1231日礼拝説教

「感謝の花束贈呈」  ルカ17章11〜19節

イエスは、エルサレムに進んで行く途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。

ある村に入られると、規定の病を患っている十人の人が出迎え、遠くに立ったまま、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちを憐れんでください」と言った。

イエスは彼らを見て言われた。「行って、祭司たちに体を見せなさい。」彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。」

それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

イエスはエルサレムへの途上、サマリアとガリラヤの狭間の村に入ると10人の癩病人たちの出迎えを受けられます。その村は、サマリア人とユダヤ人の人種的、宗教的半目の狭間に位置する癩者たちのコロニーでした。その村は人種差別、疎外、怨念が影を落とし、言ってみれば世界の縮図のようです。

長引くウクライナ戦争ではすでに死傷者が50万人を数え、ハマスのテロで突発したガザ紛争は悲惨を極め、憎悪の輪が周辺各国に拡大しつつあります。それはまた私たちの住む日本の置かれた状況そのものであり、差別、疎外、陰湿なイジメが日常茶飯です。

集団で10人が大声で憐れみを願い求めると、主イエスは彼らに祭司のところに行くように指示されました。何と彼らが行きかけるとその途中で癩病が癒やされたというのです。祭司には病名を特定し、また完治を認定する権限があり、それによって彼らが社会復帰を果たせるよう、主が配慮されたことによります。

すると、その内の一人、サマリア人が神を崇めつつ戻ってきて、イエスの足元にひれ伏し感謝しました。感謝すること自体が人間の基本的在り方として好ましい態度であり、感謝と同時に脳内のドーパミンの分量が増大することで心地良い気分になるものです。心理的効果は抜群で幸福感が高まるのです。免疫力が高まり血圧も低下するなど身体的効果はもとより、孤立感や孤独感が軽減されるなど社会的効果もあることも研究者によって証明されています。

確かに人生には辛いこと、悲しいこと、疎ましいことが山積するのですが、聖書も「どんなことにも感謝しなさい」と勧告されているのですから、努めて誰にも感謝しましょう。

しかし、サマリア人の感謝は別次元の感謝の極致です。イエスが彼に「あなたは救われた」と言われ、神を賛美し、主に感謝する彼が本来の人間性を取り戻したことを意味されたからです。

私たちは癩者のように汚れた罪人でしたが、十字架の血により赦され清められ本来の自分に回復された者として、過ぐる一年の恵みを回顧し、感謝の花束を献呈しようではありませんか。

1224日礼拝説教

「しるしを求めよ」  イザヤ7章10〜14節

主はさらにアハズに語られた。「あなたの神である主にしるしを求めよ。陰府の深みへと、あるいは天へと高く求めよ。しかしアハズは、「私は求めません。主を試すようなことはしません」と言った。イザヤは言った。「聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人間を煩わすだけでは足りず、私の神をも煩わすのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

クリスマスを預言の成就とする見地からすると、一際異彩を放つのは、紀元前八世紀頃に活躍したイザヤによるインマヌエル預言です。

預言者により語られた預言は、第一義的にはその時代の近い将来に関するものです。イザヤが南ユダ王国12代目のアハズ王に「あなたの神である主にしるしを求めよ」と預言したとき、アハズ王は結託して敵対するシリアと北イスラエルに包囲されつつあり窮地に立たされていました。憐れみ深い神は、その恐れ慄くアハズ王に、主に信頼し、必要なら確証を得させるしるしを求めるよう勧告されました。

しるしとは、見えないものを指し示す心に描かれるイメージです。ところがアハズ王は「私は求めません。主を試すようなことはしません。」とこの勧告を一蹴します。これは申命記6章16節の「主を試してはならない」の戒めに裏打ちされた聖書的な発言のようです。神が人を試すことは当然ですが、人が神を試すことは神の真実を疑うことだからです。

しかし、アハズ王は敬虔であるどころか、神に信頼することを放棄し、北方のアッシリア帝国の王に膨大な貢物を持参させた使者を送り、助けを要請する裏工作をしていました。この背信のアハズ王に、預言者イザヤにより告げられたのがインマヌエル預言です。それは主なる神ご自身が与えられたしるしです。

そのしるしとは「おとめが身ごもって男の子を産む」ことです。この預言はアハズ王の妻の一人から生まれ、彼の後を継いだヒゼキヤ王に成就しました。彼は、劣悪な父アハズ王とは真逆の善王でした。ヒゼキヤのように主を頼りとした者は後にも先にもいません。彼と主が共におられたのです。ヒゼキヤは、神が共におられることを人の心にイメージさせるしるし、インマヌエルのしるしでした。

このインマヌエル預言の完全な成就こそ、700年後にお生まれになったイエス様です。人がイエス様を信じて心に迎え入れると、イエス様によって差し示されるイメージがインマヌエルなのです。神が共におられることなのです。状況がどうであれ、神がおられれば安全なのです。

12月17日礼拝説教

「主を指し示す者」  ヨハネ1章19〜28節

さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせたとき、彼は公言してはばからず、「私はメシアではない」と言った。彼らがまた、「では、何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「そうではない」と言った。さらに、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「違う」と答えた。そこで、彼らは言った。「誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事ができるようにしてください。あなたは自分を何者だと言うのですか。」ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である。」

遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアではなく、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 救い主の出現に先駆けたヨハネは、人々にイエス様を指し示す道標でした。河岸で洗礼を授けるヨハネは、都から派遣された使者の「あなたはどなたですか」との問いに、自分はキリストでもエリヤでも預言者でもない、と率直に否定し、「私は荒れ野で叫ぶ声である」と答えました。

当時のパレスチナでは、ローマ帝国の圧政に苦しむ民衆の間には、約束されたメシア到来待望の機運が高まりつつありました。ヨルダン川に忽然と出現し、悔い改めの洗礼を授ける彼のもとに、続々と民衆が詰めかける事態を、都の宗教指導者達は看過することができなかったのです。

ヨハネ個人に問われたこの「あなたはどなたですか」は、私たち個人にとっても大切な問いです。自分で自分が誰であるのか、それを答えるのにマイナンバーカードを提示すれば済む問題ではありません。自己認識、アイデンティティは一個の人間に欠かせない事柄です。それは人間としての自分が何の為に生きているのか、何が人生目的であるかをわきまえることによって本来は得られるものです。

ある教理問答書の第一の問いは、「あなたの人生の主な目的は何ですか」であり、その回答は、「私の人生の主な目的は、神に栄光を表し、神を喜ぶことです」とあります。

聖書によって神に創造された人間の目的が明らかにされているのです。それゆえに、イエス様を主と信じ告白し、「私はキリスト者です」と答えるとしたら、それが最適な問いに対する答えであります。

バプテスマのヨハネは、さらにイザヤ40章3節を引用し、「私は荒れ野で叫ぶ者の声である」と告白しました。ヨハネは、語った瞬間に消え去る儚い声に自分をなぞらえました。しかし、彼には救い主を指し示す声としての役割があったのです。

イエス様が岸辺に現れるや、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と二人の弟子たちに指し示し、その結果、二人はイエスの弟子となり、弟子とされたアンデレは直ちに兄弟ペテロをイエスに誘い、ペテロも弟子とされました。クリスマスを祝う私たちもまた主を指し示す声とさせていただきましょう。

1210日礼拝説教

「明星の昇るまで」  Iペテロ 1章16〜21節

『私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。

イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、次のような声がかかりました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。

こうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい。

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。』

クリスマスは、罪の赦しを得させるため十字架に犠牲となり、蘇って救いの完成のために再臨される神の子イエス・キリストの降誕の祝いです。

しかし、現実にはサンタや交換プレゼントに取り違えられ、架空の巧みな作り話だと決めつけ批判され、中には再臨の遅延をいぶかり疑問視されもします。そのような傾向に対し、使徒ペテロは、「巧みな作り話に従ったのではありません」と断固否定し、確信をもって宣べ伝える根拠を「この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです」と明言しています。

「あの方の威光の目撃」とは、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に記されているキリストの変貌の出来事です。イエス様は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人を伴い、山中で祈りの時を過ごしました。

彼ら三人が目撃した第一の威光は、祈られるイエス様の御顔が輝き、神性の栄光が肉体と衣を突き抜けて燦然と光り輝き渡ったことです。

第二の威光とは、栄光に包まれたモーセとエリヤが突然現れ、栄光に輝くイエス様と、エルサレムでの主の最期を語り合う姿でした。モーセは律法を代表し、エリヤは預言を代表します。旧約聖書のすべては救い主イエスの出現とその業を告げるものであり、イエスの十字架の贖い、復活、昇天、再臨は神のご計画の実現成就であることを、彼らは確証したのです。

ペテロたち三人が目撃した第三の威光は、「これは私の愛する子」と雲の中から彼らに語られた天の父なる神様の御子のメシアである認証のお言葉でした。これらはペテロ一人の経験ではありません。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは歴史的証人として立たされたのです。

イエス様に関わる事実の取り違えや批判、そして疑問視が大半を占めるこの世にあって、聖書はこうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい。」と勧告します。明けの星として再臨される主を待望し、聖書の預言のお言葉を灯火として心に留めおくこととしましょう。

12月3日礼拝説教

「眠ても覚めても」  Iテサロニケ5章1〜11節

きょうだいたち、その時と時期がいつなのかは、あなたがたに書く必要はありません。主の日は、盗人が夜来るように来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているときに、ちょうど妊婦に産みの苦しみが訪れるように、突如として滅びが襲って来るのです。決して逃れることはできません。

しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたは皆、光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも闇にも属していません。

ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔います。しかし、私たちは昼に属していますから、信仰と愛の胸当てを着け、救いの希望の兜をかぶり、身を慎んでいましょう。なぜなら、神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。

主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。ですから、あなたがたは、今そうしているように、互いに励まし合い、互いを造り上げるようにしなさい。

アドベントの燭火は、御降誕を祝い、御子の再臨を待望するしるしです。「然り、私は直ぐに来る」と約束された主は再び来臨されます。

テサロニケの信徒たちの質問の一つは、主の再臨前に死んだ信徒たちへの主の扱いでした。その質問に使徒パウロは、その時生きていても死んでいても心配はない、何故なら天から空中に再臨される主が、必ず両者とも携挙なさるからだと回答しました。

イエス様を主と信じる者の未来の希望は主の再臨です。その来臨を待望する信徒の大切な態度は、いつも目を覚ましている姿勢です。目を覚ました状態とは、イエス様が来られることに、いつも常に絶えず注意力を向けていることです。何故なら主はいつ来られるのか人には分からないからです。

主の再臨は、人と人との間の出来事ではなく、神の領域の事柄であり、神の主権に属することだからです。その注意力がいつの間にか、再臨以外の価値の無い事柄や、目前の困難や危険にそらされる危険があります。主の来臨を待望する信徒の大切な更なる態度は、いつも身を慎むことです。

身を慎むと訳される原語のネプソーは本来「飲酒を慎む」意味です。お酒には薬用効果や料理を引き立てる効果がありますが、酔いしれると人は判断力を失います。酒気帯び運転や酒酔い運転が厳罰に処せられる理由はその判断力喪失の危険性です。

人の正気を奪うのは酒や麻薬や覚醒剤だけではありません。本来好ましい有用なものでも、それに人が溺れ、耽溺し、陶酔するならば、テレビ、スマホ、ネット、娯楽、スポーツ、芸術、学問、政治活動、慈善事業等、どれにも判断力を失わせる危険性が潜みます。身を慎む理由は、終末の主の日が突如臨むからです。

罪を悔い改めず、主を信じようとしない人々には最後に大患難が盗人のように襲います。それゆえに信徒は、来臨に備えて神の家族とされた兄弟姉妹達と、このイエス様の恵みの再臨を覚えて互いに励まし合わねばならないのです。主の弟子とされ、互いに愛し合う兄弟姉妹とされたのは、そのためです。「主よ、来てください」と祈り待望しましょう。