1126日礼拝説教(詳細)

「雲に乗り来る王」   黙示録1章4〜8節

ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、玉座の前におられる七つの霊から、また、真実な証人にして死者の中から最初に生まれた方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにあるように。

私たちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方に、私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

見よ、この方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者たちは。地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」

聖書は黙示録1章4〜8節をお読みします。今日、私たちはこの講壇に見事なクリスマス・ツリーが飾れるのを見て、クリスマスの近いことを実感させられますね。クリスマスは、とうの昔に日本でも習俗化し、信仰の有無に関係なく、どなたにも楽しく祝われる年中行事となっています。私たちの教会では来週からアドベントを迎え、四本の蝋燭にも順次点火され、12月24日にはクリスマス礼拝が予定されています。私たちは、誰でもアドベントとクリスマスの意味をもうすでに知っていますね。神の御子イエス・キリストの誕生を祝うことです。クリスマス行事として、10日にはキッズワイワイのクリスマス会を、17日には市岡裕子さんを招いてクリスマス・コンサートを開催しようとしております。すべての企画を通して、クリスマスを心から祝うと共に、クリスマスの意義が多くの人に伝わるように祈り備えることにしましょう。

しかし、アドベント・クリスマスにはもう一つの大切な目的意義があることを忘れるべきではありません。それは、イエス・キリストの再臨を待望することです。クリスマスがキリストの初臨を祝う祭りであれば、それと並行して、私たちはクリスマスをキリストの再臨を待望する機会とすることが慣わしなのです。今日拝読した聖書は「イエス・キリストの黙示録」です。黙示録と訳された原語アポカルプシスの意味は「覆いを取ること」です。ここで、イエス様が覆いを取り除いて明らかにされようとされるのは、それがご自身の再臨なのです。

聖書の一番最後となるこの黙示録の言葉で、「然り、私はすぐに来る」と主は語られました。然りとはその通り、確かにです。歴史の未来において最も確実な出来事、それはキリストの再臨なのです。ヨハネは、この黙示録の宛先となる7つの教会に祝福を祈る中で、1章4節に、この再臨される方の称号の一つを「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言い表しています。これは神様の永遠性を示す称号です。神様は過去・現在・未来に存在し、なおかつ活動されるお方であることを示すものなのです。ヨハネはこの黙示録を書き留めた理由を3節で一言「時が迫っているからである」と言います。この時とは、時は時でもカイロス、すなわち時計で計測できるような持続する時間ではなく、決定的な瞬間のことです。

I. かつておられた方

神様はその称号からすれば、「かつておられた方」ですから、神様が過去に決定的に、存在されたばかりか、確かに行動された瞬間があったということです。

  万物創造の時

第一に、それは万物の創造の瞬間です。聖書は開巻冒頭を「初めに神が天と地を創造された」と、何の前触れも説明もなく、唐突に開始していますね。私たちにとって見えるものも、見えないものも、すべて一切が存在するように、神様によって創造された最初の時があったことを聖書は教えます。光も闇も太陽も月も星も、野の獣も、空を飛ぶ鳥も、美しい花や野の草も、神様が最初に造られたのです。偶然の結果でもありません、ビッグバンに始まる進化の産物でもありません。全知全能の唯一の神様が、万物一切を存在に呼び出す決定的なカイロス、瞬間が過去に確かにあったのです。

  人類贖罪の時

私たちの過去において、神様がなされた第二のカイロス・決定的瞬間は、人類救済の贖罪の業です。神様のこの過去の第二の御業を祝う目的こそ、クリスマスなのです。あのルカ福音書の第二章には、野辺の羊飼いたちに天から御使たちが突然現れたとする美しいクリスマス物語が留められていますね。天の御使はこう驚く羊飼いらに告げました。

「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。」(ルカ2:11)万物が最初に神様によって創造された時、神の像に似せて造られたのが私たち人間でした。「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」(創世記1章27節)しかし、その最初の人アダムとエバが神に叛逆して、禁断の木の実を取って食べ、罪を犯したために、人間は神との関係から遮断され追放されてしまったのです。神様が過去に行動された決定的なカイロス瞬間とは、その罪によって堕落した人類救済のため、罪の赦しをもたらす、罪なき神の子イエスを人間の姿で遣わし、十字架に犠牲にすることでした。神の子イエス様を救い主、メシアとして遣わし、信じるものが救われるようにすることが、過去の歴史上の最大の神の働きです。「神はその独り子を賜うほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)それは、人類に対する神の愛の最大の御業です。

  個人的救いの時

そして今朝、三番目に私が敢えて取り上げる神の過去の決定的瞬間のみ業とは、それは個々人の救いの瞬間なのです。今月半ばの15日、朝のことメイルを見るとそこに、私の信仰の恩師・芦田典介氏から奥さんの訃報のお知らせがありました。そのメイルのタイトルは「天国に凱旋」でした。ご夫妻は80歳を過ぎ、米国のロスアンジェルスに住まわれ、人生の最晩年を生きておられましたが、61年寄り添った愛する奥様を天に送られたというのです。この芦田さんが21歳で、所沢市の外れで開拓伝道をされたその最初の実が、この私なのです。その時、私は5人兄弟の末っ子で、高校一年生でした。東京の新宿から、父が家を建て家族が引っ越したその年に、教会が開始されました。そこに何故か私は足を向けたのです。そこで語られた福音を信じて救われたのです。これは私個人にとって、「かつておられる方」である永遠の神様が、過去において決定的に働かれた、かけがえのない瞬間でした。私を導いた芦田氏自身も 16 歳の時、米国人のジャクリーン・フランシー宣教師により信仰告白に導かれた方でした。

フランシー宣教師は若き日に単身で中国に派遣されました。しかし、毛沢東による共産革命の結果、宣教師はすべて追放処分となり、その結果、フランシー宣教師は東京で宣教することになったのです。神はこのような摂理の中に、彼女を日本に遣わし彼を救い、更に彼を遣わして私を救われたのです。これこそ「かつておられた方」である神様の私にとっての過去の決定的な瞬間、カイロスでありました。

ここに今朝おられる皆さんも、神様が過去に決定的に働きかけられた瞬間があることでしょう。それが何時いかなる仕方でであったのか、私にはわかりませんが、神様が働きかけ行動された結果として、あなたもイエス様を信じて救いの恵に入れられたに違いないのです。なんと素晴らしい、なんと喜ばしいことでしょうか。主に感謝しましょう。主を賛美しようではありませんか。

II. やがて来られる方

そればかりではありません。この神の称号から明らかになるのは、神様が未来においても存在されるばかりか、活動なされる方でもあるということです。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」だからです。それこそがイエス・キリストの再臨なのです。乙女マリアに身ごもり生まれ、馬小屋の飼い葉桶に寝かされたイエス様は、やがて十字架に架けられ命を捨てられました。しかし、三日目に復活されるとイエス様は、40日間、弟子たちに現れ、オリーブ山から雲に包まれ昇天されました。その時、天を仰いで見ていた弟子たちに、天使がこう語ったのです。使徒1章11節です。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」そうです。天使が弟子たちに告げたように、昇天されたイエス様は再び見える形で来られるのです。神様が未来に為される最大の御業の決定的瞬間、それがキリストの再臨なのです。

  栄光臨在の再臨

それは第一に、キリストの栄光臨在の再臨であります。何故なら、ここ7節に「見よ、この方が雲に乗って来られる」と語られているからです。オリーブ山から雲に包まれ昇天されたイエス様は、雲に乗って来られる、あるいは雲と共に再臨されます。雲とは栄光と臨在の象徴です。イエス様は最初、馬小屋の飼い葉桶で生まれ、僕として人に仕え、十字架に命を犠牲にされました。しかし、復活して昇天され、天の父の右の座に着座された主イエスは、神の御子としての栄光を受けられ、再び来臨されるときには、栄光に満ち満ちた王の王、主の主として天から、上から光り輝き現れなさるのです。聖歌668番「夕べ雲やくる」の一節が思い起こされます。「夕べ雲や来る 空を見れば 主の來りたもう 日の偲ばる」夕暮れには雲間に太陽は沈みます。しかし、朝が来るのです。朝日が光り輝くのです。使徒パウロはローマ13章11節からこう語ります。「さらに、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚める時がすでに来ています。今や、私たちの救いが、初め信じた時よりも近づいているからです。夜は更け、昼が近づいた。」義の太陽が光輝く栄光の瞬間、それがキリストの再臨なのです。

  万人注視の再臨

その瞬間、すべての人がキリストに注目することになるでしょう。2000年前にイエス様が人間として生まれた際には、極々一部の人に注目されただけでした。それは数名の野辺の羊飼いたちでした。ラクダに乗りエルサレムにたどり着いた当方の博士たちだけでした。しかし、キリストが再臨される時には、万人が注目注視することになるのです。7節を見てください。「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」近代・現代の大きな特徴の一つは、情報が瞬時にして全世界で共有されることでしょう。世界の海洋という海洋に何十本もの海底ケーブルが張り巡らされています。広大な宇宙には、各国が打ち上げた通信衛星が数知れず巡回しています。光通信によって、電波によって、今や一つの情報は一瞬にして世界を駆け巡る時代なのです。その圧倒的なキリストの栄光と臨在の瞬間、それは誰も無視することのできない決定的な出来事となるに違いないのです。

  罪人悲嘆の再臨

それはまた罪人悲嘆の再臨となることでしょう。この7節でこうも語られているからです。

「ことに、彼を突き刺した者たちは。地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ。」何故ですか。それは自分の犯した罪過ちが、再臨において完全に暴露され、裁かれることになるからです。「彼を突き刺した者たち」とは、イエス様を十字架に磔にした者たちです。イエス様をピラトに引き渡したユダヤ人指導者です。罪なきイエス様に死刑判決を言い渡したローマ総督ポンテオ・ピラトです。イエス様を鞭打ち、十字架に磔けたローマの兵卒たちです。十字架上のイエス様を嘲弄・愚弄した群衆です。10月7日の安息日を狙ってガザのテロ組織ハマスがイスラエルを襲いかかりました。その残虐非道は目にあまるものがあります。イスラエルを支援する月刊誌オリーブの一節を紹介するとこう書いてありました。「ハマスはこの日の明け方、イスラエルへ 1 時間に5千発のロケット弾を発射。同時に2500人とも見られる武装ハマスが、ガザ地区からイスラエル南部地域に侵入し、イスラエル人たちを大虐殺し、220人を超える老若男女の市民を拉致していった。その殺戮は残虐を極めた。妊婦のお腹を切り裂いて胎児も殺し、ベビーベッドにいる赤ちゃんを焼き殺して斬首し、手足や首を切断した遺体が多数あった。」私たちと同じ人間がどうしてそんなことができるかと疑いたくなります。それに対してハマス殲滅を図るイスラエル軍の残虐非道も、今や喧々轟々、世界中の非難を浴びています。ガザ地区だけでも一万人以上が殺害され、5000人近くが何と子供達だと伝えられます。彼らもまた、キリストの再臨に際して嘆き悲しむことになるでしょう。そればかりではないのです。イエス様を十字架に磔たのは、すべての人間なのです。人間の罪がイエス様を十字架に掛けたのです。イエス様を信じないで無視してきたすべての人は、この日この時、嘆き悲嘆に暮れることになるでしょう。2千年前にイエス・キリストが来られたときは、人を罪から救うために来られましたが、再び来られる時は、罪人をさばくため、最後の審判のために来られるからです。すべての人がキリストの白き裁きの御座に出て、申し開きをしなければなりません。それは罪人悲嘆の再臨なのです。

  歓喜光栄の再臨

それとはまた全く反対に再臨は歓喜光栄の瞬間でもあります。黙示録19章をご覧ください。5節から読んで見ましょう。「また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、私たちの神をたたえよ。」また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も私たちの神をたたえよ。」私たちは喜び、大いに喜び神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は支度を整え輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは聖なる者たちの正しい行いである。」この花嫁とは誰のことでしょうか。そうです。キリストの花嫁、教会のことです。イエス様を主と信じ受け入れたクリスチャンたちの集会のことです。キリストの再臨は、花嫁が花婿に迎えられる婚礼のようなのです。私は牧師として何回、婚礼の司式を務めてきたことでしょうか。結婚式とはそれはそれは喜ばしい式典です。キリストの再臨は喜び歓喜の日なのです。ただイエス様を信じるだけで罪赦されて救われた人々には歓喜光栄の日となることでしょう。主は黙示録の最後22章20節で約束されました。「然り、私はすぐに来る。」花嫁である教会は言いましょう。「アーメン。主イエスよ、来りませ。」

III. 今現におられる方

そればかりではありません。「かつておられた方」そして「やがて来られる方」は、

「今おられる方」でもあります。時を超越される永遠の神様は、私たちの今生きる現在の時の決定的な瞬間において働いておられるのです。

  政治的権力において

ヨハネがこの黙示録を著した時代は、イエス様が昇天され、聖霊が降臨し教会が誕生してから、すでに60年以上が経過していました。ローマ帝国を統治していたのは第11代皇帝のドミティアヌスです。ヨハネはこの皇帝に捕らわれ、パトモスに島流しにされていました。それはクリスチャンに対する迫害の厳しい極めて困難な時代であったのです。ヨハネは、その迫害下にある抑圧された教会に対して、主はかつておられた方、やがて来られる方であるばかりか、今おられる方、今生きて働いておられる方でもある、と力強く激励したのです。では時代を異にする今を生きる私たちの時代はどうでしょうか。人類は歴史から学び進歩発展し、未来は薔薇色に輝いて眩いばかりに明るいのでしょうか。とんでもないことです。科学技術・文化の向上発展とは裏腹に、私たちの生きる現代世界は、異常なまでに緊張を孕み、何が起こるか不安定な要因を抱えて混沌としているのです。国連の安全保障理事会の5つの常任理事国の一つロシアが、隣国ウクライナに昨年2月に軍事行動を起こした異常な行動が、世界を驚かせました。その背景に、独裁体制を強化するプーチン大統領の野心があることは明らかです。独裁体制を強化するのはロシアだけではありません。隣国の中華人民共和国しかりで、習近平総書記が憲法を改正して、政治権力を独占し、三期目の独裁体制に入りました。

私たちは歴史から、第一次世界大戦が一つの小さな事件から拡大発展して世界を巻き込む戦争に突入したことを知っています。第二次世界大戦もドイツ軍がポーランドに軍事侵攻をしたことがきっかけで瞬く間に世界戦争に突入してしまいました。ウクライナとロシアの長引く紛争も世界戦争の火種になりかねません。中東パレスチナのハマスとイスラエルの紛争も各国を巻き込む戦争に拡大する導火線になるかもしれないと危惧する専門家がいます。

しかし聖書は、私たちに永遠の時間を超越する神は、「今おられる方」である、今現在私たちの生きる時代に生きて働き活動しておられる方であることを明らかにするのです。ここ5節では、イエス様の称号が「地上の王たちの支配者」と言われています。ここで「王たち」とは、明らかに国の政治権力者たちのことです。権力・権威とは人々を無意識のうちに従わせる人格的な力です。マックス・ウエーバーは、政治的権威には、伝統的権威・カリスマ的権威・合法的権威があると研究分析しました。親や親族の権威を世襲で引き継ぐ政治権力者がいます。中には個人的な賜物・カリスマで人を惹きつけ民衆の支持を受けて権力の座にのし上がる政治家もいます。多くは民主的に選挙法に従い選挙によって立つ政治指導者でしょう。しかし、聖書は、それらすべての権威は、それがどのような過程を経てその権力を得たにせよ、神によらない権威は無いと教えるのです。政治的権威がなければ、無政府状態に陥り、混乱するばかりです。神は、最低限の秩序を得させるために、政治的権威をある特定の人が獲得して、国を統治することを許容されるのです。しかし、覚えてください。イエス様がそれらすべての「地上の王たちの支配者」なのです。復活されたイエス様が弟子たちにこう明言されました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)イエス様は国を興し、国を廃する方です。イエス様が王を立て、王を退ける方なのです。イエス様こそ王の王、主の主なのです。私たちはこの混迷する現代世界を、しっかりとこの真理を見据え、信仰の目をもって注視していなければならないのです。

  個人的生活において

この私たちのイエス様、今おられ方は、現在を生きる個々人の生活においても、それぞれの決定的瞬間に働いておられる方です。そう確信していた使徒パウロは、アテネの説教でこう語っていました。「実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。」(使徒行伝17:27、28)主ご自身も約束してこう言われました。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) イエス様は今います方です。私たちがどんな状況に置かれたとしても、一人一人と共におられて活動される方です。

今日、この礼拝に来会されておられるM姉とはウイーン時代に教会で知り合った姉妹です。今、毎週木曜日に聖書深読セルで使用しているテキストは、このM姉が私に翻訳を勧めてくださった方であります。このテキストは、ウイーン市内のいくつかの英語礼拝教会の婦人たちが、聖書研究用に使用していた英語教材なのです。そのテキストのタイトルは「Walking with Christ」です。訳せば「キリストと共に歩むこと」となります。イエス様は今現在を生きる私たちと共に歩み生活してくださる方です。キリストは今現在、信じる私たち一人一人の生活の現場において、あらゆる側面において、具体的に働いてくださるのです。あなたの必要は何でしょうか。あなたの役割は何でしょうか。主を呼び求め、主と共に歩いてください。  

  教会生活において

そして、更に今おられる方、イエス様は私たちの教会生活、教会活動のあらゆる面において、生きて働かれる方です。教会はキリストの体であり、キリストが頭であります。イエス・キリストは、肢体とされた私たち一人一人を生かし用いようとしておられます。私は八年前に赴任して非常に感銘しているのは、教会員の皆さんが、誰から言われるともなく、自主的に奉仕の業に粛々と当たっておられる姿です。これから主がこの教会を通して何をなさろうとしておられるのか注目していましょう。主がなされようとされる決定的な瞬間に私たちも対処できるよう、そのために聖書を読んでいましょう。目を覚まして祈ることにしましょう。

ヨハネは5節後半から頌栄を唱えていますので、これを私たちの頌栄として閉じることにしましょう。「私たちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方に、私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」 

1119日礼拝説教(詳細)

「共に働き万事益」  出エジプト記2章1〜10節

レビの家のある男が、レビの娘をめとった。女は身ごもり、男の子を産んだ。

その子を見ると、愛らしかったので、三か月間隠しておいた。しかし、もはやその子を隠しきれなくなったので、その子のためにパピルスの籠を用意し、アスファルトと樹脂で防水し、その中に赤子を寝かせてナイルのほとりの水草の茂みに置いた。

その子の姉が遠くから、その子の身に何が起こるかうかがっていると、ファラオの娘が下りて来て、川で水浴びを始めた。侍女たちは川の岸を歩いていた。ファラオの娘が水草の茂みでその籠を見つけ、女奴隷をやって取って来させた。

開けてみると、赤子がいた。それは男の子で、泣いていた。彼女は不憫に思って、「この子はヘブライ人の子です」と言った。

その時、その子の姉がファラオの娘に申し出た。「私が行って、あなたのために、この子に乳を飲ませる乳母をヘブライ人の中から呼んで参りましょうか。」するとファラオの娘は、「行って来なさい」と言った。そこで、少女は行って、その赤子の母親を呼んで来た。

ファラオの娘は彼女に言った。「この赤子を連れて行って、私のために乳を飲ませなさい。私が手当てを払います。」そこで、母親は赤子を引き取り、乳を飲ませた。

その子が大きくなると、母親はファラオの娘のところに連れて行った。その子はファラオの娘の息子となった。ファラオの娘はその子の名をモーセと名付けて、「私が彼を水から引き出したからです」と言った。

聖書は出エジプト記2章1〜10節をお読みします。早いもので今年もあと10日もすればクリスマスの季節です。10日にはキッズワイワイのクリスマス会、17日には市川さんをゲストにクリスマスコンサートが予定されます。クリスマスコンサートのチラシは一万枚配布予定で、沢山の方々が来会されるようお祈りご案内ください。キッズワイワイのクリスマス会にはスタッフの皆さんが総出で対応されるようで、賛美、クイズ、手品にゲーム、ビデオにお話しと盛りだくさんのプログラムが準備されています。数年前のクリスマス会には50名以上の参加がありましたが、大いなる盛り上がりが期待されます。未来ある子供達の祝福となるよう祈ることにしましょう。しかし、それとはまた対照的に、私たちは報道されるパレスチナ・ガザ地区の子供達の悲惨な状況には心が痛みますね。双方の死者数はすでに一万二千人を超え、子供だけでも四千人を数えると言われているのです。何とも痛ましい光景です。そのパレスチナ・ガザと重なって見えてくるのが、実は今日の聖書箇所ではないでしょうか。

これは、モーセの誕生物語なのですが、その背景にあるのは、何とも悲惨極まりない残忍な幼児殺害であります。パレスチナの厳しい飢饉を逃れてエジプトに寄留することになったヤコブの家族は、当初の数は70数名と極僅かでした。しかし逗留年数が経つにつれ、人数が瞬く間に増大、遂にはエジプト人たちを脅かすまでに増え広がってしまったのです。脅威となった増加著しいイスラエル人を弱体化させようと、エジプト王ファラオは、過酷な重労働で苦しめます。しかし皮肉なことに苦しめれば苦しめるほど増えてしまう。そこで、人口抑制策にと助産婦に生まれる男児は皆殺してしまえ、と命じたというのです。そればかりではない。それでも生きている男児は全てナイル川に投げ込み溺死させよと命じたのです。今日読んだ2章1〜10節の特徴の一つは、読んですぐに分かることですが、ここには主なる神が全く表(おもて)にあらわれていないことです。一言で言えば神不在の状況だといっても過言ではありません。神不在の状況での残酷な幼児殺害と言えば、文字通り絶望的状況と言わざるを得ません。しかし、聖書を読む者は、信仰の目で見えないものを見なければなりません。信仰を働かせるなら、見えてくるものがあるのです。それは、神様の救いの約束であり、救いの計画であり、救いの実現成就なのです。

.救いの約束

残忍なエジプト王ファラオの幼児殺害政策の下にあって、ある夫婦に男児が出産しました。そして、この短い物語を読む限りでは、この男児が殺されなかったばかりか助かり、救われ、養い育てられ、立派に成長したことを、私たちは知っているのです。殺害されなかったのは、ヘブライ人の助産婦がファラオに抵抗したからです。これは1章の後半の記事で分かることです。産みの母親が命令に抵抗して赤ちゃんをかくまったからです。ナイルに流しはしたけれどもファラオの娘がこれを助けているからです。では、これはたまたま偶然が重なり合って生じた出来事だったのでしょうか。そうではありません。これは神の救いの約束の結果なのです。

私たちは創世記15章を見るときに、そこに、主なる神様がアブラハムに対して、その数百年後に、アブラハムの子孫が被るであろう危難に際して、神様がこれを救うことを約束されていたことを知るのです。15章の13、14節を読んでみましょう。「主はアブラムに言われた。「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。」このようなことを突然語られたからといって、果たしてその当座のアブラハムにどれだけのことが分かったというのでしょうか。これは、400年後のイスラエル民族のエジプト奴隷からの解放の約束のことです。400年と口で軽く言っても、大変な歳月の経過です。日本の歴史で言えば、400年前と言えば、豊臣秀吉や徳川家康の時代です。彼らに現代のことを語ったとしてもピンとくるはずもないでしょう。ところが、神はアブラハムに対して、後に彼の裔(すえ)から生まれる民は、やがて奴隷として苦しめられるようになるが、神様が救われるので、エジプトから解放されて出てくると約束されておられたのです。そして、この出エジプト記2章で、危うく殺されかけたのに救われたという一人の男児とは、それが、あのイスラエルをエジプトの400年の奴隷生活から解放するのに用いられることになる、あの指導者モーセであったのです。神様は幼児モーセを救い、このモーセを用いてイスラエルの民を奴隷から解放なさると、アブラハムに対してすでに語られ、すでに約束されていたのです。

.救いの計画

この約束された方、主なる神様は真実なお方です。真実であるとは約束したことを必ず実行実現することです。主は、どのように約束を計画実行されたのでしょうか。先ほど申しましたように、私たちは、この2章のモーセの誕生物語には、救いを約束されたとされる、神の姿を見ることはできません。主とも神とも文字はなく、神が誰かに語ったとか一言もありません。しかし、私たちはここに登場する女性たち、取り分けエジプト王ファラオの娘によって、神がどのように救いを計画実行されたかを読み取ることができるのです。言い方を変えて言えば、ファラオの王女がモーセにしたことを、神はモーセを通してイスラエルのためになされようとされたのです。

  降りてこられたモーセ

ここで男の子を産んだとされるレビの娘とは、6章のアロンとモーセの系図を参照すると、どうやら、レビの娘のヨケベドだったことが分かります。夫はレビの息子のケハトに生まれたアムラムでしたから、アムラムは叔母に当たるヨケベドと結婚したことになります。母ヨケベドは、夫のアムラムとの間に男の子を産むと、あまりにも愛らしかったので、法律に逆らい、三ヶ月密かに隠していました。しかし、男の子でしかも三ヶ月も過ぎれば泣き声も大きくなり、とても隠しきれなくなったので、それでも何とか生かそうと、パピルスの籠を用意して寝かせ、ナイル川の水草の茂みに誰かが見つけてくれるかもしれないと置いてきました。するとそこに、ファラオの王女がナイル川のほとりに降りてきて水浴びをしたのです。ラメセス2世はナイル川のデルタ地帯に沢山の狩猟小屋を所持して狩を楽しんでいたそうですから、王女は自由に父の小屋を使うことができたのでしょう。神聖なナイル川で水浴することは、身を清めるし長寿の秘訣だとも信じられていたのですから、当然の日課であったのでしょう。ところがこの何気ない王女の行為が、神の救いの計画を浮き彫りにするのです。王女がナイル川に降りてきてモーセに近づいたように、神様がイスラエルの民を救うために天から降りてこられました。3章8節を見るとこうあります。主がこう言われています。「それで、私は降って行って、私の民をエジプトの手から救い出す」神様は見ることができません。しかし、神様はイスラエルを奴隷から解放するために、直接に天から降りてこられたのです。

  泣き声聞かれたモーセ

水浴びをしようとナイル川に降りた王女が見つけたのは、水草の間に浮かぶ瀝青(アスファルト、コールタール)と樹脂で防水処理を施した籠(かご)でした。侍女に取ってこさせて開けた籠の中から聞こえて来たのは、男の子の元気な泣き声でした。ファラオの王女がしたように、主もまた、イスラエルになされました。それは、王女が赤子のモーセの激しく泣きじゃくる声を聞いたように、主なる神がイスラエルの民の苦悩の叫びに耳を傾けられたということです。2章23、24節を見てください。「それから長い年月がたち、エジプトの王は死んだが、イスラエルの人々は重い苦役にあえぎ、叫んでいた。重い苦役から助けを求める彼らの叫び声は神のもとに届いた。神はその呻きを耳にし、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」とあるではありませんか。3章の7節では主ご自身がこうも言われます。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。」神の救いの計画がここにあります。神は降りて来られ、丹念に民の苦しみの叫びを聞き、痛みを知られたのです。

③不憫に思われたモーセ

生後三ヶ月の幼い男の子が籠の中に寝かされ泣きじゃくるのを聞いた王女は、どうしたでしょうか。「彼女は不憫に思った」のです。その赤子に巻きつけている縫いぐるみの模様から直ぐに奴隷のヘブライ人だと分かったのでしょう。「この子はヘブライ人です」と言っています。しかし、王女はこの籠の中に寝かされた赤子に嫌悪感を抱いて退けるどころか、彼女は不憫に思ったというのです。憐れに思った。かわいそうに思ったのです。このファラオの王女が不憫に思ったように、主もまた、イスラエルを不憫に思われました。主は「叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った」と言われるからです。2章25節には「神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」と語られています。神は真実な方であるばかりか、憐れみと恵に富む方なのです。

④引き出されたモーセ

その時でした。モーセの姉が王女に咄嗟に申し出、乳母の紹介を提案しました。モーセの姉とはミリアムのことでしょう。モーセがまだ三ヶ月なのに、かなりの年数の少女のように見られるミリアムは、異母兄姉ではないかと思われます。その申し出の結果、事態は意外な展開を見せ、ミリアムはモーセの母親を紹介することとなり、王女に雇われた母親は乳母役を務めることになります。10節の最後を見ると、王女がこう言ったとされます。「ファラオの娘はその子の名をモーセと名付けて『私が彼を水から引き出したからです』と言った。」これはヘブライ語の語呂合わせですね。ヘブライ語で引き出すは「マーシャ」で、ナイルの水から引き出したから、この子の名前はモーセだと言うのです。ここで再び言うことができます。エジプトの王女がモーセにしたことを神はモーセを通してイスラエルになされたと。やがて民の指導者となったモーセが、それから80年後にしたこと、それは、イスラエルの民200万を率いて、エジプトとの境の航海を渡らせ、エジプトの奴隷生活から引き出したことでした。王女がモーセにしたことを、神はイスラエルになさったのです。

  養われたモーセ

そればかりではありません。エジプト王女がモーセを引き取り養い育てたように、神はイスラエルに同じようになされました。モーセは、王女に養子とされ、宮廷で養われ、教育を受け、優遇されました。出エジプト記3章8節をご覧ください。「私は降って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、」救い出すばかりではなく「その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地に導き上る」とも約束されました。主は王女がモーセにしたことを、イスラエルにもなされました。イスラエルは神によって約束の地に導き入れられたのです。真実な神はアブラハムに約束されたその通りに、イスラエルに救いの恵を与えられました。

.救いの適用

今日、このモーセの誕生、モーセの救い、モーセによるイスラエルの救いの出来事を通して、私たちは何を悟るべきなのでしょう。

  罪からの救い

それは、王女がモーセを救ったように、神がモーセを通してイスラエルを救われ、モーセを通してイスラエルを救われたように、神がイエス・キリストにより、すべての人を罪から救われることです。モーセによるイスラエルのエジプトからの奴隷解放は、イエス・キリストによる罪の奴隷からの解放の雛形です。神はイスラエルという一民族になされたことを、全世界になされるのです。

モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出す決定的な業は、子羊を屠(ほふ)り血を絞り出し、その血をヒソプの束(たば)に浸し、イスラエル人たちの家の鴨居(かもい)と柱に塗りつけたことでした。其の晩のことでした。エジプト全土を死の天使がすべての家を行き巡り、鴨居と柱に羊の血の塗られていない家の長男を全て殺してしまいました。神から遣わされた死をもたらす天使たちは、羊の赤く塗られた家の前は通り過ぎ、その家の中の子供達は安全でした。イスラエルの人々が、それから毎年、毎年、繰り返し実行している祭りこそ過越の祭りです。それは、この時、神様がなされた子羊の血による不思議な奇跡の業を記念するためです。そして、この過越の祭りで祝いに屠られ、注ぎ出される子羊の血こそ、イエス・キリストの十字架の流された血の雛形なのです。人類の犯した罪過ちの赦しのために、神の御子イエス様が十字架で血を流すことを預言しているイザヤ53章が、5節からこう預言しています。

「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。私たちは皆、羊の群れのようにさまよいそれぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開かなかった。」

赤子のモーセは、王女によってナイルの水から引き出されました。そして、イスラエルの民は、モーセによってエジプトの奴隷生活から引き出されました。今や、私たちはイエス・キリストによって罪の奴隷生活から引き出され、解放されているのです。

私は15日の朝のことです、メイルでアメリカ在住の私を救いに導いてくれた元牧師の芦田典介氏から、その奥さんが6日に亡くなられた旨知らせてくださいました。私が高校一年生の時、牧師であった彼も今や83歳です。昨日二度目の通信で、奥さんを亡くしたご自分の現況を知らせてくださり、彼が今や毎日、人工透析に明け暮れていることが分かりました。そんな高齢に達して病弱な彼が次のように証ししている文章の一部を是非、聞いてください。

『私も「動けない、透析で拘束されている」と言ったような自分勝手な言い訳をしてきましたが、「いやいや 召されるまでは Takako のように神に忠実にお仕えしたい」とここにきて真剣に祈り始めました。Takako が救いに導かれた奇跡的経緯を思い返し、私も母の死をきっかけに救いに導かれた経緯を思い返し、そして出会いから結婚し、61 年間波乱万丈の生活でしたが、神は細部に至るまで哀れみに満ちたご計画で我々をお導きくださいました。アメリカに来てからも神は次から次へと不思議と奇跡をもって我々を助けてくださいました。私の父も救われましたし、Takako 両親も救われました。Takako の姉も救われました。神は我々が母の胎に宿った時から既にご計画をお持ちでした。そして Takako の召天を目の前にして「神の完全なご計画」が全うされたと主の聖名を崇め続けています。神は全能にして完璧、決してやりそこなうことのないお方です。Takako は病気などしたことなく、入院は出産の時だけでしたが、人生で初めて先月 3 日と今月 2 日入院しましたが、みとった医者や看護師が感心するくらい安らかに、神は彼女を凱旋させてくださいました。』イエス様を信じて罪から救われるとは素晴らしいことです。たとえ自分の長年寄り添った配偶者に死に別れても、「安らかに神は彼女を凱旋させてくださいました。」と言い切ることができるのですから。

  共に働く

もう一つここから悟るべきことは、この世にあって人々の命を守るために、我々も神と共に働くべきことです。この出エジプト記2章に見えてくるのは女性たちばかりです。1章の後半から数えれば五人の女性たちが浮かび上がるでしょう。最初の人はヘブライ人の助産婦のシフラ、そしてプアです。三番目はレビ人の女、モーセを産む母ヨケベデ、そしてモーセの姉のミリアムに、ファラオの娘の王女です。これらの女性たちに共通するのは、人の命の大切さを心から尊び、命を守るために、残忍な王の命令と政策に抵抗し、勇気ある行動を惜しまなかったことです。ファラオは助産婦たちに男の子なら出産台で殺せと命じたのに、彼女たちは命じた通りにせず、生かしておきました。そして、呼びつけられると「彼女たちは丈夫で、私たちが行く前に産んでしまうのです。」と弁明しているのです。母親は夫と相談したかは分かりません。しかし彼女も赤子をかくまう。隠しきれないとナイル川にそっと置いてくる!姉のミリアムはどうなるか見届け、王女が現れるとさっと前に出て、乳母の提案をしている。意外なのは王女の態度でしょう。彼女は残忍な父親の意向に逆らい、奴隷の赤子を貰い受け、養いそだてる決意を表明しているのです。

人間に与えられた命は神の創造の賜物です。命を造り、命を与えられる神様ご自身が命を尊ばれるお方なのです。この人間の命を守ることに進んで参加協力する人は、神の同労者なのです。あの五人の女たちが、それぞれ自分の立場で精一杯、幼児モーセの命の保全に協力した結果、モーセは命を救われ、助かった結果、イスラエルの民の解放の指導者となれたのです。ローマ8章28節を思い起こしましょう。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となることを、私たちは知っています。」

私たちの肉の目で見る限りは、この世に神は不在であるかのように思われます。そして、これからこの世界は一体どうなるのだろうかと案じられもするものでしょう。しかし、信仰の目を開いて世界を見ることにしましょう。天地を創造され、贖いの救いの業を十字架に成し遂げられた神様は生きて働いておられるのです。そして、神様と共に働こうとする人を神は求めておられるのです。あの過酷なモーセの時代に、勇気ある献身的な五人の女性たちが用いられたように、神はあなたを今日用いたいと望まれます。命が軽視されることが目につくこの時代に、目を覚まして祈り、命の救出のために、用いられるように献身しようではありませんか。

11月12日礼拝説教(詳細)

「祝福の基となれ」  創世記12章1〜9節

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、祝福しあなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福しあなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族はあなたによって祝福される。」

アブラムは主が告げられたとおりに出かけて行った。ロトも一緒に行った。

アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライと甥のロトを連れ、蓄えた財産とハランで加えた人々を伴い、カナンの地に向けて出発し、カナンの地に入った。アブラムはその地を通って、シェケムという所、モレの樫の木まで来た。その頃、その地にはカナン人が住んでいた。

主はアブラムに現れて言われた。「私はあなたの子孫にこの地を与える。」

アブラムは、自分に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。それからベテルの東の山地へと移り、そこに天幕を張った。西にベテル、東にアイがあった。彼はそこに主のための祭壇を築き、主の名を呼んだ。アブラムはさらに旅を続け、ネゲブへと移って行った

創世記12章1〜9節をお読みしましょう。このメッセージを準備する中で、私の内に込み上げてくる一つの賛美がありました。それは「God bless you」です。その歌詞はこうです。「God bless you 神のみ恵みが 豊かにあなたの上に 注がれますように あなたの心と体と すべての営みが 守られ支えられ 喜び溢れますように 私は祈ります」そして最後まで「God bless you」を 4 回も繰り返して歌うのです。喜びに満ちた本当に素晴らしい賛美です。では「神様の祝福があなたにありますように祈ります」と祈れるその根拠は何処にあるでしょうか。そうです。実は今日の聖書箇所にあるのです。

I. 祝福の賜物

この創世記12章は、神様がアブラハムを祝福されたと、非常に明確に証言しています。 ①祝福の約束

神はアブラハムに「私はあなたを祝福する」と言われました。神はアブラハムに「あなたを祝福しあなたの名を大いなるものとし、あなたは祝福の基となる」と約束されました。神はアブラハムに「あなたを祝福する者を祝福する」と誓われました。神はアブラハムに「すべての民族があなたによって祝福される」と予見されました。この短い僅か1〜3節の間に、祝福が何と 5 回も繰り返されているのです。祝福とは、神が愛の顧みを与え、恵みを授けることです。それゆえに、神の祝福は必ず相手にある変化をもたらすものです。それが数量的に増えることであったり、力が与えられることであったり、必要なものが備えられること、生きる使命や任務が与えられること、清められることなどなど、数えきれない変化をもたらすものなのです。

先週の創世記3章からのメッセージで、私がお話ししたことは、人間が神様の創造によって存在に呼び出されたこと、それにも関わらず、禁断の実を取って食べ、してはならない罪を犯したために、神の審判を受け、結果として、人の住む世界は呪われてしまったということでした。呪いとは、呪われたものに、それが誰であれ何であれ、何かしら悪いことが起こることです。最初の人アダム以来、人は誰しもが、恥と恐れと不安と苦しみの中を生き、最後には死ななければならないようになってしまいました。ところが、そのような呪われた世界が、アブラハムによって祝福が呪いに取って変わるようになる、そう約束されているのです。

②祝福の資格 

それでは、呪われた世界を祝福に変える、そんなとてつもない約束を神様から与えられたといわれるアブラハムは、それに値するような特別な人間だったのでしょうか。聖書を見る限りそれが全くそうではないのです。

第一にアブラハムは元々、ヨシュア24章2節によれば、偶像崇拝者の一人だったことが分かってくるのです。指導者ヨシュアの語った話しを聞いてください。「イスラエルの神、主はこう言われた。『あなたがたの先祖は、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでいた。アブラハムとナホル、その父テラは他の神々に仕えていた。しかし、私はあなたがたの先祖アブラハムをユーフラテス川の向こうから連れ出して、カナンの全土を歩ませ、彼の子孫を増し加えた。」このように神様が語られたとヨシュはそう証言しているのです。アブラハムはおよそ4000年前、ユーフラテス河口のウルに生まれました。ウルは当時、月の神ナンナル崇拝の中心地でした。アブラハムは壮麗な神殿に月神ナンナルを家族総出で拝む偶像崇拝者だったに違いないのです。

それだけではありません。アブラハムが何か取り分け立派な働きをしたとか、目立った良い行いをしたとか、殊更に言われることはほとんどないのです。聖書を読むと、どちらかといえば、大小様々な失敗をしでかしたことが目につくのです。飢饉の時、エジプトに避難した際には、卑劣にも王の前で安全を確保しようと、妻サラを妹だと偽って失敗しています。神が子供を授けると約束されておられたのにもかかわらず、アブラハムは、待ちきれない妻サラの要求に負けて、奴隷女のハガルによって世継ぎを作ろうと小細工し失敗してしまいました。そして12章の前の11章を見てください。アブラハムとサラに未来がなかったことが分かります。その30節を見ると小さく「サライは不妊で、子供がなかった。」と書いてあります。アブラハムの家系は、後継がいません。ですから彼ら限りで家系は絶たれようとしていたのです。彼らには希望がありません。

アブラハムについてこれだけ考えただけでも、人間的には、彼が神様に選ばれる優れた根拠があったとはとても思えないのです。では何故、神様は敢えてアブラハムを選び、祝福を与えるために呼び出されたのでしょう。それはまさにだからこそ、アブラハムを選ばれたのだということに尽きます。それは真の神が、神として完全に啓示されるためであったのです。アブラハムが月の神ナンナルの偶像崇拝者だったからこそ、万物の創造者との比較にならない違いが分かる。アブラハムが立派な人格者でなかったからこそ、全てが神の恵みの業であることが浮き彫りにされる。彼の妻が不妊であったからこそ、神の全能の力が鮮明になる。光は闇の中に輝く。そのためであったに違いないのです。

③祝福の波及

そして、アブラハムに与えられた祝福が、実に私たちに対する祝福でもある根拠が、この3節のアブラハムへの祝福の言葉に込められていることを覚えておきましょう。主がアブラハムにこう言われておられるからなのです。「地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される。」主は、この時、アブラハムよ。お前によって、地球上の歴史上のすべての氏族が祝福されることになるのだ、と語られたのです。そのすべての氏族とはイスラエルの氏族ではありません。異邦人のことであり、そこには日本人である我々も含まれていることは間違いないのです。どうして、アブラハムによって異邦人である日本人の我々も神の祝福に預かることができるのでしょう。それはその後 2000年後に、アブラハムの末から生まれるであろう救い主、御子イエス・キリストによるのです。神はアブラハムから神の民を起こし、その神の民イスラエルからメシア、救い主を送り、人類を罪から贖う救いの計画を備えておられたのです。この救い主、御子イエス様が十字架に罪の赦しのため、犠牲の死を遂げ、復活されたことを信じる者は、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐものとされるのです。この3節の約束にはそのような計画が込められていたのです。ここで、ガラテヤ3章6節から少し読んでみることにしましょう。「それは、『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』と言われているとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子孫であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、『すべての異邦人があなたによって祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰による人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されるのです。」これはあの創世記12章3節の引用に間違いないですね。この3節はアブラハムに対して神様が福音を予告した言葉であると解説されているのです。その先をもう少し読み進んでおきましょう。13節からです。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木に掛けられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした。」アブラハムの裔である救い主イエス様が十字架に、私たちの呪いを引き受けて呪われたのです。それゆえに、イエス様を信じる私たちに、アブラハムの祝福が及ぶと言われるのです。

だいぶ以前のことですが、評判になった信仰書に「ヤベツの祈り」がありました。読まれた方は覚えておられることでしょう。このヤベツという人物は、旧約の歴代誌上4章に登場する人物ですが、1章からずーと家系図が記され、カタカナの名前が列挙される流れで、うっかりすると見落とされてしまうような人名です。4章9〜10節にほんの僅か登場するのですが、このヤベツが非常に素晴らしい祈りを捧げたのです。「ヤベツがイスラエルの神に『どうか私を祝福して、私の領土を広げ、御手が私と共にあって災いを遠ざけ、私が苦しむことのないようにしてください』と呼びかけると、神は彼の求めをかなえられた。」ヤベツが神に祝福を嘆願すると、神がこの祈りに答え、求めをかなえられたと証言しているのです。ここにヤベツの名前の意味が説明されていますね。「ヤベツはほかの兄弟よりも重んじられていた。母は『私が苦しみの中で産んだから』と言って、彼の名をヤベツと呼んだが、」ということは、ヤベツというヘブライ名の意味は痛み、悲しみ、苦しみということです。こんな名前を自分の子に日本でつける親はいないでしょう。彼の母は余程辛い苦しい悲しい経験の中で子供を産み落としたのでしょう。しかし、そんな暗い背景を負わされたヤベツは信仰により恵みにより、アブラハムの祝福に預かることができたのです。

今日、イエス様を救い主として信じられるのであれば、あなたもアブラハムの息子、アブラハムの娘です。イエス様の御名によって祈るなら、天の神様はあなたの必要とする祝福を必ずお与えになるに違いありません。

II. 祝福の基

このアブラハムへの祝福の語りかけに先駆け主が、「私が示す地に行きなさい。」とも命じておられることに注目しましょう。この時、主はアブラハムに「私が与える地に行きなさい。」とは命じられず、「示す地に行きなさい」と語られました。勿論、アブラハムが約束の地に来た時点で、その先の7節で、「私はあなたの子孫にこの地を与える」と約束されていることを知っています。そして、この約束が、400年以上も後で、イスラエルの民がモーセによってエジプトの奴隷から解放されてから実現したことも私たちは知っております。しかし、ここで、アブラハムに「与える地」とは言わず「示す地」と語られたことには深い意味が込められていたのではないでしょうか。それは、アブラハムが選ばれ召し出されて遣わされていくのは、土地を得させることが主たる目的ではなく、彼に大切な使命を与えるためであったということなのです。ヘブル11章でも8節に、「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。」と書かれています。少しおかしくないでしょうか。旅行に出かけるというのに、いく先も決まらず兎に角、当てずっぽうに出かける、そんなこと普通はしません。ということは、旅に出ること自体に目的があり、その神様がアブラハムに与えようとされた目的とは、2節のこの一言「あなたは祝福の基となる」これに尽きるものなのです。この私たちの手にする聖書の新しい訳では未来形で訳されていますが、むしろ、これは命令形であって「あなたは祝福の基となれ」と訳されるべきであります。このヘブライ語で祝福と訳されるバラハは祝福とも祝福の基、あるいは祝福の源とも訳される言葉です。英訳を見ると「Be a blessing」とされ、「一つの祝福となれ!」と命令形です。この祝福を受けたアブラハムの旅立ちの主たる目的は、土地取得のためではないのです。ここにアブラハムから生まれる神の民イスラエルが担うべき課題を示すことにあったのです。それは祝福の基となることです。そこから祝福が流れ出す源泉となることです。

今現在、まさに一カ月ほど前から深刻な問題として浮上してきたのがイスラエルの土地取得問題ではないですか。1900年間、国を失い世界中を流浪していたイスラエルの民が、1948年に国連決議を経て、突如としてパレスチナに土地を得て建国されました。先月10月7日のこと、ガザ地区の武装組織ハマスが、イスラエル領内に突如として侵入し、千人以上を殺害、250人を人質にしたことにより、イスラエルとの間に熾烈な戦争状態が勃発してしまいました。イスラエルは神が与えると約束された自分たちの土地だとし、パレスチナ人はとんでもない先祖伝来の自分たちの土地だと主張します。そこに妥協点はありません。それは、イスラエルの土地の取得を巡る深刻な意見の違いの結果です。この現状を見る限りでは、神様がアブラハムに命じられた使命が果たされているとは到底思えません。神様はアブラハムとその裔であるイスラエルに「祝福の基となる」ことを課題として与えられたからです。私たちはイスラエルの4000年の歴史を短時間で単純に語ることは到底できません。しかし、様々な研究から分かってくること、それはイスラエルが、これまでに世界中の国々に祝福となってきた事実があるということです。イスラエルは祖国を失い、世界中に離散している状態を私たちはディアスポラと呼びます。スポラとは種を意味し、土地にまかれた種のように、世界中に離散し、祝福となってきたと言われるのです。しかし、時に迫害され、憎まれ、ゲットーに押し込まれ、ホロコストで大量虐殺される悲惨な経験もしてきました。 非常に不思議な民族であることに間違いありません。

このような現在のパレスチナの深刻なイスラエル問題を見据えつつ、ここに、イエス様を信じるクリスチャンである私たちに対するメッセージを受け止める必要があります。それは、イエス様を信じる信仰のゆえに、私たちはアブラハムの子とされ、アブラハムの祝福に預かるばかりではなく、担うべき与えられた使命課題があるということです。それは、クリスチャンは神様に祝福され、尚且つ祝福の基となることが期待されるということなのです。祝福の基、祝福の源、それは祝福されたあなたが、その置かれた場所で、あなたの周囲の人々に祝福が豊かに及んでいくということです。あなたが家庭にいるのであれば、家庭が祝福されることです。あなたがたが学校にいるのであれば、学校の生徒たちが祝福されることです。会社然り、スポーツクラブ然り、あなたから祝福が川の流れのように注ぎ出されるということなのです。何か立派な行いをしたからできるとか、素晴らしい人格者で品行方正であるからできるとか、力強い証をしたからできるということではありません。アブラハムを見てください。彼も元々は偶像崇拝者、失敗ばかりしているような人物、何かそのために頑張ったということがありません。それなのに、主は「あなたは祝福の基となる」「基となれ」と命じられたのです。

III. 祝福の手段

そんなアブラハムがどうして祝福の基、源となれたのか、彼には何らかのその秘訣、その手段があったというのでしょうか。私はここに三点挙げることができると思うのです。

①信仰の人

第一にアブラハムが祝福の基となり得た秘訣は、間違いなく彼が信仰の人であったことです。失敗することは結構あっても、その生涯に光っているのは、アブラハムが主なる神を信じ、信頼し続けたことです。信仰が無くては神に喜ばれることはできません。無くてならないのは信仰です。アブラハム夫婦には子供がなかったのですが、神様が与えると約束された言葉を確信し続けたことが分かっています。その信仰の結果、25年も経って、自分が100歳、妻のサラが90歳であるのに、男子イサクが誕生しているのです。アブラハムは天地創造の神を信じていたのです。創世記15章1節によれば、アブラハムは自分の盾となり守ってくださる神様を信じていました。主は言われました。「恐るな。アブラムよ。私はあなたの盾である。」創世記17章1節によれば、アブラハムが全能の神を信じていたことが分かります。

「アブラハムが99歳の時、主はアブラムに現れて言われた。『私は全能の神である。私の前に歩み、全き者であれ。』」更に、創世記18章25節によれば、アブラハムは正しい審判者である神を信じていたこともわかります。「正しい者を悪い者と共に殺し、正しい者と悪い者が同じような目に遭うなどということは、決してありえません。全地を裁かれる方が公正な裁きを行わないことなど、決してありえません。」と彼は祈っています。そして創世記22章14節によれば、アブラハムが神を摂理の神と信じていたことがはっきり理解できるのです。彼は愛する独り子のイサクを捧げるよう試練を受けた際に、神を信じて行動しました。彼はその結果、「アブラハムはその場所をアドナイ・イルエと名付けた」その意味は、「主の山には備えがある」です。そうです。信じる者は祝福の源とされるのです。

②祭壇の人

アブラハムが祝福の基とされたのは、彼がまた祭壇の人であったからでしょう。創世記12章の4節から見ると、アブラハムが主の告げられた通りに、75歳にして旅立ったことが分かります。そしてアブラハムは示された地であるパレスチナに到着すると、まず実行したことは祭壇を築き、主の御名を呼ぶことでした。アブラハムはシェケムで祭壇を築き、ベテルに移ってなお、新しく祭壇を築いています。祭壇とは、神との交わりの接点と言えるでしょう。その祭壇を媒介にしてアブラハムは主なる神の御名を呼んだのです。人が名を呼ぶとは、その名前を呼ぶ相手に向くことを意味します。アブラハムは自分に約束を下さったお方以外には、他の何ものにも固執しない決意があったのです。約束された方は信頼されるべきお方であるとして祭壇を築き、主に祈り、主を賛美したのです。今日の交読詩篇の105編の1、2節はこう謳われていますね。「主に感謝し、その名を呼べ。もろもろの民に主の業を知らせよ。主に向かって歌い、主を褒め歌え。すべての奇しき業を語れ。」主に祈り、主を賛美する人は、祝福され、祝福の源となるのです。

③天幕の人

アブラハムが祝福の基とされたもう一つの秘訣は彼が天幕の人であり続けたからです。彼は信仰と祭壇とそして天幕の人でした。8節にはこう記録されています。「そこに天幕を張った」さらに9節には「アブラムはさらに旅を続け、ネゲブへ移って行った」とあります。天幕は一箇所に固定されない可動性の住居です。彼は旅の人、巡礼者、寄留者だったのです。彼の目指す目標地はこの地上ではありませんでした。ヘブル11章8〜10節にはこう証言されています。「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。信仰によって、アブラハムは、他国人として約束の地に寄留し、同じ約束を共に受け継ぐイサク、ヤコブと共に幕屋に住みました。アブラハムは、堅固な土台の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し、建設されたのは、神です。」神の祝福を受け、祝福の基とされる人は天国を目指す人です。この地上の生活が全てである人には縁遠い話でしょう。しかし神の祝福を受ける人は、この地上のすべてに固執しないのです。地上では旅人であり、寄留者であると弁える人は祝福の源とされることでしょう。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によりアブラハムの子です。アブラハムに倣い、天国を目指し、人生を旅人として寄留者と自覚して生きる人は祝福されるのです。祝福の基となるのです。

主はアブラハムを祝福されました。私たちもキリストにあってヤベツのように「私を大いに祝福してください」と祈ることが許されています。感謝して祝福を祈りましょう。神様はアブラハムに「あなたは祝福の基となれ」と命じられました。あなたも私のキリストにあって、今や祝福の基とされているのです。今週も自分の置かれた生活の場で、祝福の基とさせていただきましょう。

115日礼拝説教(詳細)

神への説明責任」  創世記3章9〜13

その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。

神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」

彼は答えた。「私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」

神は言われた。「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか。」

人は答えた。「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」

神である主は女に言われた。「何ということをしたのか。」

女は答えた。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」

おはようございます。先週は関西を拠点とするプロ野球球団の阪神とオリックスが日本シリーズで戦うというので、ファンは一喜一憂、気を揉む一週間ではなかったでしょうか。その阪神の岡田監督が試合中にパインアメを必ず7、8個舐めているというので、ファンの間にパインアメを舐めるのが流行になっていると聞きました。愉快ですね。そのアメの製造メーカーは株式会社パインで、その担当者がこう語っていました。「パインアメは穴が開いていて先の見通しがいいという意味で縁起のいいアメ。ぜひこれからもゲン担ぎでなめていただけたら」アメを舐めただけで本当に先の見通しが効くなら、こんないいことないですよね。しかし今日は、本当の意味で先の見通しの効く聖書を読みたいと思います。聖書は、創世記3章9〜13節です。

ご存知のようにグローバル化が進んだ私たちが生きる現代は、いよいよ国際交流が活発化していることをご存知でしょう。そこで話題になるのは日本人と外国人との違いです。沢山ありますが、その一つが責任感の違いです。例えば、アメリカ人と日本人では非常に責任感が違います。何かミスが起こったとき、アメリカ人は問題を他人のせいにして他人を責めます。しかし、日本人は問題を自分のせいにして自分を責める傾向があります。そうではありませんか。たまたま、電車の遅延で待ち合わせに遅れたとします。すると、アメリカ人なら、電車の遅延は自分のせいではないので謝る必要は感じないのです。しかし、日本人は、時間を守れなかったこと、遅れて相手を待たせたことを「すみませんでした」と謝る。同じ責任感でも随分違います。

この責任感の責任とは、これは人が引き受けてなすべき任務のことです。実は、今日お読みした創世記は、聖書の中でも「真理の苗床」と呼ばれるのですが、ここに人間が人間である特徴の一つである責任が見えてくる、そういう箇所でもあるのです。

I. 応答する責任

聖書は、私たちに万物一切は神が創造されたと教えます。「初めに神は天と地を創造された。」その創造の冠とも言える人間を、神は責任能力あるものとして創造されたことを教えているのです。

呼び出された人間

どうしてそう言えるのかと言えば、創造するということは、別な言い方をすれば、呼び出す行為であって、呼び出されたものは、呼び出したものに対して応答するべきものであるからなのです。少し飛びますが、新約聖書のローマ4章は、信仰の父と呼ばれたアブラハムを語る非常に重要な箇所です。そこで、アブラハムがどのような特徴を備えた神を信じたか、それが17節でこう説明されているのです。「彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。」アブラハムは「呼び出される神」を信じていた。この呼び出すというギリシャ語の動詞カレオーは、「大声で呼ぶ」それが基本的な意味なのですが、それは、名付けるとか、選ぶ、召す、招くなど非常に豊かな意味を持った用語なのです。皆さんもスマホや電話で誰かを呼び出すことがあるでしょう。ラインで短文を送信することはおありでしょう。その際に、皆さんは相手に何を期待して電話をかけますか。ラインしますか。呼びかけに応答してくれることでしょう。着信拒否に設定されていたり、呼び鈴が鳴っているのに無視される、あるいは受話器をとっても黙っていたらどうですか。そうです。呼びかける時に期待するのは、例えば「もしもし、高木さんですか?」と私に電話をかけられたとすれば、それに対して「はい、高木です。」と相手の私が呼びかけに応答することでしょう。着信拒否されたら悲しいですよね。その意味で、神が人間を創造された、存在に呼び出された、その目的は人間が神に対して応答するよう期待されているのです。

引き受けるべき任務

聖書は、神が人間を創造された、すなわち、存在に呼び出された、それゆえに、その人間には、呼び出される神に応答する能力をも授けられていると教えています。2章7節を読むとこう書いてあります。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」神は、土の塵を集めて形成し、その上で命の息を吹き込まれたというのです。土から造られたから人間はヘブライ語でアダムですね。土、泥は原語ではアーダーマーだからです。すなわち、元々は土の塵である人間に、生命が付与されたというのです。それで生き物となったのです。ただそれだけでも人間には責任があります。人間には生きる責任があるということでしょう。自分で自分の命を殺めてはならないのです。何があっても生き続けることは果たすべき任務なのです。

2章15節をご覧ください。「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった。」とあります。耕し、守る!それは神が人間に与えられた最初の職務です。それは、人間が働きながら生きる任務あるものとして呼び出されたということです。人は生命が与えられたから生きる、しかし働きながら生きるのです。最初は農耕です。土地を耕し栽培することでした。そしてエデンの園の管理保全であったのです。人間は神の創造されたすべての被造物の管理責任者なのです。そしてそれは全ての職業に適用される原理であると言えるでしょう。職業に卑賎はありません。すべての人に神が働くよう職務を与えられ、労働を通して隣人に奉仕し、働くことによって神に応答する責任があるのです。

2章16節にはこうも書いてありますね。「神である主は、人に命じられた。「園のどの木からでも取って食べなさい。」これは人間が自由に生きる存在として造られたことを示す大変重要な箇所です。人は神に似せて造られました。完全に自由な存在である神に似せて、人間もまた、思うままに、自由自在に、自分で判断し自分で決断できる存在として造られました。そうすることで、自由に束縛されず生きることで、神に応答するように、人間は呼び出されているということです。素晴らしいことではありませんか。

しかしよくよく注意するべきは、2章17節を見るとこうも語られているのです。「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」これは禁止されたことはしないようにすることによって神に応答するものとして、人間は呼び出されているということです。人間は神に似せて自由な存在として造られました。ところが神に似せて造られたのであって、人間の自由は、どこまでも制限制約された自由なのであって、神のような完全な自由ではありません。ここを履き違えてはならないのです。

さらに2章18節から読み進むと、私たち人間が互いに共同して生きることによって神に応答するよう責任が与えられていることも分かります。27節にはこう記されています。「また、神である主は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。』」創世記1章の人間創造では、人間が「男と女に創造された」(27節)とだけ啓示されていますが、この2章では、人が互いに助け合い、尊敬し合い、一致共同して生きることが人間に求められたことが分かるのですね。神は人間を男女に創造されました。なぜ二つの性、男と女があるのか。神の創造です。人間が共同して生きるものとして造られたからです。そこに結婚が聖定されます。子供が生まれて家庭が構築され、さらに社会共同体が形成されるように、神は人間を呼び出されたのです。

私たち人間は、生きること、働くこと、自由であること、してはならないことをしないこと、尊敬しつつ一致し共同して生きること、そうすることによって、呼び出された神に応答する責任を有するものなのです。    

回避された責任

しかし悲しいかな、聖書は、最初の人間が、神の呼び出しに対して着信拒否をもって、与えられた、期待された責任を回避した事実を教えるのです。アダムとエバは、その時点で、神が存在に呼び出された期待に対して、ただ一点において応答せず、責任を回避してしまいました。それは、蛇による誘惑により、神による禁止を破ることによってでした。アダムは「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」(17節)」と神が命じられた言葉を確かに聞いていたはずです。しかしアダムは、蛇にそそのかされた妻のエバが、禁断の木の実を自分で食べたばかりか、その妻のエバが与えた実を自分も食べ、「取って食べてはいけない」という禁止を破ってしまったのです。 その結果がどうなったのか、それを明らかにするのが今日読んだ箇所、3章です。そして、その結果が、今現在を生きる私たち人間の現実そのものであります。阪神の岡田監督が試合中に舐めるパインあめには真ん中に穴が空いているから見通しがいいので、縁起がいいから舐めようとするファンが沢山います。

私たちは、今日、この創世記3章から見えてくるのは、今現代を生きる私たち人間の実相そのものなのです。アダムとエバが禁断の実を食べてそれ以後、人間は恐れと不安の中に生きることになるのです。禁断の実を食べた瞬間に、アダムの目が開けて見えたのは、自分たちが裸であることでした。本来裸であるとは、心を開いて隠し事がない関係を表すことです。ところが、禁断の実を食べた瞬間に、アダムとエバに生じたのは恥の意識でした。どうしたでしょうか。彼らは、急いでいちじくの葉を綴り合わせて腰巻きにしたというのです。そればかりか、神を恐れて園の藪の中に隠れ潜みました。裸であるとは保護されていないという意識でもあり、何かで覆われなければ不安で恐ろしい感覚のことです。それ以後の人間に共通するのは、不安感情です。不安とは自分が何か保護されていない、安全でないという漠然とした意識のことです。ですから、人は、何らかの形で自分を覆い隠そうとし、また、自分を保護するために手を尽くそうと必死に努力するのです。財産を増やし万能のように頼もしく見える金の保護を求めます。不安解消のためにしっかりした組織に保護を求めます。不安や恐れから逃避するために薬物に頼る人もいます。アダムが隠れた園の藪、エバと腰に巻いたイチジクの葉っぱに相当する手段は、人によって様々です。更に、3章16〜19節を見ると、そこにはアダムとエバに、神の審判が下されたことが記されています。

エバに対しては産みの苦しみでした。アダムに対しては、労働の苦しみです。16節で主はエバに言われました。「私はあなたの身ごもりの苦しみを大いに増す。」17節では、主がアダムに対しては「あなたは生涯にわたり苦しんで食べ物を得ることになる」と申し渡されました。男女に共通するのは苦しみです。何故人は生きるのにこれほど苦しまねばならないのでしょうか。それは、神の呼びかけに人間が応答する責任を回避するという罪のためなのです。

主は、禁断の木から取って食べれば必ず死ぬとアダムに語られました。罪の支払う報酬は死です。アダムが即そこで死んだとは語られていません。しかし、私たちはその先の創世記第5章3〜5節を読むとき、アダムが930歳で死んだことを知るのです。そこには古代人がとてつもなく長生きしたことが分かりますが、5章で主張されている真理は、罪によって人は必ず死ぬこととなった事実なのです。聖書は、ローマ5章12節でこう教えています。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」のだと。一人の人とはアダムです。人類の代表としてのアダムの罪によって死が入り込んだのです。これが神に対する応答を回避した罪の結果です。私たち人間は、恥と不安と苦しみの中を生き、死ぬことが定まっているのです。聖書を通して見通せる真理なのです。

II. 説明する責任

その上で、さらに聖書では、神の創造された私たち人間には、神に対する説明責任があることが教えられます。神様は藪に隠れていたアダムに呼びかけ、「どこにいるのか」(9節)と呼びかけられました。その呼びかけに応答し隠れていたアダムが「私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」と答えると、主はこう問われました。「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか。」これは何を意味するかといえば、神の創造された私たち人間には、神に対する説明責任があることを示すものなのです。

説明する責任とは、英語で言うところのアカウンタビリティで、これは、すでに起きた過去の出来事や自分の行為の結果について説明する責任があると言うことです。アダムは神様に「どこにいるのか」と問われると、「私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」と説明したかのように聞こえます。アダムは自分がエデンの園の樹木の茂みにエバと二人で隠れた理由をそう説明しました。裸であることに気づき、恥ずかしく恐ろしいから隠れていると説明しました。更に神様が「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか。」と問われると、アダムは続けて弁明し、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」と説明しています。

しかしこれはどうでしょうか。実際には説明責任を果たしたとは言えません。アダムが裸であることが分かったのは、誰かが「お前は裸だぞ」と告げたからではありません。真実は、禁断の実を食べた瞬間に目が開けて裸だと分かったのです。アダムがすべきであった説明責任は、神様の禁止された行為を自分と妻が破って罪を犯したことを率直に認めることです。

ところがアダムが、自分が禁止された行為をしたことを率直に認める代わりに、語り弁明したことは、第一に神への非難でした。第二に自分の責任の転嫁でした。第三に妻との連帯性の破壊することでした。アダムは神を非難して、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻」が食べさせたからではありませんか、と苦情をさらけ出します。そもそもあなたが妻を与えなければ、私を罪に巻き添えさせるような妻を与えられなければ、こんなことは起こり得なかったことではありませんか、と神を責め非難するのです。そればかりではありません。アダムは妻を指差し、この妻が取ってくれたから食べたのですよ、ということで見事に責任を他人になすりつけたのです。アダムは自分の失敗の責任を他人に転嫁するのです。そればかりか、この発言によってアダムは妻との親密な連帯性、共同性を破壊してしまいました。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」と最大級の言葉で、妻と夫である自分の親密性を歌い上げたアダムは、今や妻のエバを軽蔑し、見下し、自分をダメにしたのはお前のせいだと言わんばかりなのです。それは連帯性の破壊でした。

神は、それから向き直ってエバにこう問われました。「何ということをしたのか」と詰問されると、女は女でアダム同様に責任転嫁をし「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」と言ってのけるのです。これが私たち人間のありのままの姿そのものではありませんか。私たちは、ともすれば、問題をすり替えて他人を非難し、他人に責任を転嫁することで、自分の責任を回避しようとするのです。

しかし、人は皆、次の二つの聖書の言葉を忘れてはなりません。ローマ14章12節がその一つです。「私たちは一人一人、自分のことについて神に申し開きすることになるのです。」もう一つは、コリント第二5章10節です。「私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。」神は万物の創造者であられると共に、神は義なる審判者なのです。これが聖書を通して見えてくる真理です。最初の人間、アダムとエバがエデンの園の藪に隠れているところを見つけ出されて神に審問されたように、すべての人が例外なしに、死んだ後に、必ず、自分の仕業について、申し開きを、説明の責任を果たさなければなりません。神は審判者であるからです。その時、どんな言い訳も通用しません。神を非難することも、誰か他人に責任を転嫁することもできません。神の目には何一つ隠し通すことのできる方法や弁明などないのです。

III. 信従の責任

ところが、今日、私たちはこの聖書に、神様が創造者であり義の審判者であると共に、実に慈愛に富める憐れみ深いお方であることをも見せられるのです。ご覧ください。その先の21節にこう記されているからです。「神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた。」アダムとエバは、裸の恥をイチジクの葉を綴って腰巻きを作って覆いました。保護されていない恐れを何と守ろうと、彼らが守るべき園の樹木の間に潜り込み、身を隠して保護を求めようとしました。しかし、イチジクの葉も、園の樹木も役に立たないのです。神との関係が破れた人間は、保護されていない不安と恐れ、恥を隠すためにあの手この手を尽くすのですが、すればするほどに不安は増大するばかりです。しかし、神様は裸のアダムとエバを皮衣で覆われました。神が裸の彼らに着せられたのです。それは神が人を保護してくださる愛の行為であります。皮衣が作られたのは、その為に犠牲となった羊がいたことでしょう。屠殺され皮が剥がされ、皮の衣が造られました。これは、十字架によるイエス・キリストの贖いの予表であり雛形なのです。ヨハネ第一4章9、10節はこう証言されています。

「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

私たち人間は、今現在も、恥と不安と苦しみの中を生き、死ぬことが定まっていることに変わりはありません。それが私たち人間の実相です。しかし、憐れみと恵みに富む神様の愛が、御子イエス・キリストにより私たちに示されているのです。神の子羊としてイエス様は、十字架に罪の贖い、罪の赦しのため犠牲となりました。この御子イエス様を、救い主と信じる者に、義の衣が着せられるのです。神に赦され、受け入れられ、愛され、守られていることが保証されたのです。私たちはこれから主の定められた聖餐式に預かるのですが、これによって、罪が赦され、それによって、私たちは、神が創造された本来の人間の在り方が回復されたことを確認するのです。イエス様を神の御子と信じる者に求められるのは、悔い改めてイエス様に信じて従う責任でしょう。恵みにより救われた者には、感謝し謙り信じ従う信従の責任があるのです。私たちは神により創造され、人間存在として呼び出され、神に対して応答する責任があります。私たちは果たすべき任務をどのようにしたのか説明する責任が神に対してあります。今日、私たちは、自分の失敗や過ち、自分の惨めさを他人に責任転嫁していないでしょうか。アダムのように神様に対して愚痴をこぼし、「何故ですか?」と不信と不満はありませんか。聖書、ヨハネ第一1章8、9節にこう勧告されています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にはありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」これから聖餐式に先立ち祈ります。その祈りの間に、あなたも告白するべき罪があれば、主に説明責任を果たし、告白して罪の赦しをいただくことにしましょう。