626日礼拝説教

  「虚無虚構の果てに」  伝道の書1章1〜11節

ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。

伝道者は言う、
(くう)の空(くう)、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。
川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。
目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。
「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、
それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない、
また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 

 この書の著者が誰であるのか、1節が示唆するだけで特定されません。伝道者の原語はコヘレトで、説教者、伝道者、教師とも訳されます。ヨハネ三章でニコデモは「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。」と主イエスを告白しました。

聖書がすべてキリストを語る霊感された書であるとすれば、著者が誰であれ、私たちは伝道の書に知恵の教師である主イエスのメッセージを聴くことが期待できるでしょう。その主題が2節の「いっさいは空(くう)である」と言う断言により明らかです。

言語のヘベルは空と訳され、ヘベルは消え去るためにのみ定められる霧、息、水蒸気が語源です。

イスラエル人であれば創世記4章にカインに殺害された弟アベルを連想することでしょう。アベルの綴りがヘベルと同じだからです。兄によりあっけなく殺害されたアベルは空そのものです。

まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。(詩篇39:5)」といにしえの詩人は歌いました。

人(アダム=土)は息(ヘベル)にすぎないのです。人間は本質的にヘベルであり、消え去るはかない存在です。

4〜7節では循環運動を繰り返す太陽、風、川により人間の空であることが比喩的に例証され、9〜11節では満足を求めて満たされない人間性、新規を求めて果てない人間性、覚えられたくても忘れられてしまう人間性により、更に空が確証されます。

では、この書が私たちに語る帰結はどこにあるのでしょう。最終章の13節です。

「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」

人(アダム=土)の本分は、神を認め、畏怖の念で敬い、愛し、信じ、従うところにある。この書を読み進むに際し、常にこの帰結を前提にすることが鍵です。

私たちの信仰は、人間存在の現実(空であること)に蓋(ふた)して避け、楽観的に肯定的に生きようとするような軽薄な態度であってはなりません。

主イエスは、空(くう)なる人間と成ることで、空(くう)なる私たちに、生きる喜びの意味を得させるために来られたのです。

 

 

6月19日礼拝説教

「主の名を冠して」  使徒行伝4章23〜31節

ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、

「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、

『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、

もろもろの民は、むなしいことを図り、

地上の王たちは、立ちかまえ、

支配者たちは、党を組んで、

主とそのキリストとに逆らったのか』。

まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。

彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

 人は名を付け、名を呼び、呼ばれては答える。名は体を表し、事物・人物の概念を代表する。麗しの門での足萎えの瞬時の癒しは、民衆の5千人に及ぶ改心、関与した使徒たちの逮捕、最高議会での厳しい審問、釈放後の教会の祈祷へと続いた。使徒行伝3章と4章のこの一連の出来事の鍵語は、明らかに主の御名にある。この男が癒されたのは、主イエスの名を冠した信仰のゆえだとペテロは明言した。

イエスという名は、ヘブル語で「主は救い」を意味する。乙女マリアと夫ヨセフには「その子をイエスと名ずけなさい」と天使が告知した。生まれる子が、神の約束された人類救済の救い主だからであった。それゆえ「主の名を呼び求める者は皆、救われる(ローマ1013)」名目だけの信仰ではなく、主の名を冠した生きた信仰に我々も立とう。

二人の使徒たちは、この御名を冠した宣教ゆえに「誰の名によってこんなことをしたのか」と権力者に尋問され迫害された。だが、ペテロは「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と断言してはばからない。

教会は、主イエスの救いの絶対性のゆえに宣教をする。「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」と一休禅師が宗教者の寛容を和歌に託すが、日本人受けはしても、そこに真理はない。「私は道であり、真理であり、命である」と語られる主イエスによらなければ神に来ることは誰もできないからだ。人は一度死ぬことと死んだ後に裁きを受けることが定まっている。人は神の前に責任ある存在であり、死後に神の前に申し開きをしなければならない。十字架の罪の赦しなしには永遠の滅びであることを教会は知っている。福音宣教こそ究極の課題であり、主は「行って、すべての国民を弟子としなさい」と至上命令を与えられた。

ユダヤ議会は二人を脅かし、二度とこの名による宣教を禁じたが、彼らは釈放されると仲間と集い、「主よ。」と主の名を呼び、御名を冠した祈祷を捧げた。主の名を冠した祈りを教会の祈祷としよう。

612日礼拝説教

「ガーデンライフ」  マタイ21章12〜17節

七條基督教会   村上 渡牧師

それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。

しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。

イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。

 私は牧師家庭で生まれ教会で育ったが、教会に協力されたオーストラリア宣教師に刺激され、海外に目が開かれ、大学を卒業後、フィリピンの被災地支援活動を通じてアジアに出て行く切っ掛けができた。

やがてバングラディシュに経済的に貧しい家庭の児童を支援する公認のNGOを立ち上げ、早くも六年が経過し、擁護施設「デライト・チルドレン・ホーム」も、最初の30人から今では収容児童も60名を数える。

子供達の出身背景は、イスラム、ヒンズー、仏教系の30以上の民族だが、今では収容児童は救われて全員がクリスチャンである。

幼い児童が毎日朝夕に礼拝を主に捧げ、聖書を自主的に学び実践する姿勢は感動的である。

バングラディッシュの義務教育に準じる「デライト・プライマリー・スクール」を小学教育施設として併設したが、その卒業生たちの国家試験成績は抜きんでて、地域のトップ5に二人が入り、神の祝福を受けている。更に教育支援センターとして“Edu Care” を国内5カ所に設置し、現地クリスチャン女性スタッフの協力を得て、子供の学習補習を実施し、最後に必ず聖書を教えている。それによって福音を全く聞いたことのない子供たちの中から救われる子が続出し、神の国の拡大が著しく認められる。

異教徒の只中でこれらの働きが実を結ぶのは、日本の皆様の篤い祈りの支援あってのこと、現地の牧師たちが更なる日本の祈りを要請される。

イエスが宮清めをされたエルサレム神殿の丘には、異邦人が入れる広い庭があった。神殿内には入れないが異邦人はここで礼拝ができた。商売で庭を汚す商人を義憤のイエスが追い払った事例に、私たちはイエスの世界宣教のビジョンを見せられる。

創世記2章によれば最古の庭エデンの園から一つの川が流れ、四つの川となった。それは、やがて全世界にキリストの福音が宣べ伝えられる予表であった。それはペンテコステに注がれた聖霊による働きであり、それは、クリスチャンが信仰を行動に一歩踏み出す時に現実となる。

人間は神の義と聖と愛に似せて造られ、聖霊により頼み、足を踏み出すことが望まれている。(京都七條教会:村上渡牧師)

6月5日礼拝説教

「分かれた炎の舌」  使徒行伝2章1〜13節

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。

しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

 イスラエルの収穫感謝祭である五旬節に、聖霊が降臨された出来事は、結果として120名の弟子たちが、習ったことのない各国の言葉で、神の奥義を語り出したことで、人々を驚かせ、戸惑わせた。

救い主イエスが、仮庵祭に誕生し、過越祭で十字架に掛けられ、三日後の初穂祭で復活され、初穂祭から50日後の収穫感謝の五旬節に聖霊が降臨されたことに、私たちは神の人類救済の計画推進の事実を見る。

聖霊は、十字架と復活で実現した贖いの救いを教会の宣教を通して、全人類に適用させるため、その実行者として臨まれました。主は「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言明され、聖霊の力を受けた最初の120名を端緒に、教会は成長発展し、今や世界に20数億人のキリスト者が生まれている。

聖霊の力を受けたその表れは「分かれた炎のような舌」に象徴され、言葉として表現されることになる。聖霊に満たされた人は神から預言の言葉、賛美の言葉、祈りの言葉が与えられることになる。五旬節に聖霊が臨み、120名がそこに居合わせた世界中から祭りに来ていた離散ユダヤ人に理解できる言葉で語り出したことは、それ以後のあらゆる言語によるあらゆる民族への世界宣教を暗示している。

今や数千の言語に聖書は翻訳され、宣教師の届かない地域はなくなっている。

今や至る所で聖霊に満たされた聖徒たちが、それぞれの言語で賛美を神に捧げ、神が褒め称えられている。

今や信じる者は皆、自分の母国語で知性的に祈り、また異言で霊的に神に祈っている。「神は言われる。終わりの日に、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。」このヨエルの預言が今成就したと使徒ペテロは断言してはばからない。

その日には、この出来事を目撃して嘲り心を閉ざす人々もいたが、沢山の心開かれた人々もいた。使徒ペテロの勧告を受け入れ、その日信じた者は3千人もいた。彼らも聖霊の賜物に預かっている。

神の視点から今は終わりの時であることを自覚し、神の恵みを無にしないよう気をつけ、目を覚まして祈り聖霊に満たされよう。