2019年4月礼拝説教

4月28日礼拝説教

        「汝は我に従え」      ヨハネ21章15〜22節 

21:15彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、

「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。

ペテロは言った、

「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。

イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。

21:16またもう一度彼に言われた、

「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。

彼はイエスに言った、

「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。

イエスは彼に言われた、

「わたしの羊を飼いなさい」。

21:17イエスは三度目に言われた、

「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。

ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、

「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。

イエスは彼に言われた、

「わたしの羊を養いなさい。

21:18よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。

しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。

そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。

21:19これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。

こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

21:20ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。

この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、

「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。

21:21ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、

「主よ、この人はどうなのですか」。

21:22イエスは彼に言われた、

「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。

あなたは、わたしに従ってきなさい」。

 蘇られた主イエスがペテロとの関係を回復されると

「あなたはわたしに従いなさい」と二度繰り返されました。

これはガリラヤ湖の漁師だった彼に対する同じ召しの言葉ではなかったでしょうか。

決定的な違いは、間も無く昇天して姿が見えなくなる主イエスに従う点です。

子供は親に、妻は夫に、学生は教師に、部下は上司に、兵卒は大将に従うことが求められます。

それもその関係で相手が誰であるかによるものです。

主イエスがある日、「あなた方はわたしを誰というのか」と問われると、

ペテロが率先し、「あなたこそ生ける神の子、キリストです」と応じました。

ペテロが主イエスに従う根拠があるとすれば、この告白以外にないでしょう。

とするならば、姿が見える見えないは問題ではなく、この方の意志に沿うことに違いありません。

その御意志の究極は

「互いに愛し合いなさい」の愛に生きることに他ならず、

信従するとは他者を愛することです。

使徒ペテロにとり 従う愛の従順は、

「羊を養いなさい」と命じられた教会の監督となる職務の委託にありました。

人は誰しも人数の多少にかかわらず、どなたかのお世話を心込めてする愛の配慮が求められています。

主イエスに従うとは利己的生き方から解放されることなのです。

しかも強いられ強要されてするのではありません。

それゆえに、「わたしに従いなさい」と命じられる前に、ペテロは愛の告白が三度も求められたのでした。

従う動機は主イエスに対する心からなる敬愛なのです。

その召しに続いて主イエスはペテロの死に方を

「他の人が行きたくない所へ連れて行くであろう」と予告されます。

自分の願望を第二に主イエスに従う結果、難しい人間関係や不本意な扱いを受ける立場に置かれるかもしれません。

その時は、それも神が自分を置かれた場と受領し、

そこで主を愛し、人を愛し責任を果たすことを志したいものです。

鉢植えの花がその置かれた場所で黙って美しく咲き匂い私たちを喜び楽しませてくれるように、

愛の労苦を惜しまず賛美を口ずさみ霊の花を咲かせることにしましょう。

4月21日礼拝説教 

       「心の内が燃える」      ルカ24章13〜32節

24:13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、

24:14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。

24:15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。

24:16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。

24:17イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。

彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。

24:18そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、

「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。

24:19「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、

「ナザレのイエスのことです。

あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、

24:20祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。

24:21わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。

しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。

24:22ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。

というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、

24:23イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、

そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。

24:24それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、

果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

24:25そこでイエスが言われた、

「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

24:26キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

24:27こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

24:28それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。

24:29そこで、しいて引き止めて言った、

「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。

イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。

24:30一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、

24:31彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。

24:32彼らは互に言った、

「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

 主イエスは復活されました。

罪の赦しを完成し死から蘇えられました。

主イエスは生きておられます。

天に昇り父の右に座し統べ治めておられる。

万物を満たしておられる。

なおかつ教会と共におられるのです。

エマオに帰宅途上の二人の弟子に復活の主が近づき一緒に歩かれ、彼らに問いかけ傾聴されました。

二人でも三人でも主の御名で集まる所には必ず主は共におられるのです。

静かな同伴者、傾聴者なのです。たとえそうと気付かなくても共に主はおられるのです。

人数の多少、場所や時間は問題ではありません。集まる所に復活の主がおられます。

更に聖書が正しく説き明かされる所に主はおられます。

主イエスは二人の弟子たちに聖書全体からご自身を説きあかされました。

人はパンだけで生きるのではありません。神の口から出るひとつひとつの言葉によるのです。

聖書が説教されるなら神の言葉が開示されます。そこに復活の主イエスがおられるのです。

主は神の言葉であるからです。

教会とは神の言葉、聖書が解き明かされる共同体です。

そればかりかパンが割かれ聖餐式が執行される所にこそ復活の主はおられます。

三人がその夕暮れにエマオに着くや二人の弟子は自宅に主イエスを招き入れ夕食でもてなしました。

何とその席上でパンを割いて与えたのは、家の主人ではなく主イエスご自身でした。

そして不思議や、二人の目がその瞬間に開かれ、それがイエスであると分かったのです。

主は十字架を前に弟子たちに聖餐を制定され、

「これはわたしのからだである。わたしを記念してこれを行いなさい」と命じられました。

人間に見えるかたちで見えざる神を啓示されたイエスは、今もなお、教会を地上のからだとし、その働きを続けられます。

主を信じたキリスト者はキリストのからだを構成する肢体なのです。

主の臨在感は深い感動と喜びとを燃え立たせるものです。

その時、人の心は内に燃えるのです。

勿論、教会は完璧ではなく、時に明るく輝き、また時にくすぶる灯火のようです。

しかし、感謝なことにそれでも復活の主は教会と共におられるのです。

4月14日礼拝説教

       「十字架を背負う」     ルカ23章13〜26節

23:13ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、

23:14「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、

訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。

23:15ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。

この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。

23:16だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。

〔 23:17祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。〕

23:18ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。

23:19このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。

23:20ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。

23:21しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。

23:22ピラトは三度目に彼らにむかって言った、

「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。

23:23ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。

そして、その声が勝った。

23:24ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。

23:25そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、

イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた。

23:26彼らがイエスをひいてゆく途中、
シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、
それをになってイエスのあとから行かせた。

十字架を担い刑場に向かうキリストはムチ打ち故に疲労困憊し、ローマ兵が行きずりのクレネ人シモンを強制しその肩代わりをさせました。

些細なこの出来事が共観福音書全てに記録されたのは、その姿が

自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。(14:27) と語られたキリストの言葉を象徴するからです。

イエスを信じる者が自分の十字架を負うとは、キリストの苦難に預かることです。

キリストは万人の罪責をご自分が引き受け苦しまれました。その結果、人はその罪が赦されたのです。

その苦難に預かるとは、人もまた他人が自分に犯した過ちの故に苦しむことあれば、キリストが赦された如く自分もその相手を心から赦すことです。

「主よ。兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たび赦されねばなりませんか。七たびまでですか」とペテロが主イエスに問うと、『七たびを七十倍までにしなさい』それが応えでした。

無制限の赦しです。

人の常として我慢には限度があります。酷い仕打ちを受けたら仕返ししたくなります。復讐したいのです。

それもならず泣き寝入りするかもしれません。

そうであってはならない、主は赦せと命じられるのです。

何故ならば、全てに先立ち人は神からその大罪が許されたからです。

赦されたのだから赦す、それが真理なのです。

それ故に主はマタイ18章に「王と僕との清算」の喩えを語られました。

王は借金6000億円の返済を僕(しもべ)に迫りますが、懇願して猶予を求める僕の借金を全額免除しました。

ところが、免除された僕はというと自分が貸していた100万円が返済できない同僚を無情にも投獄してしまう。

恩恵を受けたはずのその僕の卑劣な仕打ちを怒った王は、返済するまで彼を投獄した、そういう譬えです。

赦さないなら神もまた霊的な鉄格子に赦さない者を封じ込められる、それが主の教えです。

誰にとっても人を赦すことは容易ではありません。

しかしながら十字架の赦しの故に、他人を赦すべき根拠は十分です。

十字架を仰ぎ、特定の人を赦す意志を告白することこそ肝心です。

4月7日礼拝説教

      「気づき無くとも」     ルカ23章32〜38節

23:32さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。

23:33されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、

犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。

23:34そのとき、イエスは言われた、

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。

人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。

23:35民衆は立って見ていた。

役人たちもあざ笑って言った、

「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。

23:36兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、

23:37「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。

23:38イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。

キリストは極刑の十字架に二人の強盗に挟まれ磔にされました。

「父よ。彼らをゆるしてください。」

これは十字架上で語られた最初の言葉です。

そして赦しの理由として「彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈られました。

キリストが赦しを祈られた「彼ら」とは誰のことでしょうか。

足下では4人のローマ兵がキリストの所持品をくじ引きしていました。

彼らは自分たちのしていることを分かっていたでしょう。

職務として犯罪者を処刑したのであり、くじ引きしたのはその役得です。

そこには民衆、役人、兵卒、二人の極悪人がおり、それ以前にもイエスを裏切ったユダ、逃亡した弟子たち、

イエスを逮捕した役人たち、議会で断罪した大祭司、イエスを嘲弄したヘロデ王、そして死刑を宣告した総督ピラトがおりました。

彼らは自分が何をしていたのか分かっていなかったでしょうか。そんなはずはありません。

まともな人間であれば自意識があり全ての行為発言を分かった上で行うものです。

しかし人の心を全て知りたもうキリストには、彼らの決定的な気づきの無さ、霊的な無知をご存知だったのです。

彼らが不当に扱った方、イエスは人と成られた神です。

イエスに対して成された言動全ては神に対するものです。

そこにある無知、それは神を知らないことです。

聖書の言う罪こそこの無知であり、神を知らず、神との断絶に他なりません。

キリストはその罪を十字架上で全て引き受け、神の審判を受けられるがゆえに、父なる神に罪の赦しを取り成されたのです。

キリストは神と人との間の唯一の中保者です。

神はキリストのこのとりなしゆえに、全く気づきの無い者を無条件に愛され、全面的に受け入れてくださるのです。

少しでも気づき、悔い改め、生活や態度を改めるから赦されるのではありません。

ただ十字架を仰ぎ、神の無条件の赦しを受け入れるとき、

気づき無くとも、そのままのあるがままを赦し、それによって人は救われるのです。

これから預かろうとする聖餐式において、ただその絶対的な恵みに感謝しようではありませんか。