10月30日礼拝説教(詳細)

「虹の約束の彼方」  創世記9章8〜17節

神はノアと、彼と共にいる息子たちに言われた。「私は今、あなたがたと、その後に続く子孫と契約を立てる。また、あなたがたと共にいるすべての生き物、すなわち、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣と契約を立てる。箱舟を出たすべてのもの、地のすべての獣とである。私はあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはもはやない。洪水が地を滅ぼすことはもはやない。」

さらに神は言われた。「あなたがた、および、あなたがたと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。私は雲の中に私の虹を置いた。これが私と地との契約のしるしとなる。私が地の上に雲を起こすとき、雲に虹が現れる。その時、私は、あなたがたと、またすべての肉なる生き物と立てた契約を思い起こす。大洪水がすべての肉なるものを滅ぼすことはもはやない。雲に虹が現れるとき、私はそれを見て、神と地上のすべての肉なるあらゆる生き物との永遠の契約を思い起こす。」

神はノアに言われた。「これが、私と地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 主の御名を崇めます。皆さんにお尋ねしますね。今年に入って虹を見たのは何時のことでしたか。私にはあまり最近の記憶がないのです。虹は何とも綺麗ですね。虹については、太陽光線が雲や霧に7色に反射する現象であると、科学が説明するので、自然現象として誰でもご存知でしょう。ところが虹には、聖書によれば、大変深い意味があると教えられているのです。

ノアの時代に地球規模の大洪水が起こりました。「大いなる深淵の源がすべて裂け、天の窓が開かれた」そして「雨は四十日四十夜、地上に降った」と聖書は描写しています。その大洪水を前に、神がノアに箱舟を造るよう命じられ、その箱舟に入ったノアとその家族と動物たちだけが助かり、他の全ての生き物は滅んでしまいました。その雨が降り止み、一年後に水が引き始め、地面が乾くと、ノアと家族は、箱船の外に出て、祭壇を築いて犠牲を捧げました。すると、その時、主なる神がノアに対して契約を立てられたのです。

それが今日の聖書箇所であります。その契約を立てるに際して、神はノアに対して、その契約のしるしとして虹を雲の中に置くと言われました。虹は確かに自然現象ですが、しかし、意味がある、神とノアの間に立てられた契約のしるしなのだと聖書は言うのです。交差点の信号サインは三色ですが、それぞれ意味が違いますね。赤は止まれ、黄は注意、青は進めを指し示すように、虹にも三つの意味があるのです。

.不戦のしるし

 神が雲の中に置かれた虹の第一のしるしは、神が今後、大洪水によって人類を滅ぼすことは二度としない、という約束です。11節に、主がはっきりノアに約束されました。「私はあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはもはやない。洪水が地を滅ぼすことはもはやない。」念を押すかのように15節でも同じ約束が繰り返されています。大洪水で人類を二度と滅ぼすことはしない、それは神の堅い決意であり、確かな約束なのです。あの洪水後に、ノアが祭壇を築いて礼拝した時にも、別な言い方で8章21〜22節に、その約束を語られました。「この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。」そして22節では『地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ 寒さと暑さ、夏と冬 昼と夜、これらがやむことはない。』とも言明されているのです。

ここで、主イエスが言われた言葉が思い出されませんか。山上の垂訓で「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と語られたのは、この約束に基づいていたのです。このノアとの契約によって、私たちの住む地球は、神の御手によって保全され、人間の生活は完全に保障されている、と言われているのです。世界の全てのものは、神が支えておられる舞台です。世界が滅びないよう、必要なものや良いもの、美しいものがあり、人の心や生き方に、喜びや優しさや良心があるのも、全ては神の恵みによるものです。これを「一般恩恵」と言うのです。奇蹟や特別な出来事だけで「神様はいるなぁ」と言うばかりでないのです。毎日の自然の営みや、私たちの体が規則正しく動いていることが、神の御業であり、奇蹟でもあり、一般恩恵なのです。

英語で虹のことをレインボーと発音しますが、雨と弓の合成語です。ヘブライ語の虹は本来、戦いで使う武器の弓のことなのです。神が「雲の中に虹を置いた」しかも、弓のような形をした虹は常に上を向いており、地上に向けられることはありません。虹は、神がそれ以後、人間と戦わない、呪わない、滅ぼさない約束のしるしなのです。今こうしている現在も、地球上の至る所で戦争があり、人が人を殺しあっています。しかし、それはどこまでも人間が作り出した現象であって、神は人と戦われることは決してないのです。今度、虹をどこかで見ることがあったら、美しい地球を保証しておられる神様に感謝してください。

.備忘のしるし

 神が雲の中に置かれた虹の第二のしるしは、神の備忘のしるしです。9章の前の大洪水の最中の出来事が記された8章1節に、見落としてはならない非常に大切な一句があります。「神は、ノアと彼と一緒に箱舟にいた全ての獣、全ての家畜を忘れることなく、地上に風を送られたので、水の勢いは収まった。」この「神は忘れることなく」と言う一句です。別訳の聖書はこれを「心に留め」とか、「覚えておられた」「御心に留め」「心にとめられた」「顧みられ」と意味深長に訳しています。その上で、9章14、15節に主は、こう語られたのです。『私が地の上に雲を起こすとき、雲に虹が現れる。その時、私は、あなたがたと、またすべての肉なる生き物と立てた契約を思い起こす。』 

それは、契約の相手に対して恵みを持って関わろうとする行為、深い哀れみの行為ですね。神はご自分のことで心が精一杯なのではありません。契約の相手、被造物のことで心がいっぱいなのです。神は、ご自分が忘れないように虹を作られた。だからたまには神が忘れることもある、と言うのではありません。神は虹が無くても絶対に忘れることはないのです。イザヤ49章14節を読むとこうあります。「しかし、シオンは言った。『主は私を見捨てられた。わが主は私を忘れられた。』と」シオンとはイスラエルのことです。神の民として選ばれたイスラエル人たちも、しばしば辛い経験をする時には、「自分たちは神に忘れられてしまったのだろうか」と思い込み悩むことがあったようです。しかし、それに対して主は、こう答えられるのです。『女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない。見よ。私はあなたを手のひらに刻みつけた。』人によっては、何か大事な事を忘れないようにと指にこよりを巻いておくなどしたものです。主はそれどころではありません。「手のひらに刻みつけた」と言われるのです。それは絶対に忘れることはないとの強調表現です。

人が内心恐れていることの一つは、誰からも覚えてもらえず、忘れ去られてしまうことでしょう。覚えていて欲しいのです。忘れられたくないのです。現在ではネット上の相互交流通信ソフトの進歩が顕著で、フェイスブックを利用する人々がたくさんいますね。あまり沢山の人から来るので、私はチェックすることも稀ですが、中にはご自分の写真や出来事を詳細に送って来られる方が結構おられます。知ってもらいたい、忘れられたくない、「いいね」を押して欲しいのです。そういう動機が背後にあるのかもしれませんね。人間は社会的に共同して生きる存在ですから、そのようなニーズは当然かもしれません。それにもかかわらず、誰からも覚えられなくても、忘れさられ、無視されることがたとえあったにしても、神は忘れられることがありません。それが、このノアに与えられた虹に込められた意味なのです。私たち人間の知識には限界があり、神については極めて少ししか知りません。24時間の一日のうちでどれだけ神を忘れずに覚えて、意識しているかと言われると、恥ずかしいばかりです。しかし、聖書は言うのです。神を愛する者は、神に知られているのです。イエスを主と信じるだけで、それによって神を愛するようになる時、神に知られているのです。エペソ1章によれば、何と天地が創造される前から、私たちは、神に予知され予定され、神の子供となるよう選ばれていたとまで、言われているのです。神に知られている、覚えられている、数えられている、忘れられていない、何と素晴らしい恵みでしょうか。今度虹を見ることがあったら、『私は神に覚えられている!』そう思い出して、神を賛美してください。

.忍耐のしるし

 神が雲の中に置かれた虹の第三のしるし、それは神の忍耐のしるしといったらよいでしょうか。先ほども読んだ8章21節を今一度、ゆっくり全部読んで見ましょう。「主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。」主が地を呪うこと、打ち滅ぼすことを二度としない、しかも、その理由が「人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。」とはどういうことでしょうか、矛盾しているように思われないでしょうか。「ノアよ、お前たち残された者たちは、申し分なく善良で、好ましいので、もう二度と滅ぼさない」そう言われたのではないのです。大洪水であのノア時代の人々が滅ぼされた理由は、創世記の6章5、6節で明らかですね。「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」」大洪水の理由は、明らかに、地上の悪の蔓延、悪への傾向です。悪の許容限度が超えたため、義なる神は放置することをされなかったのです。当然です。それなのに、主が二度と滅ぼさない理由として「人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。」と語られたことは何を意味するのでしょう?それは6章6節が理解の鍵です。「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」神の人類に対する悲しみ、痛み嘆きがここにあります。神はその義の性質のゆえに、洪水前の人間の悪を裁き罰したのですが、大洪水の後に起こされてくる、新しい人類に期待され、人類救済の計画を実行するために、二度と滅ぼさないと決められたのです。

人が心に計ることは、幼い時から悪い」この人間の悪への傾向は、何も洪水後も変わるわけではありません。それから起こってくる新しい人類も、洪水前の人間と変わらず悪へ傾くことになることがわかっている!しかし、慈愛に富める神は、歴史時間の中に、神の民イスラエルを起こし、イスラエルから救い主、御子イエス・キリストを送り出されることを計画されたのです。ローマ3章で、人間の罪を断罪する使徒パウロが、神の忍耐をこう述べます。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。」神はそれまでの人間の犯す罪と不義を見逃してこられた!人間の反逆を忍耐してこられたと言うのです。そして、御子は人の姿をとり十字架に罪の赦しを得させる贖いの死を遂げ、復活されたイエス・キリストを信じる者を、その信仰ゆえに救おうとされたのです。

 この神の忍耐は、ノアの時代にでさえもあったことが調べて分かります。ノアは500歳で三人の息子を生みますが、大洪水は600歳の時に起こりました。と言うことは、ノアは、迫り来る大洪水の裁きに向けて、箱舟を建造するよう神に命じられ、それから100年近くかけてコツコツと大きな箱舟を建造し、その一方で、ノアは人々に罪の悔い改めを説き、箱舟に入るように、洪水による裁きの滅びから救われるよう勧告し続けたのです。それは神の憐れみ、忍耐の表れでした。神は人が滅びることは欲せられなかったのです。大洪水は突然、やってきたのでは決してありません。神の警告が人々に十分になされ、人々に対しては、猶予が与えられていたのです。それと同じことが今の時代にも言えるのです。ノアの箱船は、主イエス・キリストによる救いの雛形です。昔の人々が箱舟に入れば救われたように、今は、主イエスを信じるなら救われるのです。ですから、神が忍耐してくださったので、時至って、私も皆さんも救われたのではありませんか。

 ここでマタイ24章37節から語られた意味深長な主イエスの言葉を聞いてみましょう。『「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前、ノアが箱舟に入る日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が来て一人残らずさらうまで、何も気が付かなかった。人の子が来る場合も、このようである。」主は、ここでノアの時と同じようなことが、今の時代にも起こると警告されるのです。それは主イエスが再び来られる日、主の日、再臨の日のことです。ノアの時代は、水の大洪水で滅ぼされてしまいました。しかし、キリストの再臨に際しては、水ではなく火によって世界は滅ぼされる、と言われているのです。

 ペテロ下3章4〜7節では、主の到来を告げる使徒ペテロがこう語ります。 「『主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。』こう言い張る者たちは、次のことを忘れています。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのですが、当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。しかし、今の天と地とは、同じ御言葉によって取っておかれ、不敬虔な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、火で焼かれるために、保たれているのです。」その先の9節にはこうも書かれています。「ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」今は恵みの時、救いの日です。福音は語られ、信じる者が救われる時代です。ノアの時代に箱舟に入れば救われたのと同じです。しかし、洪水の日が突如、準備のできていない人々に到来しました。箱舟にノアの家族と動物たちが入ると、箱舟の戸は主によって閉じられてしまったのです。「そこで主は、その後ろの戸を閉じられた。」今、この時代にも救いの戸が閉じられる日が、必ずやってきます。閉じられてからでは間に合いません。遅いのです。

 私たちはノアに対する神の虹の契約に、人類に対する神の忍耐をも見なければなりません。洪水により二度と滅ぼすことはしないと約束された神は、次回は水によらず火により、全宇宙を滅ぼし、新しい天と地を呼び出そうとしておられるのです。それが私たちの希望です。今現在は、全ての人が、信じても信じなくても、神の一般恩恵の中に生かされています。「地の続く限り、種まきと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜、これらがやむことはない」8章22節 神の保全される自然の恩恵に生かされています。しかし、それは「地の続く限り」なのです。大地が宇宙と共に火で焼き尽くされるときには、神の恩恵はやむのです。今この恵みの時に、主に信頼し、自分の分を果たすことにしましょう。主はあなたを覚え、手のひらに刻んでおられます。主はあなたを決して忘れることがありません。顧み、心を留めておられます。神の祝福がありますように。

10月23日礼拝説教(詳細)

「私は何者なのか」  ヨブ記38章1〜18節

主は嵐の中からヨブに答えられた。

知識もないまま言葉を重ね主の計画を暗くするこの者は誰か。

あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。

あなたに尋ねる、私に答えてみよ。

私が地の基を据えたときあなたはどこにいたのか。それを知っているなら、告げよ。

あなたは知っているのか、誰がその広さを決め誰がその上に測り縄を張ったのかを。

地の基は何の上に沈められたのか。誰が隅の親石を据えたのか。

夜明けの星々がこぞって歌い神の子らが皆、喜び叫んだときに。

海がその胎内からほとばしり出たとき、誰が海の扉を閉じたのか。

私が雲をその上着とし、密雲をその産着としたときに。

私は海のために境を定め、かんぬきと扉を設けた。

私は言った。「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。あなたの高ぶる波はここで止められる」と。

あなたは生まれてこの方、朝に命じ曙にその場所を示したことがあるか。

地の果てをつかんでそこから悪しき者どもを、振り落としたことがあるか。

地は刻印を押された粘土のように変わり、上着のように彩られる。

悪しき者どもからその光は取り去られ、振り上げた腕は折られる。

あなたは海の源まで行ったことがあるか。深い淵の奥底を歩いたことがあるか。

死の門があなたに姿を現したか。

死の陰の門をあなたは見たことがあるか。

あなたは地の広がりを悟ったのか。そのすべてを知っているなら、言ってみよ。

 今日も共に主を礼拝できる恵みに感謝します。今日開かれている旧約聖書のヨブ記、この42章からなるヨブ記のテーマは、『人は何故苦しむのか』と言われております。作家の林芙美子さんが好んで色紙に書かれたという詩の一句は「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」でした。人が生きることは楽ではありませんね。苦しむことが本当に多いのです。その人として途轍もない苦しみを味わったその典型が、ヨブ記の中心人物、ヨブでありました。そのヨブの人となりは、かなり詳しく1章に記録されています。それを見る限りでは、ヨブは、何処から見ても申し分のない立派な人物であります。ところが、そのヨブに突然苦難が襲いかかるのです。一夜にして莫大な全財産を失う、10人の娘、息子の全員が大風で潰れた家で圧死してしまう、そのヨブに悪性の皮膚病が感染する、挙げ句の果てに、妻に罵られ出て行かれてしまう。それは、それは、ヨブを惨めにする、凄まじいばかりの苦難でした。それにも関わらず、ヨブは「主は与え、主は奪う。主の名は褒め称えらますように」と言って、踏みとどまることができたかのようです。それでいてしばらくすると、「私の生まれた日は消えうせよ」と、自分の生まれた日を呪うようになってしまいます。やがて、三人の親しい友人が彼を慰めようと、はるばる訪ねて来てくれたのですが、ヨブを慰めるどころか、逆効果でヨブを苛立たせるばかりでした。何故なら、彼の友人たちは、揃いも揃って、ヨブの苦しみの原因を、ヨブの犯した罪過ちに対する天罰だ、と一方的に決めつけたからなのです。ですからヨブは、懸命に助けを求めて、神に叫び訴えました。その呼びかけに応じるかのように、神がヨブに呼びかけられたのが、今日の聖書箇所、38章なのです。ヨブに対する神の答えは、それから41章までと、かなり長く続くのですが、どういうわけか、ヨブの疑問には、一言も神は答えられていません。神が質問に答えるというよりは、その真逆であって、神は次々とヨブに質問を浴びせかけ、その数は60以上にもなっているという具合です。ヨブ記から私達が学ぶべきことは何でしょうか?それは、「問われるのは神様ではなく、私たち自身、即ち人間である」ということ、人間は、発信者ではなく受信者であるということなのです。

.何者か

 嵐の中から神は、ヨブにこう問いかけられます。『知識もないまま言葉を重ね、主の計画を暗くするこの者は誰か』(2節)神はヨブを、お前は「主の計画を暗くする者」だ、と言われました。この「計画を暗くする」とはどういうことでしょうか?

ここで言われている神の計画とは、全宇宙、全世界、その創造全体に関わる神の構想、デザインのことです。聖書は、万物一切は、神が創造されたと言います。天地万物は、神がデザインされ、すべて残らず目的に沿って、造り出されたものです。神は光を造られました。海を造られ、大地を造られ、そこに生きる動物、植物を、最後に人間を造られ、そして、造られるたびに「神は見て良しとされ」たのです。創造の完成した時には、「神は、造ったすべてのものをご覧になった。それは極めて良かった」と記され、何もかもが最高の出来栄えだった、と証言されています。ところが、ヨブは、この神の計画、即ち神の創造の業を暗くしている者だ、と言われるのです。ヨブは、神の良しとされたものを、悪しとしたということです。神が明るいとされたものを、ヨブは暗いとしたのです。全財産を奪われる、子供が死んでしまう、不治の病に侵される、妻に逃げられる!ヨブは、自分の体験した途轍もない悲惨な苦しみの故に、それが、神様のはかりごと、神の計画であるならば、それこそ、ゾッとさせるような暗黒のデザインではないかと、思わざるを得なかったのです。「神様が本当におられるなら、どうして自分だけこんなに苦しい目に合わなければならないのだ。ひどいことをされるではないか?」、「私は神を信じることは信じているけれども、神がなされることはどうかと思う。あんまりではないか!」と、思い悩んでいたのです。今朝の皆さんはいかがですか。自分の身に起こった辛い出来事や、理解しがたい苦しみのために、神様の計画を暗くしてはいないでしょうか。「何故ですか。どうしてですか。私には到底、理解できません。素直に納得できません」と、密かに思い悩んではいないでしょうか。主は、一人ひとりに、「あなたは、神の計画を暗くしている者ではないか?」と問いかけておられるのです。あなたも、私も、偉大な創造者の前で、「あなたは、一体何者なのか」と問い掛けられているのです。何故か苦しみの理由が分からなくても、万事を益に変えることのできる、主な神様の前に出て、神の問いかけに、応じることが求められているのであります。

.何処に居る

 今月5日のことでした。宇宙開発事業を手掛ける米スペースXが、宇宙飛行士4人を乗せた宇宙船クルードラゴンを、フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げた、と報じられました。この飛行士の一人が、宇宙航空研究開発機構・特別参与の若田光一さんです。今回は5回目の乗組員として出発しています。今回も恐らく宇宙空間に半年近く滞在されることになるはずで、活躍が大いに期待されるところです。もし誰かが『若田さん、今あなたは何処に居ますか?』と尋ねるなら、彼は「私は、今、高度は408キロのステーションに居ますよ。」と答えてくれることでしょう。

 主なる神は、ヨブに、こう尋ねられたのです。4節です。『私が地の基を据えたときあなたはどこにいたのか。それを知っているなら、告げよ』 神様は、「私が、地球を造った時、お前は一体何処にいたのか」と尋ねているのです。「地の基を据える」とは、天地創造の、地球の創造を指し示しています。古代人は、地球は広い広い平面だと考え、硬い土台の上に置かれていると考えていたようです。勿論、現在では私たちの理解は違っています。丸い地球が、宇宙空間に、浮いていることは、誰でも知っている事実です。では、この地球が何故存在するのでしょうか。地球上の全ての生き物は、何故存在するのでしょうか。偶然に、そして進化した結果なのでしょうか。聖書は、それに対してただ一言、「初めに神が天と地を創造された」(創世記1章1節)と答えます。地球とそこに住むすべての生物は神が造られたのです。

このヨブ記の38章39節~39章30節には、それはそれは沢山の動物たちが登場してまいります。ライオン、烏、野やぎ、雌鹿、野ろば、野牛、だちょう、馬、たか、わし、河馬、それにワニ。どれも人間にとっては、どちらかといえば、親しみ難い生き物ばかりです。時には人間に危害を与え、脅威となるような動物たちです。またそれらの動物の生態は、人間中心の目線から見るならばとても不可解千万です。

 たとえば、39章1318節に記されている「だちょう」の生態がそうです。だちょうは元気よく羽ばたくことはできても、不思議なことに少しも飛ぶことができません。また卵を産んでも産みっぱなしで、地上に放置し、砂の上で自然の力で暖めて孵化させます。孵化する前に、人や獣が足で踏みつけて、つぶしてしまうかもしれないのです。子に対する親鳥の扱いも荒く、せっかく生んで育てたその労苦が無駄になってしまうことも気にしません。17節では「神がこれに知恵を忘れさせ、分別を分け与えなかったのだ」としていますが、走るとなると馬を見下すほど恐るべき威力を発揮するのです。これもまた神の創造の不思議さなのです。

 主は、このように38章から41章まで、次々と、もっぱら創造の業を詳細に語られるばかりであります。そして神は、ヨブに、「私が万物を創造する時、あなたはどこにいたのか」と問われるのです。そして、「それを知っているなら、告げよ」と促されるのです。「あなたはどこにいたのか」天地万物の創造に際して、誰一人として、そこに居合わせた者はいません。人とは、人間とは、私とは、一体何者なのでしょうか?旧約聖書のコヘレトの言葉の2節は、あのよく知られた出だし文句、「空の空、空の空、一切は空の空である。」で始まっていることをご存知でしょう。その一切には、人間存在も当然含められています。我々人間の存在自体が、本質的に空だと言うのです。「空」とは、はかない、束の間であることです。人は、母の胎を出て存在を開始します。しかし、その人生は、どんなに長く感じられたとしても束の間なのです。人生はあっという間に終わってしまうのです。神の創造された宇宙、空間、時間において、その存在は極めてはかない、瞬きの一瞬に過ぎないのです。「私が地の基を据えたときあなたはどこにいたのか。」イエス・キリストを主と信じ受け入れ、神の創造の御業に心が開かれる時に、不思議なことです!自分の人間存在、何者であるかを悟らされるのです。

.何が出来る

 最後の主のヨブに対する質問は、「お前に何が出来るか」に要約されます。38章の5〜8節までを読み進むと、そこに4回繰り返される言葉があり、それは「誰が」です。「誰が決め、誰が測り、誰が据え、誰が閉じたか」と、それが誰か、ヨブに「あなたは知っているか」と主が問いかけられるのです。更に9〜11節を見れば、「私が上着とし、私が境を定め、私は言った」と、先の「誰が」の問いに対し、それは神ご自身である、と神が答えておられます。そうなのです。天地万物を創造されたのは、誰でもない創造者なる神なのです。神様が地球の大地を、建築家が土台の上に家を建てるように造られたのです。神様が陸地を取り囲む大海原を造られたのです。8節を読むと、「海がその胎内からほとばしり出たとき」と、助産婦が胎児を扱うかのように海の創造が表現されます。8節にも、10節にも「海の扉を閉じた」「海のためにかんぬきと扉を設けた」と似た表現が繰り返され、11節には「私は言った、『ここまでは来てもよいが、超えてはならない。あなたの高ぶる波はここで止められる』と。」記されています。10節「私は海のために境を定めた」今度、近くの海に行くことがあれば、確認してください。8〜11節で海の創造に関して強調されていること、それは、海が神によって陸地に対してしっかり制限しておられることです。それに続いて、更に12〜18節を読み進むなら、ヨブに対する問いかけとして、『あなたは』が今度は何回も繰り返されます。「あなたは示したことがあるか、行ったことがあるか、歩いたことがあるか、姿を現したことがあるか、見たことがあるか、悟ったか」と機関銃のように、神がヨブに問いかけ、畳み掛けられるのです。言い換えれば、ヨブに対して「お前に何が出来るのか」と、主なる神は問いかけているのです。この偉大な創造の御業を前にして、ヨブの答えは、ここにはありません。しかし、彼は答えているのです。最後の42章2節に、答えているのです。ヨブは言いました。『私は知りました。あなたはどのようなこともお出来になり、あなたの企てを妨げることはできません。』ヨブは、天地創造の詳細を啓示された結果、一つの重大な告白に導かれたのです。

それは神が全能の神であることです。ヨブは「私は知りました。あなたはどのようなこともお出来になります。」と告白しました。天地万物、森羅万象が全て神の創造の業であるとは、神が全能の啓示です。それが、また、今日、私たちの信仰の告白ではありませんか。ですから、私たちは今日も礼拝で、使徒信条の最初に『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』と告白したのです。

そして非常に大切なことは、この創造の啓示によって信仰告白に導かれた結果、私たちには、人間としての自分の役割が明らかにされることなのです。ヨブは「あなたの企てを妨げることはできません」と消極的に続けて告白しているようですが、これを積極的にひっくり返せば、「私はあなたの企ての協力者です」という告白につながっているのです。神は創造の秩序の中に、私たち人間に特別な使命を与えられました。それは、人間が神の被造物の管理者となることです。

 詩篇8篇4〜7節にはこう歌われていますね。「あなたの指の業である天をあなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ、栄光と誉れの冠を授け、御手の業を治めさせ、あらゆるものをその足元に置かれた。」神は人間を神に似せて造られました。その類似性とは、神が万物を治めるように、人間もまた、神と共に治めるということなのです。人は、神の創造の信仰を受け入れることによって、誰でも、神の創造の業に参加することを使命とすることができるのです。

 金曜日のテレビで、滋賀県のホースセラピー実施施設が紹介されるのを何気なく見ていました。登校拒否児童や自閉症の子供達が馬と親しむことで癒されていくというのです。言語障害の子供が言葉を少しづつ話せるようになるというのです。可愛い小型の馬に乗る笑顔の子供達の笑顔が、とても印象的でした。そればかりか、競馬を引退した競走馬の世話も引き受けているとのことでした。何とも微笑ましい神の被造物の管理者を、私はそこに見て感動しました。人は、神の創造の啓示を受ける時、神の全能性を見せられると同時に、自分の役割をも、見いだすことができるのです。「お前には何が出来るのか?」勿論のこと、神のように私たちは全能ではありません。しかし、神と共に働くために、何かしらの能力、才能、天分が与えられているのです。

 ヨブと同じく「神の計画を暗くする」ある家族が、洗礼を受けられたという、素晴らしい証を見つけたので、ここで紹介しておきましょう。これはある牧師が、自分の目で確かめた実際の話しですから聞いてください。「私(その牧師自身のこと)が洗礼を受けた教会で、長年求道生活をされていた大学の教授がいました。まず、奥様と中学生の娘さんが洗礼を受けられました。奥様が教会の会報に受洗の記を綴られました。取り返しのつかない苦しみがあることを述べられた後に、八木重吉の「解決」という詩を引用されました。『キリストが解決しておいてくれたのです。ただ彼の中へはいればよい、彼につれられてゆけばよい』。私はその文章を読みながら、奥様が中学生の娘さんと受洗した背後に、大きな苦しみがあったことを知りました。しかし、ご主人だけは洗礼を受けられずに、求道生活を続けておりました。そのご主人が遂に洗礼を受けられました。自らの信仰随筆集を書かれました。『腰に帯して、男らしくせよ』。随分変わった題だなと思いました。その題がヨブ記383節から採られたのを知ったのは、後のことでした。ご主人もずっと取り返しのつかない苦しみを背負い続けて来られた。自らの過失により幼かった長男を死なせてしまった。車をバックさせる時に、長男がそこにいたとは知らず、引いてしまった。自責の念に駆られ、ずっと神へ問い続けて来られた。その方が長年の求道生活を経て洗礼を受け、受洗の記に『腰を帯して、男らしくせよ』と、ヨブ記の言葉を表題にされた。「わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(3節)。神の問いかけ、腰に帯して、男らしく答えよと神は求められる。その方にとっての洗礼とは、神に問いかけて生きることから、神に問いかけられて生きることへの転換であったのです。」 

 ヨブに問いかけられた同じ主が、あなたに、そして私に、今朝、問いかけられます。「あなたは何者なのか?」「あなたは何処にいるのか?」「あなたに何が出来るのか?」

ヨブ記から学ぶことは、神への発信者ではなく、神の受信者となることです。主は、皆さん一人一人に御顔を向けられます。そして親しみを込めて「あなたは何者か」と、問いかけておられます。神に「何故ですか?」と問う者から、神に問われる受信者として「主よ。私がここにおります」と応答させていただきましょう。

1016日礼拝説教(詳細)

終末の待望姿勢」  マタイ25章1〜13節

「そこで、天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、灯は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれの灯と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆うとうとして眠ってしまった。真夜中に『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれの灯を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。私たちの灯は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が着いた。用意のできている五人は、花婿と一緒に祝宴の間に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。

しかし主人は、『よく言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから。」

 今日、この聖書箇所、マタイ25章が選ばれたのは、教会暦によれば、今日が一年最後の主の日で、これが、この日に読まれる聖書箇所の一つとされているからです。教会暦と言ってもピンと来ないかもしれません。しかし、教会では、12月になればクリスマスを祝います、4月になればイースター、更に6月にはペンテコステを記念します、それは、教会暦に従っているから、と言えば分かるかもしれません。その教会暦で来週は、降誕前第9週とされ、新しい年度が始まることになっているのです。この十人の乙女の喩えは、実は、24章に始まる世の終わりに関する主イエスの教えの中に、織り込まれており、前後を読むことによって、よりよく理解することができるはずです。

Ⅰ.天の国の接近

 先週月曜日のこと、午後2時から、39の教会からなる関西教区聖会に、講師には婦人牧師の中里恵美先生をお招きし、オンライン形式で実施されました。私たちも、一階を会場に集まる形で参加し、中には自宅で参加された方もあることでしょう。私は、中里先生のお話しを聞いていて、先生がキリストを信じる最初のきっかけが、中学生の時、笹で包まれた細長いチマキを食べられたことが、非常に印象に残りました。そのチマキを食べてお腹を壊し、翌日学校を休んだため、予定されたクラブ活動の申し込みで希望した部に入部できず、その結果、卓球部に入ることになる。やがて実力を発揮され、数々の卓球大会の個人戦で優勝し、注目されるようになると、ある高校の教師から誘われ、その高校に入学した。その高校のクラスにクリスチャンがいたので、教会に行くようになり、福音を聞いて信じて救われたと言われたのです。「チマキを食べていなければ、今、私はここにはいません。」と先生は笑って語っておられました。面白いですね。その福音を信じて救われたという中里先生が、今では、その福音を伝える牧師になっておられる。その中里先生が聖会の主題とされたのが『広がる福音 届ける福音』であった。コロサイ1章6節を主題聖句とされ、非常に分かり易く、歯切れのよい語り調で、力強く説教してくださいました。

  福音の中心

 中里先生が救われたという福音、中里先生が、此度の聖会の主題とされた福音、一体福音とは何でしょうか。福音とは文字通りの意味は、「良きおとづれ」、グッドニュースですね。それは、神様が、人間の罪を赦すために遣わされた神の御子イエスが、十字架で死に、復活されたことです。この蘇られた主イエスを信じる人は、誰でも罪赦され救われる。神の子とされ、クリスチャンとされる。それが福音です。更にもう一歩進んで言うならば、福音を信じて救われ、神の子とされ、クリスチャンとなるとは、その生活が、王なる主イエスに支配され、治められる神の民となり、主に従い生きる者になる、ということなのです。

別な言い方をすれば、イエスを信じた者は、日本人でもアメリカ人でも、韓国人でも、誰でも、神の国に入れられ、神に治められて生きる者とされる、ということなのです。この25章1節で主が、「そこで、天の国は、」と言われた時、天の国とは、実は神の国のことと同じであります。ユダヤ人は神を畏れ敬い、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という十戒の戒めに文字通り従うことにより、神という言葉を口にすることを極力避け、代わりに神を天で言い表すのが当たり前になっていたからです。聖書を通して分かることなのですが、主イエスの語られた中心メッセージは、一貫して神の国、天の国でありました。

公生涯の最初のメッセージが、マタイ4章17節にあり、そこで主は『悔い改めよ、天の国は近づいた』と語っておられます。ここで主は、『天の国は近づいた』と、非常にデリケートな言い方をされました。これは、主イエスが、今、到来したことによって神の国、神の支配が開始され、やがて、再び主イエスが来臨されるときに、完全に実現成就することになる、ということなのです。伝えられた報道では、5日に、ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ東、南部4州を併合するという条約に署名したので、ロシア領になったと宣言しました。しかし、12日には、193カ国が参加した国連総会で、圧倒的多数でロシアによる4州併合は違法だ、と決議採択されました。ロシアは住民投票によるのだ、とその正当性を主張するのですが、それは住民の自由意志によるものではない、それは強制だとして国連は否決したのです。ロシアは、暴力によって強制的にウクライナから領土を奪い取り、これをロシアの支配下に入れようとしています。しかし、神による人間の統治は全く違うのです。神の国、神の人の心の支配は、暴力によるものでは、全くありません。それは、神の愛によるものなのです。

  本当の現実

 人の罪の赦しを得させる十字架の死を遂げた主イエスは、三日目に、復活されました。その復活された主イエスが、マタイ28章18節でこう言われます。「私は天と地の一切の権能を授かっている」と。そうして、主イエスは、昇天され天の父の右に座し、今や全世界、全宇宙の主権者として支配しておられるのです。エペソ1章20、21節にも、このように証言されています。『神は、この力ある業をキリストの内に働かせ、キリストを死者の中から復活させ、天上においてご自分の右の座に着かせ、この世だけでなく来るべき世にある、すべての支配、権威、権力、権勢、また名を持つすべてのものの上に置かれました。

主イエス・キリストが、今現在、主権者として、『この世だけでなく来るべき世』において、支配される。 覚えてください。これが真の現実なのです。主イエスは、この世に、人に仕える僕(しもべ)として来られ、十字架に犠牲となられました。しかし、主イエスは、三日目に復活され、昇天された今、世界の主権者として治めるなのです。この王なる主イエスが、再び来られる時に、神の国が完成すると言われている。そして、ここ25章の喩えよって、キリストの再臨によって完成する神の国を、主イエスは、喜びに満ち溢れる結婚の婚宴に、喩えられたのです。

  終末の希望

 しかし、今現在を生きる多くの人々の心にあるのは何でしょうか。それは、「一体、これから未来はどうなっていくのだろうか?」と言う、未来に対する漠然とした不安ではありませんか。それが共通感情なのです。私たち人類は、自分たちの手で築き上げた文化、努力によって理想社会ができると夢見、努力してきました。しかし、20世紀に入るや世界を巻き込む大戦が連続し、その理想は吹き飛ばされてしまったのです。日本は唯一、核爆弾の悲劇を経験した国ですが、今や、核は世界に拡散しつつあり、もし、核爆弾を使用するような戦争が勃発すれば、世界は自滅するだろうと言われています。アメリカの原子力科学者会報が定期的に発表している「世界終末時計」をご存知でしょう。世界の冷戦が危惧され始めた1947年に、その時計は、世の終わりまであと『7分』だと設定されました。昨年2021年はそれが何と『100秒』、すなわち1分40秒と設定されたのです。今年勃発したロシアのウクライナ侵攻が、何秒縮められるでしょうか?

聖書は、この私たちの住む世界が、人間の力と知恵と努力によって、理想社会が実現するなどとは、一言も言っておりません。むしろ、否定的であり見通しは暗いのです。主イエスは、マタイ24章6、7節でこう語られました。「戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、ほうぼうに飢饉や地震が起こる。」これぞ、現在の世界のリアルな描写そのものなのです。しかしながら、それにもかかわらず、世の終わりは明るいのです。

一つの事実、即ち、主イエスが再臨されることによって、極めて明るいのです。その明るさを、聖書は結婚式の婚宴のようだと、主は明らかにされるのです。

.油断なき待望

 ユダヤ人達は、新郎新婦を祝う婚礼を、町を挙げての祝賀行事にしていました。婚礼は花婿の家で行われ、花婿が花嫁の家に迎えに行くのです。その婚礼のユダヤ人の習慣は、とても現代の私たちには信じがたいことですが、婚礼の日、花婿の家は、誰にも開放され、祝いが一週間も延々と続くというものです。カナの婚礼で葡萄酒が不足したというヨハネ2章の出来事は、それでよく分かりますね。新郎と家族は、祝宴のために大量のワインとご馳走を準備する、それが当時の習わしだったのです。この喩えでは、花婿が来臨するキリストを指し示し、教会が10人の乙女に喩えられています。10人の乙女は、花嫁の友人で花嫁の側に待機し、夜、花婿が迎えに来た時には、灯りを灯して踊りを踊って出迎えるのが習わしでした。

  再臨の遅延

 そこで、ここで起こった問題とは、花婿の到来が、予想したよりも大幅に遅れたこと、真夜中になったことです。マタイ24章30、31節に、主イエスはご自身の来臨の有様をこう語っておられます。『その時、人の子のしるしが天に現れる。そして、その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの響きとともに天使たちを遣わし、天の果てから果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。』しかし、主イエスは36節でこうも語られたのです。『その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。』当時、初代教会では、主イエスの来臨が、直ぐにも起こると思われていたようでした。しかし、事実はそうではありません。花婿が遅れたように、主イエスの再臨は、2000年が経過した今に至るまで、まだ実現していないのです。主イエスは聖書の最後、黙示録22章で、「然り、私は直ぐに来る」と約束されました。遅いように思えても、真実な方が来ることに、違いはありません。

  待望の姿勢

 ここで強調されている問題点、それは、教会が主の来臨を待つ姿勢なのです。花婿の到来が遅くなり夜中にずれ込んだ結果、10人は全員眠り込んでしまいました。そして、その時です、突然、「真夜中に『そら、花婿だ、迎えに出よ』と叫ぶ声がした」のです。目を覚ました乙女たちの直面した問題は、10人の乙女のうちの五人が、灯油が不足したため、準備が間に合わなかったことです。賢い乙女と言われた五人の賢さは、事前に予備の油を壺に準備していたことです。残りの五人の愚かさは、油の準備がなかったことです。

「分けてください」と必死に頼んでも、断れられ、店に行って油を買ってくるよう提案されるのですが、買いに行っている間に花婿は到着してしまい、彼らは婚礼の席に入れてもらえませんでした。この喩えの最後の13節で、主イエスは『だから、目を覚ましていなさい。』と語って喩えを閉じられるのですが、10人全員がうとうと居眠りしていたのですから、「目を覚ましている」その意味するところは、「準備していなさい」と言うことでしょう。

  灯油の予備

 では、教会が、つまり私たちが、心の目を開いて、主イエスの再臨を待望する備えの「油」とは、何を意味するのでしょうか。この油が何を意味するか、読む人によって、かなり適用が異なるのですが、この聖書箇所の前後から言って一言で、それは「愛の業」に尽きるといって間違いありません。この10人の乙女の喩えは、24章から続く終末の教えの中の45節からの「忠実な僕(しもべ)と悪い僕」、25章14節からの「タラントンの喩え」の間に挟まる二番目の喩えです。三つの喩えが連続しています。その結論とされるのが、31〜46節の教えであり、そこで、主イエスは、「小さい者にしたこと」が、私にしたことだと語られるのです。そこに、世の終わりに臨む教会に最も大切なこと、それが愛の業であることを教えられたのです。再び来られる主イエスの来臨を待望する姿勢とは、「もう直ぐに、間も無く来られる」と熱狂的になり、仕事や家庭をほっぽりだし、教会に立てこもって断食祈祷することではありません。或いは、「直ぐに来る」と言われているのに、来ないではないか、いつ来るか分からないではないか、それまで、ギリギリまで、愉快に楽しく遊び呆けていればいいじゃないか、でもないのです。来臨を待望する終末に生きる姿勢、それは、未来に開かれた目を持ち、主イエスの再臨を見据え、いま、目の前にある必要を覚えている人々に、愛を込めて、その必要を出来うる限り満たす、愛の業に励むこと、それが油の意味なのです。

主イエスは、山上の垂訓で、「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」(5章14、16節)と語られました。その「立派な行い」とは、愛の奉仕に違いありません。乙女たちが油を浸した灯りを掲げたように、教会は愛の奉仕を光として掲げ続ける、それが終末の待望姿勢なのです。

.賢愚の分れ目

 予備の油を用意していなかった五人の乙女が、「油を分けてください」とお願いしたのに、油の用意があった乙女たちが、それを断り、店に行って自分の分を買って来なさい、と突っぱねた発言には、何か冷たさを感じさせられます。しかし、ここに大切な真理が語り出されているのです。人は、自分の生き方を他人に代わってもらうことができない、ということです。人は、自分の生き方を自分で選択し、自分の意志で準備し、生きる責任があるのです。親は子供に代わって、子供の人生を生きることはできません。教師は生徒に代わって試験を代行することはできません。相手の生き方を助け指導することはできても、本人が自分で、自分の人生を生きるのです。賢い乙女と愚かな乙女の分れ目は、予備の油を準備していたか、いなかったか、にありました。世界は混沌とし、未来は判然としません。

漠然とした不安感情が世界を支配しています。しかし、世界は、主イエスにより治められておるのであり、その支配は再臨によって完成されるのです。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから。」と主は警告なされるのです。マタイ25章13節 目を覚まして、灯火を掲げ、備えあるものでありましょう。今週も隣人を愛し、家族を愛し、友を愛し、兄弟姉妹を愛し、世の光として輝かせていただきましょう。

10月9日礼拝説教(詳細)

「堂々とした敗北」  創世記32章23〜33節

だが彼は夜中に起きて、二人の妻、二人の召し使いの女、それに十一人の子どもを引き連れ、ヤボクの渡しを渡って行った。ヤコブは彼らを引き連れ、川を渡らせ、自分の持ち物も一緒に運ばせたが、ヤコブは一人、後に残った。

すると、ある男が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その男は勝てないと見るや、彼の股関節に一撃を与えた。ヤコブの股関節はそのせいで、格闘をしているうちに外れてしまった。

男は、「放してくれ。夜が明けてしまう」と叫んだが、ヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは放しません」と言った。男が、「あなたの名前は何と言うのか」と尋ねるので、彼が、「ヤコブです」と答えると、男は言った。「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ。」

ヤコブが、「どうか、あなたの名前を教えてください」と尋ねると、男は、「どうして、私の名前を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。ヤコブは、「私は顔と顔とを合わせて神を見たが、命は救われた」と言って、その場所をペヌエルと名付けた。

ヤコブがペヌエルを立ち去るときには、日はすでに彼の上に昇っていたが、彼は腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は、今日に至るまで股関節の上にある腰の筋を食べない。男がヤコブの股関節、つまり腰の筋に一撃を与えたからである。 

 主の御名を賛美します。今日読んでいただいた聖書箇所の表題は「ペヌエルの格闘」となっていますね。これは、イスラエルの族長ヤコブが、ある川を渡るに際して、一晩中ある男と、とっくみあいの格闘をしたという話しなのです。

ヤコブは、アブラハムの息子イサクに、妻リベカが産んだ、双子の兄弟の弟息子でした。ヤコブは、その性格が生まれつき、ズル賢いというのか、父からの財産相続権、一族を統括する支配権である兄エサウの長子の特権を、その兄を巧みに欺き、そればかりか、父イサクをも騙し、まんまと自分のものにしてしまいます。その結果、騙されたと分かった怒れる兄エサウが、自分を殺そうと誓ったのを知るや、ヤコブは、家を逃げ出し、叔父ラバンの元に20年間も、身を寄せることになります。

そこでヤコブは、叔父ラバンの二人の娘、レアとラケルを嫁とし、11人の子宝に恵まれたのですが、そこでも、巧みに工作することで、自分の財産を増やしたことで、叔父のラバンに疎まれ、遂に、家族財産をまとめ、夜逃げせざるを得無くなってしまいます。やがて、逃亡に気づいた叔父ラバンに追いつかれ、そこで何とか和解することができたのですが、ヤコブを郷里で待ち受けていたのは、復讐を誓った兄エサウでした。

そこでヤコブは、情勢を探るために、郷里の兄エサウに使いを派遣することにしました。ところが、その使いの報告は、ヤコブを震撼させるもので、彼を恐れと不安のどん底に突き落とすような内容でした。兄エサウが、何と400人を引き連れて、こちらに向かいつつある、というのです。穏やかではありません。

そこでヤコブは、エサウの到来に対して、入念な対策を講じます。先ずは、自分の全財産を、一つが兄に撃たれても、一つは残るだろうと算段し、二つの組みに分けることでした。次にヤコブは、神に助けを求め、懸命に祈りを捧げるのです。10〜13節です。最後にヤコブは、怒っているはずの兄エサウを宥めるために、贈り物を入念に用意しました。14〜16節によれば、550頭の家畜類で、それを種類によって5つの群れに分け、向かってくるエサウに、順番に贈るという、それはそれは、念入りな仕掛けでした。その上、それぞれの群れの僕達と打ち合わせ、「あなたの僕ヤコブも私たちの後から参ります」と言わせるのですが、その理由が21節に、「ヤコブは贈り物を先に行かせて、エサウを宥め、その後で顔を合わせれば、恐らく赦してくれるだろうと考えたのである。」と、書いてあります。

 さて、今日の聖書箇所の出来事が起こったのは、その宥めの贈り物を全部、送り出したその晩のことでした。ヤコブはその晩、夜中に起きるや、家族一同と共に、全財産を携えて、川を渡たることにしたのです。そして、川を全員が渡り終えたその時でした。ヤコブは、何故か元の宿営地に自分一人戻ることにし、そこに残ることにしました。その晩のヤコブの心境を、私たちは、察して余りあるものがあります。一族郎等400人を引き連れ、恐るべき兄エサウが、復讐するため、刻々近づきつつある。ヤコブは、持ち前の優秀な頭脳を働かせ、万全の対策を立てはしたものの、彼の心中は穏やかではありません。恐れと不安は、払拭されないままであったに違いないのです。

 まさにその時でした。そんなヤコブに一人の人が、突如現れ、夜明けまで格闘したというのです。日本の大相撲秋場所は9月に終わったばかりですね。私は相撲が好きなので時間があれば、よく観戦したものです。横綱照ノ富士は途中休場で、優勝したのは幕下の玉鷲でした。日本の相撲の歴史は古く、1500年以上続いていると言われ、どうやら相撲は、その年の農作物の収穫を占う神社の神事として行われていたようです。その中でも残っているものに、愛媛県今治市の大山祇神社に伝わる珍しい神事「独(ひと)り相撲」があります。田植え時期と刈り取り時期、二回行われ、境内で一人の力士が土俵上で独り相撲を取るのです。相手の姿はありません、それは稲の神様だとされるのです。私はその動画を見たのですが、今現在は市職員の一人が担当しており、必ず三番勝負で、稲の神が2勝1敗で、必ず勝つことに決まっている、それによって豊作だと占うのです。もしかしたら、相撲は、この聖書箇所のヤコブの格闘の伝承が、古代のシルクロードを通って、日本に伝わった結果かもしれません。

 さて、この川岸で夜通しヤコブと相撲を取った「ある男」とは誰のことでしょう、勝負の軍配は、どちらに上がったのでしょうか。聖書は聖書によって解釈されるという原則があります。ホセア12章3〜5節によれば、この男が、「神の使い」天使であったことが分かってきます。その5節に『彼は神の使いと争ってこれをしのぎ、泣いて恵みを求めた』とあるからなのです。旧約聖書には、しばしば天使が見える形で人に現れる出来事が、よく見受けられるのですが、その天使とは神学的に、受肉前の御子イエス・キリストであるとされています。その典型的な例が、創世記18章です。アブラハムに三人の旅人が現れたあの話しが有名ですね。アブラハムが、その三人を食事でもてなし、彼らと語り合うのです。彼らの到来目的は、老夫婦のアブラハムと妻サラに、来年の今頃、男の子が生まれる、という驚くべき知らせを告げることでした。この三人の旅人とアブラハムの会話を丹念に調べると、「彼らは・・・尋ねた」と書いてある途中から「主は言われた」に、次第に変わっていく変化に気がつきます。その三人は、明らかに天使達であり、しかも、その真ん中の一人は、受肉前のキリストに違いないのです。そこで、この受肉前のキリストを、ここ創世記32章に適用するならば、ヤコブが川べりで格闘した相手の男とは、間違いなく、受肉前のキリストであったに違いないのです。そうすると、そのように理解することによって、私たちの前に、素晴らしい真理が開かれることになります。それは、今日、私たちが、主イエス・キリストを信じるということは、キリストとガップリ相撲を取ることのようであり、それによって、素晴らしい恵みに、信じる者が、預かることができるということなのです。

I.      神を知る恵み

 このヤコブの格闘を通して分かる、主イエスを信じる恵みとは、第一に信じることにより、神を知ることができる恵みであります。

ヤコブは、夜通しこの男と格闘した後を振り返り、その場所を記念して「ペヌエル」と名付けました。ご覧ください。31節には、その理由が「私は顔と顔とを合わせて神を見た」からだと書いてあります。相撲では、四股を踏み、塩を撒いた力士が、立会う瞬間まで、土俵上で何度も、互いに顔を睨み、見つめ合いますね。ヤコブが真夜中の月明かりで、どの程度、その男の顔を見分けたか、私たちにはよく分かりません。しかし、彼はそれによって「神の顔を見た、神を見た」言葉を変えれば「神を知った」と言っているのです。人の顔には、重要な感覚器であるが集約され、顔はその人物を代表するものとして扱われるものです。顔を見る、顔を知るとは、つまりその人を知ることでしょう。相手の顔を見たヤコブは、その格闘の最中に、「どうか、あなたの名前を教えてください」(30節)とも、尋ねているのですが、教えられません。古代人は「その名をつかむ者は、その名を持つ者の力をつかむ」と考えていたと言われています。名前を知れば、人はそれを呼び出すことができるからです。残念ながらヤコブは、この格闘で、男の顔を見ることはできても、その名前を知ることはできませんでした。

 しかし、神は、御子イエスを人の形でこの世に送られることによって、神の御顔と神の御名を、イエスを信じるものに、同時に明らかになされました。神の御名は、ヤコブよりもずーと後で、モーセに明らかにされており、それはヤハウエ、すなわち「ありてあるもの」です。神は、モーセに対して『私は「私はある」である』と啓示されたのです。新約聖書の福音書を見れば分かることですが、主イエスは、幾たびも弟子達に「私はある」であると言われました。ギリシャ語では「私はある」が「エゴ・エミ」なのです。ヨハネ17章の最後の晩餐の祈りで、主は父なる神に、こう祈られました。6節です「世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。」26節でも「私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。」と祈られました。あの川岸の格闘で、男はヤコブに教えなかった神の御名を、主イエスは、教えるために来てくださったのです。神の御名を現し、御名を知らせるとは、信じた者が神を知ることであります。神が、どのようなお方であるかを知ること、それが、人間が生きる目的なのであり、人間としての最高の至福なのです。ですから、使徒パウロは証言し、こう断言して憚(はばか)りません。「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。」(ピリピ3:8)人生のある時、ある場所で、そうです。主イエスは、がっぷりと組んで、あなたと相撲を取り、私と相撲を取り始められたのです。主イエスに、言ってみれば、まわしを捕らえられたのです。そして、私たちも主イエスのまわしを捕えて離さないのです。それによって、主の御顔を拝し、主の御名を知る者とされているのではないでしょうか。

II.   新創造の恵み

 ヤコブの格闘を通して分かる、主イエスを信じる恵みの第二は、信じることにより、新しい被造物に造り替えられることです。ヤコブは、ある男との格闘最中に、「あなたの名前は何と言うのか」と尋ねられました。28節です。ヤコブと争う男は、自分自身の名前は明かしませんが、ヤコブは、その男の質問に率直に答え、「ヤコブです」と答えました。すると、男は、「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。」と突然、宣言したのです。ヤコブの名付けのいわれは、本当にユニークなものです。創世記25章には、イサクの妻リベカに双子が誕生し、名付けた場面が記録されています。最初に出てきた子にはエサウと名付け、続いて出てきた子には、名付け理由がこう書かれています。26節です。

「その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名付けた。」つまり、ヤコブとはかかとのことなのです。そればかりか、創世記27章36節によれば、兄エサウが騙された後で語った言葉に、由来があるともされており、エサウにこう語らせています。「あの男がヤコブと呼ばれるのは、二度もこの私を押しのけたからなのだ。私の長子の権利を奪いながら、今度は私の祝福を奪ってしまった。」 この「押しのけた」或いは「出し抜いた」がヘブライ語で「アーカブ」なので、ヤコブとは「押しのける者」を意味するといわれているのです。名は体を表すものです。ヤコブは生まれつき、兄の足のかかとを引っ張るもの、出し抜くもの、押し退けるもの、乗っとるもの、誠に忌まわしい性格の持ち主だったのです。

 しかし男と格闘した結果、彼は全く新しい存在に呼び出されました。「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。」イスラエルとは「神が支配される、神が守られる」と言う意味です。それゆえに、その名は、彼の後半生の生き方を決定的に方向付けるものとなります。26節によれば、その相撲格闘最中に、ヤコブは股関節が外されてしまったと言われています。男が一撃を与えたからだと言うのです。その先の32節には、戦い終わった後の様子が『彼は腿を痛めて足を引きずっていた』とも記されています。現在の横綱照ノ富士が、以前、大関時代に両足関節に大怪我をした結果、最下位の序の口まで落ち込んだことが知られていますね。それまでの彼は、自分の強さを誇り、非常に不遜な態度であったようでした。しかし、最下位から、懸命に再び昇りつめるまでに、彼は砕かれ謙遜な人格に変えられたようですね。

「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(コリント下5章17節)主イエスを信じる者が等しく経験させられるのは、傲慢な自我が打ち砕かれ、新しい人格へと変貌させられることです。押しのける者、ヤコブから、神に支配される者、イスラエルへと変貌させられるのです。それは、神の新しい創造の業です。信仰者は「新しく造られた者」とされるのです。しかし、間違ってはならないことは、ヤコブはヤコブでなくなった訳ではないことです。ヤコブはヤコブです。その同じヤコブが、イスラエルと呼ばれるようになるということです。彼は、新しい存在に呼び出されたのです。私たちは、主イエスを信じることにより、罪は赦され、罪の奴隷から解放されました。しかし、罪の影響力の元にあることには変わりがないのです。信仰者の清められる過程は、一生涯続けられなければなりません。主を救い主と信じることは、信じた者の自己同一性、アイデンティティが一新され、新しい自意識が生まれ、それによって、新しい生活を生み出すことになるのです。それは、神によって支配され治められることによる、全く画期的な新しい生き方なのです。

Ⅲ.祝福の恵み

 ヤコブの格闘を通して分かる、主イエスを信じる恵みの第三は、信じることにより、神の祝福を受けることです。ヤコブと格闘した男は、朝が近づくと「放してくれ」と言いますが、ヤコブは「いいえ、祝福してくださるまでは放しません」と食い下がりました。27節です。ヤコブは格闘する最中に、相手が天使であり、それはまた、主なる神ご自身の啓示であることが分かったと思われます。だから、彼は、恐ろしい兄エサウが近づくこの時、何が何でも神の祝福を取り付ける必要に迫られていたのです。神に祝福されることとは、「必ずある変化をもたらす」ことを意味しました。旧約聖書の中で祝福とは、安全が確保されること、多くの土地財産が与えられること、多くの子供を得ること、健康であることを意味したものです。ヤコブはそれを超えた祝福が必要でした。

 ヤコブは、恐れている兄エサウの接近を前にして、あらん限りの手は打ったつもりでした。財産を分散しました。12節「どうか、兄エサウの手から私を救ってください。私は兄が怖いのです。兄が私を、母親も子供達も殺しにやってくるのではないかと恐れています。」と、真摯に神に祈りさえも捧げました。しかし、心の不安と恐れは払拭されないままです。ところがどうでしょうか、30節「男は、その場で、彼を祝福した」とあるのです。その瞬間でした。ヤコブの心中から霧が霧散するように、不安や恐れが吹き飛んでしまったのです。32節を見てください。「ヤコブがペヌエルを立ち去るときには、日はすでに彼の上に昇っていた」それは穏やかな一幅の絵画のようです。夜の暗い不安な帳は去り、彼の上には明るい朝日が差し込み、そこに新しくされたヤコブが立っているのです。それは主イエス・キリストを信じる者の姿そのものです。

主イエスを信じる者は、神を知り、新しくされ、驚くばかりの祝福に預かり、困難にめげずに、立ち向かうことができるようにされるのです。次の33章に読み進むと、ヤコブと兄エサウの再会の記事が、感動的に展開され、詳細に記録されています。それは想像されたような恐ろしい残忍な復讐の光景ではなく、兄エサウと弟ヤコブの和解した美しい光景なのです。ヤコブは、よこしまな押し退けるものからイスラエルに、神に支配され守られる新しい人に作り変えられていたのです。主イエスを信じることは、主イエスとがっぷり相撲を取ることのようです。今週も、日々に主と向き合い、主とがっぷり組みあい、粘り強く祝福を得させていたこうではありませんか。

102日礼拝説教(詳細)

「まさか私のことでは」  マルコによる福音書 1412~25節

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言ったそこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。

「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人に付いて行きなさいそして、その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする宿屋はどこか」と言っています。すると、席のきちんと整った二階の広間を見せてくれるから、そこに私たちのために用意をしなさい。

弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスの言われたとおりだったので、過越の食事を準備した夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。

「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。

弟子たちは心を痛めて、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた

イエスは言われた。

「十二人のうちの一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与えられた。彼らは皆その杯から飲んだ

そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。

 今日、この説教に続いて聖餐式を執行する予定ですが、その根拠とは、主イエスが弟子たちと、過越の食事をしたことによるものです。その席上で主イエスは唐突に、こう言われたのです。「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」それに対する弟子たちの反応が、19節に記されています。『弟子たちは心を痛めて、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた。』 

この「まさか私のことでは」は、日本語聖書は9文字ですが、原語では短く僅か2文字です。この言葉の表現は、相手に対して否定の答えを期待する疑問形ですね。これは語る本人が、「私ではありませんよ」ときっぱり全面的に否定することができず、「私であるかもしれない」という気持ちが漠然と込められた、いわば複雑な疑問の表現なのです。

 これは弟子たちだけの問題ではありません。今日、ここに居る私たち自身の問題であり、今日の聖書箇所には、私たちも、そう言わざるを得ない三つの場面があるのです。

I.      神の計画

 この時、エルサレムでは、まさに過越の祭が始まろうとしていました。そこで、弟子たちは、主イエスに「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねたのです。主イエス合わせ13人の会食なのですから、かなり広い部屋が必要であったことでしょう。

それに対する主イエスの指示は、絶妙でした、また不思議でした。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人に付いて行きなさい。そして、その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする宿屋はどこか」と言っています。すると、席のきちんと整った二階の広間を見せてくれるから、そこに私たちのために用意をしなさい。』と語られたのです。

主イエスは、彼らに、単刀直入に「それは、何町の何丁目何番地、誰それの家だ」とは言われませんでした。そうすれば、聞いていた弟子のユダが、事前に敵対者たちにこっそり密告し、その結果、即逮捕され、弟子たちとの食事が妨害されることになっていたかもしれません。

 主イエスは、「都に入れば目印となる男に必ず出会う事になる。何故それと分かるか、その男が水瓶を運んでいるからだ。(当時、瓶で水を運ぶのは女の仕事、男は皮袋と決まっていたからです、ヒゲを生やした男性がスカートで町を歩けば目立つのと同じことです)だから、その男について行け。その男が入ていく家、それだ。すると、その家の主人が、用意している部屋を見せてくれるだろう。」主はそう言われたのです。そこで、二人の弟子たちが都に行ってみると、何と言われたその通りでした。そこで、彼らが万端に準備した結果、過越の食事を、主と弟子たちが無事することができたと、言われているのです。

 では、この出来事が、私たちに、何を指し示しているかと言えば、それは、神様がなさろうとする計画は、神によって準備され、人を動かし実行されるということなのです。私たちは、この過越の食事の後で、主イエスが逮捕されてしまう、裁かれ、十字架に掛けられ、そして三日目に復活することを、もう知っております。主イエスが十字架にかかり、復活される。それは人類を救済する神の計画の実現成就でありました。その神の計画の準備の中には、敵対する祭司長、律法学者、裏切るユダまでもが、含められていたのです。過越の食事の準備に派遣された二人の弟子たちも、彼らも計画に加えられていました。(ルカ22章によって、それがペテロとヨハネであったことが分かっています)そればかりではありません。水瓶を運ぶ男、二階座敷を提供する宿の主人も、神の計画の中に、キチンと配置されていました。

 今現在でも、神様ご自身が、その計画を実行しようと、全てを準備される原理に変わりはありません。神はしかも、その計画の準備のために、あらゆる人を配置し動かし活用されるのです。ピリピ2章13節にはこう言われています。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」神さまが人に願望を起こさせ、神さまが実現に至らせるのです。ということは、その神の計画の準備のために、今現在も私たち一人一人を、神様は、用いようとされ、配置されるということなのです。『いや、そんなことを私は知らなかった、考えてみたこともなかった、』「まさか私のことでは」と、思われるかもしれません。しかし、「いや、あなたなのです」と、主は答えられます。神はあなたを計画の準備のため、活用されるのです。

 創世記50章19節には、ヨセフが、彼に悪事を働いた兄達に語ったとされる有名な言葉が残されていますね。「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民を救うために、今日のようにしてくださったのです。」ヨセフの兄達は、父ヤコブに可愛がられる弟ヨセフを妬み憎み、残酷にも奴隷商人に売り渡してしまいました。ヨセフはそのため、エジプトで文字通り、散々苦労し悲哀を舐めることになります。ところが不思議と、やがていつしか、王の目に留まり、とうとうエジプトの宰相にまで昇進することになったのです。そして、やがて到来した大飢饉に際して、パレスチナの自分の家族を、父ヤコブと兄たちを助け、救い出す結果になったというのです。神は万事を益に変えることのできる方です。神は悪を善に変えることのできる方なのです。神は、ご自身の計画を実現成就するためには、あらゆる人を、悪人も善人も、不信者も信者も、敵も味方も、その準備のために用いられるのです。「まさか私のことでは」いや、神が用いられるのは、現在でも、あなたのことなのです。そして私のことなのです。神は計画を実現するために、あなたを必要とされ、今、この時代に生かし配置し、用いようとされるのです。

II.   裏切る者

 この「まさか私のことでは」というセリフが、弟子たちの口から、語り出されたのは、主イエスの裏切りの予告の直後のことでした。主イエスは、「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」と裏切りを予告し、警告なされました。しかも、主イエスは「あなたがたのうちの一人が」と言われ、それが誰であるかを、分かっておられたにも関わらず、弟子たちの前では、公然とその名前を特定されませんでした。更に20節では少しばかり具体的に、「十二人のうちの一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ」とも語られます。これは、「同じ釜の飯を食う」と同じで、「最も親しい関係にある者」を意味する表現でした。

 裏切りの前提にあるのは「愛」なのです。友達の裏切りは友情が前提でしょう。夫婦の裏切りは夫婦愛が前提です。親子の裏切りも愛情が前提でしょう。師弟の裏切りも然り、あらゆる裏切りの前提にあるのは愛と信頼なのです。「私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ」それは、裏切りが、弟子達に対する主イエスの愛と信頼を前提にしていることを強調されたのです。裏切りは愛の裏切りなのです。ですから、主イエスは21節にこう嘆かれたのです。『人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。

 この「災いあれ」は、ウァーイと発音する言葉で、辞書によれば、「悲嘆、悲痛、または公然たる非難や痛烈な攻撃を表す」となっています。この聖書訳の印象では、どう見ても呪いが込められているように読めるのですが、これを意訳した別な聖書訳では「わたしの心は張り裂ける。」あるいは「ああかわいそうだ。」となっているものがあり、呪いというよりも、むしろ、主イエスの悲嘆、悲痛が込められていたのではないでしょうか。

生まれなかったほうが、その者のためによかった。」何故ですか。それは、主イエスを裏切る者には、その罪に対する罰として、たたりとして、何か不幸や災いがふりかかるからだ、そういうことではないのです。そんな生易しいことではなくて、主イエス・キリストを受け入れず、拒み、抹殺してしまう罪によって、その人の人生そのものが災いとなってしまうからなのです。イエスの弟子達の三大失態は、裏切り、否認、見捨てることでした。その中でも、裏切りは最大問題なのです。

 主イエスが、「あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」と予告されると「まさか私のことでは」と弟子達が「心を痛めて」代わる代わる言い始めたのは、何故でしょうか? それは、主イエスがこのように予告することで、主イエスを裏切り抹殺しようとする思いが、誰の心にもあることを意識させよう、とされたからなのです。ここに、私たちの自分自身の思いの中にも、主イエスを裏切り、拒絶し、抹殺してしまおうとする思いのあることが、透けて見えて来るのです。その思いがどう現れるかは、人それぞれ違うことでしょう。弱さによって、誘惑に負けて裏切ってしまうこともある、主イエスが自分の思いや願いを聞いてくれない、自分の思い通りにならない、ということでひがんで主イエスを恨んでしまうこともあります。あるいはもっと積極的に、主イエスの教え、主イエスを救い主と信じる教会の信仰は間違っている、と言ってそれを拒否することもあるでしょう。私たちが主イエスを裏切り、拒み、抹殺しようとする理由は様々なのです。

 ここにはユダが、どのような思いで裏切ったかが語られていません。それは裏切りが私たち自身の問題だからなのです。教会は、いつの時代も、どの国においても変わらず、裏切りの可能性を持ったままの人間の集まり、共同体なのです。「まさか私のことではないでしょうね」と、否定の答えを期待するかもしれません。そうではありません。今日、私たちは、裏切りを自分自身の問題として捉えなければならないのです。

.神の契約

 この厳粛な主イエスによる裏切りの予告の後に、弟子達全員が、最後の晩餐に招かれました。主イエスは、パンを裂いて弟子達に与えられ、主イエスは盃を取り、感謝を捧げて彼らに与えられました。そして、主イエスは言われたのです。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。

 契約とは、取引を成立させる約束事です。契約は、新しい関係が成立するための約束事です。入学する時も、入社する時もそうでしょう、そして、結婚する時もそうなのではありませんか。それによって新しい関係が、成立させられる事になるのです。

 世界でも多くの民族がある中で、イスラエルの民が独特であるのは、彼らが神との契約関係に入れられていたことにありました。そのイスラエルの神との契約は、律法を遵守することに全面的にかかっていました。今朝も朗読した十戒は律法の要(かなめ)です。この律法を破るなら、その契約関係が破綻したのです。

旧約聖書は、イスラエルの民と神とが契約関係に入るときに、動物を屠り、その血をとって注ぎ掛けたと教えています。血は命を象徴し、血を注ぎかけることは、契約の約束が命がけで遵守されるべきことを意味したのです。最後の晩餐の席上で主イエスが、「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。」と言われた背景には、この契約に流される血があったのです。主イエスは、過越の食事の赤ワインを、弟子たちに分け与えることで、その葡萄酒が、イエスの流す血を象徴すると、教えられました。盃は、十字架で流される罪の赦しの血潮のことです。その十字架の血潮を象徴する聖餐式の盃に預かることは、罪の赦しに預かることなのです。それによって、罪赦された人は誰でも、神さまとの契約関係に入ることができるのです。それは律法を遵守することによって成立する契約関係では全くありません。人は律法を守りきれません。聖餐式は、主イエスの罪の赦しの犠牲によって、成立する新しい神との契約関係を確認する儀礼なのです。

 この最後の晩餐には、「まさか私のことでは」と裏切る可能性に心を痛めた12弟子全員が招かれていました。そこには、まさに裏切り実行寸前のユダも含められていました。ユダは銀貨30枚で主イエスを裏切ろうとしていました。それは通貨のデナリでは3デナリ相当です。あの無名のベタニアの女がイエスの頭に注いだ300デナリとは比較になりません。彼は3万円程度で主イエスを売り渡してしまったのです。その卑劣なユダでさえも、聖餐に招かれていたのです。そしてその恵みに預かることができたのです。

 「まさか私のことでは」と裏切る可能性に、心を痛めた12弟子が、聖餐に招かれたことは、教会が、すなわち、私たち一人一人が、招かれていることを意味するものです。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。」この「多くの人」の中に、ここにいる私たち一人一人が含められていることを覚えて感謝いたしましょう。