2017年7月礼拝説教

7月30日礼拝説教

 

               「天国の植民地化」       マルコ16章14〜18節

 

 16:14その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

16:15して彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。

16:16信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。

16:17信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、

16:18へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

        マルコによる福音書 16:14~18

 

 私たちは9月22〜24日に、大津キリスト教会の野口一郎牧師を招き、秋季伝道会を予定します。それは、『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。』との教会に対する主イエスの宣教委任に基づく働きです。

 福音とはキリストの十字架の死と復活によりもたらされた罪の赦しによる神との和解です。イエスを主と信じた者はその結果、神の民とされ天国の市民なのです。

 神の御子イエスが人として来られた目的は、天国の到来を告げ、信じる者を天国の市民とするためです。その意味で、信じた人々の集会である教会は天国の植民地に他なりません。

 今や70億以上の人間により構成されるこの世界は、人類堕落以後、闇の夜の主権者であるサタンの支配下に置かれており、宣教はこの世に天国の植民地を獲得する霊的な厳しい戦いです。

 私たちが福音を宣べ伝える理由は聖書により明白です。

 第一に万人が例外なくその行った善悪を神により裁かれることが決まっているからです。使徒パウロは、『わたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。』(IIコリント5:11)と宣教の動機を明らかにしました。

 第二に神が一人も滅びることを望まれないからです。(IIペテロ3:9

 第三に神が御子を犠牲にするほどこの世を愛されるからです。(ヨハネ3:16)そればかりか、キリストの愛が、その高さ、長さ、深さ、広さにおいて知られるほどに、私たちの心に強く迫ってくるからです。(IIコリント5:14

 私たちは、この特別伝道会に備えてできることがあります。機会あるごとに祈りましょう。

 この折りに導こうとされる人々の名をアンデレカードに記載して覚えて祈ってください。

 毎週木曜日には一食断食して祈りましょう。

 心に留めて祈る方々をお誘いできるよう訪ねましょう。できる限り彼らと共に自らも集会に出席し、惜しまず助力しましょう。

 そして主を心に迎え入れる決断のできた方は霊的に誕生したことと受けとめ、その成長のために育成に尽力するよう努めることにいたしましょう。


7月23日礼拝説教

 

           「宮詣での心得処」        伝道者の書5章1〜7節 

 

5:1神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。

5:2神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。

5:3夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。
5:4あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。
5:5あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。
5:6あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。
5:7夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ。     伝道の書 5:1~7

  

 「神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。」足を慎め!それはそこに行くのは危険だから注意しなさいという勧告です。その危険な場所だとされるのが神の宮であるとされるのは何故でしょう。

 現代に適用すれば、教会に行くこととなります。

 第一の理由は、教会に行くことは神の言葉を聞くからです。

 聖書の何処から、誰が語るにせよ、人は教会では神の言葉を聞きます。聞いた言葉が神の言葉であるゆえに、聞いた人は従い実行する責任が生じます。

 使徒ヤコブが、「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。」(1:22)と言うのはその意味です。聞くだけにとどまるなら自分を欺く危険があると言うことです。

 第二の理由は、教会に行くことは神に祈りを捧げるからです。

 「神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。」祈りに伴う危険は、祈りによって自分の願望を実現させようと神を操作する態度に陥ることです。人の造った神々、すなわち偶像を人は呪文で操作し自己実現の道具としています。

 真の神、主は天におられ、人は地にいます。神と人とは天地の差があり、人は神を操作などできるはずもなく、またするべきではありません。

 祈りの精神は、神の御心に従って願い求めることにあり、神の御心であれば必ず応えていただけるものです。

 第三の危険は、教会に行くことは誓約するからです。

 「あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。」洗礼で誓い、結婚で誓い、役職就任で誓い、聖餐式で私たちは誓うのです。誓い約束することは、人はその誓ったそのものとなるのであり、祝福に満ちた行為であります。

 誠実に誓いを果たす意志で誓約に望まないとすれば、それは軽率であり危険なのです。

 御言葉に傾聴し、祈祷をなし、誓約するための確かな処方箋は、7節最後にあり、それは『あなたは神を恐れよ。』です。

 神が不義を裁く義なる方、天地と世界を支える偉大な主、そして慈愛に富める恵深い方であることを悟り、恐れと畏怖と敬愛を込め神を恐れることです。


7月16日礼拝説教

 

                     「狭い門から入れ」        マタイ7章13〜27節 

 

7:13狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

7:14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

7:15にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
7:16あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
7:17そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
7:18良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
7:19良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
7:20このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
7:24それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
7:25雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
7:26また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。       マタイによる福音書 7:13~27

  

 門と道を比喩とし、主は山上の垂訓の結語とされました。

 人が入る二つの門があり、人が歩む二つの道がある。賢明にどちらかを選びなさいと命じられるのです。

 選ぶべき門が「命にいたる門」であり、選ぶべき道が「細い道」であるのは自明のことです。

 命とは永遠の生命のことで、その意味するところは神を知り、神と交わることです。

 人間は神により造られたので、神を知ることが命なのです。知らない者は死んでおり滅びます。

 神は天国におられるのですから『門に入る』とは天国に入ること。主イエスの最初の使信は『天国は近づいた』であり、主イエスの教えの中心主題は天国でした。

 復活後、昇天までの40日間、弟子達に語られたのも天国です。

 天国とは物理的、地理的な国ではなく、神の統治支配です。

 門とは主イエスのこと、受入れた者は神の支配下に入れられ、神の驚くばかりの恵みの現実を経験することになります。

 道とは門に通じる手段であり、山上の垂訓をはじめとする主の教えそのものです。

 人は信仰により救われ、御国に入れられますが、道とは信仰の本質が従順であることを示しています。

 21節で「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではない」と主は注意を促し、「ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」と主は確言されました。

 信仰とは口先だけではなく、主を信頼し、主を愛し、そのおことばに従うことなのです。そのおことばのエッセンスとも言えるのが黄金律と言われる12節です。

 『何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である』神に愛されていることを自覚する者は、神の愛される他者の立場に自分を置き換え、相手の益を得させる愛を実践して生きる、それが命へいたる道なのです。

 従順への道は十字架かもしれず迫害を呼び起こし、試練となるかもしれません。

 しかし、その道を選ぶことは、大きな代償を払うにしても永遠に価値のある生き方なのです。


7月9日礼拝説教

 

           「もし!信仰仮定」       ヨハネ11章27〜44節

11:27マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

11:28マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。

11:29これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。

11:30イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。

11:31マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。

11:32マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。

11:33イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、

11:34「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。

11:35イエスは涙を流された。

11:36するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。

11:37しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。

11:38イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。

11:39イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。

11:40イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。

11:41人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。

11:42あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。

11:43こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。

11:44すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。   ヨハネによる福音書 11:27~44

 

 使徒ヨハネは主の奇跡を精選し、その福音書に七つ記載しています。

 ヨハネは奇跡を「しるし」と呼び、奇跡そのものより奇跡が指し示す意味を重視しています。

 その七番目の奇跡とは主イエスが生命の主であることを示すラザロの蘇生の出来事です。この出来事には私たちに語りかける三つのサインがまたたいています。

 1節『ひとりの病人がいた。』これは一事が万事、すなわち世界の至る所が病んでいることを指す黄色信号です。病気は死を連想させ予感させます。

 ノルウェーの代表画家ムンクの代表作に『叫び』があり、橋の上で一人の男性がつんざく叫びにたまらず、耳を塞ぐ様を描いた絵です。それは世界が病んでいることを象徴するものです。政治が、経済が、国際関係が、環境が、病み腐敗し死の徴候を示しております。そして人そのものが恐怖の王、最後の敵である死を誰も避けることができません。

 病んでいたラザロが死に、埋葬されて四日目にイエスが到着したとき、マルタとマリヤは、『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。』と主の遅れを悔み主を非難しています。

 過去の事実を否定する仮定の仕方でつぶやくことは人生の赤信号です。

 「あの時、こうしていれば、あのようにならなかったのに」自分を責め、他人を非難するばかりか、主に不平を言い兼ねないのが私たちの現実です。後悔先に立たず!しかし、後向きの否定的な態度は危険信号です。

 主は言われました。40節『もし信じるなら神の栄光を見るであろう』このお言葉に青信号がまたたきます。

 神の栄光とは奇跡のこと、ラザロの蘇生です。

 神と神の約束に対する生きた信仰さえあれば、神の驚くばかりの御力を経験することが許されるという真理です。

 罪が支配的で争いの絶えない世界、平和を希求して足並み揃わず破滅に向いつつある世界に生きる現実には厳しいものがあります。

 主イエスは来られました。墓に来られラザロを生き返らされました。

 ラザロになされたことを信頼する者に同じくなされようと主は来りつつあるのです。


7月2日礼拝説教

 

               「平和の神」          ローマ16章17〜20節 

 

 16:16きよい接吻をもって、互にあいさつをかわしなさい。キリストのすべての教会から、あなたがたによろしく。

16:17さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。
16:18なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。
16:19あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。
16:20平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。
どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。 ローマ人への手紙 16:17~20

   

 その信仰と従順が世界に知られていたとされるローマの教会に宛てた手紙の挨拶部分に挿入された短い勧告には、使徒パウロの動機が込められています。

 教会は、御子イエス・キリストの十字架の犠牲により罪赦され、神との平和を得た者たち、互いに赦し合い相互に平和に生きようとする者、それゆえに結果として心に平安を与えられた者たちによる平和の共同体であります。

 パウロは、この平和をかき乱し分裂をもたらす者が潜入してくることが避けられないことを覚悟し賢明に対応することを勧告しています。

 教会の分裂騒動については、主イエスにより『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。』(ルカ17:1)と警告済みでもあります。

 「学んだ教え」に背かせようとし甘言と美辞麗句で欺こうとする、それはサタンの常套手段であり、神の言葉をさえ曲げて悪用させようとするのです。

 最初の人、アダムとエバを欺いて禁断の実を食べさせるのに成功した蛇の策略に始まり、主イエスの荒野の誘惑においても試みる者が欺く手段も神の言葉を悪用する戦略でした。

 教会がサタンに操られた者たちによってつまずかせられるのは、人間的には悲しく痛ましいことですが、否、むしろ喜ぶべきです。何故なら、サタンがそうせざるをえない程に、教会は神に愛され祝され平安に満ちて喜びに溢れているからです。

 サタンは教会を妬み破壊しようとするのです。しかし、確認しましょう。

 「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろうと勝利が約束されているのです。

 創世記3章15節に蛇のすえが女のすえのかかとを砕くが女のすえが蛇のすえのかしらを砕くと、十字架のキリストの死によるサタンへの勝利が預言されています。

 キリストは傷つきましたがサタンは致命的に打ち破られました。

 究極の勝利はキリストの再臨を待つのですが、教会はキリストと同じくサタンの攻撃を受け傷つくでしょうが、それによって実はサタンのかしらを粉砕しているのです。

 よく祈り備え、分裂には賢明に振舞い、霊的な勝利から勝利へと前進することにしましょう。