512日礼拝説教

「人の子昇天高挙」  ダニエル7章13、14節

私は夜の幻を見ていた。見よ、 人の子のような者が天の雲に乗って来て日の老いたる者のところに着きその前に導かれた。

この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべてはこの方に仕える。

その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなくその統治は滅びることがない。

今日は教会暦で「昇天記念礼拝」です。キリストは弟子たちの眼前でオリーブ山頂から雲に包まれ昇天されました。ダニエル7章によれば、この歴史事実が、その500年以上前に預言されていたことが判明します。

バビロン帝国のベルシャツアル王治世第一年、B C553年のこと、四つの獣の幻に続き、ダニエルは夢に「人の子のような」を見せられました。

「人の子」とは普通の人を指す表現であっても、聖書ではメシアの特別な称号です。何故ならば主イエスが、福音書中に80回以上も、ご自分を意味して「人の子」の名称を用いられたからです。ダニエルはその幻に「人の子のような者が天の雲に乗って来て日の老いたる者のところに着」く光景を見ましたが、それは雲に包まれ昇天されたイエスのことです。

日の老いたる者」とは永遠から存在される神を指し示し、これは救い主イエスが昇天し、父なる神の右に着座され、栄光を受け、天地一切の権能を授けられた高挙を指し示す光景です。

主イエスは安息日に手の萎えた男を癒し「人の子」は安息日の主であると発言し、中風に病む男に「あなたの罪は赦された」と宣言することで、ご自分の絶対的権威を意識されました。

弟子たちが「あなたこそ生ける神の子キリストです」との信仰に導かれた際には、彼らに「人の子」の十字架の受難を予告されました。ユダの裏切りで逮捕され、大祭司に「お前は神の子、メシアなのか」とキツく尋問された際には、「あなた方は間もなく、人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と大胆に答え、再臨の確かさを予告されました。

主は昇天高挙され、天地一切の権能を授けられた真の主権者です。しかしながら、その完全な支配は、あのダビデが段階を踏んで全イスラエルに君臨するに至ったように、世の終わりに臨んで段階的に実現成就することになります。

四つの獰猛残酷な獣に予見されるバビロン、ペルシャ、ギリシャ、そして大ローマ帝国の世界統治の末に、完全なキリストの支配は再臨により成就することになります。目を覚まし祈り、自分の責任を果たしましょう。

5月5日礼拝説教

「勝ち得て餘あり」  ローマ8章31〜39節

では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。

誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。

誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ、屠られる羊と見なされています」と書いてあるとおりです。

しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。

私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

16章から成るローマ書をエベレストに喩えれば、8章は8849mの頂上です。その頂上からの展望は神の愛です。

私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります」私たちを愛してくださる方とは神です。神に愛される人は勝利者です。勝って余りある者です。圧倒的な勝利者です。愛してくださる神が味方なので、愛されるキリスト者には、誰が敵対しても勝ち目はありません。

神の愛の決定的根拠は、神が最愛の御子を惜しむことなく、私たちの罪の赦しのために、犠牲として十字架に渡され事実にあります。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。」(第一ヨハネ4:9)

それほどまでして愛される神は、イエス様と一緒にすべて必要の一切を賜ります。「求めなさい。そうすれば与えられます。」遠慮なく父なる神様に祈りましょう。

法治国家の日本で、法律に違反すれば当然告発されます。しかしながら、死んだ後で必ず神に人が受ける究極の審判では、神に愛される人は絶対に告発されることはありません。何故なら、十字架を信じる者に、神がキリストの義を信者に転嫁され、信仰の故に義と認めてくださるからです。

人類始祖のアダムの犯した罪による原罪で、万人が罪人です。しかし感謝なことに、キリストの故に信者は罪に定められることはないのです。最愛の御子をも惜しまずに死に渡される程の神の愛から、誰も何ものも、信じる私たちを引き離すことはできません。アロン・アルファのような接着剤でも強烈な圧力で剥離するでしょう。しかし、私たちに対する神の愛は死よりも強く、何ものによっても剥離不可なのです。

苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」自分の身に起こる不条理とも思われる出来事で、神の愛を疑いたくなることがあるかもしれませんが、「高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」アーメン