5月31日礼拝説教

   「五旬節の上下前後左右」  使徒2章1〜15節 

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、

「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。

「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。

今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。

 After Corona(コロナ以後)に世界は完全に変化するだろうと言われている。それとは比較にならない大変化がAfter Pentecost(五旬節後)に世界に起こった。

ユダヤの祭りは神の救いの計画のひな形で、聖霊はその救いの実体を全人類に提供された。今や私たちは終末のハーベストタイムに生きている。

主イエスの弟子たちは、中でもペテロはペンテコステ前後に個人的に大きな変革を経験させられた。受難直前の主イエスに「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と強気のペテロは、大祭司の中庭で不甲斐なく三度も「私は彼を知らない」と主を否認していた。

ところが、自分の弱さに激しく泣いたペテロは、聖霊に満たされると別人のように変わっていた。否定的な状況にもかかわらず、彼は立ち上がって声を張り上げ、キリストの死と復活の意義を証言、人々に悔い改めを迫っている。その結果、三千人が改心し洗礼を受けている。

主は「求めよ、捜せ、叩け」と祈りを教えられた。祈りの究極、最高の祈りは聖霊を求めることにある。 

その日、受霊した弟子たちの観察者は左右に分かれた。一方の民衆は有様に驚嘆し、冷淡に批判した。だが、使徒ペテロの勧告に心刺された民衆は、謙遜に「私たちはどうしたらいいのですか」と問い、イエスを受け入れ救いの恵みに入れられ、彼らも聖霊に満たされ神の子とされている。

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」(ローマ8:14)聖霊に満たされた人には新しい力の付与、神の導びきによる人生が保証されている。

524日礼拝説教

  「災難遭遇の理由」  ルカ13章1〜5節

ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。

そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。

あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。

また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。

 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。

 主イエスに匿名である流血事件が報ぜられた。それは反ローマ主義の熱心党員であることを疑われたガリラヤ人達が、神殿で犠牲を捧げる時を総督ピラトの手下に襲われ惨殺された災難だった。

何を動機に、何を尋ねようとイエスに匿名の人々が伝えたのかは定かではない。それに対するイエスの答えから推測すれば、「ガリラヤ人達は余程の悪人だからこんな災難に遭遇したのでしょう」と同意を求めたからかもしれない。

主イエスは彼らに対する回答の中で、もう一つ別件のエルサレムの水道工事現場で倒壊した塔の下敷きで圧死した18人の災難をも取り上げ、彼らの思いを「そうではない。」と一蹴された。その上で、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。」と警告された。

21日付で政府より緊急事態宣言解除が報じられ、誰しもが安堵している。だが、この度の新型コロナウイルス感染の脅威は全世界に及び、多数の人々が塗炭の苦しみを舐め、肺炎で死亡された方々については痛ましい限りである。しかしながら、この場に臨んで、自分は難をかろうじて免れ、やれやれ良かった、以前の生活に戻ろうとするだけでいいものか。

今日の主の言葉によって問い直される。その災難が政治的意図によろうが、偶発的、自然災害であろうが、その災難は決して他人事ではない。主イエスは「みな同じように滅びる」と言われた。それは人間的な見地ではなく、神の見地であり、罪を犯した魂は永遠に破滅することを意味する。

人の死後の神の裁きは不可避である。罪ある者は永遠に滅びる。それが万人の霊的実相だそれゆえに、このような災難災害を目前にする人は、悔い改めて人生の方向を転換し、神に心を向けるようにとの呼びかけだと真摯に受け留めることが求められている。

しかし、それは十字架を仰ぐことなしには起こらない。罪の赦しを得させるイエスの受難の理解こそ そのターニングポイントとなる。コロナ感染災難者の死を無駄にすべきではなく、人が己の罪深さを嘆き、悔い改め福音を信じることでのみ、彼らの災難は生かされる

5月17日礼拝説教 

「慌てる事はない」  イザヤ28章16節

それゆえ、主なる神はこう言われる、

見よ、わたしはシオンに

一つの石をすえて基とした

これは試みを経た石、

堅くすえた尊い隅の石である

『信ずる者はあわてることはない』

 預言者イザヤによって「慌てることはない」と語られたユダ王国には急を要する時代背景がありました。同胞 北イスラエル国を滅ぼした獰猛なアッシリア軍が、彼らをも襲おうとしたのです。その危急への対応は、陶酔による現実逃避、預言者に対する軽蔑、他国との同盟による防衛強化であったと28章が語ります。

宗教家は濃い酒に酔い痴れ、イザヤが語れば、それを幼児の初等教育のようだと揶揄し、対抗しうる政策として、指導者達は、エジプトとの同盟を強化しました。これらの対応が「どっと溢れる洪水」のような危機に、慌てることのない有効策かどうかは、吟味を要する点です。

ともすれば人は不安や緊張や恐れを手軽な手段で解放させ浄化させようとします。コロナ感染予防で自粛を求められた業種の多くは、人が密集する深夜の歓楽街にありました。しかし、仮想現実による現実逃避は役に立たないのです。神の言葉を聴くことへの抵抗と離反は、まさしく今日的な問題でしょう。

人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」(テモテ下4:3.4)と言われる通りです。

エジプトは聖書で「この世」或いは「人間的なもの」を象徴し、この世的な手段に絶対的な信頼を寄せることは失望を来らせると警告されます。厳しい現実を直視し、それでいて慌てない真の態度は主に信頼することです。

主は建築物の全重量を支える隅のかしら石のようです。ペテロが、この28章の預言を引用することで、私たちは、十字架の苦難を忍ばれ復活された主イエスこそ、人に捨てられた隅の石であることが分かります。使徒パウロも同じく引用し「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」(ローマ10:11)と証言しました。賢明な王ヒゼキヤが、神殿で独り主に祈り委ねて敵軍に圧勝した列王下18、19章の事例は、『信ずる者は慌てることがない』好例です。

主イエスを隅石として信頼する人は失望させられず、いつでも慌てることはないのです。

5月10日礼拝説教

  「震われないもの」  ヘブル書12章18〜29節

あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。

そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触たら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。

しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。

あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。

このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。

 一寸先は闇」とは、これからのことはどうなるのか、まったく予測できないことのたとえで、新型コロナウイルス感染で政府から出された緊急事態宣言も5月末まで延長された現在、先行き不透明感が濃厚です。

ヘブル書が教会に届けられた時代もまたローマ帝国の政変(皇帝の自殺、暗殺の続発)により、見通しの効かない点では、現代と共通していたようです。しかしながら、み言葉は導きの光です。

ヘブル書1218節、22節は「あなたがたが近づいているのは」と明確に進み行くべき目標を照らし、それが天にある生ける神の都であることを聖徒たちに確信させます。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル12:2)旅人が目的地を目指し、ランナーがゴールに向けひたすら走るように、主イエスを信じる者は、地上生活の究極に備えられた天の故郷を、それに到るまでの過程がどうあれ、しっかりと見定め確信するのです。

そのためにこそ、何と神が天と地と万国民を揺さぶり震われると、ヘブル書12章には旧約の預言者ハガイから「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」と神の言葉が引用されます。

9年前には三陸沖にマグニチュード9の激震が走り、南海トラフの予測に私たちの心境は穏やかではありません。世界の歴史も日本の歴史も激変の連続です。

聖書はその意味を「震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。」と明示します。すなわち、私たちの心が永遠に不動のものにしっかりと向けられるため、敢えて神がそうなされるのです。震われない国、神の国を得ていることを確信し、感謝し、地上生活において主に仕えるためなのです。

現在直面する疫病をもその視点で見据え、それもまた主の御手のうちにあることを覚えましょう。そして、その災禍に苦しむ感染者のため、その感染者の救済治療に当たる医療従事者のため祈り、自宅待機、交際自粛で孤立傾向にある相互のために励まし合うことにし、この危機を乗り越えて行きましょう。 

5月3日礼拝説教

  「霊的な呼吸の力」  ヨハネ20章19〜22節

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。こう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。 

  聖書を文書として分類すれば古典(クラシック)ですが、信仰により聖典とするならば、過去の書物ではなく、今を生きる者の力となる現代の書です。その意味で、主イエスが復活の日曜日の夕方、弟子たちに為された業は、今日という日に生きる私たちの経験でもあります。『イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることがない』(ヘブル13:8)からです。

主イエスは、鍵の厳重に施錠された部屋で恐れに萎縮した弟子達に忽然と現れ、「安かれ」と言われました。主イエスは、コロナウイルス感染予防で自宅待機する我々にも現れ、神の平安により恐れを一瞬にして払拭してくださいます。萎縮した心は明るくされ生きる意欲が活性化されます。

「平安あれ」と語られた主イエスは、手の釘痕、脇の槍痕をお見せになられた。すると彼らの心は喜悦に満たされました。主イエスの蘇られた事実と、十字架の死の意味が理解されたからです。主イエスは他人に殺害されたのではありません。『だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。』(ヨハネ10:18)主イエスは、人類に神との和解を得させるため、罪の赦しを得させるため、犠牲の子羊として、十字架の祭壇にご自身を捧げられたのです。

緊急事態宣言が発令され、殆どの娯楽施設は休業で、人の楽しみが消失したかのようです。しかし、このような時に、静まって十字架を仰ぎ見る時に、不思議な喜悦が泉の如く湧出することでしょう。主イエスは彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」とも仰せられました。

人間は土を材料に神の命の息の吹きかけで肺による呼吸作用を開始し生きた者とされました。(創世記2:7肺炎で酸素吸入、二酸化炭素排気を停止させ人を死に至らせるコロナウイルスは脅威です。しかしながらウイルスよりも恐るべきは人を霊的に死なせた罪です。

神を知らず神に祈ることをしない人間は霊的に死んでいます。主イエスが息を吹きかけられた行為は、霊的に死んでいる人が聖霊により新生することの象徴です。祈りは生かされている印です。主イエスの名によりウイルス感染の収束を祈り、人々のため執り成すことにしましょう。