1025日礼拝説教

「人の人たる所以」 コヘレトの言葉12章9〜14節

12:9さらに伝道者は知恵があるゆえに、知識を民に教えた。彼はよく考え、尋ねきわめ、あまたの箴言をまとめた。

12:10伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。また彼は真実の言葉を正しく書きしるした。

12:11知者の言葉は突き棒のようであり、またよく打った釘のようなものであって、ひとりの牧者から出た言葉が集められたものである。

12:12わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ。多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。

12:13事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。

12:14神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

 本書の最終章の最後は、コヘレトの著述の意図が語られる。無名の人物が記した書とはいえ、この書が聖書に収められることから、この書のみならず聖書の何たるかが明らかになる。

「集められた言葉は一人の牧者から与えられた」とある11節により聖書の由来は主なる神であり、パウロは後に「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので(テモテ下3:16)」あると、聖書が他の万巻の書物との違いを教える。

コヘレトが「多くの格言を探し出し、吟味し、分類した」(129)結果、この書が完成したのではあるが、神の霊がコヘレトの用いた言葉使いに至るまで、彼を導いて誤りのないよう保護されて完成したのだ。

聖書は神の息の吹きかけ、すなわち霊感による書物の中の書物なのだ。その聖書が読む人に及ぼす機能がここで「突き棒や打ち込まれた釘に似ている」(1211)と象徴的に紹介される。

詩篇23篇4節には牧者が羊を導く鞭と杖が牧歌的に描かれるが、ここでは牛に使う突き棒である。これはもっぱら雄牛を突き立てる、強い痛みの伴う刺激を与え誘導する道具に他ならない。

後にヘブル4章でも聖書が「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭く、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおす」(412)と聖書の機能を述べてもいる。

コヘレトの言葉を読み、傾聴した人の中には、その鋭さに痛みを覚えたかもしれないが、神の愛ゆえの導きと受けとめられれば幸いだ。13節に「聞き取ったすベての言葉の結論」とあるのは、聖書の帰結であり、それは人を本来の人たらしめることを意味する。

人の人たる所以は、「神を畏れ、その戒めを守る」ところにある。「これこそ人間のすべてである」(1213)神を恐れることは神を愛することと表裏の関係にある。申命記6章5節が「あなたの神、主を愛しなさい」と戒めを命じるが、この13節に通じる。

 

12章1節がすでに神を造り主であると教示したが、天地万物と人間を似姿として創造された偉大なお方を畏れ、愛することこそ人の本分なのだ。八百万の神々を祀る日本においては殊の外重く受け止めるべき使信である。

1018日礼拝説教

「私は私でない私」 コヘレトの言葉12章1〜8節

12:1あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、

12:2また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。

12:3その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、

12:4町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くされる。

12:5彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり、あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩きまわる。

12:6その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。

12:7ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。

12:8伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。

 8節の「空(くう)の空(くう)」は、1章2節と相まってインクルージオを形成し、囲まれた文章の趣旨が強調される。コヘレトはその最後に人間の避け難い老化と死を象徴的に取り上げることで太陽の下の一切が空であることを読者に印象付ける。

「風を追うようなこと(1:14)」と喩えられる空とは、実態があっても捉えられない虚しさであり、また、時間的には束の間であることを意味する。束の間の人生を指す老化と死の記述の前の強烈な勧告「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」は、人の心にある空の原因を露呈する。人の心から人間の創造者である神が罪の堕落で欠落している。空とは、神の似姿として造られた人間が神との交わりを失った結果である。その心の空白を埋める何物も太陽の下には無い。代用品はあっても空であることに変わりはない。

12:11は、コヘレトが知恵の言葉を神から与えられたと言い、ここで神は羊を飼う牧者と呼ばれる。神が牧者であるとは人が羊であることを意味する。人はアダム以来の罪の堕落により神から離れた迷える羊なのだ。「私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った(イザヤ53:6)」帰趨本能の無い羊のように人は自分の努力で神に立ち帰る術を知らない。

だが、驚くべきことに牧者である神が人となって来られた。「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った(ヨハネ1:14)」言とは御子イエスであり、御子は受肉された神である。この方が堕落した人間を神との関係に立ち帰らせるため、人類の罪責すべてを引き受け、身代わりとなり十字架に死なれた。

7月30日に逝去された台湾の元総統・李登輝はガラテヤ2:20「生きているのは、もはや私ではありません」から「私は私でない私」の悟りを得たと告白される。彼は十字架に自分の死を見、なおかつ自分に内住するキリストを認め、新しい自我体験をされたのだ。ここに人生の空を克服する秘密がある。

死は未来の現実だが、自分の死を過去のキリストの十字架の死に見る信仰である。キリストと共に蘇り、共に生きる新しい自我に目覚めるとき空は超克されよう。

1011日特別賛美礼拝説教

「主を賛美しよう」 詩篇103篇1、2節

ダビデの歌

わがたましいよ、主をほめよ。

わがうちなるすべてのものよ、

その聖なるみ名をほめよ。

わがたましいよ、主をほめよ。

そのすべてのめぐみを心にとめよ。

 クリスチャンシンガーの吉村美穂姉が、北海道ツアー直前にピアニストの野田常喜兄とで賛美コンサートを礼拝で実施された。これはまことに神からの特別なプレゼントであった。

礼拝会は唯一の神を敬拝する最高の営みであり、その要素として賛美は説教と並ぶ。

賛美とは、ある人をその力ある位置において承認し、その主権の要求を全面的に認めることと定義される。表題で「ダビデの詩」とされる103篇で、ダビデが力ある位置と主権を全面的に認めて賛美したのは主なる神だった。彼自身が最高位の王権所持者であったが、彼は王の王、主の主である神の主権を認め心の底から神を誉め讃えるのだった。

賤しい牧童であったダビデは奇しくもサウロ王に召し抱えられ、立身出世とその活躍ぶりは目覚しい。だが、不本意にも王に妬まれ死線を彷徨い、辛うじて一命を取り留めたダビデは、やがてサウロ王の戦死によりイスラエルの王に抜擢される。それは波瀾の生涯であった。

ダビデが「私の魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな。」と自分を鼓舞激励したのは、我が身に起こった出来事の数々を顧み、見えざる神の特別な計らいを認めざるを得なかったからであろう。

ダビデが「その計らいを忘れるな」と歌うゆえに詩篇103篇は「回顧、記念、想起」の詩とも言われる。3〜5節では、主が、過ちを赦し、病を癒し、命を贖い、憐れみの冠を被らせ、良きもので満たされると主の恵みをダビデは列挙し、恵みの回顧の根拠を強化する。

2020年度には意想外な新型コロナウイルス感染の脅威が蔓延し、12月に予定された恒例のクリスマスコンサートも8月末に中止を決定せざるを得なかった。それだけに吉村姉等により賛美の花束が送り届けられたことは大きな喜びである。

 

これを神の特別な計らいと受け止めて神を賛美し、各自はまた自分の生涯に主が成し遂げて下さった計らいを、中でも御子イエス・キリストによる十字架の罪の赦しを忘れず感謝し、自分の内なるものに向かって「私の魂よ。主をたたえよ、褒めたたえ、賛美せよ」と激励しよう。

104日礼拝説教

「心に刻む創造者」  コヘレトの言葉11章7〜12章2節

11:7光は快いものである。目に太陽を見るのは楽しいことである。

11:8人が多くの年、生きながらえ、そのすべてにおいて自分を楽しませても、暗い日の多くあるべきことを忘れてはならない。

すべて、きたらんとする事は皆空である。

11:9若い者よ、あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め。

ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ。

11:10あなたの心から悩みを去り、あなたのからだから痛みを除け。若い時と盛んな時はともに空だからである。

12:1あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。

悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、

12:2また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。

 7節と次章2節の「光と太陽」で囲い込まれているこの箇所は、若者のみか全ての人に呼びかける。自分の造り主を心に刻めと。ビッグバンを宇宙の起源と捉える現代物理学は、物理法則からすれば神の創造の必要を認めない。それでいて宇宙と人類の起源が説明されているわけではない。

聖書は神の存在と創造を説明もなく、聖書の開口一番に真理として啓示する。神は主権的に人を創造されたのであり、人は無から有へと呼び出されたのだ。人間を含む宇宙の全ては法則性のもとに見事にデザインされており、その背後にそれを意図した知性の存在、すなわち神の創造が実証される。

使徒パウロは、信仰の父アブラハムが『彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。』(ロマ4:17)と証言する。とするならば人は目的あって神に造られたのであり、その目的をコヘレトの言葉は、人が人生を喜び楽しむことだと、2章、3章、5章、8章、9章で明らかにした上で、7度目に「あなたの心を楽しませよ」と勧告する。それは後日、使徒により奨励された「いつも喜んでいなさい」(テサ上5:16)に通じ、神を信じる信仰から湧き上がる歓喜なのだ。

初信者はこの真理を心に記憶しよう。

心から抜け落ちていた信者は再想起しよう。

人皆この信仰を現在化することが肝心なのだ。古代において銀貨に刻印された皇帝の肖像のように、心に自分の造り主を刻もう。

使徒信条の冒頭句『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』を毎日復唱告白しよう。その時、主にあって家事をこなし、家族と飲食し、仕事に励み、奉仕にいそしみ、レクレーションに向かうなら、いつでもどこでも喜びが泉のように湧出することになろう。

「若さも青春も空だから」とは喜ぶべき人生の束の間であり限定されていることが強調される。希少価値のダイヤモンドのように、人生の喜びを大切にしよう。

 

「闇の日」と言われる老化と死は避けがたい。だが、主にあって喜ぶすべを現在知るなら、老化と死すら超克される。キリストによる約束された復活の希望も先取りされることなろう。