927日礼拝説教

「不可知の大胆さ」 コヘレトの言葉11章1〜6節

11:1あなたのパンを水の上に投げよ、

多くの日の後、あなたはそれを得るからである。

11:2あなたは一つの分を七つまた八つに分けよ、

あなたは、どんな災が地に起るかを知らないからだ。

11:3雲がもし雨で満ちるならば、地にそれを注ぐ、

また木がもし南か北に倒れるならば、

その木は倒れた所に横たわる。

11:4風を警戒する者は種をまかない、

雲を観測する者は刈ることをしない。

11:5あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。

11:6朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。

 「あなたのパンを水面に投げよ」と意表を突く言葉尻で始まるこの箇所の鍵語(キーワード)は2、6節の「あなたは知らないから」である。5節では『あなたは・・・知らず・・・知らない・・・知りえない』と反復され、我々人間が物事を本当には分からない、知ることができないことが強調される。

1節では、水面に投げられたパンの行方を、

2節では、将来に起こる災いを、

3、4節では、倒れる樹木の方向を、

5節では、胎児の骨のでき方を、

6節では、蒔かれた種の発芽を人が真の意味では分からないことが強調される。

世に言う不可知論は、ものごとの本質を人は認識することが不可能であるとし、人が経験できない問題を扱うことを拒否し、科学的、唯物的な考えを推奨、神の存在を無視する傾向にある。

だが、ここで強調された人の不可知は、神の存在を前提にし、神を畏れ、全てを知りたもう全知の神に信頼する信仰なのだ。神が成される業の全てを分からないからこそ神に信頼する聖書的不可知信仰は、分からないからといって恐れず萎縮しない。

4節の「風を見守る人は種を蒔かない」は人が陥り易い消極性への警告だろう。

2節で「あなたの受ける分を7つか8つに分けよ」とは、何が将来突発するか分からないのであるから、それなりに用意周到に準備する知恵を教える。

聖書(創世記32章)にも財産を二つに分けて脅威に対処したヤコブの事例が残されている。だが注目すべきは財産を分割した直後に、神に懸命に祈るヤコブの姿勢にある。彼はその危機に周到準備し尚且つ神に寄りすがった。

1節の「パンを水面に投げよ」は、束の間の人生を生きる我々に対する強烈なチャレンジだ。それは神に信頼して大胆であれと勧告する。

神が我々を存在に呼び出されたのは理由あってのこと。人は神の計画に参与する招きに応じる冒険的な信仰姿勢が肝要だ。

信仰の始祖アブラハムは75歳にして、神の召しを受けるや行先を知らずに出て行った(創世記12:1、ヘブル書11:8)。彼もパンを水に投げた人だ。

 

神の約束は主に信頼して従う者に現実となる。あなたに対するチャレンジは何かが問われる。

920日礼拝説教

「人の向き心次第」 コヘレトの言葉(伝道の書)10章

10:1死んだはえは、香料を造る者のあぶらを臭くし、

少しの愚痴は知恵と誉よりも重い。

10:2知者の心は彼を右に向けさせ、

愚者の心は左に向けさせる。

10:3愚者は道を行く時、思慮が足りない、

自分の愚かなことをすべての人に告げる。

10:4つかさたる者があなたに向かって立腹しても、あなたの所を離れてはならない。

温順は大いなるとがを和らげるからである。

10:5わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。

それはつかさたる者から出るあやまちに似ている。

10:6すなわち愚かなる者が高い地位に置かれ、

富める者が卑しい所に座している。

10:7わたしはしもべたる者が馬に乗り、

君たる者が奴隷のように徒歩であるくのを見た。

10:8穴を掘る者はみずからこれに陥り、

石がきをこわす者は、へびにかまれる。

10:9石を切り出す者はそれがために傷をうけ、

木を割る者はそれがために危険にさらされる。

10:10鉄が鈍くなったとき、人がその刃をみがかなければ、力を多くこれに用いねばならない。

しかし、知恵は人を助けてなし遂げさせる。

10:11へびがもし呪文をかけられる前に、かみつけば、

へび使は益がない。

10:12知者の口の言葉は恵みがある、

しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす。

10:13愚者の口の言葉の初めは愚痴である、

またその言葉の終りは悪い狂気である。

10:14愚者は言葉を多くする、

しかし人はだれも後に起ることを知らない。

だれがその身の後に起る事を告げることができようか。

10:15愚者の労苦はその身を疲れさせる、

彼は町にはいる道をさえ知らない。

10:16あなたの王はわらべであって、

その君たちが朝から、ごちそうを食べる国よ、

あなたはわざわいだ。

10:17あなたの王は自主の子であって、

その君たちが酔うためでなく、力を得るために、

適当な時にごちそうを食べる国よ、

あなたはさいわいだ。

10:18怠惰によって屋根は落ち、

無精によって家は漏る。

10:19食事は笑いのためになされ、酒は命を楽しませる。

金銭はすべての事に応じる。

10:20あなたは心のうちでも王をのろってはならない、

また寝室でも富める者をのろってはならない。

空の鳥はあなたの声を伝え、

翼のあるものは事を告げるからである。

 「知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に」左右は上下、前後の六方位であるが、象徴的に右は名誉、善、幸運を、左は不名誉、不運、劣等を意味する。

一見すると10章はまとまりの無い格言集のようだが、コヘレトは太陽の下に「この世」の実用的な知恵を取り上げ、愚かさを戒める。

5〜7節、20節には秩序を弁える権力者の人事の知恵が、

8〜11節には危険を察知し回避する知恵が、

10節には効率を予測し工夫する知恵が、

12〜14節には全体を把握し言葉を制御する知恵が、

16〜19節には目的を弁え適宜実行する知恵が推奨されていると理解されよう。

これらの知恵が古代において真理であれば、また現代に通用する実践的な真理でもある。

1節「死んだ蝿は香料職人の油を臭くし、腐らせる。」と、微細な蝿が高価な多量の香水を臭くするように、愚かな言動が生活のあらゆる領域を台無しにすることを心に明記しよう。

だがこの10章には一度も主なる神が語られていない。それは私たちに神の国における知恵を暗示する。

聖書は神の国の知恵は「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることが分別。(箴言9:10」愚かさは「愚かな者は心の中で言う『神などいない』と。」と言う。知恵ある者とは主なる神を信じ畏れ愛する者、愚か者とは主なる神を否定し信じない者だと聖書は明示する。

救い主イエスは公生涯の最初に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。(マルコ1:15)」と告知された。主イエスは新しい時代、来たるべき世、神の国の到来を宣せられ、しかも、その到来は主イエスの初臨で現実化されている。

今やキリストの故に神のご支配の現実は、恵みにより信じる者に認識可能となった。神に造られた人間としての永遠に価値ある方向は、悔い改め神を信じ神に向かうことである。

この世での知恵者は右向きであれば人生で成功するだろう。だが、信仰により恵みにより神の国で知恵ある者であれば、人生そのものを成功させることになる。何故なら人生の目的は神を知り神に向かい信頼し、神に栄光を帰することだからである。

913日礼拝説教

「武器に優る知恵」  コヘレトの言葉9章13〜18節

9:13またわたしは日の下にこのような知恵の例を見た。これはわたしにとって大きな事である。

9:14ここに一つの小さい町があって、そこに住む人は少なかったが、大いなる王が攻めて来て、これを囲み、これに向かって大きな雲梯を建てた。

9:15しかし、町のうちにひとりの貧しい知恵のある人がいて、その知恵をもって町を救った。ところがだれひとり、その貧しい人を記憶する者がなかった。

9:16そこでわたしは言う、「知恵は力にまさる。しかしかの貧しい人の知恵は軽んぜられ、その言葉は聞かれなかった」。

9:17静かに聞かれる知者の言葉は、愚かな者の中のつかさたる者の叫びにまさる。

9:18知恵は戦いの武器にまさる。しかし、ひとりの罪びとは多くの良きわざを滅ぼす。

 知恵文学の範疇にも入るコヘレトの言葉(伝道の書)では知恵が丹念に取り扱われる。鋭い観察眼で「私にとってただならぬこと」とはその知恵であった。

短い文節のこの箇所で、強大な王が巨大な塁を築いて町を包囲したが、一人の貧しいが知恵ある男の機転で町が救われる、だが貧しさ故にこの男は忘れられてしまう、という一つの事例を挙げ、コヘレトは知恵が武器に優るが、知恵はまたこの世では侮られる事実であることを指摘した。

日本は唯一の被爆国だが、太平洋戦争初期に陸軍、海軍が原子爆弾開発計画に着手していた事実がある。開発競争では米国がドイツ、日本、ソビエトを出し抜き、原爆投下により戦争を終結させた。日本が開発に成功していたら軍事情勢はどうなっていただろうか。私たちはいやが上にも武力の脅威を知る。だが、知恵が武器、武力に優ることを覚えておくべきだろう。そればかりか、その優秀な知恵がこの世では軽視され侮られる側面を忘れるべきではない。

日本にはすでに54基の原発が設置されている。2011年3月11日の東日本大震災で、メルトダウンした福島原発の悲劇は記憶に新しい。東京大学で理学博士となり、原子核の研究の最先端を走っていた高木仁三郎さんが、核開発の危険性に目覚め、35歳で反原発の闘志となり、その原発事故が発生する16年前に、詳細なデータを駆使され原発事故を予見し警告された事実が残っている。彼の警告した内容その通りの事故が発生し、その指摘の正確さは驚嘆に値する。ところが、現実は、彼の発言は当時の政治家、事業家、学会では全く無視されてしまった。彼の知恵に対応していたなら、悲惨な結末は回避できたであろうに。

このコヘレトの知恵発言から、あの物語の貧しい男から透かし見えてくるものがある。それは飼い葉桶に寝かされ、ナザレの貧しい大工ヨセフの下で育てられた主イエスである。最後には拒絶され十字架の磔刑に処せられ、十字架は弱さと愚かさの極みだが、これによって罪が赦され、神と人が和解できる神の知恵なのである。

喧騒な世にあって静まって知恵に傾聴しよう。

96日礼拝説教

「落ちかかる危機」  伝道の書9章11、12節

9:11わたしはまた日の下を見たが、必ずしも速い者が競走に勝つのではなく、強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく、さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。

しかし時と災難はすべての人に臨む。

9:12人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。

 9章前半では一つの運命、即ち全ての人に臨む死を直視するように聖書は私たちを導いた。この箇所は3章に連動して人に臨む時に焦点を当てる。3章では対照的な幸いと災いの出来事が時計の振り子のように人に臨むことが詩的に描かれた。ここではその幸いも災いも人はその臨む時を知らない事が強調される。

11節に伝道者が挙げる5つの優秀な人々は、強い意志と努力で成功、勝利、繁栄が保証される幸いタイプだ。「より速く、より強く、より賢くあれ」それは古今東西に通じる教育モットーである。だが、人間の意志と努力だけで成功するとは限らないと語られる。むしろ、偶然とも思えるチャンスに左右されるのだと。

12節では、不意を突く不幸、災いの時に言及され、人は時として罠に掛かった鳥や網に掛かった魚に例えられる。チャンスに恵まれ成功する人がいるかと思えば、突如降って湧いたような不運によって再起不能なまでにダメージを受け倒れる人がいる。「人は自分の時さえ知らない」即ち、ここでは人が時を知らないことが強調される。瞬時にして何億ものデーター検算可能なコンピューターが開発され、予測予報が驚異的に進歩した現代ではあるが、人の予測の不能さは変わらないと聖書は言う。だが、聖書はだからこそ神に信頼することを教える。何故なら神が万事を支配し治められるからなのだ。伝道者が1節に「神の手の中にある」7節に「神は受け入れてくださった」9節に「神があなたに与えた」と神に言及するのを見逃してはならない。

私たちはあのルツ記から偶然を学んだ。落穂拾いの貧しいルツは人間的には偶然だが、神の摂理の中に生かされ、歴史を動かす人物ダビデ、救い主イエスの先祖ともされた。アインシュタインは「神は絶対にサイコロを振らない」と名言を吐いたが、真理を突いている。アメリカの1セント硬貨には「In God We Trust」が印刻されている。「私達は神に信頼する」それが最も懸命な態度に違いない。そして、神が与えられるチャンスを生かそう。

知らないことはむしろ私たちに今を自由に責任を持って生きるようにさせるのだから。