11月26日礼拝説教

「雲に乗り来る王」  黙示録1章4〜8節

ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、玉座の前におられる七つの霊から、また、真実な証人にして死者の中から最初に生まれた方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにあるように。

私たちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方に、私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

見よ、この方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者たちは。地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」

アドベント(待降節)が次週から始まる。私たちはクリスマスに備えつつ、再臨の主を待ち望みます。黙示(アポカルプシス)とは覆いを除くことで、黙示録により主はご自身の再臨を開示なされた。

ヨハネは黙示録執筆の理由を「時が迫っているからである」と言う。時(カイロス)とは決定的な瞬間のこと。神様は時間を超越し永遠に存在し活動される。今おられ、かつておられ、やがて来られる主は、過去に存在し決定的な瞬間に行動された。

その第一は万物の創造の時であり、人間も男女にその時造られました。

その第二の決定的な瞬間は、罪によって堕落した人類救済のために、御子をメシアとして世に遣わし、十字架の死と復活で罪の赦しをもたらす業でした。

過去の第三の決定的瞬間は、個々人の救いの時です。ある日、ある場所で、あなたは福音を聴き、イエス様を信仰で受け入れ救われました。それは神様が過去に個人に働かれた決定的な御業です。

過去に存在し行動された主は、未来にも存在し行動される「やがて来られる方」です。その決定的瞬間こそ「雲に乗って来られる」キリストの再臨です。雲は栄光と臨在の象徴です。昇天され栄光を受けられたイエス様を、万人が再臨において注視することになるでしょう。

海底ケーブルを走る光ファイバーと宇宙を周回する通信衛星により、瞬時に映像情報が世界を駆け巡る現代においては、主の栄光の再臨は衝撃となるでしょう。その時、再臨は自分の犯した罪過ちが露呈し裁かれるため、主に反逆している罪人たちには悲嘆の災となります。

しかし、恵みにより信仰によって贖われキリストの花嫁とされた教会には、再臨が歓喜光栄の時となります。何故なら花婿なるイエス様が教会を子羊の婚宴に招き入れてくださるからです。やがて来られる主は今現在、私たちと共におられ活動されます。

ウクライナやパレスチナの混迷する世界の動向を信仰の目で注視するべきです。何故なら主イエスこそ主権者であり「地上の王たちの支配者」だからです。万国の頭であられる主の公儀が行われるよう祈りましょう。

1119日礼拝説教

「共に働き万事益」  出エジプト記2章1〜10節

レビの家のある男が、レビの娘をめとった。女は身ごもり、男の子を産んだ。

その子を見ると、愛らしかったので、三か月間隠しておいた。しかし、もはやその子を隠しきれなくなったので、その子のためにパピルスの籠を用意し、アスファルトと樹脂で防水し、その中に赤子を寝かせてナイルのほとりの水草の茂みに置いた。

その子の姉が遠くから、その子の身に何が起こるかうかがっていると、ファラオの娘が下りて来て、川で水浴びを始めた。侍女たちは川の岸を歩いていた。ファラオの娘が水草の茂みでその籠を見つけ、女奴隷をやって取って来させた。

開けてみると、赤子がいた。それは男の子で、泣いていた。彼女は不憫に思って、「この子はヘブライ人の子です」と言った。

その時、その子の姉がファラオの娘に申し出た。「私が行って、あなたのために、この子に乳を飲ませる乳母をヘブライ人の中から呼んで参りましょうか。」するとファラオの娘は、「行って来なさい」と言った。そこで、少女は行って、その赤子の母親を呼んで来た。

ファラオの娘は彼女に言った。「この赤子を連れて行って、私のために乳を飲ませなさい。私が手当てを払います。」そこで、母親は赤子を引き取り、乳を飲ませた。

その子が大きくなると、母親はファラオの娘のところに連れて行った。その子はファラオの娘の息子となった。ファラオの娘はその子の名をモーセと名付けて、「私が彼を水から引き出したからです」と言った。

パレスチナのハマスによるテロ行為が、イスラエル軍のガザ侵攻を呼び、結果として4千人以上の子供達が殺害される悲報に心痛みます。出エジプト記2章のモーセ誕生物語の背景には、当時のエジプトのそれに似た大量幼児殺害があり、ファラオは男児抹殺によるイスラエル弱体化策を断行しました。1〜10節の記述には神名は一切なく、神不在の虐殺は絶望的です。にもかかわらず、これは神の救いの約束の確かさの強力な啓示なのです。

創世記15章によれば、遥か数百年前に、後のイスラエルは400年に及び異国の地で苦しめられるが主が救済するとアブラハムに約束されていました。残虐なエジプトの独裁者の弾圧下で、意外にも命拾いした男児モーセが、やがて神の民をエジプトの奴隷生活からの解放者となることは、神の約束の実現成就なのです。

ここでは皮肉にも残酷な王の王女がモーセにした活動が、神が神の民にされる活動にパラレル(並行)しています。

ナイルに浮かぶ籠のモーセに王女が降りて来たように、主は天から降りて来られました。

王女が赤子の鳴き声を聞いたように、主は神の民の呻きを聞かれました。

王女が赤子を不憫に思ったように、主は神の民を憐れみ顧みられました。

王女が赤子を水から引き出したように、主は神の民をエジプトから引き出し解放しました。

王女が赤子を引き取り王家で養育したように、主は神の民を乳と蜜の流れる地に導き入れられました。約束に真実な主がアブラハムとの契約を確実に実行され、神の民を奴隷から救われたのです。

エジプトの王女がモーセを救い、モーセが神の民を救ったように、今やイエス・キリストが全人類を救われます。一民族になされた神は今やキリストにより全人類に救いをもたらされます。

エジプトからの奴隷解放は、罪からの奴隷解放の雛型です。十字架に罪の赦しを成し遂げられたイエス様を主と信じる者は誰であれ救われるのです。幼児モーセの命救済には、助産婦、母親、姉、王女の五人が貢献しました。神は今現在、福音のために主と共に働く者を必要としておられるのです。

1112日礼拝説教

「祝福の基となれ」  創世記12章1〜9節

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、祝福しあなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福しあなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族はあなたによって祝福される。」

アブラムは主が告げられたとおりに出かけて行った。ロトも一緒に行った。

アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライと甥のロトを連れ、蓄えた財産とハランで加えた人々を伴い、カナンの地に向けて出発し、カナンの地に入った。アブラムはその地を通って、シェケムという所、モレの樫の木まで来た。その頃、その地にはカナン人が住んでいた。

主はアブラムに現れて言われた。「私はあなたの子孫にこの地を与える。」

アブラムは、自分に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。それからベテルの東の山地へと移り、そこに天幕を張った。西にベテル、東にアイがあった。彼はそこに主のための祭壇を築き、主の名を呼んだ。アブラムはさらに旅を続け、ネゲブへと移って行った

 “God bless you!”私たちが神様の祝福を祈る根拠は、主のアブラハムへの祝福にあります。祝福とは、神が愛の顧みを与え、恵みを授けることです。それゆえに、神の祝福は必ず相手にある変化をもたらします。神の祝福を受ける資格が特にアブラハムにあったからではありません。

召される前、彼は月神ナンナル崇拝者であり、どちらかといえば失敗が目立ち、妻のサラは不妊のため世継ぎもなく、未来に希望の無い人物でした。ただ神の恩恵であり、闇に光が輝くように、神の栄光が表されるためでした。

「地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される。」との主の約束は、アブラハムの裔からこの世に来られた御子イエス様によって、信じる私たちに成就しました。イエス様が十字架に私たち人類すべての罪の呪いを引き受けられたので、アブラハムの祝福が私たちに及ぶのです。

ヤベツが昔、「どうか私を祝福してください」(歴代誌上4:9〜10)と祈ると神は求めに応えられました。私たちもイエス様にあって祝福を求めることが許されています。

主がアブラハムに「私が示す地に行きなさい」と「与える地に行け」と言われなかったのは、土地取得が主たる目的ではなく、彼とその民イスラエルに使命を与えるためでした。それは祝福の基となることです。祝福されるだけでなく人々への祝福の基となることが、アブラハムの息子・娘であるクリスチャンの課題でもあります。

2000年近く、離散民(ディアスポラ)として世界に散らされたユダヤ人が、至る所で文化の源流とされたように、クリスチャンは置かれた場で祝福の基とされるのです。アブラハムはこの課題を信仰の人として受け止め、全能・永遠・義・摂理の神を信じて祝福の基となりました。

アブラハムは行く先々で祭壇を築き、主の御名を呼び、祈り賛美しました。御名を呼ぶとは主に向かうことです。現代でも賛美し祈る人は祝福の基とされるのです。

 

アブラハムが祝福の基とされた大きな特徴は、彼が家族と共に天幕に住み続けたことです。彼の目指したのは地上のものではなく、天の故郷であったからです。“God bless you!

115日礼拝説教

「神への説明責任」  創世記3章8〜15節

その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。

神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」

彼は答えた。「私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」

神は言われた。「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか。」

人は答えた。「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」

神である主は女に言われた。「何ということをしたのか。」

女は答えた。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」

責任とは、人が引き受けてなすべき任務であり、人を責任あるものとするのは神の創造です。創造とは存在に呼び出す行為であり、電話で相手を呼び出せば応答が期待されるように、神は人の応答を期待されます。

人は神に命を与えられたので自分の命を生き続けることで、神が人に仕事を与えられるので働くことで、自由を与えられたので自主的に何事も自己決断することで、してはならないことをしないことで、その上、愛と信頼で共同して生きることで神に具体的に応答するのです。

しかし、最初の人アダムは神の呼び出しを拒否し、禁断の実を食べることで、してはならないことをして罪を犯し、その結果、恥と恐れと不安と苦しみと死にあまんじることになりました。それが私たち現実の実相でもあり、それは神の呼び出しに応答しない罪の結果です。

恥と恐れで園の藪に隠れ潜んでいた裸のアダムとエバに対する「どこにいるのか」との神の問いかけは、過去の自分の行った行為に関する説明責任が人に求められることを意味します。この問いかけに対するアダムとエバの応答は説明の責任になっておらず、それは神への非難、責任の他人への転嫁、そして親密な関係の破綻でした。

アダムは問題の第一原因は妻を与えた主ではありませんかと神を非難し、禁断の実を食べたのは妻のエバがくれたからだと責任を転嫁し、エバを見下すことで関係に亀裂が入ってしまいました。神は創造者であり審判者でもあられ、二人に対する審判は、エバには産みの苦しみ、アダムは勤労の苦しみでした。

この一人の人アダムの罪により人は死が定められたのです。人は自らの死後に必ず神の最後の審判を受け、生前の過去の自分の行いの全てを申し開きしなければなりません。しかし主が裸の二人に皮衣を着せて覆われた恵みの業は、キリストの十字架の与表です。

神の子羊イエス様の犠牲により罪は覆われ、信じる者は誰でも赦され、応答する責任を果たす人に造り変えられるのです。聖定された聖餐に預かることで、信じて従う責任を果たす決意を新しくさせていただきましょう。