726日礼拝説教

「祝福百倍の恩恵」  伝道の書6章1〜12節

6:1わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。これは人々の上に重い。

6:2すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空である。悪しき病である。

6:3たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。

6:4これはむなしく来て、暗やみの中に去って行き、その名は暗やみにおおわれる。

6:5またこれは日を見ず、物を知らない。けれどもこれは彼よりも安らかである。

6:6たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。

6:7人の労苦は皆、その口のためである。しかしその食欲は満たされない。

6:8賢い者は愚かな者になんのまさるところがあるか。また生ける者の前に歩むことを知る貧しい者もなんのまさるところがあるか。

6:9目に見る事は欲望のさまよい歩くにまさる。これもまた空であって、風を捕えるようなものである。

6:10今あるものは、すでにその名がつけられた。そして人はいかなる者であるかは知られた。それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない。

6:11言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。

6:12人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか。

 6章を一読した限りでは、否定的な用語が散りばめられ、伝道者はニヒリストではないかと疑いたくなる。だが漆黒の闇だからこそ微量の光点は冴えるもので、この書の折返点10節が光明として輝く。最初の句「今あるものは、すでにその名がつけられた」は天地万物すべてを神が創造されたことを告げる。有形無形のすべては存在に呼び出されたのだ。「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。おのおのをその名で呼ばれる。」(イザヤ40:26)とイザヤも証言する。更に次の句「そして人はいかなる者であるかは知られた」は、その神の創造の極みが人間であること、しかもその身元と運命をも明らかにする。「人」と訳された原語がアダムなら、アダムが泥、土、粘土を意味することで、人間の身元、出自が土だと分かる。その延長でアダムに語られた創世記3章19節「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」によれば、人間の運命は「土に帰る」即ち死ぬことに他ならない。千年の倍生きたとしても死ぬことに変わりはない。伝道の書の主題「空(くう)」の最たる理由はこの人間の避けがたい死の運命にある。ところが次の句「それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない」が、その出自と運命に拘束された我々に方向転換を迫る。「自分より力強い者」とは婉曲的な神の表現である。「神は天にいまし、あなたは地におる」神と人との格差は比較しがたい。人は神を否定し、無視し、自分勝手に生きようとしても勝ち目は無い。「争う」とは法廷に神を引き摺り出す告訴を含む。神を認め、信じていても、現状に満足できず、神に不満を抱き心が掻き乱されることがある。だが所詮土の器である人は、陶器師である神に言い逆らうことはできない。アダム以来、罪に堕落した人類救済に神は御子の十字架の死と復活により和解の道を備えてくださった。このキリストにより神と和解し神を第一とする者は不思議と祝福百倍の恩恵に浴することができる。そこにこそ生きる根拠がある。

 

719日礼拝説教

「金持病の処方箋」  伝道の書5章10〜20節

5:10金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。

5:11財産が増せば、これを食う者も増す。その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。

5:12働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。

5:13わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。

5:14またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。それで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない。

5:15彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。

5:16人は全くその来たように、また去って行かなければならない。これもまた悲しむべき悪である。風のために労する者になんの益があるか。

5:17人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。

5:18見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。

5:19また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である。

5:20このような人は自分の生きる日のことを多く思わない。神は喜びをもって彼の心を満たされるからである。

 アッフルエンス(裕福)とインフルエンザの合成語をアフルエンザと発音し、米国では金持病として幅広く使われている。人は経済的な生き物であるから富、財産の所有は自由であるが、聖書は富にまつわる固有の病気を鋭く指摘する。

コロナウイルス感染に特有な症状があるように、富を得ても満足できない、寄食者が増える、夜ぐっすり眠れない、不幸な事故で失う心配、死後に残す遺産の心配、富が起因して苛立ちが目立つ等々、どれかに該当するなら要注意である。

詩篇49:17は「彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことはない」と手厳しい。使徒パウロは、「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」(テモテ上5:10)といっそう辛辣に指摘する。信仰から迷い出ないよう肝に命じよう。

金持病の最たる処方箋として「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」と主イエスは直言された。全能の神と並置される富は、あたかも全能であるかのように人は錯覚し、結果として知らずして富の奴隷とされる。人生を喜び楽しむ秘訣中の秘訣は富ではなく神に仕えることなのだ。

自分の人生で健全な楽しみ方を会得するべく、すでに2章24、25節で、楽しみは獲得ではなく神から受け取るべきこと、3章12、13節で、楽しみの機会が神から与えられること、3章22節で、楽しむ能力が獣と違い人には与えられていることが明らかにされた。5章18節は神が楽しみを各自に受ける分として与えておられ、それが実は日常茶飯の食い飲み、仕事にあることをも明らかにする。人は身近に実は喜びを享受できるのだ。現実に不満があると病的に過去を懐かしみ、病的に未来に憧れ易い。

今現在を喜ぶならくよくよ思い患うことはないことを心に銘記しようではないか。

712日礼拝説教

「農耕を愛する王」  伝道の書5章8、9節

5:8あなたは国のうちに貧しい者をしえたげ、公道と正義を曲げることのあるのを見ても、その事を怪しんではならない。

それは位の高い人よりも、さらに高い者があって、その人をうかがうからである。そしてそれらよりもなお高い者がある。

5:9しかし、要するに耕作した田畑をもつ国には王は利益である。

 伝道者は神の宮に行く足に気をつけるよう勧め、次に目を社会組織の不正に向け、下級役人による社会的弱者に対する虐げを「見ても驚くな」と勧める。

その理由は、「それは位の高い人よりも、さらに高い者があって、その人をうかがうからである。」の「うかがう」が「見張る」の意味であれば、上司が不正を監視し処罰するからとなり、一方で「かばう」の意味であれば、上司が部下の不正をかばう組織悪だからとなる。その上司の上には組織の頂点に立つ王が君臨する。ピラミッド型の社会管理体制は社会学では官僚制度と認識され、その優れた管理機能は社会発展に不可欠ではあるが、その弊害とデメリットも大きいことが知られる。

ローマ13章1節によれば、如何なる政治形態も神の権威付与によるとされ、神が人間の政治権力を許容されるのは、最低限の社会秩序が保たれるためである。それゆえに官僚制度は必要悪であるが故に、人はこれを絶対化、神聖化してはならないのだ。日本を含め、政治絶対化の悲惨な結末を歴史から学ぶべきだ。

だが「耕作した田畑をもつ国には王は利益である」の句から透かし見るのは、貧しき者を顧みられる主なる神が、御子イエスの来臨により王として啓示された事実である。神が人となられた方こそ王として来臨された主イエスである。

だが、宮廷で豪華絢爛な王衣を纏う威丈高なキングではない。十字架上で貧しさの極みまで低く成られた王であり、貧しき者を富ませるため貧しく成られた王である。勝利のうちに復活されたこのイエスを主として王としてお迎えする者は、真の意味で富む者とされる。

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。(マタイ5:9)」富む者とされたキリスト者には、必要悪である政治でも良き市民として祈り参与し、投票もし、税も納める責任がある。

経済的に困窮する貧しい人に具体的に手を差し伸べ、そればかりか心の破綻を来している心の貧しい人々に、福音を提供する責任があるのではないか。

主はキリスト者を用いられる。見て驚かず、悟り、取り組もうではないか。

75日礼拝説教

  「口の言葉を慎む」  伝道の書5章1〜7節

5:1神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。

5:2神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。

5:3夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。

5:4あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。

5:5あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。

5:6あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。

5:7夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ。

「その足を慎むがよい」とは危険な場所へ行くことへの警告だとすれば、神を礼拝する宮が危険視されるとはどういうことだろう。新型コロナ感染予防で危ないとされる繁華街ならともかく、神の宮は言い換えれば教会を意味するのだから

古代の神殿では幾種類もの犠牲を献納したが、キリストが罪の代価としてご自分を一度限りの完全な犠牲として十字架に捧げられたので、我々には捧げ物は求められてはいな

ローマ12章1節は「自分のからだ」即ち、自分の全存在を聖なる生きた供えものとして捧げるよう勧告される。それ故に我々は種々の奉仕と献金で具体的に献身を表現する。

ところがその奉仕には、他人を見下げ裁く危険が潜むばかりか、場合によっては神から何らかの見返りを期待するあさましい心が惹起しかねない。それを聖書は「愚かな者の犠牲」と呼ぶ。最優先すべき神の言葉への傾聴に、奉仕は準ずるものであるべきなのだ。

教会は祈りの家と呼ばれる。だが聖書は、「軽々しく口を開くな」「言葉を少なくせよ」と戒める。祈りに潜む危険性は、それが偶像崇拝に変質することにある。主イエスはマタイ6章7節で「異邦人のように、くどくど祈るな」と厳命された。

偶像崇拝者は、自分の願望の実現のため、呪文や祈祷を神々操作の道具にする。それこそ本末転倒であり、自己神格化の恐るべき罪なのだ。「神は天にいまし、あなたは地におる」天地創造の神と人間である自分との隔絶した違いを認識し、恐れ畏み口を慎まねばならない。その上で子が父に語るように単純に誠実に祈ることが肝要である。

教会で献身し、祈祷し、そして誓約をする。共に人が生きる上で約束に誠実であることが基本だが、神と人との前での誓約は、それが教会入会の誓約、受洗の誓約、職務就任の誓約そして結婚の誓約、それが何であれ誓約遵守の意志欠如が危険なのだ

しかし現実には、約束不実行の挫折の痛みを我々は常に抱えている。だが、約束に真実な主イエスにお従いするとき、私たちの弱い意志を御手で支えて誠実ならしめてくださるところにこそ救いがある