者の診断は十二指腸潰瘍でした。その診断に基づいて治療してもらいました。しかし、病状が悪化した時、総合病院で診てもらった結果、末期膵臓癌と診断されたのです。もう手遅れでした。このような場合、セカンド・オピニオンが必要であったと思うのです。

 しかし、魂の救いのためには、セカンド・オピニオンは必要ありません。必要ないのです。後に初代教会の代表となって活躍したペテロが、「麗しの門」で生まれながらの足なえの乞食を癒したことで、官憲に取り調べを受けた際に、彼はこう言って憚(はばか)りませんでした。「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4・12)私たちが救われるべき名、それはイエス・キリストなのです。他に救い主はいません。その他にセカンド・オピニオンを求める救い主はいないのです。

 ペテロはその確信をもって、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう」と答えたのです。勿論、私たちはその後のペテロの道行を知っております。彼が大祭司の中庭で、「お前は、あのイエスの仲間ではないか」と疑われたときに、「いいや、俺は仲間ではない。俺は知らない」と公然とイエス様を否認してしまったことを知っています。彼が三度も知らないと否認し、その時鶏が二度鳴き、イエス様と目線があった時、彼が悲しみの果てに泣き崩れてしまったことを知っています。そんなペテロに対して復活されたイエス様が、ガリラヤ湖畔で弟子たちと再会された際に、ペテロに三度、「あなたは私を愛するか」と問われ、彼との関係が憐れみによって回復されたことをも知っております。

 それにもかかわらず、私たちは、ペテロが「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。」と断言したのは、彼の心からのイエスに対する純粋な信仰の決断であったことを確信するのです。ペテロはイエスに召され、イエスに従い、イエスの言動に注目し、このお方こそ救い主であることに、一点の曇りもなく確信することができたのです。

 今日、これから私たちは主の晩餐に預かろうとしております。パンを食べ、盃を飲むことはキリストの十字架の信仰告白を意味するものです。キリストが罪の赦しのために身代わりとなり神の裁きを受けてくださったので、信じる私たちが救われるという告白です。私たちは改めてこの聖餐式にあって、自己吟味をすることにしようではありませんか。自分は、初めから信じていない者でしょうか。自分は、信じて従ってきたが都合が悪くなったのでイエス様から離れようとする背信者でしょうか。自分は、信じて主に信頼されていたのにユダのように裏切るものでしょうか。それとも、弱さを抱えつつも、純粋に心からイエスを愛し、イエスを信じ、イエスに従う決意を固めている信者なのでしょうか。

 主は言われました。「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」(37節)「父が与えて下さった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない。」(65節)今日、この聖餐式で、神様が自分を恵みによってイエス様に導いて下さったことを感謝しましょう。罪の赦しのためにイエス様が十字架に受難を耐えて下さったことを感謝しましょう。今日ここに改めて信仰の決断を新しくすることにさせていただこうではありませんか。