226日礼拝説教

「と、書いてある」  ルカ4章1〜4節

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ。」

イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

公生涯の始め、ヨルダン川で受洗されたイエスは、荒野で悪魔の試みに遭われた。受洗に際して、父なる神の認証を受けた主は、メシアの活動に入る直前に、メシアの適格性がテストされた。悪魔は、イエスが神の子メシアであると認知し、狡猾巧妙に誘惑で神の計画を妨害しようとした。主イエスは、信徒の受ける誘惑ためにも荒野の試みを耐えられた。

同じ出来事でも、その関わり方によって、その信徒にとり試練ともなり誘惑ともなる。試練は神が信仰の質を向上させるために人に与えるが、誘惑は悪魔が罪を犯させ人を堕落させるために仕掛けてくる。人は、判断・決断する自由が与えられており、その対応いかんにより全く違った結末となることを覚え、主イエスに信頼しよう。

主イエスに対する悪魔の誘惑には、その狡猾巧妙さが透けて見えてくる。悪魔は、イエスの40日間の断食による空腹を狙い、本来善なる生理機能の食欲を突き、「神の子ならば、石にパンになるよう命じたらどうだ」と仕掛けてきた。

「人は、それぞれ、自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」そればかりか悪魔は、イエスの能力、立場を突き、「神の子ならば、その全能の力を働かせて石をパンにする奇跡で自分の空腹を満たせるだろう」とささやく。だがイエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある。』と申命記6章を引用して反駁された。

悪魔のそそのかしに乗せられていたなら、イエスは唯物主義的政治指導者に祭り上げられたに違いない。パンは生きるために必要だが、人間の生きる本分は、神を知り、神に従い、神を畏れ敬うところにある。その人間性を得させるため、イエスは罪の赦しを得させる十字架を目指すメシアとして来臨されたのだ。

注意しよう。悪魔は、私たちの欲をも突き、能力・才能をくすぐり、脇道へそらそうと誘惑を仕掛けてくる。パンの誘惑に人は弱い。食うために働くのだと思い込み、神を度外視してしまう。誘惑には、「と、書いてある」と聖書で対抗し、主の祈りを祈り、食前の感謝を怠らないようにしよう。

219日礼拝説教

「魚二匹パン五つ」  ルカ9章10〜17節

使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに報告した。イエスは彼らを連れて、自分たちだけでベトサイダという町へ退かれた。群衆はこれを知って、イエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々を癒やされた。

日が傾きかけたので、十二人は御もとに来て言った。「群衆を解散し、周りの村や里に行って宿をとり、食料を調達するようにさせてください。私たちはこんな寂しい所にいるのです。」

しかし、イエスは言われた。「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」

彼らは言った。「私たちには、パン五つと魚二匹しかありません。まさか、私たちが、この民みんなのために食べ物を買いに行けとでもいうのでしょうか。」というのは、五千人ほどの人がいたからである。

イエスは弟子たちに、「人々をおよそ五十人ずつひとまとまりにして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それを祝福して裂き、弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

人々は皆、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを集めると、十二籠あった。

 二匹の魚と五つのパンで5千人を養ったとされるこの驚異の奇跡は、イエスが誰であるかを明示している。

夕暮れ時、人里離れた荒野に集まった群衆の空腹を満たすには、「自分たちの手元には僅かの魚とパンしかない」と弟子たちはつぶやく。イエスは、その魚とパンを祝福し、裂いて弟子たちに配らせると、一人残らず満腹し、問題は一挙に解決してしまった。

水を熱すれば1700倍に膨れて水蒸気に変わるが、その質量に変化はない。魚とパンが大量に増え、女子供を含め2万人が食べて満腹するとは、質量不変の科学法則に違反している。ただ一つの妥当な説明は、これに続くペテロの告白にある。

イエスが「あなたがたは私を何者だと言うのか」と弟子たちに問われた瞬間、ペテロは「神のメシアです」と答えた。神が天地万物を創造し、その自然法則を制定された。イエスは神の御子であるにもかかわらず人となりメシア、救い主として来られた方である。それゆえ、自然法則の制定者が法則を越えることに矛盾はない。

「イエスを何者と言うか」それは、誰もが答えなければならない究極の質問である。あなたはどう答えるのだろうか。この給食の奇跡は、神の国の祝宴の先取りでもある。群衆はパンを食べ喜び満腹した。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがない」(ヨハネ635)イエスを受け入れる心に神の支配は現実となり、そこに義と平和と喜びが満ち溢れる。

主イエスは、この奇跡により、「あなた方の手で食べ物をあげなさい」と、私たちを神の協働者へと呼びかけておられる。取り囲む現実の厳しさを思えば、私たちは責任転嫁や現実逃避に陥りやすい。たっぷりあるから、自分で頑張れば出来るのでするのではない。「私にはできません、これしかありません」しかし、そこから神様の業が開始される。

神様は人々の必要を満たそうとする働きへの協力者を探される。例え微力でも僅かでも持てるものを主に献げて参与することが求められている。自分の手でパンを配った弟子たちのように、神の現実を実感させていただこう。

212日礼拝説教

「主の御心ならば」  ルカ5章12〜16節

イエスがある町におられたとき、そこに、全身規定の病を患っている人がいた。イエスを見てひれ伏し、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と願った。

イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は去った。

イエスは彼に厳しくお命じになった。「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」

しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を治してもらうために集まって来た。だが、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた。

 この出来事が、マタイ、マルコ、ルカにも記載された理由は、癩病人の嘆願のユニークさにある。彼は、「主よ」と呼びかけ「私を清くできます」と、その力を確信し、なおかつ、「お望みならば」と、イエスにその主導権があると告白した。

信仰がなくては神に喜ばれない。主は、彼の信仰を受け、「私は望む。清くなれ」と瞬時に彼を癒やされた。しかも触れれば汚れると律法で禁じられているにもかかわらず、主は御手を差し伸べ、ただれた癩病の患部に触れ癒やされた。

人に見られたくない、自分でも嫌悪する、誰も触れることのできない所に主は触れ、癩病人は清められた。同じことが自分にもある。見られたくない、自分でも意識の下に押し隠している、悪臭を放ち、膿の滲み出る傷がある。清められ、癒やされなければ自由になれない。祈るときでさえ思い出したくない所に、主に触れていただかなければならない。心を開いて触れていただこう。主のワンタッチで癒される。

だが意外にも、主の主権を告白して清められた癩病人に、信仰の従順の欠如が露呈した。主は彼に、「誰にも話してはいけない」と命じたが、彼は誰彼なく喋っている。主は彼に、「祭司に体を見せなさい」と社会復帰の手続きを勧告したが、彼は無視した。信仰の別名は従順に他ならない。癩病人は証しのつもりで喜び話したのだろう。だが不従順、強情は偶像崇拝に等しい。彼の勧めで押し掛けた群衆の望みは、無病息災家内安全、徹底的世俗主義であった。

主の救いに癒しは含められても中心ではない。中心は十字架の罪の赦しの結果としての主への従順ではないのか。神との正しい関係、隣人との正しい関係なしの証しは、的外れとなってしまう。主は社会から疎外された癩病人の社会復帰を重視された。神と人間との関係の健全さからの証しを目指そう。誤った動機で押し迫る群衆を避け、主は祈られた。

主イエスは十字架の死に至るまで父との祈りの交わりにより御心を確かめつつ行動された。神様の御心に従い生きる秘訣がこの祈りにある。「主の御心ならば」をモットーにしよう。

25日礼拝説教

「聞く耳のある者」  ルカ8章4〜8節

大勢の群衆が集まり、方々の町から人々が御もとに来たので、イエスはたとえを用いて語られた。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、それを塞いでしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽が出て、百倍の実を結んだ。」

イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

一般生活や自然環境からの比喩である喩えを使い、種を蒔く人の喩えで、主は神の国の秘義を教えられる。主の宣教の中心主題は神の国であった。

神の国とは、神様が王として支配することで、地図上では確認できない。神の国は、御子イエスと共に始まった歴史上での新しい神様の支配である。

それまでにも神様は創造された全宇宙を治められるが、罪により神様を認めない人間を罪の成せるがままに放任され、人類は堕落し、その歴史は悲惨の記録であり、今現在も変わらない。

だが、御子が世に人として遣わされ、罪から救い、新しい支配を歴史のうちに開始された。それは小さな種粒を蒔くようで、隠された小さな開始である。神の国は、主イエス様の語られる神の言葉を聞いた人々の心に実現する。

神の言葉は種粒に似ている。蒔かれた土地に種が実を結ぶように、神の言葉を聞いた人が心で悟ることで神の国は経験される。それゆえ、主は「聞く耳のある者は聞きなさい」と警告される。

種まきの喩えの4種類の土地は、神の言葉を聞く人々を表す。道端のものは神の言葉を聞いても拒む人、岩地のものとは、神の言葉を喜び受容しても試練に直面すると落伍する人、茨の地のものとは、神の言葉を聞いても人生の誘惑に信仰が塞がれる人である。

だからといって、主が一人一人を最初からランク付けされるのではない。誰しもが道端のものではないか。神の言葉を聞いても簡単に悟れるものではなく、理解するのに時間を要する。教会の礼拝で説教を聞いてもちんぷんかんぷん。それでもやがて洗礼を受けるが、困難や誘惑、家族の反対などで脱落しそうにもなる。だが、岩地が耕され手入れされて良い土地に変えられるなら収穫が期待できるように、頑迷な心が神の言葉により砕かれ、手入れされるなら、心で悟り、御言葉を実行する人になる。

主はこの喩えで御言葉に仕える僕たちを激励されもする。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」この詩篇126篇5節は、神の言葉に仕える弟子たちを指し示す。労苦は決して無駄ではない。必ず豊かな実りがある。