5月29日礼拝説教

「至上命令の起動」  マルコ16章14〜20節

その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。そして彼らに言われた、

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

 全世界のキリスト者数は、20億人を超えるが、教会の最初はユダを除く11弟子だった。だが、主の復活を信じない彼らは泣き悲しむ有様、誠にお粗末に見える。

その数名の弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と主が命じられた瞬間、教会が起動されている。

教会を起動された主イエスは、復活されて40日後に、オリブ山頂から雲に包まれ昇天された。

主イエスは、高く挙げられ栄光を受け、天地の全権を授かり、先駆者として聖徒の永遠の住まいを確保し、聖徒の権利を保全するため祭司として執り成し、昇天により見えなくなられてもインマヌエルとして偏在しておられる。

教会を車に喩えれば、この昇天された偉大な主イエス・キリストが、起動ボタンを押し、目的に向かって操縦運転しておられる。主は「福音を宣べ伝えなさい」と至上命令を発せられた。

教会の存在目的は、礼拝、奉仕、交わり、弟子訓練とあるが宣教が欠ければ致命的欠陥となる。

教会は、十字架の死と復活により完成した罪の赦し、救いの福音を伝える。

教会は、信じる者に実現する義と平和と喜びの神の国の到来の福音を伝える。

教会は、神はその独り子を賜う程に世を愛されたと、神の愛の福音を伝える。

泣いて萎縮していた最初の弟子たちは、信仰を行動に移し、出て行って至るところで福音を宣べ伝えると、主も彼らと共に働かれ、語る言葉に奇跡が伴い、それ以後の大いなる教会の発展につながっている。

福音宣教はいのちに溢れる運動であり、運動は必ず組織化制度化される性質であるが、組織維持だけに陥らないよう注意していよう。

宣べ伝えられる福音は、人に信仰を呼び覚まし、信じて洗礼を受ける者は、感謝なことに救われる。

そればかりか、信じる者に驚くばかりのしるしが付随すると約束される。悪霊を追放し、新しい言葉を語り、有害さから保護され、按手で病者を癒すことができる。当教会も阪口師が57年前に、ゼロから宣教を始動した結果、今日を得ている。

主イエスの期待に応えて信仰を行動に移すことにしようではないか。

522日礼拝説教

「しばらくすると」  ヨハネ16章16〜24節

しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。

そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。

イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。

女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。

よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。

  最後の晩餐の席上、主が訣別説教の中で「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる」と語られた。それは翌日の十字架の死と埋葬を指しておられる。だが続いて「またしばらくすると、私を見るようになる」と語られたお言葉には、偉大なスケールの御計画が込められていた。

第一にそれは、三日後の復活による弟子たちとの再会であった。

第二にそれは、50日後に実現された聖霊降臨による弟子たちとの再会である。

主は聖霊の到来を私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と予測され、更に「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」と聖霊による再会を約束なされた。

聖霊は主イエスの御霊であり、それ以後、今日に至るまで人は聖霊においてイエスと出会い、肉眼で見ることができないのにイエスを主と信じ、イエスをこよなく愛することができるようにされている。世界には20数億人のキリスト者を数えるが、これは聖霊の働きの結果である。

第三にそれは、世の終わりに臨んで実現する主イエスの再臨による再会を意味している。

聖書の最後は「然り、私は直ぐに来る」との主の再臨の約束で閉じられている。教会の希望は、主イエスの空中再臨にかかっており、信じる者はみな天に引き上げられ、主に目と目を合わせてお会いすることができる。主の十字架と復活は、弟子たちには苦しみと喜びの連続であった。主は、その経験を出産の陣痛に喩えられ、子どもが生まれると女がその喜びのゆえに苦痛を忘れるようだと言われた。

それはまた、私たちの現体験ではないか。主が出会ってくださるなら、しばらくすると、大いなる喜びに変えられることを私たちは知っている。その逆転経験は祈りによるもので、「今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」と主が約束しておられる。教会として共に祈り、個人的に信頼し具体的に祈ることにしよう。

5月15日礼拝説教

「我が愛に留まれ」  ヨハネ15章1〜11節

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。

あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。

枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。

もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

 主イエスは、葡萄の木の喩えを最後の晩餐での決別説教で語られた。主が「私はまことのぶどうの木」と語られた背景には、葡萄の木を国の象徴としたイスラエルがあった。

イスラエルは実が期待される葡萄の木としてアブラハムから起こされた神の民だった。だが彼らは期待に反し、神は御子を人の姿でこの世に送り、それに代わる新しい神の民を起こそうとされた。その意味で、主イエスに信従する弟子たちは、期待される神の民であった。

使徒ペテロは、神の民に対する期待を、「あなたがたを闇の中から驚くばかりの光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。」とその書簡で語る。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」イエスを受け入れ 枝とされたキリスト者は、現代に使命を与えられた神の民であることを自覚することが求められる。

4月29日に享年73歳で召天されたクリスチャン・ミュージシャンの小坂 忠さんは、27歳で回心するや世俗の音楽家から一転し、キリスト教界の賛美分野で44年間、目覚ましく活躍、画期的に貢献された。それは彼自身が闇の中から驚くばかりの光の中へと、恵みにより招き入れられた結果であった。枝は幹につながれば、結実させる滋養を受ける。主につながるキリスト者には、キリストの四次元の愛が注ぎだされる。

罪人と善人、敵と味方、両極端を包み込む広い愛、繰り返される罪過ちでさえ無限に赦す愛、絶望の淵に沈み込んでいる魂を深みから引き上げる愛、低く卑しい者を高貴な天上の座に着座させる愛である。人は「互いに愛し合いなさい」との主の新しい戒めを守ることで、イエスにつなげられる。愛ある人には喜びが満ち溢れる。愛ある人には祈りの応えがある。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」しかも主は「私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方」であることを覚えて感謝しよう。

5月8日礼拝説教

「弟子である証明」  ヨハネ13章31〜35節

さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

 受難直前の最後の晩餐の席から、裏切るユダが退席した直後、主イエスは直ちに起こる三つの出来事を簡潔に語られた。

ユダは銀貨30枚で主を敵に売却、大祭司カヤパは主を冒瀆者と非難、総督ピラトは主を磔刑に相当すると死刑宣告、群衆は主を愚弄した。

だが主イエスは、「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と、十字架の受難故に神が御子イエスを高揚なされると予告された。それは事実、三日目の復活、四十日後の昇天、そして天上の神の右への着座によって成就している。神は御子を高揚なされ、主イエスは天においても地においてもすべての権威が与えられ、すべての名にまさる永遠の主権者となられた。

神の愛により十字架の罪の赦しを得て救われた者は皆、声高らかに神の愛を誉め讃え、キリストに栄光を帰すべきである。だが、「子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。」と主が語られると弟子たちに緊張が走る。それ以後、磔刑、復活、昇天、着座と続く摂理により、主イエスは弟子たちから離れ去ろうとしておられた。「私が行く所にあなたがたは来ることができない。」誰が神の第三の天に来ることができようか。主イエスは以後、人間の肉的視力で認め得ないことは歴然としていた。

ところが、「あなたがたは私を捜すだろう。」と語られる主は、ご自身を霊的に弟子たちが見出すことのできる特別な秘訣を「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。」と提示なされた。その理由は、第一ヨハネ4章12節に「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。」と説明されている。その愛の基準は、弟子たちを私心なく、犠牲的に、知り尽くし、赦しされた主の愛にある。主イエスのその極みまでの愛の受領者には、相互愛の確かな可能性がある。すると、皆が私たちの弟子であることを認知する第三の奇跡が起こることになる。

5月1日礼拝説教

「羊を導く羊飼い」  ヨハネ10章7〜18節

そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。

盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。

わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。

羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。

わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。

わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

 イスラエルの名君ダビデが『主は私の牧者。私には乏しいことがない。』と告白した方は、千年後に来臨された主イエスであった。私たちがその詩篇23篇で『主は私の牧者』と交読する方は、二千年前に来臨された主イエスを指している。

死から復活された主イエスは、臆病で利己的な雇い人ではなく、羊のため心をかける良い羊飼い、迷える羊の私たちの罪の赦しのため十字架に命を捨てて下さった。

『私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。』と主が語られたその救いの囲いには、最初ご自分の民ユダヤ人たちが招き入れられたが、主イエスの目線は全世界に及び、異邦人である私たちに向けられていた。

復活された主イエスは、弟子たちに「行って、すべての国民を弟子としなさい。」と命じられ、十字架の福音は二千年後の今現在、日本の羊である我々にまで届けられ、その救いの囲いに入れられている。そうさせたのは、ただ主イエスの犠牲の愛に他ならない。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」十字架のキリストの死は、他人から殺されたのではない。「誰も私から命を取り去ることはできない。」主が自発的にご自分の命を救い得させるため、お捨てになられたのであり、そこに神の愛がある。それは我々に命を豊かに与えるための愛の犠牲であった。人がイエスを信じることで自分の人生の価値を見出し、喜びをもって生き生きと日々を過ごせるのは、与えられた永遠の命の結果に他ならない。主が「この囲い」と呼ばれた教会には、主の恵みが満ち満ち溢れている。礼拝後の祈りの家チーム・ミニストリーの働きが、主の祝福を具体的に受け止める恵みの機会とされている。

「求めよ。さらば与えられん」積極果敢に祈りの御座に近づこう。救いの狭き門である主を受け入れ、主の御声を聞き分け、主にお従いしよう。復活昇天された今、目に見える主の身体は私たちの教会である。主イエスは目の前の兄弟、姉妹に内在され、聞く耳あれば主の御声を聞くことができる。主の導きに期待し主の後に付いて行くことにしよう。